第二章② 殺人演習

「そろそろ起きろ」

 全身に急激な冷気を感じて、我来聖子は意識を取り戻した。

「気がついたか」

 全身が濡れている。身体が冷えている。どうやら冷たい水をかけられて、叩き起こされたようだ。水で濡れた顔を拭おうとしたが、両手が動かない。それどころか、今自分がどのような体勢をとっているのかさえ把握出来ていなかった。

 ここはどこなのか。どうして自分は動けないのか。なぜ冷水をかけられなきゃいけないのか。目の前の男は一体誰だ。覚めたばかりの思考は疑問によって埋め尽くされほとんどパニック状態と変わらなかった。

 悲鳴を上げる。そのために息を大きく吸う。だが声を上げることは叶わなかった。目の前の男が頬を力いっぱいに張ったからだ。

 乾いた音が室内に響く。

 痛みよりも驚きの衝撃のほうが我来聖子には強く感じられた。今の今までに親にも手を上げられたことがないにも関わらず、見ず知らずの男に叩かれた。

「はじめまして、我来聖子さん。俺は葛木恭矢という。君が昔いた清勝館学園高等学校の英語教師をしていた葛木美奈子の夫だ。松宮先生って言ったほうがわかりやすいかな」

 頬を張っておいて、何をそんな慇懃無礼な態度を。だが、恭矢は我来聖子の混乱している様子に全く意に介せず、矢継ぎ早に言葉を続けていく。

「覚えているはずだ……」

 有無を言わさぬ低く地を這うような声。我来聖子はその声におののき、必死にまとまらない思考を巡らしていく。

 葛木美奈子、松宮美奈子。我来聖子はその名前に聞き覚えがあった。確かTOFEL試験で不正を起こした教師だ。

「俺の妻は、君のお父さんに殺されたんだ」

「な、何言ってるの……?」

 そんな馬鹿な。あれは確か、その問題に対し責任を感じた葛木美奈子が勝手に自殺しただけのことだ。

「実際のところ、あれは校長の堀田先生がやったということが事実だ。校長先生が不正なんかすれば問題は大きなことになる。だから理事長の君のお父さんはまだ若い美奈子に、松宮先生にその責任を転嫁させた」

 何を言っているのだこの男は。当て推量にも程がある。だが反論の言葉が声にならず、我来聖子は口をパクパクさせるだけだった。自分は今拘束されどこだかわからない場所で監禁されているという状況に、我来聖子は怯懦する。

「まず最初に聞きたいことがある」

 男はそう言って、一台のスマートフォンをこちらに差し出してきた。

 瞼に水が滴り定かになっていない視界をこらす。男が差し出してきたスマートフォンは自分のものだった。父にねだって買ってもらった最新機種。画面には何も表示さrていない。おそらく、GPS機能を警戒して電源を切ってあるのだろう。

「ロック解除番号を」

 だが恭矢の声に我来聖子は口を真一文字につむぐ。だが恭矢は「さっさと言え」とばかりに手に持った彼女のスマートフォンで側頭部を殴りつける。

 聖子は観念したかのように、四ケタのロック解除番号を口にした。恭矢は電源を入れると手早く言われた番号を入力しGPS機能を切る。そして今度は手早くアドレス帳画面を表示させた。画面をスライドさせ目当ての連絡先を見つけると、早速手帳を取り出し手書きで書き写していく。ついでに、目当てのものだけでなく今後役立てそうな目ぼしい連絡先もだ。

「どうせ父のことがらみで私を誘拐したんでしょう。私は関係ないでしょう!解放して!」

「そう、君の言うとおり。君のお父さんの非道と君とは直接関係はない。そう、関係はない。でもね、それだけに過ぎないんだよ」

 気怠そうに、そして言い聞かせるように恭矢は言葉を続ける。

「関係がない。ただそれだけで殺されない理由に足り得るかい?」

 恭矢は我来聖子の顎を掴み、目を合わせるように強いる。

「だけど俺の妻も、美奈子も関係なんかなかったんだ。君と同じように……。

 今、自分は理不尽な目に遭っていると思いうかい?確かに理不尽だね。だけど、俺の妻も理不尽な目に遭ったんだ。そして理不尽な目に遭うのにいつだって特に理由なんてものはない。美奈子が特に理由もなく君のお父さんに理不尽な目に遭わされたように、君が俺によって特に理由もなく理不尽な目に遭わせるのは何もおかしくはないことだよ」

 我来聖子は目の前の男が何を言っているのか全く理解できていなかった。長い前髪から覗くその双眸は、最早同じ人間のそれとは思えなかった。

 捕食者の目。それも獲物を心ゆくまで弄ぶタイプのものだ。

「君はお父さんがどんな所業を積み重ねてきているかを、理解していないわけがない」

 聖子は否定する言葉を見つけられなかった。確かにこの男の言うとおり、父である我来賢一郎が自らの企業において社員や従業員を虫けらか奴隷のように扱い、終いには死に追いやっていることは把握していた。

 だからどうしたというのだ、というのが我来賢一郎の長子、我来聖子の見解だ。

 一方の自分は生まれながらにして成功を約束された選ばれた人間。そんな下々の者とは生きる世界が違う。自らもいずれは父と同じように人の上に立ち、そして見下ろしていくのだろうと考えていた。その手始めとして、清勝館高校の生徒会長の座に無理矢理座り込んだこともある。父の権力を利用して、だ。

 だが、我来聖子は今ここで初めて、その下々の者の生の感情に肌で触れた。

 怒り、憤怒、理不尽に蔑まされてきた下々の者たちの憤り。圧倒的暴力の前に権力や威光など、なんら意味もなさない。

 いや、それ以前に自分は自らに裏付けされた力を持っていたのだろうか。ここでようやく我来聖子はその疑問を思い立ち、そしてその問いに対する解答によって絶望に染まった。

 自分の権力は全て父である我来賢一郎によってようやく保障されたものであるのだった。そして父の目に触れることのない所において、そんな力などなんら役にも立たない。

「ようやく理解したかい。君が今思い立ったように、君は父親がいなければ何も出来ない、ただの小娘だ」

 呆れたように目の前の男が言う。そして、いや、と恭矢は言葉を続けた。

「ただの、は誤りだね。君は父親の権力を笠に来て、一体どれだけの所業を積み上げてきた。どれだけの弱者を虐げてきた。そんな人間を〝ただの〟といった形容詞で済ませるわけにはいかない」

