ペトリコール

音無 蓮 Ren Otonashi

ペトリコール

 流したい涙が枯れた後。

 土の匂いが浸みついたシャツを。

 染める淡い空色に吸い込まれて。


 ※ ※ ※

 灰皿に堕ちていく、雨垂れ。煙草の煙は子供の僕にはまだ早かったらしい。さみだれがしとと、と降りしきる夜に僕は初めて、恋に墜ちた。苦く、苦しい恋だった。


 嘘をつくのは苦手だ、と彼女は静かに、だけど恥ずかしそうに告白してきた。

 彼女は、菌の繁殖を許さないような純白のベッドに腰かけ、腰まで羽毛布団をかけている。

 うるし塗りのような艶めいた黒髪を肩口まで下ろし、前髪は長さを揃えている。

 髪飾りはなく、化粧なんてしたことはない、とかつて彼女は自慢していた。

 ――君に化粧させても、不格好なオカメのような顔になってしまうだろうよ、と茶化したら頬を左右から強く引っ張られたこともあった。

 ベッドの横、点滴がぽた……、ぽた……。

 液体の薬が水面に滴る音が、僕と彼女の間で響く。

 病室は水琴窟のようだった。個室の窓からは青白い太陽の光が差し込んでいる。

 光はあった。だけど、部屋に住み込んでいる雰囲気は影。瘴気を吸い込んでいるから、彼女の病状は悪化しているのだ。

 さっさと出て行けよ、影。

 お前が消えれば、彼女は死なずに済むんだろう? 

 ――こんな戯言は現実逃避の一種に過ぎない。

 彼女の身体を蝕む難病は出鱈目理論で駆逐されるわけじゃなく、だからと言って理論武装したうえで、なんとかしようとして、どうにかなるような代物じゃなかった。

 筋ジストロフィー症という難病を宣告されて、初めて僕は悟った。

 遅かれ、早かれ、彼女は常人よりも早く死に行く存在だと。

 人っていうのは、少しでも歯車が狂ってしまえば簡単に心身がぶっ壊れてしまう精密機械だ。

 その割には、簡単にものを壊す。

 自分が壊れてしまう未来を知っているから、自分が壊れる前にたくさんのものを生贄にしようとする。

 だけど、彼女には生贄を集める時間が欠如していた。

 人間は生涯を通して生贄を集めて集めて、そうしてようやく生贄のモノで敷き詰められたベッドに乗って、悠々自適に、お釈迦様やらイエス様やら、はたまたゼウス様やらのもとに運ばれるのだろう。

 ただし、人殺しは生贄にした人間にばらばらに砕かれて地獄という名の調理室へ運ばれる。煮るなり焼くなり好きにされろ。生贄を生み続けられなくなった人間からの仕打ちはいつ何時も厳しく、無残であらねばならない。


 では。治る見込みのない病魔に侵された彼女の場合は?

『壊せない』 病人・雨宮ほたるの場合は―――― 


「私は、外に出られればそれでいいと思うんだよね」

「何かを壊したい衝動とか、死んでから湧くんじゃない?」

「沸いたら、それはそれで面白いでしょ? もしかすると怨霊になって現世の倍以上は浮世に身を投げ出せるかも」

「そうしたらあれだろ? 物珍しそうに観衆から見られることになるぜ? 君が出没する場所が心霊スポットになれば野次馬が沸くだろうよ?」

「それは住みづらそうで、あんまり好ましくないね……」

 うぅむ、悩みどころだなあ。大きく首を傾げ、頭の上に疑問符をいくつも浮かばせながら呻くほたる。今日の話題は、『死ぬ前にやりたいこと』。とはいえ、当のほたるはやりたいこと! と言われて特段やりたいことが見つからなかったらしい。

 小学校中学年の初めの方で症状が現れ、だんだん学校へ行けなくなり、中学の頭から完全に入院中なのだ。ほたるの中での世界の定義はひょっとすると小学生の時のまま止まっているのかもしれない。

