第2話 ぼくの銃

 本当に最低な気分だ。

 ぼくは、そう思いながら仕事を終えて家に帰る途中だった。ぼくが歩いているのは大通りで、夜も遅いのに人通りは絶えず、街灯の他にまだ閉まらない店舗の光が溢れているので道は明るかった。

 本当に夜なんて存在するのかと思う。太陽と電気、どっちで世界を照らすかの問題だ。昼と夜の違いがあるとすれば、せいぜい道を歩いている奴らの顔つきだけだ。昼間はまじめくさって背広を着ている人間が我が物顔で横行し、夜は酔っ払いと好き者のだらしない人種の時間というところだ。

 


どうでもいいことを考えていると、前から来た若い男女にぶつかりそうになって、ぼくが避けて道を空けた。それなのに、その二人はぼくを気にする素振りも見せずに遠ざかっていく。腕を組んで幅をとっているくせに、自分達以外のことは眼中にないらしい。

 まったく、目障りな奴らだ。おかげで、さっきの出来事も思い出してしまい、また憂鬱な気分になった。



 今日、ぼくが週に三日働いている飲食店で、客から難癖をつけられたのだ。

 ぼくは夕方から仕事を始め、その客が来店したのは宵の口頃だった。男女二人で、ぼくが接客を担当した。注文をとっているときに、何気なく女の方を見ていると、不意に男が声を上げた。

「お前、何見てんだよ」

「え、いや、何も……」

「嘘ー、気持ち悪いんだけどー」

 不細工な女を意識しているつもりはなかったけど、それをきっかけとして、そいつらが騒ぎ始めた。

 ぼくには、そんな莫迦を相手にする知識がないので、どうすることもできなかった。ぼくが困っていると、騒動を嫌った他の店員が仲裁に入って客を宥める。

「申し訳ありません。ミューラー君、君は下がっていなさい」



 年下のくせして偉そうな呼び方をされて腹が立ったけど、ぼくは言われた通り従業員用の休憩所に控えていた。やがて、一段落ついたのか、先輩の店員がやってきた。

「君がそんな陰気な顔をしているから、お客様に不快な思いをさせるんだ」

 こいつは低学歴でこんな仕事しかできないんだ。それでぼくより先にこの店で働き始めただけで、何をそんなに自分が偉いと思っているのだろう。ぼくにとっては、この仕事はただの一時的な通過点なのに、こいつは一所懸命になっていると笑ってしまいそうだ。

「何を笑ってんだよ。いいか、この件は店長に報告しておくからな」

 どうやら考えていることが表情に出ていたみたいだ。そいつは、顔を真っ赤にして怒っていた。店長に、というのはこいつの口癖だった。



 もしかしたら、あの店を辞めさせられるかもしれない。あんな低俗な奴らに足を引っ張られるのは腹立たしいけれど、新しい仕事を探した方が賢明だろうか。

 ぼくは家への近道になる路地裏に入っていた。道の両側を高い建物に挟まれていて、昼でも人影のない場所だ。この時間帯なら、ぼく以外に利用する人間は皆無だろう。



 唐突に、鈍い音が鳴った。それが人間の身体が殴られる音だと、ぼくは知っていた。不良同士の喧嘩を偶然見たことがある。

 迷惑なことだと思いながら、ぼくは物陰に隠れた。巻き込まれては面倒だ。

「頼む、見逃してくれ。悪いようにはしない。な、頼むから」

「そう言われてもね。私だって自分の身が可愛いのよねえ。悪いけど、盗んだブツを返してくれない」

 男と女の声だった。男は切羽詰まった哀願、女は余裕と嘲弄を混合した声音を発した。ぼくの予想した喧嘩ではない。もっと根の深い、暗い背景のある会話だった。

「本当だ。上には、お前が協力してくれたと伝える。だから……」



 再び肉体の爆ぜる音が聞こえる。何かがぼくの隣に転がってきた。闇に慣れた視界で、それが拳銃だと理解する。

「へえ、盗んだ拳銃を突き出すのが、悪いようにはしないってことなの? そうだったら、私にもそれなりの対応があるけどねえ」

 男の弁明する声が押し潰された。苦しげな吐息と濡れた破砕音が重なって聞こえた。重たい肉の塊が横たわる響きが、ぼくに事態の深刻さを伝える。きっと男は殺されたのだ。



 ぼくは隣にある拳銃を見た。それが見覚えのある型式だと分かると、手が別の生き物のように拳銃を拾って胸に抱きしめた。すぐ近くで殺人が行われた恐怖感よりも、その反射的な動作が優先してしまった。

 気づかれていないか恐る恐る隠れ場所から顔を出してみる。光源がない暗い視界で、影のなかでさらに濃い黒い輪郭が確認できた。

 その女がぼくの方を向いた。闇を透かし見るように、そのまま動かずにいる。ぼくは急に怖くなって身を引き、建物と建物にある狭い隙間に身体を押し込んだ。

 足音が近づいてくる。ぼくの隣に並ぶと、それは止まった。見つかったのだ、と思って緊張するぼくの耳に、女の舌打ちが届く。



「この辺りに落ちたと思ったのにね」

 そう独語して女はぼくが来た道を逆に辿って行った。その言葉と、女が地面ばかりに気をとられていることで、女が銃を探しているというのが分かった。銃を発見しなければ、この女は立ち去らない。

 ぼくは銃を抱いた手に力を込めた。これは、ぼくの人生を変えるきっかけなのだ。手放すわけにはいかない。両脚が震えるのを何とか堪え、ぼくは待った。女が十分に離れた頃合いを見計らい、一気に道に出て走り始める。



 不意を突かれた女が事態を察知してぼくを追いかけてきた。

「ちょ、あんた、待ちな!」

 ぼくは振り向きもせずに全力で走った。地の利はぼくにあった。何回か道を曲がって、一軒家の塀の陰に転がり込む。

 乱れた息を整えながら様子を窺う。どこかで迷ったのか、女が追ってくる気配はなかった。それでも、ぼくはしばらく動くことができずに身を潜めていた。

 数年振りに走って訪れた動悸を落ち着けると、ぼくは静かに塀から半身を乗り出して周囲を観察した。半月に照らされる路面は冷たい輝きを返すばかりで、動く者は存在しない。

 ゆっくりと道に出て、ぼくは一目散に自宅へと走った。再び高鳴る胸に手を当てると、そこには硬い感触があった。確かに、あった。

 この瞬間から、これはぼくの銃だった。

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