第57話「景物」
「さて、では腹ごなしに少し歩きましょうか。大慈恩寺に牡丹を見に行きましょう」
「は? 大慈恩寺? どこが『少し』だよ」
ちなみに西市から大慈恩寺までは十二里ばかりある。
「今時分だと、最後の牡丹が見られるかもですね」
「ええ、たまには世の流行にのってみるのもいいでしょう」
春が深まるにつれ、永寧の城市は活気づいていく。もともと賑やかなことが好きな永寧の人々は、春が萌し始めると、それを愛でに城外にまで足を向ける。老若男女も高貴も卑賎も関係なくである。
そんな彼らが殊に愛したのは大輪の花を咲かせる牡丹であり、好事家たちは金に糸目をつけずそれを集め、庶民たちは名所と呼ばれるところを日夜歩き回り、自慢し合った。
大慈恩寺は、かの玄奘三蔵が初代上座を勤めた永寧随一の名刹である。国中の職人たちが粋を尽くして建造した寺院もさることながら、境内に配された四季折々の草花はそれは見事で、なかでも牡丹の秀逸さといったら開花時はるばる地方からも見物客が訪れるほどである。早咲きから遅咲きまで様々な種類が植えられていたため、永寧で最も長く牡丹が見られる名所であった。
永寧の牡丹は大慈恩寺に始まり大慈恩寺に終わるとされる所以である。
「わあ、凄い人」
大慈恩寺に入ると、それは数多の人々が境内に溢れていた。「おおっ」と声が上がった人群の向こうからは突如火が吐き出し、空を仰ぐ多くの目線を追えば、細い縄の上を人が歩いている。人離れした業の数々に、歓声が止むことはない。
「ちょっとここにいて下さいね」
剣舞の前で楓花と珪成が足を止めたのを契機に、志均はそう言って一人去っていった。その後ろ姿を目で追うと、どうやら浮図に向かっているらしい。それは玄奘三蔵が天竺から持ち帰った経典を収めるために建造した、永寧一高い塔であった。
その塔の下にも人だかりができている。普段はあんなにはいないはずじゃあ――と楓花が不思議に思っていると、人だかりに入っていった志均が、再び姿を見せ、こちらへと戻って来た。心なしか、足取りが軽い。
志均は出迎えるように並び立つ三人の前で足を止めると、浮図にちらりと一瞥を投げ—―いきなり笑い出した。
呆気にとられる三人を前にして、一言「ざまあみろ」
そこへ、やはり浮図から戻って来たらしい二人の若者が通りかかった。
「あいつ受かったんだな」
「鬼(幽霊)みたいになるまで勉強してたからなあ、まあ、よかったよな」
聞こえてきた声に、琉樹は呟いた。
「――思い出した」
愉快だとばかりに笑い続ける志均に、琉樹は、
「どうせ知ってたんだろ。あのダメ兄貴が不合格だったって」
「ええ勿論。でも確かめたかったんですよ、この目で」
ようやく声を収めた志均だったが、それでも満面の笑みである。
「そんなことのために、俺たちまでわざわざ永寧まで連れてくるなんて……。報酬だの里帰りだの予約が取れなかっただの、全部後付けだろ」
「そんなことはありませんよ」
志均はいつもの柔らかい口調でそう言うが、琉樹は苦い顔で、珪成と楓花は引きつった笑みを浮かべるばかりである。
「――
吐き捨てる琉樹の声に被せるように珪成が、
「でも楽しかったです! 料理はおいしかったし、西市も見れたし、
「あなたは本当に――いいコですね」
しみじみ言いながら目を細めて珪成を見つめていた志均が、突然こちらを振り返ってきたので、楓花の身体は思わず跳ねた。
「――引きましたか?」
「いえ。あの……。そういう、思ったままにされるのも、いいと思います」
自分何言ってるんだと思ったけれども、それは本心でもあった。
