第二章① 殺人演習

第二章 殺人演習

 それから早速、我来の護衛が始まった。とはいっても、相手は二期目の選挙を控えた代議士でこちらはヤクザだ。ボディガード然として警護するわけにもいかず、必然的に正規のSPがどうしても入れない隙間に恭矢が入り込むこととなった。政務に関係のないニッタミ総裁や清勝館学園理事長としての業務やプライベートが中心ではあるが、我来の以来で家族への警護も希望されることとなった。

 恭矢は運転席で組が所有している黒塗りのベンツを走らせていた。後部座席には我来賢一郎が、助手席には付き添いで前原が座っていた。

 前部座席の二人はその神経をささくれ出せていた。というのも、この我来は予想以上に難儀な人間であったからだ。恭矢の方は生来の仏頂面で微塵もそれを感じさせていなかったが、前原の方はといえば表情から若干の苛立ちが見て取れた。ルームミラーで後部座席から助手席を見ることができないのが幸いした。

 先ほどから我来は恭矢のことに関してあれこれ根掘り葉掘り尋ねてくる。それらを恭矢は「ええ」「まあ」「さあ」の三つで適当にあしらっていた。恭矢の気のない返答に我来はルームミラーごしに目に見える形で不機嫌さをあらわにしていった。見るに見かねた前原が恭矢をフォローしていく。

「まあ、口数の少ない男だということでご容赦ください」

 こんなこともあろうかと付き添いに来て良かったと前原は心底そう思った。

「確かに、あれこれべらべらうるさい口だけの連中よりかはマシだがね」

 我来がふんぞり返り、さらに言葉を続けていく。

「しかしだ。葛木君と言ったかね?君とはこれからしばらく公私ともに、ましてや私の身の安全に対し責任を負う立場にあるんだ。もう少し、互いに相互理解とはいかないのかね」

 相互理解、ね。そんな我来の言葉に前原は軽くため息をつき、何も反応を示さない仏頂面のままでハンドルを握る恭矢を見て、もう一度深くため息をついた。ただただ、早く選挙なんぞ終わってくれと願うばかりの前原だった。

 我来の声が、一語一語が恭矢の神経を逆撫でし怒りで臓腑をざわつかせる。いっそのことこのままジャケット裏に仕込んだグロックを抜いてやろうかという誘惑にかられる。落ち着け、と自らに言い聞かせるように恭矢は深く息を吸い込んだ。

 しかし吐く息を思わず声として出してしまった。

「では、お一つお聞きします」

 恭矢の声に前原は驚いたように目を見開きこちらを見る。バックミラー越しに我来の眉をひそめる顔が見て取れた。

「ふむ、何だね」

 意識せずとも出した言葉なので、その続きが出てこない。二度口を閉じたり開いたりさせながらも、どうにかしてとりあえずはその場を取り繕う言葉を捻り出そうとしていた。

「ニッタミは今までに十人以上の過労死や自殺者をしています。清勝館学園の中だけでもいじめや過労によって生徒と職員が自ら命を断っています。この事実に対し、何か思うことはありませんか?」

「なっ、おまえっ」と前原が驚きと静止の声を出すが、我来は「構わないよ」と制す。

「私はね、そのように自殺した者は諦めた者、ただの弱虫だと思えて仕方がないんだ」

 我来の声に、恭矢の表情に険しさが生まれた。

「私はね、無理なものを無理だと思うから無理になってしまうと思うんだ。現場で十二時間食事ができないだって?当たり前だよ。勤務中に休憩ができる仕事なんて甘っちょろいにもほどがあると思うよ。例えばよく『それは無理です』って最近の若い人達は言いますけど、たとえ無理なことだろうと、鼻血を出そうがブッ倒れようが、無理矢理にでも一週間やらせれば、それは無理じゃなくなるだ。そこでやめてしまうから『無理』になってしまうのだよ。全力で走らせて、それを一週間続けさせれば、それは『無理』じゃなくなるんだ。わかるかね?自分を犠牲にしてでも働くべき。残業代のような小さいことを言っているような人間はどうかと思う。少なくとも私は自分を犠牲にしても何事も取り組んでいる。働くことはつまりそういうことだ。三百六十五日、死ぬまで働く。出来ないとは言わせない。それが出来ないのであれば生きる価値などない。クズになりたくなければ働け」