 恭矢は我来聖子を見下ろす。いや、見下すとも言える。恭矢の目は汚物を見るそれと同じものであった。我来聖子はそのように見下されること自体が生まれて初めてだった。誰もが自分にへりくだり、媚びへつらってきたのだ。そして自らが頂点にいる絶対的な存在なのだと考えていた。だがこの瞬間は違う。自分には何も出来ない。自分は今、力関係の最下層に叩き落とされている。

 恭矢はドライヤーを取り出すと電源コードをコンセントに指し、スイッチを入れる。一番強い温風にスイッチを入れると、送風口に手を当てて温度を確かめた。熱い。しかしすぐに火傷しない程度の温度。これを長い時間同じ箇所に当て続ければ、どうなるか。

「な、なにをするの……?」

「マイナスイオンも出る機能付きだ。良いだろう」

 ドライヤーの風を軽く自分の頭に当てながら恭矢が言う。送風で風がなびいている。

「映画で見たことがある。それを今から試す」

 その映画を美奈子とともに見たことがある。レンタルビデオで百円で借りてきたものだ。そういえば美奈子は割りかしヴァイオレンスなアクション系が好きだったな。「悪党が悪党以上にえげつない手段でぶちのめされるのっていいよねー!」とは美奈子の弁だ。恭矢はそんな取り留めのないことを、この場で思い出した。

 そして、これから自分はその悪党以上にえげつない手段を取る。大きな音を立てて、多量の温風が勢い良く吐出されている。その送風口を聖子の太腿へと押し付けた。

 何のつもりだかわからなかった聖子だが、すぐさま恭矢の目的をその身を以て理解した。

 熱さの後に痛みがきた。それも熱湯をかけられるような瞬間的な熱さではない。じんわりとゆっくりもたらされる熱が猛烈な苦痛となる。温風を肌に直接突きつけ続けることで、ドライヤーは焼きごてへと早変わりする。温もりが熱さとなり、熱さが激痛となり、聖子は悲鳴を上げる。誰か、誰かこの悲鳴を聞いて気づいて欲しい。その目論見もあって我来聖子は声を上げ続ける。だが、その目論見は叶うことはない。今二人がいるこの部屋は的場組による仕置部屋だ。どれほど声を張り上げようと、外に漏れ聞こえることはない。

力ある者にはどうすればいい。そうだ。今まで自分がされてきたように媚びへつらえばいいのだ。

「お願いやめて! 助けて! なんでも話すからぁ!」

 最早助かる見込みがないと不安にかられた聖子は、とうとう命乞いを始めた。涙と鼻水にまみれた顔で恭矢を見上げる。汚れたそれを見せつけられ、恭矢は不快そうに鼻を鳴らした。

「話してもらうことなんて、何一つ無い。黙って嬲られていろ」

「……お願いします。助けて。なんでもするから」

 涙声で聖子が懇願する。

「だめだね」

 恭矢は一瞬の間も置かず、断じた。一片の情も無く。


 その日、的場組本部に顔を出してから直帰してしまおうかと思っていた津田だが、本庁からの呼び出しを受け不機嫌さを全く隠すつもりのない面で自分のデスクに戻ることになった。せっかく人が気分よく日がまだある内に帰ってしまおうかと思っていたのに、呼び出しとは一体何様のつもりだ。挨拶がわりに何かかましてやろうかと思ったが、待ち構えていた面子を見て吐き出しそうになった文句をぐっと飲み下した。一度も見たことのない顔が並んでいたからだ。

 自分のデスクに二人の刑事。一人は自分と同じくらいか。もう一人はおそらく新人だろう。そんな顔つきだ。

「捜査一課の高根と申します」

「同じく木戸です。津田志堂刑事ですね?」

 一課の凶悪事件を捜査する正義の刑事様がヤクザと表裏一体の部署に何の用だ。そう疑念の目を二人に向ける。

「しかし」木戸が周囲に視線を巡らしながら言う。

「捜査四課って噂通り、ヤクザ顔負けって感じな人がいっぱいなんですね」

 津田は思わず「は?」と呆れた声を漏らし、高根は木戸の頭に拳骨を振り下ろす。「すみません」と平謝りする高根。

「今日、出向いたのは他でもありません。葛木恭矢についてお伺いしたいと思います」

 高根の言葉に津田は眉をひそめる。

「葛木がなんかやらかしたのかい」


 葛木恭矢は現在的場組の金庫番前原の用心棒を務めているという情報を、高根と木戸と持っているものと交換してから、両者の葛木恭矢に対する捜査はトントン拍子で進んだ。

 また恭矢が何をやらかしたかということも気になった津田は二人の捜査に引き続き協力することとなった。

 そして、葛木恭矢の情報が粗方出揃う。学歴、経歴、そして警察官退官から的場組に雇われるまでの経緯が。

 警視庁内の小さな会議室。明かりを消しプロジェクターが灯っているその部屋に高根と木戸、そして津田がいた。

「葛木恭矢、年齢三二歳。高校卒業後、一年の浪人を経て上理大学文学部哲学科に入学。大学での専攻は東洋哲学だそうで」

 木戸がプロジェクターと接続されたラップトップPCを操作しながら説明を続けていく。

「上理か。ノンポリだな」と高根。

「そうですね。政治活動に参加したという記録もありません」

 それでと、木戸は続けていく。

「大学卒業後、試験と警察学校を経て警察入りです。キャリア組ではないんですね」

「その後は」と津田が尋ねる。

「一年の交番勤務の後、警視庁第四機動隊に所属します」

「鬼の立川か……」と高根がごちる。

「そうです。機動隊の中でも一番の武闘派の荒くれです。そこに二年の勤務の後、突如警察庁警備局に異動となります。ノンキャリの分際で公安警察入りですが不可解極まりないとしか思えません。何よりおかしいのがここから奴の経歴はノイズまみれなのです」

「ノイズ?どういうことだ」津田が尋ねる。

「まず、一定期間公安の一定の部署に留まったことがないんですよ。それこそ総務の庶務やら外事やらに行ったり来たり。しかも外事なのに出国経歴があまりに少なかったりで……。二〇一一年の三月一二日付けで本庁の公安機動捜査隊への異動が最終経歴ですね。この一ヶ月後に葛木は警察を退官しています」

