飛び付く女

伊東へいざん

飛び付く女

 もう十日程になるだろうか…私は時代劇の撮影で京都に滞在していた。短期の撮影なら宿泊先は撮影オフ日の観光を兼ねてほぼ京都駅周辺を狙うのだが、今回は初めての長期ロケになるので一分でも多く睡眠時間を確保しようと、撮影所のすぐ裏手にある宿を取った。女将さんが男気で歯切れ良いのがいい。


 撮影所に近い宿は数軒あるが、そのうちの一軒は撮影所の正門前にある。場所がいいので早くから常連客で予約が埋まってしまい、未だに泊まった事がない。もう一軒は撮影所の歴史とともにある老舗旅館で、時代劇でよく見かける中堅俳優さんの定宿となっている。駆け出しには気が引ける宿である。初めて京都撮影が決まった頃、同じ事務所の先輩俳優・黒川忍さんに相談してみた。黒川さんは数々の名場面を残してきた時代劇俳優だ。黒川さんの京都撮影所ライフのノウハウは圧巻だった。そして薦められたのがその老舗旅館だった。女将さんが美人の上、気配りに長けた人なので、撮影中は安心して健康管理をお任せできるから連絡しといてやるとまで言っていただいたが、丁重に辞退した。というのも、その老舗旅館の話は、以前に共演した俳優・越前谷えちぜんや大介さんから、のっぴきならない噂を聞いていたからだ。彼とは刑事ものなどで何度か共演して親しくなり、知人の話としてその老舗旅館の噂を聞いていた。今回は京都の時代劇でも共演ということになり、再会を楽しみにしていた。

「よく一緒になるね」

「今回もよろしくお願いします!」

「こちらこそ!」

「どちらにお泊りですか?」

 一瞬、越前谷さんに間があったので、余計なことを聞いてしまったかなと思った。

「…噂の旅館だよ」

「以前にお話ししていた旅館ですね?」

「君は?」

「裏の宿です」

「そうか、じゃあ時間が出来たらお茶でもしよう」

「はい、是非!」

 そして、撮影に入った。その後、何事もなく撮影は進んだ。演技派の彼は期待どおりのいぶし銀の演技を見せてくれていた…前日の撮影シーンまでは。ところが、撮影三日目になって、彼は目の下にクマを作って撮影所にやって来た。短いセリフのシーンにNGを繰り返し、額に汗まで滲ませている。昨日までとは別人のような違和感だ。その様子は正に昨夜、彼の身に深刻な事態が起こったことを物語っていた。

「越前谷さん、昼食ご一緒しませんか?」

「今日は食欲がないんで…」

「じゃ、お茶でもしましょうよ」

「・・・・・」

「私も撮影の時は食事取らないんですよ、眠くなるから…」

 間の抜けた私の話に、ほんのり越前谷さんの笑顔を見た。時代劇の撮影中は扮装が扮装なので外の喫茶店というわけにもいかず、撮影所内の食堂で済ますことが通常だ。一番隅のテーブル席に座ると幾分落ちついた心持ちになった。コーヒーを注文して待つ間、お互いに無言が続いた。そして彼は呟いた。

「逃げられない…寝かせてもらえなかった」

「え?」

「出たんだよ」

「出た?」

「これだよ」

 そう言って彼は、何かを警戒するように一瞬だけ幽霊の格好をした。私は彼が冗談を言っているとは思えなかった。東京で共演した折の怪談話は知人の話ということだったが、まさか越前谷さんご自身のことだったのではと思い始めていた。しかし、私は自分の思いとは真逆の反応がとっさに口を衝いて出た。

「またまたまた…」

 すると彼は大きなため息を吐いた。

「ほとぼりが冷めたと思ったんだが…」

「ほとぼり?」

「もう出ないと思ったんだよ」

 彼が演技派俳優とはいえ、その深刻さは演技とは違うものに感じた。

「どういうことなんですか?」

 彼は少しの間躊躇していたが、重そうに話し始めた。

「住んでいるマンションにはよく出るんだ…気付かないふりをしていればそのうち居なくなる。彼女は死んだことに気付いていないかもしれない。私のことも見えないようだ。彼女は生前と同じように、私にお構いなくあのマンションに住んでいるんだ」