 そして、「つまり私が言いたいことは、こういうことだ」と言葉を続ける。

「君はなにか思うことはないか、と尋ねたね。私はこう思っている。そのような連中などに、価値などない、とね」

 恭矢の突然の不躾とも言える質問にもそうだが、それ以上に我来の言葉には前原は口を半開きのままにするしか他は無かった。

 質問の答えになっていない。意味がわからない。道理が通っていない。

 価値などない、だと?なるほど。確かに価値はないな。

 だがその価値は、貴様が搾取する価値がないという意味だろうが。貴様に滅私奉公、無償奉仕しない人間など価値がないと言っているのではないか。

 恭矢のハンドルを握る手が白くなる。

 その後にやってきたのはただひたすらの無音であった。前原は針のムシロに座っているような気分になった。早くこの時が終わってくれ、と願うことしか出来ない。

 そんないたたまれない空気をどうにかやり過ごし、不忍池からほど近い位置にある清勝館学園に辿り着くと、我来は足早に理事長室へと消えていった。普段ならこのあと足早にニッタミ本社ビルへと向かうそうだが、今日は一日学校に居着くつもりらしい。事前に聞いていた話とは違うが、選挙前ということもあり変則的なスケジュールが続くという。「めんどくさいったらありゃしないな」と前原が肩をすくめる。

 その一方で恭矢は駐車場近くの正門前で視線を巡らしていた。切れ長の目の先はいくつかの監視カメラを捉えていた。どれもこれも存在感をアピールするようにこれ見よがしに設置されているが、ここが教育現場であるためおかしい話ではない。カメラの存在を強調させることであらかじめ不届き者が出させないという考えだろう。だが恭矢が気になったのはその設置箇所だった。

 昔とった杵柄からか、ほとんど意識せずともカメラの死角をおおまかに判断できた。

「おい、恭矢なにやってる」

 背後から前原の声。振り返ると前原は車に乗ったままドアを開け放っていた。恭矢は前原の元へと戻る。開け放たれていた助手席のドアに手をかけつつ、少し身を屈ませて恭矢が言う。

「前原さん、これからの警護のために校舎の防犯について調べてきてもいいですか?」

「なんだそういうことか。いいぞ。俺はここで待ってるよ」

 そう返事をすると前原はカーナビをテレビに切り替え、靴を脱いで足をダッシュボードの上へと投げ出すと、大きく伸びをして首を回す。

「しっかし、こんな朝早くに起きたのは久しぶりだよ。権力者も楽じゃねえんだな」

 あくび混じりに前原がぼやく。よくもまあ組の車でそんな真似ができるものだ、と恭矢は顔に出さずに苦笑し、助手席のドアを閉めた。

 前原を車の中に置いて、恭矢は校舎内を散策し始めた。校舎内は朝のホームルーム中だからか、教員と思しき声だけが響いている。

 きっと美奈子もこの場でこのように働いていたのだろう。そんな思いがよぎり。恭矢は苦いものと怒りがこみ上げてくるのを感じた。美奈子、お前はどんな希望をもって教師という職を全うしようとしていたんだ。そして我来たちに騙されてどんな絶望を抱えてしまったんだ。やりきれない思いに手を握りしめる。再燃した怒りを感じながらも、今はまだそれを燃え上がらせるわけにはいかない。その気になればスラックスの裾の下に仕込んだフォールディングナイフ片手に理事長室に殴りこみ我来を血祭りにあげることも可能だ。だがそれではだめだ。それでは我来に考えうるかぎりに苦痛を与えたことにはならない。我来には生まれてきたことを後悔させるほどの苦痛を与えなければならないのだから。

 一つ息を深くついて冷静さを取り戻すと、天井や床の近くの壁をさり気なく、かつ入念に確認していく。監視カメラの位置の確認とセンサーが設置されているであろう場所の予測のためだ。

 ひとまず校舎中を歩きまわり、防犯設備の設置状況を把握できた。ホームルームの後すぐに一限目が始まったようで廊下を出歩く者は、授業に向かう教員ぐらいのものだった。すれ違う度に軽く会釈する。こちらは胸に来客の札を下げているので特に怪しまれることもなかった。