「うへぇ、シロとかクロとかそういう問題じゃなくて、ぐちゃぐちゃじゃねえか」と高根。

「……こいつもしかしたら『チヨダ』かぁ?」

言いながら津田はスクリーンに映しだされた恭矢の画像を指さす。

 チヨダ。公安警察の総本山とも言える警察庁警備局企画課、その中にある非公開組織。諜報を主な任務とした工作活動部隊である。非公開組織ではあるが、公然の秘密といった具合にその存在は衆知されている。

「しかしよ、この経歴がいったいどう我来と繋がりがあるんだよ」

 津田が今度はペンで木戸とプロジェクターに映された画面を指す。

「それはこれからです」

「なんでぇ。もったいぶるない」高根が鼻を鳴らす。

「葛木恭矢と我来はあまり直接的には関係はなく、葛木の妻と我来に深い関係があります」

 木戸がそう言ってキーを叩く。プロジェクターには一人の女性のバストアップの写真が映された。長い髪に眼鏡をかけた、どこかゆるく優しげな雰囲気を湛えながらも利発さも備えた女性。

「葛木恭矢の妻で、葛木美奈子。旧姓は松宮。我来が理事長を務める清勝館学園で英語教師をやっていました」

 画面が移り変わる。映されたのは数枚の新聞記事のスクラップだ。

「これらの記事にあるように、葛木美奈子は二〇一〇年末に学校内のTOFELの対策授業で実際のテストの解答を事前に生徒に教えるという不祥事を起こしています」

「なんかニュースが何かで覚えがあるな。ぼんやりとだが」と高根が呟く。

 画面がまた別のスクラップ記事に移る。

「その後、年が明けて二〇一一年二月、自宅浴室で硫化水素による自殺で死亡しました」

 画面に映しだされた記事には、紙面のほんの小さな枠に葛木美奈子が自殺したことを告げる記事があった。各社とも紙面のほんの小さな片隅。記者の見解も全く無い、事実だけを書き記した記事。

「その後、週刊誌の現代文久において一連の疑惑を追求するための連載が始まったのですが、わずか一回で打ち切りとなりました。しかも事前の予告もなく。記事の内容も尻切れトンボみたいなものです。打ち切りの説明も一切ありません。まるで最初からこんな連載を無かったことにしてるみたいです」

「握りつぶしたな、我来」高根が鼻を鳴らす。

「一方の城南新聞では社説において、葛木美奈子を名指しで批判している記事が掲載されました。そして彼女の自殺した後にもう一度、似たようなものが書かれました」

 木戸がキーを叩くとスクリーンにはスクラップ記事が二つ映しだされる。

「この記事、六実のじゃねえか」津田が記事の最後に記された執筆者の名前を指さす。

「繋がりましたね。葛木恭矢と六実の関係性が。葛木は六実を殺すにいたる動機は十分にあった」と木戸。

「しかも新聞記者です。我来本人や我来周辺の人間の情報も持ち合わせていたのでしょう。六実は一番最初に殺害されていますしね」木戸が言葉を付け足した。

「となると、葛木恭矢と岡安大毅との関係性も同じように考えればいいか」

 高根は短くなったタバコを灰皿に押し付け、次の一本に火をつける。

「それで間違いないと思います」

 木戸は持ち込んだ紙袋から二冊の文庫本を取り出す。『若輩社長』というタイトルの岡安大毅が執筆した小説だった。分厚い上下巻の二冊。

「我来をモデルにした小説です。岡安大毅はこういった実在のビジネスマンをモデルにした経済小説を主に書いていました」

「内容は?」高根が文庫本を手に取りながら尋ねる。

「我来のやること成すこと礼賛しまくった挙句、なんかヒーローに仕立て上げて挙句勧善懲悪ものになってますよ。意味わかんないです。ただの提灯小説ですよ」

「面白かったか?」

「くっそつまらねーですよ」

 はっはっは、と高根は声を大きく上げて笑った。

「これで、葛木恭矢が岡安を殺す動機もあったというわけだ」

 そして次は堀田の娘に移る。

「まあ堀田の娘の場合、妻である葛木美奈子にその責任を無理矢理おっかぶせた奴だからってところが妥当だな。しかし娘から嬲り殺すってのはほんとにえげつないことしやがる」

 くわばらくわばら、と高根と言いながら早々に結論を下した。

「となると、近々堀田の身にも危険が及ぶかもしれないな」と津田。

「近日中に警備の手配をします」木戸が返答する。

「他のガイシャは?」

 津田が更に尋ねた。

「六実と同じく城南新聞の記者、それとジャーナリスト、大学教授、ブロガー、どれも共通点はニッタミと我来に対し擁護するような意見を述べた人間です」と木戸が答える。

「ブロガーって、要は素人みたいなもんだろ。そんな連中まで殺されたっていうのか」

 津田は驚きを隠そうとはしなかった。

「ブロガーといっても社会派の記事をアップしててかなりの人気があったようで、書籍も数冊出版していたようです」と木戸が説明を加える。

「ひとまず、現時点での判明した状況はこれぐらいか」木戸が現状をまとめ上げ、今後を捜査の方向性を高根に伺う。

「しかし、高根さんの刑事の勘って奴はドンピシャだったってわけだ。すごいもんだ」と津田が賞賛する。

「……まあ」

 高根は口ごもる。その脳裏にはあの総髪の男がちらつく。公安警察の成田とかいう男。確かにあの男のアドバイス通りに調査をしてみたら、無関係と思われた事件同士に繋がりが見えた。だが奴のアドバイスはその結論ありきのものだったとしか思えない。

もしや、あの男には既に事件の全容が見えていたのではないだろうか。

 だがそれなら、なぜその全容が見えていたのか。そしてどうして、それを自分で捜査せずに他の部署の人間である自分たちにアドバイスとしてその情報を渡したのだろうか。

 そもそも、どうして公安の人間がこれらの事件についての情報を掴むことができたのだろうか。この事件、自分たちのあずかり知らぬところで何かが動いている。それも自分たちに想像のつくようなものではないものが。