 この話は、東京では知人の住んでいるマンションという設定で話していたはずだ。私は不思議な感覚に捉われた。まるで違う世界が見える人が目の前にいる。私にこんなウソ話をしたところで何の得にもならない。しかし、一晩でこのやつれようは尋常ではない。撮影本番でミスを繰り返してまで私を怖がらせようとする意味もない。幽霊を見る人は本当にいるんだと思った。

「安かったんだ」

「え?」

「あのマンション、安かったんだよ。不動産屋は、持ち主が急にお金が必要になったので、キャッシュでなら安く買えると言って来たんだ」

「訳あり物件ってやつですか?」

「そういうことだったのかもしれない。撮影で忙しくて、幽霊を見るのは疲れているせいだと思って過ごしているうちに慣れたんだ。特に実害があるわけでもなかったし、人付き合いの苦手な私でもマンションの幽霊の話をすると共演者との潤滑油になった。他人事として話しているけど、実は自分のことなんだ」

 やはり、越前谷さんご自身のことだった。確かに自身の事として話したら、聞いた人は眉唾な話と思って内心で引くだろうが、他人事ならクッションになる。

「幽霊って見続けると慣れるもんなんですか?」

「マンションの女性は慣れたけど、あの宿のはいかん」

「どう違うんですか?」

「うちの事務所では必ずあの老舗旅館を予約するんだ。私も例外なく、昔から京都の時代劇の仕事が入った時はあの宿だった。そして宿泊初日に幽霊と初体面だ。殆どの俳優は最初に見ただけで見なくなるようだが、私は違った。泊まるたびに必ず出た。撮影が長くなると数回は出た。私のマンションの幽霊と違って、一晩中寝かしてもらえないんだ」

「どんな感じで出るんですか?」

「最初は寝室の襖の向こうに正座して…襖の向こうだから見えないはずなんだよ。でも居ることは分かるし、姿かたちまで脳裏に浮かぶんだよ、というか、浮かばせるんだよ」

 その幽霊は束髪の女。年の頃なら四十前。気品があって物静か。宿泊客の気配の先に必ず正座している。幻影を追い払おうと目を閉じれば、襖の奥から一気に枕元に気配を縮めて動かない。起きても寝ても、夜が明けるまで宿泊客から気配が消えることはない…越前谷さんの話す恐怖は、私が想像したような激しい修羅場ではなく、悶々と迫る呪縛の苦しみだった。

「宿を変えるしかないですよね」

「そう思って変えたこともあったんだが…移った先でも出たんだよ」

「同じ幽霊ですか?」

「ああ…ホテルに移動した意識がなくなって老舗旅館にいると思ったくらいだ。気配を感じて振り向くと部屋の入り口近くに彼女が正座していた。すぐに消えたんで錯覚かと思った。老舗旅館の一件で神経質になっているんだろうとね。明日の支度を整えて寝ようとして横になると、また気配を感じそうになる。その思いを振り払って気配の先を見ないようにした。気のせいだと強引に思って…やっと寝入り端に入って気が緩んだ時、私の頭の上からゆっくりと覗き込む彼女と目が合ってしまったんだ」

 淡々と話す越前谷さんの話に、私は思わず鳥肌が立った。

「そんなことがあったんで、事務所に頼んでしばらく京都の仕事はストップしてもらってたんだ」

「そうだったんですか…」

「今回、久しぶりの京都で、もうほとぼりが冷めたろうと思って仕事を受けたんだ。初日に出なかったので、ホッとしていたんだが…結局、二日目の夜に懐かしのご対面で一晩中寝かせてもらえなくて次の日の撮影があのとおりだよ」

「あの時のお顔色は…本当に心配でした」

「ほとぼりがどうのこうのなんて何の根拠もない希望でしかなかったよ。昨夜はここで会ったが百年目の如き形相で散々な目に遭わされた。こんな陰口を叩いたら、また今夜もやられちまうかもしれないよね」

 そう言いながら、越前谷さんは注文したコーヒーには口を着けずに、コップの水だけを飲んだ。私の気のせいかもしれないが、コーヒーの表面に何かが映るのを恐れているような気がした。コーヒーが運ばれてきた時、越前谷さんは伸ばし掛けた手をすぐに引っ込めた。小さな動きだったがその目は一瞬コーヒーの表面を凝視したように私には見えた。