 だが一人だけ、素通りというわけにはいかなかった。

「もしかして、理事長の関係者でしょうか」

 かけられた声に恭矢はわずかに身を緊張させる。「ええ、そうですが」と返しながら、恭矢は声をかけてきた人間を確認した。

 頭には白い毛しかなく体型は短躯で小太り。恭矢は一目見て、初老のその男からはひ弱さしか感じられなかった。

「我来理事長の身辺警護の者です」

 そう返答して恭矢は首に下げている来賓と書かれたネームプレートをつまみ上げた。

「ああ、それは失礼致しました。理事長から何も聞いていないものでした」

 報告と連絡がなっちゃいないな、と恭矢は内心で吐き捨てる。何も話さなかった我来が無能なのか、それともこの男がそれほどの信頼を得ていないほどに無能なのか。あるいはその両方か。鈍間なのには変わりはない。

「警護の参考のために校舎の中の防犯設備を見回っています。どうかご容赦を」

 ところで、と恭矢は言葉を続ける。

「そちらのお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」

「ああ、これは失礼しました。私、校長を務めております、堀田雅徳と申します」

 堀田雅徳。その名前は、美奈子の手記にも書かれていた。

 我来とともに、不正行為の責任を美奈子に転嫁した人間。

 そして、その不正行為を行った張本人。

 この男が……!

「あの何か?」

 湧き上がる激情を押さえるだけ精一杯だったためか、どうやら目の前の男睨むように見つめていたようだ。堀田は怯えと戸惑い、そして猜疑の目を恭矢へ向ける。

 顔は覚えたぞ……。

「いえ、なんでもありません。ではこれで失礼します」

 そう言って恭矢は足早にその場を後にした。


 学園での業務が終わった後は私設秘書が迎えに来るという手筈になっている。自分たちは車を所定の場所に戻し撤収となる。私的な身辺警護の初日はこれで終了となり、手持ち無沙汰となった二人は近くの飲食店で遅い朝食と洒落こんだ。不忍池の傍にある学園を出て、根津方面へと歩いて定食屋へ入った。恭矢はトンカツ定食。前原は生姜焼き定食といった具合だ。「お前、朝からよくそんなヘビーなやついけるな」と言われると、恭矢は「前原さんよりかはまだ若いですから」と返してみせた。

「しかし噂に違わぬアレな人間だったな、我来賢一郎って」

 口の中を豚汁で流し込んでから、前原が口を開く。定食を頼んだものの「豚肉と豚汁で豚がかぶってるじゃねえか」と文句を垂れながらも、その割には美味そうにかきこんでた。恭矢はキャベツを咀嚼しながら前原に顔を向け「何が?」という目を向けた。

「やっぱブラック企業の総裁やってるだけはあるわ。人と金の使い方ってものを全くわかっちゃいねえ。さっきの話を聞いてりゃ、結局は夢だなんだと甘い言葉で釣って食いつぶして、自分だけが美味い思いしてるだけじゃねえか」

 前原の声はわずかながら怒気が含まれていた。典型的な成功者型サイコパス。自分が世界の中心であり秩序であると思い込んだ〝ディファイラー〟。我来の唾棄すべき低俗な哲学以下の哲学に憤りを感じているようだ。

「ったくふざけたことぬかしてんじゃねえっての。なあ? 今どきヤクザも人不足だ。無茶苦茶なことなんかさせられねえって」

「……そうですね」

 素っ気なく返しながらも、前原のその言葉に恭矢は胸にわずかならも温もりが広がっていくのを感じた。我来やヤクザであること云々を関係なしに、恭矢は前原に拾われたことに悪い感情は持っていなかった。

 勘定は前原が持ち。車を指示された所へ戻したところで二人は解散となった。

「ところで恭矢、お前この後何か予定とかあるのか?」

「すみません。寄りたいところがありまして。また今度、こちらからお誘いします」

「そっか。それじゃ構わんよ」

 事務所に戻り、中へと戻る前原を背に駐車場へと歩き出す恭矢。自身の車に乗り込むとジャケットの裏地に仕込んだグロック、腰とスラックスの裾に仕込んだナイフの感触を確かめる。次にダッシュボードを開くと、一本の薬瓶とインスリン投与用のペン型注射器を取り出し、それをポケットへと仕舞った。運転席に表示されているデジタル時計の時刻を確かめる。約束の時間にはまだ十分余裕があった。