「でもよ、俺たち、なんか突っ込んだらやばい案件に知らない内に関わっちゃいねえか?」と津田が言葉を続ける。

「公機捜ってことは福島の原発に線量の調査にも出たんだよな」

「それもそうだが、震災の翌日にすぐさま異動ってのがどうも臭いんですよね」

 震災の事後処理に公安警察が動いていたということならまだ理解できるが、経歴がノイズまみれの人間が震災の事後処理に関わっていたとなれば話は臭ってくる。

「しかし、その肝心の葛木本人の消息は今のところ不明でして」

「なんだそんなことか」津田が木戸の説明に差し挟む。

「懇意にしてるヤクザが葛木恭矢を知ってる。そいつに尋ねれば行方はわかると思う」

 だけど、と津田が言葉を続けた。

「葛木と接触するのは俺に任せちゃくれないか? いきなり捜査一課のあんたたちが踏み込んじまったら大事にもなりかねん。俺なら全くの他人ってわけじゃないから割りと穏便に事を進められると思う」

 高根と木戸は互いに顔を見合わせ、そして頷く。捜査に進展をもたらすのであれば、なんだっていい。刑事らしく必要とあらば手段を選ばないことも考えているが、状況は緩慢だ。焦る必要はなく、無理をすれば逆に取り逃しかねない。二人は津田の提案に従うことにした。

 その時だった。高根の折りたたみ式の携帯がけたたましく着信音を響かせる。すぐさま手に取り通話ボタンを押して受話器に耳を当てた。通話を開始した直後に「なに!?」と険のある声とともに太い眉が釣り上がる。二、三の返事と言葉を交わし、通話を終えた。

 釣り上がったままの眉を津田に向け、「心して聞け」と言わんばかりの視線を投げかける。

「津田さん、どうやらそういう風に穏便にいくわけにもいかなくなったようだ」

 高根がパ携帯電話を閉じながら言った。まだ短くなっていないタバコを灰皿に押し付けながら立ち上がる。

「死体がもうひとつ増えた。我来の娘だそうだ」

 葛木恭矢、お前は一体何を目的としているんだ。津田が歯噛みする。


 我来の娘は不忍池に浮かんでいたという。我来賢一郎が理事長を務めている清勝館学園の目と鼻の先だ。

 遺体の回収と初期捜査を終え、遺体の検死結果を待つ高根と木戸、そして津田。やがて検視官によりその結果が伝えられる。

 概ね、堀田の娘と同様だ。死因は失血死。まるで家畜を潰すかのように、きっちりと血抜きがされている。最早挑発と言っても過言ではない。不可解な火傷の痕は拷問によるものだとわかる。だが極めつけは生きたまま眼球を繰り抜かれていたことだ。鼻の静脈が破裂していることでそれがわかる。

 葛木め、それほどまでに我来が憎いのは理解はできる。だが強い怨念を向けているのは我来であって、娘は関係はないはず。無関係の人間に憎悪の矛先が向けられたのは、何も今に始まったことでない。だがそれでも超えてはならない一線というものはある。我来の情報を握っていたという要因を考慮して六実は別とすれば、岡安、堀田の娘と我来の娘にまでその手が及ぶのは、これは明らかに憎悪の暴走だ。我来を礼賛したから。我来の部下の家族だから。我来の家族だから。そんな理由で手を下されれば、やがて復讐の理由はどんどん薄く、そして広くなっていく。いずれは我来との関連性が薄い者にまでその凶意は及ぶだろう。ただニッタミの社員であっただけで、ただ清勝館学園の職員であっただけで、あるいは学生であっただけでという理由でだ。

 広がり続ける憎悪の果てにあるものは、自らをも含んだ何もかもを巻き込んだ破滅だ。

 葛木恭矢、元警察官であるお前がどうして……。

 それほどまでに我来とその関係者が憎いか。


 堀田が意識を覚醒させると、まず冬の雲ひとつ無い乾いた青空が視界に入った。馬鹿な。自分は先ほどまで自宅から車で学園に向かっていたはずなのに。次に自分の体ががんじがらめに拘束されていることに気づいた。口も布か何かで猿轡にされて言葉を発するどころか、うめき声すらまともに出せない。ここはどこだ。何故縛られている。そもそも自分は職場である学校に向かうために車に乗ったのではないか。絶え間なく湧く疑問と理解不能な現状に堀田は「なにがどうなっている」という混乱に意識を収束させた。

 こつんこつん、と一人分の固い足音が近づいてくる。その方向へ首の痛みも堪えて、顔を無理やりに向けた。

 一度だけ見たことのある顔がこちらへと歩み寄ってきた。確か、我来の私的な身辺警護の担当者だ。あの時、学園内の警備システムについて調査しているとのことだったが。

そう考えて堀田は一つの答えに辿り着く。

 警護システムを調べあげた。深夜の学園に侵入した。

 娘を殺し、深夜の学園に忍び込んで晒しあげた犯人。

 まさか、この男が。

 結論に達した途端、堀田は自分が置かれている現状も鑑みず、ただただひたすら声を上げて身悶えさせた。口が塞がれているため大した声も出せず呻くだけで、拘束されているため椅子から転げ落ちることさえも出来なかったが。

「うるさい。黙れ」

 鋭い恭矢の蹴りが堀田の鳩尾に突き刺さる。堀田は痛みにもんどり返ろうとするが拘束されているため、体を前後に激しく揺らすだけだった。猿轡で口も塞がれているため、うまく咳き込むこともできない。今までに味わったことのない激しい苦痛にもだえるしかない。それでも堀田は涎と涙と鼻水にまみれた双眸で恭矢を睨みつける。それが癪に障ったのか、今度はその堀田の顔面を殴りつけた。観念したのか堀田はそのままうめき声をもらしながら、うなだれた。

 恭矢は堀田の対面にあるもう一つのパイプ椅子にポータブルDVDプレーヤーを乗せた。

「お前の娘はな」

 言葉をゆっくりと、聞き漏らせないように、堀田の耳に張り付かせるように紡ぐ。

「俺が殺した」

 恭矢がはっきりと、その言葉を発する。堀田の娘が迎えた最期を。なんてことのない、薄汚いゴミか何かをしっかりと処分したことを告げるように。

 堀田は怒りに目を向き猿轡でくぐもった叫び声を上げる。

 抵抗するように身悶えさせる堀田の鳩尾を二、三発殴って大人しくさせると、ヘッドホンを装着させ外れないようにさらにガムテープで固定する。そして懐から一枚のDVDを取り出して見せ、それをプレーヤーに入れた。