 彼女の世界は白いカーテンに包まれた箱庭だ。それでもって、外の世界を眺めるための窓は流動性のある絵画に等しい。絵画は季節をほたるに届ける。

 春なら、桜色に染まった世界を。

 夏なら、燦燦照り付ける太陽と、感情の起伏が激しくなった、空の感極まった大雨を。

 秋なら、紅葉と団子のような満月、そして今年も冬が来るっていう生命の凍結に向けた哀愁を。

 そして、冬は。白く積もり、静寂の世界を創る雪と、雪から飛び出し健気に生きるタンポポのロゼッタを。

 世界は変遷する。そんな絵画に顔を近づけて、ほたるは自分がまだ光っていることを、身をもって確認できている。

「あーあ。外に出たいなあ」駄々をこねる相手が間違っているのではないかと思ってしまう。だけど、彼女の母親はきっと許してくれないのだ。娘がいつ死ぬかもわからない難病を抱えているのだ。無理もない。――だけど、少しくらい耳を傾けてあげてもいいのに、とも思ってしまう。「君とだったら、一緒に行っても安心できるのになあ。母さんはだめだめしか言わないんだよねえ……、病人生活って退屈」

「お前もう、足動かねえからなあ。車椅子ないと移動できねえし。一応免許は持っているけどお前のような病人を運ぶとなると話は違ってくるだろうな……」

「病人だけどピンピンですよーだ。二〇歳の女を舐めるなよう?」

 ウインクで返してくるほたるだが、強気の姿勢だけが独り歩きしているのを僕は知っていた。一人になると途端に弱くなるのだ。強がる必要なんてどこにもない、微塵もないのに。

 強がっている自分を持つことは、ある意味、ほたるにとって精神安定剤の役割を果たしているのかもしれない。――一人でいる時間を減らせば、自然と強気なままでいられるのではないかと考えている時期もあったが、駄目だった。

 笑うことと泣くことは天秤にかけたら同じくらいであらねばならないらしい。悲しみすぎても、生きていくには辛いし、笑い過ぎても、いつか自分の笑いが、糊付けされて固まった仮面のようなものだ、なんて気付いて失望する日が訪れるから。

「で、どうしようか。君はどこ行きたい? それともこういった方がいいかな……、私はどこへ行けば幸せに終われる?」

「終わらない、っていう選択肢は?」

「認められませんよー。だってそんなのズルじゃん。終わりが見えている私が終わりを拒絶しても、結果は変わらないの」

「奇跡っていうモノは信じないはなんだね?」

「ああいうのは夢物語だと思うの。そして、夢物語は夢物語だからこそ惹かれるものがある」

 だけどさあ――、彼女は曇りのない笑顔だった。

「たとえ死ぬにしても、死ぬ未来がわかっていたとしても、いや、死ぬ未来がわかっているからこそね、やるべきことは絞られてくる。わたしが今一番やりたいことはなんなのかなあ、って考えるようになる」

 病室は薬品の匂いで充満している。ほたるが冷蔵庫に飲み物を切らしていたので、代わりに売店へ飲み物を買いに行く。

 彼女はオレンジジュースを飲みたいと言っていた。


 売店に到着すると、見知った顔の男性がいた。すらっとした体型で高身長。眉目秀麗な顔立ちで白衣を身に纏う三十路の医師。

「明日葉先生、お疲れ様です。いつも、ほたるがお世話になっています」

「ん? ――――ああ、君か。いつもお見舞いご苦労さん! 買い出しを頼まれたのかい?」

「ええ。ちょうどオレンジジュースが飲みたいって言いだしたんで……、って、マジか、売り切れか……」

 見事オレンジジュースの棚は空っぽだった。炭酸飲料は身体によくないから代わりにこういった果物系の飲み物に手を出すのだろうか。ともあれ、買い出しの時間はもう少しかかりそうだ。