 恭矢はこれからある人間と会合する約束をしていた。

 奴の名は六実浩康と言った。城南新聞社会部の記者である。

 城南新聞でニッタミに関連した記事を執筆しているのは奴だ。無論、美奈子も奴の担当であるらしく、TOFEL試験の不正が発覚した時や美奈子が自殺した時も奴が記事を書いていた。非常に偏った、侮辱的な記事をだ。

 最近の記事では「外国人労働者を受け入れよ。ただし特定の地域に押し込め、余計なことは教えなくても良い」などというアパルトヘイトの肯定ともとれる反知性主義か何かとしか思えない社説を書いて炎上したのは記憶に新しい。

 実際、TOFELの不正が発覚した際であっても美奈子の実名を公表したのは城南新聞のみだ。つまりこれは、我来と六実に何かしらの繋がりがあったとも考えられる。

 だが、そんなことは重要ではない。美奈子の死すら侮蔑するような記事を書いた。ただそれだけ恭矢はこの男を殺す理由に足り得た。しかしそれ以上の目的もあった。この男の持つ取材先の人間たちの情報、即ち我来賢一郎がらみについてである。

 恭矢と六実は今回が初対面というわけではない。美奈子の自殺がらみで難度も顔を合わせたことはあった。最後は最低の会合となったが。

 真実を白日の下へ晒すべく、恭矢は美奈子のノートを出版社へと持ち込んでいた。多くの出版社が我来の影を恐れ無碍に断っていく中、ノートを受け取ったのが二社あった。その内の一つが城南新聞である。

 だが、恭矢の思いは裏切られた。城南新聞は真実を白日の下へと晒すのではなく、逆にさらに美奈子を貶めるような記事を紙面と週刊誌に記載したのだ。

 そしてその記事を書いた記者こそが六実だ。

 激怒した恭矢が六実の下へと乗り込むと、あろうことは六実は逆に図々しくも恭矢に対し更なる取材を申し込んだのだ。厚顔無恥にもほどがある。マスコミも野次馬根性というものは死者の尊厳すら踏みにじり、遺族をもコケにするのか。

 ほとんどパパラッチじみた六実のつきまといはそれから一、二ヶ月続いた。

 しかし、かつて邪険に扱われた人間に改めて誘われたからといって、こうのこのこと姿を現すのはあまりにも警戒心といったものが感じられい。わざとなのか、あるいは素でこのように脳足りんなのか。どちらにせよ阿呆で助かった。

 約束した場所で二人は落ち合った。再会した六実は以前会った時よりも醜悪な見た目をしていた。足で稼ぐ記者とは思えないほどに腹が出ており、頭は禿げ散らかしている。随分と偉くなったのだろう。

 だが、それも今日までだ。

 二人は近くのファミリーレストランに入り、そこでしばし取材内容に関する打ち合わせをすることになった。

 だが頻繁に沸く大きな歓談の声に恭矢は途中で話を中断させ、あからさまに辟易するような表情を浮かべた。時刻は夕方。この時間帯のファミリーレストランは少ない小遣いでやりくりしている学生がドリンクバーだけで長居していることが多い。

「場所を変えましょうか。よければ弊社でどうです? ここから近いですし今なら会議室も空いてるでしょう」

 恭矢の様子で察したのか六実が言葉を差し出した。

「そうですね。それは助かります。よければ私の車で参りましょう」

 恭矢は先に伝票を手に取り二人分の会計を済ませる。店外へ出て近くの有料駐車場へ向かうと、そこに駐めてあった自分の車の助手席に六実を先に乗せた。

「いやあ、助かりましたよ。これで交通費が浮きました。最近じゃどこも経費削減ってうるさくてねえ」

 シートベルトを締めながら六実が言う。だが一方の恭矢はエンジンをかけながら、先ほどと打って変わった剣呑さを含んだ表情を六実へと向けた。

「六実さん、こんなに簡単に引っかかってくれるとは思わなかったよ」

 先ほどまでとは全く違う恭矢の声音に六実は戸惑いを見せるが、その時には既に六実の首筋にペン型注射器が突き刺さり中身が注がれた後だった。「……なに?」と呂律の回っていない疑問の声を零すが、襲いかかる睡魔に六実はその場で昏睡した。