「お前の相手はまた後でする。それまでこれでも見ていろ」

 再生ボタンを押し、恭矢はその場を後にしていく。去っていく恭矢に向かって堀田は叫ぶように大きく呻くが、何も聞こえていないように気にも留めず恭矢はその場を後にした。

 ヘッドホンに音声が始まりプレーヤーの画面が表示される。DVDが読み込まれると画面には自分の娘の裸体が映し出された。ビニールの敷かれたベッドに拘束されている自分の娘。そこに大振りのナイフを手にした恭矢が近づいてきた。何が起こるかは容易に想像できた。それでも堀田はただただうめき声を上げることしか出来なかった。

 プレーヤーは堀田の娘が斬殺されるまでのプロセスをノーカットで再生していく。映像は目を固く閉じて見ることを拒むことが出来ても、声だけはヘッドホンが固定されていてどうにもできなかった。ただただ、自らの娘が生きたまま解体され絶命に至る悲鳴を何度も聞かされるしか他はなかった。

 それからは永遠とも思える時間のように感じられた。何度娘の絶命の瞬間を聞き見届けただろうか。日が沈み、夜になり再び恭矢が現れたことで、ようやく終わりを告げた。

 虚ろになった堀田の瞳が、震えながら恭矢に焦点を合わせる。それを見て、恭矢は唇を片側だけ釣り上がらせた。

 猿轡を外される。が、最早何かを言う精神力もない。

「なにか言ったらどうだ」

 挑発するように恭矢は言う。だが堀田は何も言葉を発さなかった。声を出す気力も無かったこともあるが、この男とまともに口を聞くつもりも無かった。その様子に恭矢は特に気に留めることもなく鼻を鳴らして、堀田の拘束を解いた。椅子に括りつけていた両手両足の縄をナイフで裂くと椅子から突き飛ばした。堀田は無様に顔から転げ、そのままの態勢で泣くように呻くのみだった。

「さっさと立て」

 恭矢の命令にも堀田はそのまま無視して呻き続ける。業を煮やした恭矢は一発蹴りを入れてから無理矢理立ち上がらせた。そして堀田のシャツの襟を掴みあげ、突き飛ばすようにフェンスの傍まで歩かせる。

「フェンスを超えろ」

 理解不能といった表情を向ける堀田。だが恭矢がフォールディングナイフを抜き刃を露わにすると慌てて指示に従った。フェンスを乗り越え、堀田はビルの縁に足を乗せる。落下しないように両手は後手で力いっぱいにフェンスの網を掴んでいた。

 ビルの屋上から見える景色は深夜の秋葉原のものだった。日中は活気に溢れたこの街も、歓楽街と違い夜も深ければ寝静まっている。例えこの場で大声を上げようと意味はないだろう。例え人がいたとしても無関心から無視を決め込む。そして下を見れば目眩が起きるような一面のアスファルトが広がっていた。高さからして落ちれば助からない。目の前に広がる死に堀田はついに失禁する。

「その手を離せ」

 フェンスを掴んでいる堀田の指をナイフで軽く突き回す。堀田は思わずフェンスを掴む指から力を抜いてしまった。重力の囚われ、体が宙に倒れ込む

 落ちると思った途端、ネクタイが掴まれた。落ちることはなかったが、首が絞まる。パクパクと酸欠の金魚のように堀田は無様に喘ぐ。さらに恭矢は襟を掴んだ腕を前に突き出した。堀田が身がさらに宙に倒れ込む形になり、堀田は大きく悲鳴を上げる。

「やめ、やめ……やめてくれ。た、助けてくれ」

 堀田の声はその体と同じように震えていた。

「今から俺の質問に答えれば助けてやる」

 冷たく突き刺すような恭矢の声。元よりそのつもりなど恭矢には毛頭ないのだが、堀田からしてみればその言葉に従う他はない。

「TOFELの実際のテストの回答をあらかじめ教える不正を行ったのは、美奈子の遺書と週刊誌やネットであったように、美奈子ではなくお前で間違いないんだな」

「そ、そうだ」

「誰の企てだ。お前か。我来か」

「理事長だ。が、我来理事長の指示だ……!」

「それは不正行為への支持か、それとも葛木美奈子への責任転嫁か」

 恭矢が問う。しかし堀田はそれどころではない。無い腹筋を総動員させどうにか体を起こそうとして、爪先をつんのめさせるので精一杯だ。「ひぃひぃ」と小さく悲鳴を漏らすだけだが、それでも恭矢は構わず「答えろ!」と恫喝する。

「と、TOFELの解答を、予め生徒に教えたのは、わ、私の独断だ……。だ、だが、それがマスコミ各社にばれた際に、下手人は若い者にしようと、理事長が……」

「そのスケープゴートを美奈子にしたのはなぜだ」

 だが、堀田は恐怖と呼吸困難で喘ぐだけだった。恭矢は苛立たしげにネクタイを強く引く。「ぐぇ」と蛙のような呻きとともに引っ張られた堀田は、フェンスに身を預けどうにかして呼吸を整えようとする。

「答えろ」

「……たまたま目についたんだ。ベテランの教員を人身御供にするわけにもいかなかった。その人間にも家族や生活がいるからな。それに校長である私が不正を実行したということが周知されたら責任問題も大きくなる。我来賢一郎が理事長に就任したことで持ち直した学校経営が再び危うくなれば、また酷い目に遭うのは私たちだ。若い教員なら大したことはない。聞けば結婚もしたというのだから……」

 堀田の言葉を遮るように、恭矢はナイフの切っ先で堀田を切りつける。堀田が痛みに悲鳴を上げるが大したことはない。大げさな、と恭矢は鼻を鳴らす。本当なら滅多刺しにしてやりたいところなのだ。

 再び堀田をビルの縁に突き出させる。「あひぃ、あひぃ」と無様とも言える堀田の声。

 たまたま目についたから。若いから。理不尽極まりない。いつだってそうだ。若い人間はそうやって、無様で無能力で無成長な下種に好き勝手されてしまう。

「良心の呵責はなかったのか。少しでも美奈子に悪いと思ったことはなかったのか」

「彼女には悪いとは思った……! だが、理事長には逆らえない! 我来理事長のどんな些細な指示にも従わなければ私の首が飛ぶんだぞ!」

「ならばお前は、教育者そして人間としての倫理よりも、自分の保身を優先したのだな」

 粗方は予想していたが、改めて告げられた真実に恭矢は歯噛みし、ぎりりと奥歯が鳴る。

「美奈子はこのことを苦にして死んだんだぞ……!」

「そうしなければ、殺されたのは私と私の家族のほうだぁ!」

 堀田の絞りだすように叫んだ言葉。それが決定打となった。教育者としての義務も倫理も挟持も持ち合わせていない、こんな下種に、美奈子は死に追いやられたというのか。

「どうして、娘は、あんなに無残に殺されなくちゃいけないんだ……。娘は何もしていないのに……」

「美奈子も何もしていなかった! 我来と貴様、お前たちの勝手すぎる都合で利用され傷ついたんだ! だというのに、お前がそれを言えた口か!」

 恭矢の怒声が深夜の秋葉原に響き渡る。幸い、風の音と混ざったが、さすがにまずいと思ったのか、声のトーンを落として恭矢は続けた。

「だから、貴様ら全員に美奈子が味あわされた以上の苦しみを味わってもらう。我来に与した者全員にだ。その家族も例外じゃない。マスコミもだ。生まれてきたことを後悔させてやるほどの苦しみを、貴様ら全員に味あわせてやる」