いつも冷静沈着な志均はとても心強いしさすがだとは思うけれども、どこかに痛々しさも感じていた。だから、時折見せる激情には驚かされるし怖いと思うのだけれど、無理もないと思ったし、むしろ安心すらしてしまう自分がいた。
だから、志均さまには好きなように、楽しくしていて欲しい――それは楓花の偽らざるな願いだったのだ。
「惚れ直しましたか?」
「え!?」
予想外の言葉。しかも真っすぐに見つめられて、顔が熱くなる。胸までバクバクしてきて、楓花は思いっきり動揺する自分に戸惑いつつ、その場で固まってしまった。
するといきなり琉樹が二人の間に割って入り、
「ふざけんな。おまえから婚約解消したんだろうが! 小妹を二度と泣かせるような真似をしてみろ、絶交じゃすまさん!」
「永久に解消したわけじゃない、ということですよ。時を置きましょうということです—―お互いのためにね」
そう言ってまっすぐ向けられてきた志均の目を、琉樹はふいっと外し、
「――おまえ、これからどうすんの?」
「そうですねえ、うっかり官学に行くと宣言してしまった以上は行かなければとは思うのですが、官医になるとなれば登録が必要になりますから色々ややこしいことになりそうで……。官学なんぞで学ぶこともないでしょうし。どうしたものかと」
「『医師は賤職』だからな。民間でやってる分には「物好き」で済まされそうだが、『官医』となると親父さんが黙っているか……」
当時の医師は商売人等と同列の卑しい仕事とされていた。古来の名医たちの医術が伝承されなかったのはそのためであるといわれる。
志均はため息をつき、
「そこなんですよね。私自身は賎職だとは全く思っていないんですが。蔑まれたこともありませんし」
「それは……医生の人徳では……」
「珪成おまえ、言葉の選び方がうまいな」
「何か言いましたか、琉樹」
「いいえ、何にも」
「何より、楽しいじゃないですか。――だって、人の苦楽が思いのままなんですよ」
ははは……乾いた笑いを浮かべる珪成と楓花の隣で、琉樹はこれ見よがしに盛大なため息をつき、
「……。俺、病気になっても、おまえにだけは診られたくないわ」
「何故? 安く診てあげるのに」
「金はとるのか」
「当然でしょう?」
そう言うと志均はパンッと一つ手を叩き、
「さあ、境内を散策したら宿に戻りましょう。
「はい! 僕は老師とご近所の方に」
「私はお店の人たちと――
楓花が家を出るとき、かなりな大騒動になった。義両親は驚き、宥め、怒り、ついには「絶縁だ」という言葉とともに、身ぐるみ一つで追い出される形で楓花は家を出た。しかし今は、夫婦で茶を飲みに来る。南市は猥雑で騒々しくて嫌いだと言っていたのに。
時には楓花が南市を案内することもある。呼ばれて食事に行くこともある。礼儀作法も(そんなには)うるさく言われなくなり、今はとても穏やかな関係である。
「じゃあ行きましょう」
「僕、浮図を近くで見てみたいです!」
「今日は登れる日なんじゃないか? だから人が多いのかも」
「本当ですか? 僕、登ってみたいです!」
「私も!」
「階段は狭くて急ですよ、大丈夫ですか?」
「小妹はダメだな、転げ落ちるのが目に見えてる」
「何で!」
言い合いながら、四人は賑やかな境内を渡って行く。目指すは七層の浮図。塔頂からは永寧城内が見渡せるのだ。
それでなくても境内は、牡丹だけでなく藤や蓮の美しさも名高く、見事な竹林も有していて、国中に名を馳せるほどの名勝なのである。さぞや美しい風景が見られることだろう。
そんな風景を思い浮かべてわくわくしながら顔を上げた楓花の目の前で、青空にまっすぐ伸びる浮図の
(終わり)
花々繽紛タリ 天水しあ @si-a
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