「他の俳優さんはどうなんでしょうね」

「初めて泊まった夜に遭遇した俳優は何人も知っているよ。ほぼ、同じ部屋に出るようだね。でも、私は気が小さいのか、すっかり彼女のお得意様にされてしまったようだ」

「その部屋で何かあったんでしょうか?」

「そうかもしれないが、いつも懇切丁寧に迎えてくれる美人女将に野暮な質問をするわけにもいかないしね」

 もう一つ噂があった。初めて老舗旅館を利用する人は、必ず “出る部屋” に案内されるという。まるで、一元宿泊俳優が越えなければならない不文律のハードルのようだ。ということは、“出る部屋” は一室だけなのだろうか…そりゃあ長い間には無念を残してこの世を去った御方もおられるだろうから、俳優陣が宿泊する老舗の宿ともなれば、長年の様々な念がぎっしり詰まっていても不思議はない。もしかしたら、その幽霊に出会うこと自体がこの撮影所で仕事をする時代劇俳優の裏免状なのかもしれない。“必ず出る部屋”、“時々出る部屋”、“全く出ない部屋” などというランク分けでもあるのだろうか…などと、どうでもよいことを考えても仕方がない。私には霊感があるわけでもないので、幽霊を見る確率は低いかもしれないが、見ないに越したことはないと思った。黒川さんからの薦めでもあったこの老舗旅館で、起こるかもしれない最悪の事態を想定して、予約を遠慮させてもらうことにしたのは正解だった。


 今回、私が泊まっている撮影所裏の宿の部屋は、建物の三階の北側だ。長期滞在のため、宿泊客の入れ替わりが少ない階にしてくれたのだろうと思った。二階のビジネスホテルっぽい雰囲気とは違って、三階の様子は何やら何年も住んでいる人たちの住まいのようだった。靴が部屋の前の廊下に脱ぎっぱなしに散らかっていたり、所々に荷物が置きっぱなしで、どことなく所帯じみた空気感だ。下積み時代に住んでいたアパートの廊下と何ら変わらない。子供の三輪車でも倒れてあったら完璧だ。

 案内された部屋は一番奥の右側。ドアを開けると部屋の殆どをベッドで占められて実に狭い。トイレ付ユニットバスはあるものの、ベッド以外のスペースは片側のみで壁まで50センチもない。ベッドを這って窓を開けると結構な風が入って来た。うっかり寝返りでも打ったら下の路地に落ちそうだ。路地を挟んで線路があり、線路の向こうに救急病院がある。今まで病院があることなど気付かなかった。寝返りを打って落ちても、目の前が救急病院だから安心という事にはならないので、就寝時には窓を閉めて寝ることにした。窓を閉めるとなると、心地よい自然の風がなくなる。冷房の点けっぱなしは苦手だ。風邪を引かないようにと、新聞紙に水を浸して机の上に広げて寝ることにした。それにしても私の大柄な体格では、この部屋の圧迫感には閉口する。思いっきり伸びができないサイズだ。ロケに慣れたら、後半はどこか市内の伸びができるホテルにでも移ろうと、取り敢えずは暫くこの部屋で鎬を削ることにした。


 数日が経った。いつもの朝食を取ろうと一階の食堂に下りて驚いた。顔に包帯だらけの女性陣で混雑していた。狭い食堂のテーブル席が全部埋まっている。十人以上はいる。カウンター席の奥で別組の俳優さんがひとり、自分の世界に入って朝食を取っていた。その背中に “忍耐” が滲んでいた。恐らく、朝食を始めたあたりで包帯の団体さんが入って来たのだろう。人生にはよくある事故だ。私はカウンター席の一番手前に掛けたが、その瞬間からいつ席を立って出ようか考え始めた。朝から仮装パーティだと思えばいいと現実逃避を図ったが、空しい抵抗だった。そう言えば聞いた事がある。撮影所裏の宿のネックは整形ツアーが利用するということだった。今回、初めてそのタイミングに嵌ってしまった。件のツアーは顔だけの整形のようだ。しかし翌朝、性転換手術の若い男性(女性?)が母親と二人で宿泊していたのと遭遇した。母親が話し掛けて来たので、その日の事を鮮明に覚えている。

「俳優さんですか?」

「ええ、まあ、もどきでしょうか」

 冗談のつもりで言った言葉を次の瞬間後悔した。

「うちの子、性転換したんです」

 なぜ初対面の私などに…と戸惑いながら、“もどき” という返しは相応しくなかったと反省していた。寧ろ失言に近い。その若い男性(女性?)は中性的で、正直一瞬ではどっちに転換したのか判断できなかった。ただ私としては、せめてこの場は平然としていることを優先した。