 堀田のフェンスを掴む指をナイフで小突いて手放させる。恭矢が掴むネクタイだけが彼の命綱となる。涙と鼻水と嗚咽で堀田は声にならない声をあげ、両手をじたばたさせてもがく。

「わかった。もう喋るな。耳障りだ。たくさんだ。お前たちが美奈子を殺したんだ」

 ナイフを仕舞い、シャツの胸ポケットからICレコーダーを取り出し録音停止ボタンを押す。そして腕を突き出し掴んでいたネクタイをそっと手放した。

「全て答えたら殺さないと言ったな。あれは嘘だ」

 聞くに堪えない悲鳴。どすん、と生ゴミの詰まったゴミ袋が落ちたような音がした。

「美奈子を傷付けた人間は、生かしておかない。全員」


 来栖叶人は指示されたビルの階段を駆け上がり、狙撃態勢を整えた時には既に遅かった。

 旧ソ連製スナイパーライフル〝VSSヴィントレス〟のスコープ越しに見えたものは、今にも堀田をビルの屋上から突き落とさんとしているターゲット、葛木恭矢の姿だった。こちらは堀田の救出は命じられていない。あくまで葛木恭矢の身柄確保のみ。来栖はレティクルの中心を葛木恭矢の肩へと定める。呼吸を整え、そして銃爪を引き絞る。

 葛木恭矢はそれで無力化、身動きできなくなる。

 そのはずだった。

「くそっ! 外した! いや躱された!」

 目の前で起きた光景が信じられなかった。あろうことかターゲットは狙撃を回避してみせた。発生した事態に思考よりも反射によって来栖は行動を起こす。プランBへの移行だ。来栖は相棒のライフルを解体収納もせずに背中に背負い上げ、ビル屋内へと走って戻る。グロック18Cを抜き、銃身下部に装着されたタクティカルライトを点灯させ、暗闇を照らしながら階段を駆け下りていく。

 来栖自身、組織一の狙撃の腕を認められており、それを自負ともしている。狙撃と同時に必要とされる潜入、隠密工作、サバイバル能力に関しても自身が所属する組織のみならず警察内部でもトップクラスと評されている。今回の狙撃に関しても通常の任務と同じようなものと括っていた。

 葛木恭矢。本当に何者なんだ。


 夜になって再びこの場に足を運んでいた時から感じていた、懐かしい違和感。首筋がひりつき、ふくらはぎが疼きだし、悪寒が腰から背骨を貫く。

 かつて〝組織〟に在籍していた頃、〝任務〟にあたっていた時に常に感じていた違和感。それは、絶対的な死が己を睨みつけている感覚である。

 ここは戦場であると、五感がそう告げている。感じていた違和感の正体を知覚する前に、恭矢は反射的に身をかがめた。頭上を何かが掠めていくのを感じた。

 狙撃されている。銃弾が撒き散らす死を纏った風が恭矢の顔を撫でる。それにより考えるよりも先に瞬時に銃弾が発射された方向を判断する。

 対面右方向、高架線路越しのセガのゲームセンター方面のビル屋上に人影。スコープのレンズのかすかな反射光が判断の決定打だった。

 中腰のまま恭矢はビル屋内へと引っ込み、階段をほとんど飛び降りるように駆け下りていった。その中で様々な思考を巡らしていく。

 仮に今までの事件が公となり捜査が自分へと結びついたとして、あるいは先ほど堀田を突き落とした現行犯として警察が出張ってきたとしても、いきなりの狙撃は無い。ここは腐っても法治国家だ。逮捕なら必ず裁判所からの逮捕状を必要とするし、現行犯逮捕だとしてもいきなりの銃撃はありえない。土台、狙撃ができる警官など限られている。

 いや、一つだけ、心当たりがある。

 かつて自分が自身が在籍した、公安警察内非公開組織。

 名を警察庁警備局警備企画課情報整理室と言う。またの名を――

「〝零課〟か」

 その言葉を小さく声に出す。

 ビルの裏口に辿り着く。おそらくスナイパーも撤退を始めているだろう。恭矢は対面のビルへ駆け出していく。赤いゲームセンターの後ろにある一階が機械部品の店舗になっているビル。その従業員用の出入口から一人の男の姿が見えた。背中には詳しい種類は見分けられなかったが、長物、おそらくスナイパーライフルを背負っているのが見えた。

 必ず捕まえて出処を吐かせる。恭矢は走る足をスプリンターのようにさらに加速させた。


 来栖が一階が機械部品の店舗になっているビルから出ると、こちらへ走ってくる足音が聞こえてきた。来栖はその足音の主から逃れるように、指定されたランデブーポイントへ向かい全速力で駆け出した。

 背負ったヴィントレスがうっとおしい。最早自分にとって相棒とも言える存在だが、今だけは投げ捨ててやりたい思いだった。走るのに邪魔だし、人目につけば大事である。

 分解収納していくことも考えた。だがそうなれば、葛木恭矢はこちらのビルへ乗り込んで来ただろう。そうなれば階段を降りる自分と鉢合わせ、そのまま戦闘に入ることは目に見えていた。ブリーフィングによれば葛木恭矢はあらゆる技術を修めたスペシャリストにしてゼネラリスト、その中でも閉所における格闘戦を最も得意としていたという。一方で自分は狙撃一辺倒。おまけに逃亡経路は塞がれる。結果は火を見るよりも明らかだった。だからこそ、リスクを承知しライフルをむき出しのまま撤退を敢行した。

 来栖は走りながら首を回し、ちらと葛木恭矢の姿を確認する。表情も感情も失せた顔をこちらに向け、全速力でスプリントしてくる。左手にはナイフを逆手に握りしめていた。

 あれが葛木恭矢。組織の最高傑作、伝説と呼ばれた男。

ターミネーターかよ、おっかねえ……!

