第6話 ヒメルの友人・ミノワ博士

「どうする、もっと飲んでいく?」

 四杯目の酒を飲み干したとき、シャルロッテが言った。

「ううん、いいわ」

 酔った様子もないヒメルは席を立ってゲアハルトの本体であるカノーネを担ぐ。

「今日は仕事の話で来ただけだから。次は、営業時間に邪魔するね」

「ええ。待っているわ」

 シャルロッテの微笑を背にし、ヒメルは酒場を辞した。地上に出ると、ゲアハルトが内心の憂鬱を嘆息として吐き出す。

「やはり面倒な仕事を掴まされたな。アーマンドのことをあらかじめ知っていれば、こっちの返答も変わったものを」

「なぁに、まだ言ってんの。まさか私がそいつに負けるとでも言うんじゃないでしょうね」

「いや、お前を俺が援護して本気で殺し合えば、勝てない相手じゃない。だが、如何せん、お前の能力は強力過ぎて細かい芸当はできないからな。こんな街中で暴れることはできない。制約が多くて実力を発揮しづらいだけ、お前の方が不利ということになる」

 ヒメルは納得したように頷き、歩き始めた。



「だいたい、あの女も人が悪いんだよ。最初に敵の名前を出してくれりゃ、俺達の苦労も減るというのに。……ヒメル、どこに行くんだ」

 ゲアハルトが愚痴を零しているうちに、ヒメルは再び人気のある通りに出ていた。

 ヒメルの頭部に埋め込まれた端末から、ゲアハルトに通信があった。時間が昼時になって勤め人が昼食をとるためか、背広姿が通りに溢れている。通行人に会話を不用意に聴かれるのを憚り、ヒメルが無線で応答したようだ。

『ちょっとね、これから博士のところに寄ろうと思って』

『何でだ。俺の本体の調整は済んでいるだろう』

『いいじゃない。近くに来たついでなんだから』

 ゲアハルトが押し黙る。ヒメルは、この街で数少ない知人に会いたいのだろうと勘づいたのだ。ヒメルはグードゥルーンに住んで、まだ日が浅い。

 シャルロッテやデダラスなど、グードゥルーンで知り合った人物もいるが、ゲアハルトを除けば研究所時代からの交友のある者は少数に限定される。博士はその一人だった。



 幾つかの区画を通り過ぎると商業施設の多い地域に出る。ヒメルが横丁に足を踏み入れると、その突き当りに大型の店舗に挟まれるようにして建つ平屋の建物があった。

 壁面の塗装は所々が剥げ落ち、入口の横には緑色の蔦が不規則に這っている。全体を濃い陰が覆っているのは、日当たりが悪いためだ。室内も薄暗く、ガラス製の入口を通してもなかの様子を窺い知ることはできない。

 近づくことさえ躊躇いそうな陰気な建物だが、ヒメルは恐れ気もなく扉を押し開いた。鉄と油の匂いがヒメルを包む。室内の暗さに慣れた視界が映すのは、山積みにされた機械類だ。ヒメルが歩を進めると、何の部品かも分からない小片が靴裏で砕ける音がした。

 奥にはもう一つ扉がある。その隙間から光の筋が伸び、人間の気配を感じさせた。



「博士、いる? いるんでしょう」

 その呼びかけに応じ、扉から男が顔を覗かせた。ヒメルが手を上げると、男は優しげな笑みを見せながら身を引いて、ヒメルを部屋のなかに招じ入れる。

「久し振りね、ミノワ博士」

「ヒメル、調子がよさそうで何よりだよ」

 男は外見に気を使わない性格なのか、金髪は乱れ、中肉中背に薄汚れた白衣を着用していた。度の厚い眼鏡をかけており、その奥では知性的な茶色の瞳が温厚な光を放っている。

 その男、三四歳のジョー・ミノワは研究所の元所員であり、年齢の差があってもヒメルが気兼ねなく振る舞える古くからの友人であった。



「博士、仕事は増えてきたの」

「うん。やっと家電だけじゃなく、識使の演算装置の修理や調整を頼まれることが増えてきたよ。これで僕の本業が生かせる」

 博士が言った。その口調は喜びと誇りに満ちていた。研究所時代は若いながらも優秀な技官として知られ、何よりも機類を扱うのが好きな男なのだ。

「ヒメル、適当に座ってくれ。珈琲でいいかな」

 ヒメルは部屋の壁際に据えられた机の脇にある椅子に腰かけた。机上には書物が積まれている。室内は広く、端に位置する机と簡易な調理場、それに壁際には作業用の工具が並べられている。ここは博士の作業場で、隣には書斎兼寝室があった。



 目の前に珈琲を出されると、ヒメルは礼を言って口をつける。

「随分と忙しそうだな。博士、疲れているんじゃないか」

「まあね。でも、暇なのよりはましさ」

 そう言って博士は自身も珈琲を口に含む。

 研究所が閉鎖されてから、ヒメルは腕っぷしで生計を立て、博士は日用機類から演算装置までの修繕や調整を受ける店を開いた。この店舗は、以前は診療所だったのを博士自ら改装して開業したのだ。

「本当に大変そうね。まだ日が経ってないのに、こんなに油の汚れが……」

 ヒメルは、すぐ横の壁に広がっている黒い染みに手を触れながら言った。

「ああ、それは血じゃないかな。何でも、前の持ち主の開業医が、浮気が発覚しバレて妻に刺されて、妻も喉を突いて自害したとか。無理心中だってさ」

 ヒメルが短い悲鳴を発して身を引いた。その拍子に山と積まれた本が雪崩を起こす。



「それで家賃が安いのか」

 慌てて本を集めるヒメルの傍らで、床に転がされたゲアハルトが呟いた。その砲身にも何冊か本が被さっている。

 書物を机上に戻し終えたヒメルは一冊の本に目を止めた。それは彼女が〈識〉の基本を博士に教わったときの教材である。

「懐かしいなあ、これ。まだ残ってたんだ」

「捨てるのは勿体なくてね」

 ヒメルは当時を思い起こした。

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