「あ、そうでしたか、良かったですね」

 何が良かったかと聞き返されても困るが、とにかく心して平然を装った。不自然だったかもしれない。

「驚かないんですか?」

「驚いたほうが良かったですか?」

「…いえ…驚くかなと思って…」

 話が盛り上がらないせいだろうか、母親が力なく答えた。私自身は充分驚いていた…というか、頭の回転が百パーセントでない早朝の出来事に、平然としているのが思いやりかと精一杯だった。

「少し肩の荷が下りたんじゃないですか?」

 思い切って華奢な彼(彼女?)に話し掛けてみた。すると、彼(彼女?)は初めて、そして嬉しそうに応えてくれた。

「少しじゃなく…いっぱい…」

 私が笑顔で頷くと、母子で涙ぐんだ。傷付けたのか納得してもらったのか判断に困りながら、母子で紆余曲折の後の決心だったんだろうなと母子の苦悩だけは理解できた。朝食が出るまでにその母子と少しだけ会話を続けた。彼女の好きなもの、得意なもの、これから母子で体験する楽しい京都見物の予定…朝からこんな重いドラマ展開になろうとは思わなかった。

 部屋に戻って、撮影前の朝食を今後どうしようかと考えていた。包帯だらけの団体さんの顔は、目と口だけが暗闇から生命を主張している。清々しい朝が一転、異様な始まりになってしまった。紆余曲折の母子の時のほうがまだマシだった。でも越前谷さんのように幽霊にうなされるよりは整形ツアーのほうが数段マシだ。さて、あの包帯の方々は何日間ここに滞在するのだろう。多分、包帯が取れるまでだろう。その間、毎朝包帯ツアーに囲まれた朝食はつらいものがある。徐々に包帯が解けていく過程を観察する気にもならない。かと言って、朝食を宿の外で取ろうにも、宿のそばには定食屋が一件しかない上、営業は昼近くなってからで、撮影には間に合わない。正門前にある泊まってもいない宿の食堂で朝食を取るのも両方の宿に憚られる。結局、整形ツアーが去るまでの一週間ほどは朝食抜きの日々が続いた。


 明日は、今回の役柄で一番の鍵となるシーンの撮りだ。その顛末は史実にも残された名場面だったため、悔いの残るものにはできないという心地好いプレッシャーがあった。今日の分の撮影が済むと、同じシーンで共演していた老練俳優・玉川兆治さんから話し掛けられた。

「いよいよ、明日だね」

「・・・?」

「私もね、昔、君と同じ役をやったんだよ」

「そうだったんですか!」

「わたしは神経質なもんで、史実を汚しちゃいけないという結構なプレッシャーにがんじがらめになってしまってね。気が付いたら撮影が終わっていたよ」

 玉川さんはそう言って自虐的に笑った。玉川さんのお気持ちがよく伝わって来た。これだけの俳優さんでも、もしかしたら思ったような結果が出せなかったことを未だに悔いておられるのかもしれない。時代劇の歴史というのは演ずる側にとってとても神聖なものだ。映像に残ってしまうことへの責任を覚えない俳優はいないと思う。そして、仕上がりに於いて後悔は絶対にしたくないはずだ。

 玉川さんの言霊も手伝って、宿に帰ってからは何度も何度も明日のシーンのイメトレで時間を費やした。気が付くと0時を回っていた。横になると快い疲労感が襲ってきた。冷房で籠った部屋の空気を入れ替えようと窓を開けると、赤い光が目を衝いた。深夜に初めて見る病院の門灯である。こちら側に向いた救急病院の搬入口に、昔ながらの傘の付いた赤い裸電球が光っている。幼い頃の記憶にも似たローカルな病院の雰囲気が、明日の撮影への気負いを和らげてくれた。