 踵を返したところで、明日葉先生が引き留めてくる。

「ちょうど、俺が買おうとした分が最後だったようだ……、うん、このジュースは君に渡そう。ほたる君に渡しといてくれよ?」

「いいんですか? 別に僕は近くのスーパーで買ってくることもできるんですけど……」

「あまり彼女を待たせるのもよくないだろ。それに、君はほたる君の『彼氏候補』だから、ねえ? こちらとしても頑張ってほしいのだよ」

「いやいや、まさかぁ。ほたるは僕のことをそんなふうには見てませんよ。僕とほたるは、なんというか――ただの腐れ縁ですよ」

 では、と足早に立ち去ろうとした。後ろで明日葉先生が、

「頑張れよう、少年少女! 青春を突っ走っていけぇ!」

 と張り切った口調で叱咤激励してきた。恥ずかしさの極みで振り返ることなんてできなかった。早歩きは、いつしか駆け足になっていた。

 オレンジジュースを買って、個室に戻ってくるとほたるは車椅子に乗っていた。彼女はジュースを飲みながら、経緯について教えてくれた。

「散歩したいって看護師さんにお願いしたらゴーサイン貰えた」

「軽すぎないか……? お前病状そんな芳しくないんだろ?」

「一応、今はまだ安定期だって言われているよ? 少しの外出だったら許されるんだって!」

 意気揚々の彼女を止める枷にならねばならない、と考えたが、満面の笑みで喜んでいる彼女を止めることなんてできっこなかった。溜息、こぼす。――少しだけ、ほたるのわがままに付き合ってやろうと思う。

 彼女の青春の時間は、数えられるくらいしかないのだから。

「屋上へ行こうよ。青い空を見ながら、日向ぼっこがしたいな」


「あああああぁ、空に吸い込まれそうぅぅ!」

 車椅子の上でひたすら空に向かって叫ぶほたる。彼女の病衣は蒼空の色に染まっていた。よく晴れた日の青空はシャツの白を青に溶かす。

「ねえ! 空が届きそう! すごいねぇ……」

 両手を空に伸ばして、いつしかほたるは感慨にふけっていた。空には雲一つとして存在していなかった。季節は夏。快晴の空のもとで長居するには少しばかり天候が良すぎた。いつの間に持ってきたのだろうか、ほたるのひざ上には麦わら帽子が鎮座していた。彼女はそれを被りながら――、

「あぁ! 向日葵咲いてる!」

 ほたるの視線の先には、鉢植えに植えられた向日葵があった。燦燦と照り付ける太陽のような花が、こっちへおいでと手招きしている。僕は、ほたるの車椅子を向日葵の目の前まで押していく。向日葵の背丈はちょうど、車椅子に腰かけているほたるほどの高さだった。

「……いいなあ、向日葵。今を生きているっ、って感じが好き」

「確かになあ。夏が終われば、種だけ残して枯れてしまうからな」

 僕は彼女の目線まで腰を下ろした。しばらくの間、向日葵に見とれていた。言葉の要らない世界の中心にほたるは座っている。

「ねえ、憶えてる? ――――私たちが最初に出会った時のこと」

「簡単には忘れられねえよな。一〇年以上前の話だけど」

「やっぱり忘れてない? もちろん、私も――あの日は、ね?」

 麦わら帽子を深くかぶってるほたるがはにかんでくる。僕もはにかみ返した。

「あのときの、向日葵の絨毯…………、また、行ってみたいな」

「妙案だな。あそこだったら地元だから、歩きでいけるし」

「じゃあ、約束をしよう。今度、死ぬ前にでもまた、あの向日葵畑に行こうってね?」

「そうだね。僕達だけの約束だ――――――――――」

 指切りげんまん。

 嘘ついたら――針千本のーます。

 指、切った。

 指切って。そして、僕は彼女と一緒に部屋に戻って。

 そして、病室を後にした。帰り際に明日葉先生と出くわしたので、「ほたると一緒に近場の向日葵畑に行きたい」とだけ言っておいた。「善処するよ」と親指を立てて彼はウインクをしてきた。


 だけど。

 その夢は、未だ果たせぬまま。

 ほたるの容体は、急変して、面会謝絶が続いて。


 ようやく病室に入れたのは八月の中旬。

 雨宮ほたるの顔は白い布で覆われていた。

「約束、果たせなくて、済まなかった」

 明日葉先生が涙を流しながら僕に向かって謝ってきた。

 心を、得体のしれない虚無に打ち砕かれて。

 溢れ出てくるような涙も何も残っていない。

 それでも、雨宮ほたるは死んだ。

 その日、僕は気紛れに、初めて煙草を吸った。

 灰皿に堕ちていく、雨垂れ。煙草の煙は子供の僕にはまだ早かったらしい。さみだれがしとと、と降りしきる夜に僕は初めて、恋に墜ちた。苦く、苦しい恋だった。


 雨宮ほたるの葬式は、しとしとと、雨が降るなか静かに行われた。葬式が終わると、雨曝しになって、僕の身体は、どこかに向かっていた。喪服のまま、雨に打たれている。雨の冷たさは感じられなかった。心が壊れてしまったような気がした。