 国道一七号線の歩道を二人が疾走する。先を走る来栖は近づいてくる足音を察知すると、すかさず懐からサプレッサーを装着したグロックをその足音の方向へと向けた。

 向けられた銃口に後を追う恭矢はすかさず滑るように建物の陰に見を隠す。既まで自分がいた空間を銃弾が静かに襲う。

 ならばと、恭矢も懐からグロックを抜く。身を潜ませたままグロックを握る手だけを物陰から出すと、そのまま三発、狙いを定めないまま素早く発砲した。

 来栖は銃声に身を潜ませるが、走る足は止まらせない。こちらの足を止めるための当てずっぽうの牽制だ。その手には乗るか。しかしあの馬鹿、サプレッサー無しでぶっ放しやがった。いくら真夜中の秋葉原で人通りはほとんど無いとは東京のど真ん中で銃声を響き渡らせるとは正気の沙汰とは思えない。話に聞いたとおり、キレた野郎だ。

 来栖はそのまま横道に逸れベルサール秋葉原へと辿り着く。回収班とはこの場で落ち合う予定であったが、それらしき車両は見当たらない。

 来栖はピロティの床を蹴り毒づいた。そしてこちらに向かってくる足音が近づいてくる。来栖は振り向くと同時にグロックを両手で構えた。銃口の先にはこちらに襲いかかってくる恭矢の姿。右手を振るうとその先から刃が現れ、街灯に鈍く輝く。左手に持つグロックでさすがに無闇矢鱈にぶっ放すつもりはないのだろう。こちらは長物を背負っている。奴の狙いは接近戦、ナイフ格闘だ。

「させるかよ」

 ならば、と来栖は背後に歩を進めながら、発砲する。響かないくぐもった銃声が数発。恭矢は側転し支柱の陰へと身を隠した。

 仕留め損ねた。だが来栖は一発の確かな手応えを感じた。

 支柱の陰で恭矢は身を潜める。しくじった。知覚した激痛は右脇腹。触れると手のひらは紅く染まった。

 恭矢は物陰に背中を預けている。痛みこそ知覚しているものの、脳内を駆け巡るアドレナリンによって感覚はフィルタリングされている。痛みに感覚を支配されることは当分無い。故に戦闘行為を続行するのに支障は無い。しかし肝心の銃を撃たれた拍子に手放してしまった。落としたグロックは地面を滑り離れた場所にあった。身を潜めた物陰の外、あのスナイパーの射程圏内だ。むざむざ取りに行けば今度こそ撃ち殺される。恭矢はそう考えると、懐からフォールディングナイフを抜き、折りたたまれた刃を展開させ右手で握りしめた。撃たれた右脇腹に痛みは感じられない。だがそれも長くは保たない。つまらない撃ち合いに付き合わされることもない。来栖はおそらくこちら側から見て支柱の右側へと意識を注いでいるだろう。ならばと、恭矢は支柱の左側から駆け出した。

 軽く呼吸を整えようとした時、視界に逆手に持ったナイフを振り上げる恭矢の姿が割り込んできた。驚くよりも前に来栖は両腕で恭矢の腕をくい止める。

 こいつ、突っ込んできたのか。どんな神経しているんだ。来栖も恭矢のナイフを振るう腕を止めながらすかさずシースナイフを抜き振るう。斬撃を身を引かせて回避する恭矢。後退した恭矢に対し来栖はさらに追撃をしかける。二撃、三撃目の刃をこちらのナイフで受け、鍔迫り合いの形となった。

 ナイフ格闘戦。来栖が最も苦手とする分野であり、恭矢が得意とする分野の一つである。繰り出される刃を刃で受け、こちらも刃を繰り出す。銃撃戦とは違った緊張。銃撃戦と違い退避しインターバルをとることも出来ず、一瞬でも気を抜けば仕留められる。ナイフにだけに意識を向けるわけにはいかない。拳と蹴りが意識外のタイミングと方向から繰り出される。刃と刃がかち合い、ぎりぎりと刃が噛み合う音が耳朶を通じて神経を泡立たせる。

「くっそが!」

 苦手なナイフ戦をやらされて、しかも怪我人相手に押されている。一発撃たれたのに、どうしてここまで動けるんだ。右脇腹から出血が見られる。どうして脇腹を撃たれて、しかも右半身、右腕でナイフを振るえるのだ。

 化け物、と来栖は怯懦した。自分が相手をしているのは紛れも無く過去に組織の最高傑作とうたわれた男だ。半ば伝説のような扱いだったため、この作戦に就くまで半信半疑だったが、その疑念は目の前に迫り来る死と実力を以て現実として証明された。

 遠くでパトカーのサイレンが聞こえてきたのはその時だった。おそらく堀田の死体が発見されて通報を受けた万世橋警察署がようやく動いたのだろう。恭矢の動きが一瞬止まったのはその時だった。

 来栖はそれを見逃さない。だがその機を利用し攻めるのではなく、撤退のために用いた。恭矢から背を向けて一目散に中央通りへと疾走する。逃がさんばかりに追う恭矢。昼とは打って変わって人通りも車通りも全くない静謐なはずの中央通り。その静謐はつんざくようなパトカーのサイレンとけたたましい一台のハイエースのエンジン音に破られた。スピードは緩めるが停車せずに後部座席のスライドドアが開かれ、来栖は飛び込むように乗り込んだ。その後部座席の奥側と運転席に鈍く光る何かを恭矢は見る。

 銃口。恭矢は飛び込むように支柱の陰へと退避する。サプレッサー越しの弾丸が空気を裂く音。既まで恭矢が存在した空間をサブマシンガンの弾丸が襲いかかる。

 スライドドアが閉じられる音と再びエンジンが唸りを上げる音を確認すると、中央通りに飛び出す。転がっていたグロックを取り戻し、片膝をついて精密射撃の態勢を取り走り去っていくハイエースに銃口を定める。大した意味はないだろうが一応ナンバーも瞬時に頭に叩きこむ。銃を構える腕が震える。感じなかった銃創の痛みが、ここにきてようやく全身を駆け巡り始めてきた。小さくなるハイエースの後ろ姿。悠長に狙いを定めていては射程距外となる。焦りと痛みで定まらなかった狙いの弾丸は目的のタイヤではなく、テールライトを砕いただけで終わった。まだだ、せめてもう一発とトリガーに指をかける。だが、視界に入った遠くのパトカーで思いとどまった。舌打ちとともに恭矢は急ぎ足で表通りから遠ざかった。