 強い睡魔が襲ってきた。明日の名場面を前にこの窓から落下したくはない。睡魔と闘いながらやっとの思いで窓を閉めた。さあ寝ようと、何気なく天井に目をやると、女と目が合った。天井のすみを背に、女がぴったりと留まっている。「なんであんなとこに女の人が留まっているんだ?」と思ったのも束の間、これは異常な状況だと腸の底から恐怖が湧いて来た。しかし体が動かない。逸らせない目に女の姿がはっきり刺さる。若干天然がかった長い髪に白装束というお決まりの幽霊然とした風体。私に何の恨みがあるのか、目を剝き出し気味に大層怒ったような表情で睨みつけている。夢感が全くない。自分が正気で、起きていて、夢ではないことを確認しようと、やっとの思いで目を逸らし、必死になって病院の傘の付いた赤い裸電球を確認しようと窓を開けた。確かに深夜の病院はさっき見たままだった。私は現実を味方にしたような変な勝利感を持った。そして “幻覚よ、去れ” とばかりに天井の女に目を戻すと、突然、私をめがけて一直線に飛び付いて来た。私はかなり大きな声で叫んだかもしれない。開いている窓の外に反響している自分の声を聞いた気がした。WMの態勢で近付いて来る恐ろしい形相の女は、猛スピードの筈なのに徐々に徐々に大きくなって来る。ついにその女の細い腕が私の肩を捉え、両手の指が凄い力で食い込んで来た。顔が鼻先寸前で止まって女の息が掛かった。目の前の女の息となれば色艶ものかもしれないが、私の鼻先に掛かる息は残虐な肉食動物のそれと変わりない。いつどんなふうに八つ裂きにされても仕方がない金輪の際の恐怖だ。どのくらいの時間だったのか分からない。ただ、天井の角から猛スピードで滑降し、目前に恐怖だけを残して消えたという腑に落ちない記憶が残った。


 恐怖が苦しい。何が起こったのかと思いながら自分の息が止まっていることに気が付いて、とにかく呼吸を復活させようと全身でもがいた。やっとのことで息を取り戻すと激しく咳き込んでしまった。それでも苦しさより恐怖が勝った。極度の恐怖がそれから延々後を引いた。幽霊に襲われたら誰にも助けを求められない、求め難いものだと知ったのはこの時だ。どんなに恐ろしい体験でも、幽霊の恐怖で救急車は呼べない。窓の風に恐怖を和らげてもらいながら、救急病院の赤い電球に心の命綱を結んで、夜が明けるのを待った。


 空が瑠璃色に変わる頃、恐る恐る女の留まっていた天井の角に再び目をやった。まだ居るわけもない。アラームが愉快犯のように枕元で鳴り響きやがる。

 結局、昨夜は一睡もできなかった。丁度早朝のステージセット入りなので寝坊することもなかった。洗面で鏡に映った顔は先日の越前谷さんほどではなかったが、今日のシーンには相応しいやつれようだ。包帯ツアーとの遭遇も幸いして、朝食抜きの減量にも成功したような程好い頬のこけようだ。今日のシーンの私の衣装は、皮肉にも飛び付く女の幽霊とお揃いの白装束だ。何だろう、この行き届いたお膳立ては…。


 夏なのにひんやりとしたセットの板敷に正座し、撮影の時間はゆっくりと進んでいった。殿の子息を切腹に追い込んでしまった己の失言の責任を取って、殿に覚悟のお別れを告げるシーンだ。不眠で自律神経がマックス状態のような、妙に気持ちが昂ったままだった。その割には集中力が半端なく良好だ。飛び付く女への恐怖から、私は非現実の歴史の役に逃避しているのだろうか…。しかし、どうやら後悔しないで済むかもしれない納得感で史実の全シーンが撮り終わった。

「今日はどうしたんすか?」

 いつも親しく話し掛けてくれる名物小道具の町田さんが近づいて来た。

「なんか、いつもと違うんで…」

「…違いましたか」

「なんか、らしくない真剣さだなと思って…」

「おいおい、いつも真剣ですよ」

「でも、何か違うんだよな~…」

 昨夜の幽霊の話をしようと思った。

「町田さん、信じないでしょうけど…出たんすよ、昨夜。宿の部屋にこれが…」

 私は半ば冗談気味に一瞬だけ幽霊のそぶりをした。とっさに過日の越前谷さんと同じことをしていると思った。

「本当に?」

 町田さんは笑い飛ばすと思ったがそうではなかった。真顔だった。

「京都で幽霊初体験…びびって眠れなかった」

 すると町田さんから意外な言葉が返ってきた。

「やっぱり嫉妬されたね…また出るよ」

 そう言ってから、町田さんは仕事に戻って行った。私は、今日の史実シーンで監督の『OK!』が出た直後の町田さんが、首に巻いたタオルで涙を拭ったのを偶然見ていた。汗ではなく涙だった。彼の真摯な姿は私などよりずっと俳優に向いていると思った。でも彼は演者に収まり切らないほどの時代劇熱が今の仕事に向かわせているに違いない。