 土の匂いが身に染みた。雨はやんでいた。雲がかかっていた空から一筋の光が伸びてくる。腕時計は午後六時半を指していた。僕の身体は向日葵畑の目前に遭った。雨露に濡れた太陽の花は、綺羅星のように激しく、忙しなく輝いている。

 今を生きている。まるで、どこかのほたるのように。

「いま私のこと、呼んだかな? ――ちゃんと来てくれたんだね?」

「……………………え?」

 後ろから聞こえた声。振り返ろうとして背中から抱きしめられた。軽くも、温もりが感じられる重さ。お日様のような香り、懐かしい匂いだった。肩口から顔を出してきたのは、紛れもない、雨宮ほたる、その人で。

「私、死んじゃったんだって。ごめんね、約束果たせなかった」

「ほんと、まったくだ。いっつも約束破りやがってよう……」

 そこにあったのは確かな温もり。雨宮ほたるの生きた痕跡だった。まだ、時間はある。僕は、肩に乗りかかったほたるの頭を撫でた。猫のように、彼女はくすぐったそうに、喉を鳴らした。

「時間がないだろう、早くして」

「あっ、わ、分かった……!」

 目を白黒似ていたほたるもようやく理解を呑み込めたのだろう、僕の右手を握ってきた。返すように握り返した。

 彼女は、白いレースのワンピースを羽織っていた。死に装束のように見えてしまい、ようやく彼女の死が受け止められつつあることを悟る。

 ほたるの繊細な手指には冷たさが宿りつつある。人間と魂の境界線を行き来しているという。

「で、今日がお別れだったから、最後の最後、この向日葵畑に来たっていうわけか」

「そう。そうしたら、君がいた。まさかちゃんと約束を守ってくれるなんてね。本当に君は律儀な人間だよ」

「褒められているのか、僕。別に大したことはしてないと思うけどな。――――さあ、長話はなんだろ? 続きは向日葵畑の中で」

 僕は、ほたるの手を引いた。一瞬呆気にとられて、そして、雨宮ほたるは顔を赤くして、はにかんで、そして。

「ねぇ――――――――、どうしてだろう。どうして私は泣いているんだろう…………?」

「なんでっ、って、うわっ! どうしたんだよ! 目元が真っ赤じゃないか。一体いつから泣いてたんだ? ――大丈夫か?」

「駄目、みたい…………、だめ、だめだめだよ…………」

「えっ?」

 ほたるの頭が寄りかかってくる。寄りかかってきて、そして、目の前から強く抱きとめられる。彼女の顔は涙で溺れていた。何か、強すぎる情動が、彼女の涙の泉となっている。

「逝きたかったよっ! 何度も逝きたいって思ってた。こんな人生、長くは続かないし病人生活のまま一生が終わるなら、早く逝きたいと思っていた!」

 でもさあ。泣きわめいていたほたるは。

 人間だった、雨宮ほたるは、顔を上げた。泣きはらした顔で。

「だけど、今は生きたいと思っているっ! 逝っちゃってからだから遅すぎた。何もかも! だけどさあ、死ぬ前になってようやく気付けたんだよっ! 死に際に誰も見向きもしなくなったと思ってたっ、そりゃ、何年も学校行ってないんだもの、仕方ないことだよっ。だけど、だけどっ」