 切れたアドレナリンが遮断していた痛覚を元に戻す。せき止められていた痛みが開放され、恭矢の思考と感覚を支配し始める。撃たれた腹を押さえる。暗くて銃創ははっきり視認出来ないが、放置してよい場所ではない。

 痛みに腰を折り、これ以上失血しないよう片方の手で傷口を押さえ、もう片方の手で周辺の動脈を抑え間接止血を試みる。ふらついた足取りで既に閉店してある飲食店の傍、通りから目立たない裏路地で恭矢は膝を折り腰を下ろした。呼吸は荒く、手先が冷たい。血を流しすぎている。

 弾は貫通しているのか、それともまだ体内に居座っているのか。もしも銃弾が貫通していないのであればアウトだ。自分一人では処置のしようがない。かといってかかれる闇医者など知り合いにいない。

 どうするべきだ。恭矢は動揺していた。今までなら多少の無茶をしでかしても、組織がそのバックアップを取っていた。だが今の自分にはそれがない。最初から孤立無援だった。

 いや、正確には違う。かつての同僚たちの存在を恭矢は閃いた。

 自分と同じように組織、零課を辞めた人間同士が何かあった場合に互いに連絡を取る手段を備えていた。だとしても、今回は恭矢が一人で始めたことであり、負傷というミスも恭矢一人の責任である。果たして、自分一人の勝手な都合でかつての同僚たちの平穏に波風立ててよいものだろうか。

 数十秒の逡巡の後、恭矢はスマートフォンを取り出しアドレス帳を呼び出すことなく直接キーパッドで数年前に頭に叩き込んだ番号を打ち込んだ。血に濡れた指でタッチパネルが紅く染まり、ぬめつく。数回の呼び出し音の後に目的の人物が出た。

(……誰だ。何があった?)

 もしもし、ではなくいきなり何者かと尋ねる聞き知った声に苦笑する。たしかにこれは〝特定の目的のため〟の電話番号ではあるが不躾じゃないか。その声に恭矢は僅かながら懐かしさと安堵を覚えた。

(何者だ。間違い電話ならさっさと切れ。冗談じゃ済まされないぞ)

 電話先の声に険が含まれる。わかってる。だが声を出そうにも、喉が言葉を発することができなかった。痛みで体に力が入らない。失血で意識が薄らいでゆく。どうにか言葉を紡ごうとするも、咳き込むことしかできない。

(おい大丈夫か)

 咳と荒い呼吸にどうやら電話先もただならぬ気配を感じたようだ。どちらにしろ、どうにかしてこちらの状況を伝えなければならない。恭矢は満身の力を込めて声を発した。

「……く、葛木だ」

(恭矢か! 何があった!?)

「……零課だ。秋葉原。撃たれた」

 それだけを絞り出すのが恭矢の精一杯だった。

 それからしばらくの後に恭矢の前で一台の個人タクシーが止まった。まばゆいヘッドライトに照らされ恭矢は混濁した意識をほんの少しだけ持ち直させた。照らされたヘッドライトの逆光に一人分の影が現れる。顔は見えなくとも、シルエットだけでそれが誰かを判断できた。

「……おそいぞ、村木」

「……そんな口聞けるぐらいならまだ大丈夫だな」

 村木。そう呼ばれた男が恭矢の元へ駆け足で寄ってくると、肩を貸して立ち上がらせた。

 馬鹿を言え、と軽口を声にならない微かな声で零した。

 恭矢は村木に個人タクシーと思しき車の後部座席へと担ぎ込まれる。村木は運転席へと乗り込み、タクシーを急発進させた。ほとんどアクセル踏みっぱなしの道中、恭矢はどうにか保っている意識の中で「こいつ、今はタクシー運転手なんてやってるのか」とどこか呑気とも思えるようなことを考えていた。

 蒲田にある村木の薄汚れた築深マンションへ到着すると、即座に簡易な手術が始まった。無論、麻酔無しだ。いつもは一つだけにしている部屋の電灯を全てつけ、村木はペンライトで恭矢の傷口を覗きこんだ。

「……どうだ」

「あと数センチズレてたら死んでたな。だが安心しろ。綺麗に貫通してやがる」

 恭矢は固く肺に張り詰めていた空気を深く吐き出す。

 命に別状はあまり無い。しかし大立ち回りを演じれるような怪我でもないし、失血死という最悪のケースも十分にあり得る。恭矢が村木を頼ったのは、致し方なかったと言える。

 かつて〝零課〟を退官する際に何かあった時のために取り決めた隠し回線が、今でも通じることが出来たこと。そして村木が傷ついた恭矢を回収出来たこと。恭矢の負傷が対処可能であったこと。全てが不幸中の幸いだった。本当にただ運が良かったとしか言えない。もし鉛玉が今でも体内に居座っているのだとしたら、麻酔なしで銃創をピンセットあたりでまさぐる羽目となっただろう。想像するだけでも意識が飛びそうになる。もしそれが嫌ならくたばるのを待つだけだ。処置できたとしても、数日から数週間は身動きは取れないことになっていただろう。

 とはいえ、身体に風穴開けたままにしてよい道理などない。何はともあれ、まずは止血と消毒、傷口の縫合をしなくてはならない。幸い、間接止血を運び込まれるまで恭矢が自分で施していたため、大した出血は止まっていた。人肌より少し熱めの湯と大量のバスタオルで血糊を拭き取り、消毒液を浸したガーゼと大量の熱湯で滅菌し、組織の回復を促成させるチューブの副腎皮質ステロイドをしこたま塗りたくる。とはいえ薬局で売っているようなものだ。銃で撃ちぬかれた痕に対しては効力など無いよりマシ程度だろう。

 麻酔無しの縫合など彼らにとってはどうということはなかった。あまり身動きが取れないほどに包帯をきつく巻いて傷口を封して、ひとまずは治療終了。村木にできることはここまでだ。あとは恭矢の体力を信じるしかない。

 気がつけば全身が脂汗にまみれていた。村木は顔周りの汗を拭う。

「まずはゆっくり休め。話はそれからでいい」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る