 彼と親しくなったのは、私が鎧装束の “草摺くさずり” を知っていたことがきっかけだった。たったそれだけなのに町田さんは喜んでくれて、以来、何かと親しく話し掛けてくれるようになったし、時間のある時は小道具を通して歴史の話をしてくれた。町田さんの話に付いていきたくて、私は自然に時代物を勉強するようにもなっていった。

 この日の撮影を終えて私にとっての重要なシーンはほぼ撮り終えた。タイミングよく一日だけオフになった。私は今日までの宿泊先の精算を済ませ、京都駅近くのベッドで伸びの出来るホテルを見つけて移った。チェックインまでの間、心をリセットするためによく足を運んだ嵐山の野猿公園で時間を過ごすことにした。ここは落ち着く。目さえ合わせなければ、猿は私に干渉しない。


 その後、越前谷さんはどうしているんだろう。彼の幽霊話に影響されたのかもしれないが、玉川さんが仰っていたように、きっと私も結構なプレッシャーに押し潰されそうになっていたのかもしれない。宿を移った夜、越前谷さんのあの言葉が少しだけ気になった。彼は「宿を変えるしかないですよね」と言った私に、「そう思って変えたんだが…出たんだよ」と答えていた。そして、町田さんの「また出るよ」という言葉も思い出し、私にも移ったホテルで同じことが起こるんだろうかと気にはなったが、明日の撮影も早いのでシャワーを浴びて休むことにした。バスルームの洗面台の鏡に映った自分の肩に違和感を覚えた。よく見ると指の跡がある…それも両肩に。この展開はまずいと思って、シャワーは省略し、天井も見ないようにして就寝に勤しんだ。


 翌朝、指の跡は消えていた。衣裳さんに変に思われないで済むと安堵した。二晩、三晩はホテルのバスルームの鏡が気になったが、その後、特に何も起こらないまま最終日の撮影が終了した。越前谷さんとも、彼が老舗旅館で幽霊を見た翌日の撮影以後、ご一緒のシーンがないせいもあって会わずじまいだった。


 幽霊体験までした長いロケだった。ホテルから出ると空模様が怪しくなってきた。遠くでゴロゴロ鳴り始めたが降っては来なかった。駅に着くと急に家が恋しくなった。家内は幽霊話が嫌いなので、飛び付く女の話をみやげにするわけにもいかず、何か京都らしい土産物を買って帰ろうと思った。撮影中の禁酒が明けてビールも恋しくなったが、新幹線の時間が迫っていた。買い物を済ませると、京都の帰りに必ず寄ると決めているホームの立ち食いに寄った。ここのわかめうどんは私の大の好みだ。家族にも食べさせたいがお土産にすることができないので、私ひとりがその幸せに与るしかない。食べ終わるとタイミングよく新幹線が入って来た。

 荷物を網棚に上げて席に着いた。至福の始まりだ。帰りは終点なので寝過す心配もない。あとは車内販売の熱いコーヒーを待つのみ。後ろの席の方に少し挨拶をして座席シートを傾けた。台本順に撮影のシーンでの出来事を追うのが京都ロケの帰りの慣例になっていた。車窓が動き出した。今回は長期のロケだったので台本数冊分だ。終点までに終わるだろうかと思いつつ達成感に浸り始めた。

 いつの間にか眠ったようだ。浜松あたりだろうか、車窓から近い距離に海が見える。車内販売が来ないだろうかと車両の出入り口に目をやった。その天井に “あの女” が留まって今にも滑降しようと私をじっと睨みつけている…そんな展開なら越前谷さん的なホラーライフが始まるのだろうが、私の場合はそうはならなかった。やっと来た車内販売の熱いコーヒーを啜りながら、ふと振り向いたら隣の座席に “あの女” が座っているわけもなく、ただ、“飛び付く女” の一件があって以来、朝起きると天井の角に目が行ってしまうことが習慣になってしまった。


〈 おわり 〉

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飛び付く女 伊東へいざん @Heizan

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