 泣きじゃくって、そうして見えた彼女の選択肢。生きたかった彼女の最後の答えを見届けよう――――、そう思って、雨宮ほたるを抱きとめて。

「だけど、それでも君がいてくれた。君に悲しまないで欲しかった。もっともっと、君と一緒にこの世界を見ていたかった」

「なるほど、気が合うなぁ、僕達。偶然だけど、僕もそう考えていたんだ。――なあ、今度はこちらから、いいか?」

 イエス、ノーはどうでもいい。雨宮ほたるは想いを曝け出して、生きたいと言ってくれた。だから、これから僕が言う言葉は君にとっては、毒のような選択肢かもしれない。

「雨宮ほたる――、僕は、君のことが好きだった。病室で明るく振舞いながら、一人になると途端に弱音を吐く、そんな君の支えになりたかったんだ」

 なあ、ほたる。僕は未熟なりに頑張ったつもりだけど。

 僕は、ちゃんと、君を支えられていたのかなあ。

「あっ、空っ――――――」

 夜空には星が降っている。向日葵に注がれていた雨露が、重さで弾けて、地面へ。月の光を浴びた雫が弧を描いて落ちていく様ははたまた、地上の流れ星のようだった。

 そして、僕たちは、空をたゆたう無数の青白い星々が舞踏しているような光景に出くわした。ゆらり、ゆらり、夏の夜空のもと、つがいを求めて、蛍は宙でらったったっ。

「こんな世界を、見せてくれてありがとう」

「たった一夜分だからね。大事に胸にしまっておいてくれよ?」

「まだまだ足りないんだけど……今日はこれで我慢しておくよ」

 向日葵畑の中心に一つのベンチがあった。僕とほたるは二人並んで、空を舞踏する蛍と向日葵の光景を眺めていた。

 綺麗なものを見るのにわざわざ言葉は不要だった。無言の美しさに浸りながら、ベンチに乗せていたほたるの手に、自分の手を重ねた。死んだはずの彼女の手は、相変わらず生きているような温もりに満ちていた。

「これからも、一緒にいられればいいのに」

 どちらかが、そんな願望を口に漏らした。

 朝もや。東から朝日が昇ってくる。

 何もかも、無くなってしまいそうで。

 僕は、ほたるの身体を抱きとめた。

 質量は、そこにあった。彼女の懐かしい匂いがした。

「これからは、ずっと一緒でいられるかなあ?」

「わからないね……、忽然と姿を消してたらごめんね?」


 世間的に言えば、雨宮ほたるは死んだ。だが、僕の眼には、はっきりと映るし確かな質量も感じ取れる。彼女は幽霊? のような存在らしい。というか、自分でもどうして霊になって生きているのかわからないらしい。ともかく、死んだ彼女に行先はなく。

「起きなって! 大学、遅刻するよっ!」

「うるせえうるせえ分かっているよっ!」

 ご都合主義一直線な締めかもしれない。だけど、僕たちにはこれくらいの幸福な終わりが巡ってくるのが正解だ。

 想いを伝いあって、ようやく振り出し地点に立てたのだから。

「今日もついてくるの?」

「もちろんっ。一人で家の家事しているの結構退屈なんだよね」

「よしわかった。服は……、なんかあったか?」

「最近分かったんだけど、この白いワンピースって変幻自在で、自分が想像した服に変形させることが出来るんだってっ!」

「ずいぶんと、幽霊ライフを満喫しているよなあ、ほたるは」

「病気とか心配しなくていいんだもん。それに誰の咎めもなく、何の制約もなくこうやって君と暮らせるんだもの」

「不意打ちだっ」

 顔が羞恥で染まるのを隠しながら。

「……今こうやって二人で生きているなんて、誰が想像できたか」

「誰も想像できないよ。奇跡っていうのも本当に存在するんだねえ」

「生きているときは散々奇跡なんてクソ喰らえって言ってたくせに。死んでから考えを改めるとはな」

「死んだから、価値観も少しは変わったのかもしれないねっ! ともかく、今を生きられることを噛みしめて!」

 体を抱き寄せてきたほたるの唇に僕の唇が吸い寄せられて。

 カーテンから舞い込む朝日を浴びて、僕たちは僕たちなりの幸せを確かめ合いながら、不器用に生きている。

 雨の後の、土の匂いは忘れようと思った。


 ※ ※ ※


 流したい涙が枯れた後、土の匂いが浸みついたシャツには、淡い空色が滲んでいた。

 雨は止んだ。

 いつか二人で泣いた夜の、微かに甘く、爽やかな青い春の匂いが土気の匂いを上書きして――。


 涙の痕はいずこへ消えた。

 それでいい、それがいい。

 ペトリコールは、忘れてしまえ。

 だけど。

 貴様が残してくれた不器用な匂いだけは忘れさせるな。

                          

                                 了


   



                       

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