 葛木美奈子の旦那がサッチョウ警備局警備企画課、いわゆる公安の捜査官だということを知った時には、これは面白くなると六実は心底、心が踊った。警察がニッタミに対し、どう出るかを期待したからだ。警察は身内に危害を加えられれば容赦はしない。これで我来の立場が少しでも危うくなれば、すぐさま勝ち馬に鞍替えする魂胆があった。

 しかし、その旦那が出た行動と言えば何の事はない、普通に考えられる範疇の程度のことだった。要は妻の無念を晴らしたいという。それでは非常につまらないものと思えた。

 そこで六実は恭矢に対し密着取材を敢行した。公安がブラック企業に対し、どのような制裁を加えるかを知りたかった。だが、そのような気配は一切無かった。

 どういうことかと取材を続けたものの、警察庁警備局における葛木恭矢の活動内容も所属していた部署も全く不明。どれほどのツテを用い、また警察関係者に尋ねてみても葛木恭矢という人間に関する有力な情報は手に入らなかった。皆一様に知らないの一点張り。だが、それは知らぬ存ぜぬといったものではなく、本当に知らない体であった。知っている者もいたにはいたが、葛木の名を出した途端に血の気の引いた青い顔をして一目散に去っていくのみだった。

 何かある。単なる自殺したニッタミ学校の教員の夫ではないことは確かだ。そして、ただの公安警察の人間ではないということも。

 だが、そこで手詰まりだった。そして肝心の葛木恭矢も消息を絶った。

 ニッタミを始め我来賢一郎は与党に擁立され国会議員になるなど、相変わらず退屈はさせてくれないが、いちブン屋としては、葛木恭矢そのものに対しても興味が尽きない。そうしている内に記者として前線から退くことを余儀なくされるような立場にもなった。

 そのような中で、あろうことか突然の葛木恭矢本人からの取材受け入れの申し入れがあったことは寝耳に水であると同時に、渡りに船とも言えた。

 葛木美奈子に関してでも構わない。でもそれはそこそこに、葛木恭矢本人に対しても今度は探りを入れていく。

 お前は何者だ。ただの公安の捜査官ではないな。

 だが、六実の目論見は叶うことはなかった。

 今、六実は生命の危機に立たされてたのだから。


 京王井の頭線久我山駅。その傍にある集合住宅。玄関の表札には〝六実〟の文字が刻まれている。

 目を覚ましても六実は身動きがとれなかった。両手は指先だけを露出させてテープで強固に拘束され、両足にも枷が施されている。さらに胴には縄でテーブルと縛り付けられており、身を転がして脱出を図ることもできない。六実は自宅の一軒家のリビングでテーブルの上で四肢を拘束されていた。口にはガムテープが貼り付けられうめき声しか出せない。

 薬物で強制的に昏睡されられた後の気怠さを感じさせることもなく、六実は拘束されたままで激しく身じろぎしていた。

「静かにしろ。ご近所迷惑だ」

 鳩尾に衝撃が走り、少し遅れて鈍痛が六実を襲う。肺の中の空気が無理矢理搾り出されるが口を塞がれているため咳き込むこともできない。胃がのたうち回り、あやうく窒息しそうになる。涙でぼやけた視界をよくよく凝らすと、そこには握り拳を作っていた恭矢が立っていた。

 どうして自分が縛られている。どうして先ほどまで取材を受けていた葛木恭矢が自分を殴りつけている。そもそも何がどうなっている。疑問を口にしようとも言葉がでない。

 恭矢は手に持つペンチで六実の指の爪を挟む。この男が何をしようとしているか、六実はすぐに判断でき、恐慌に陥った。

 六実の叫び声とも取れるうめき声合図として、一息にペンチを引いて生爪を剥がした。

 激痛に伴う叫び声が家中に響き渡る。そのやかましさに恭矢は不快そうに眉をひそめた。

「痛くないのが嫌だったら、さっさと教えろ。お前の取材結果のありか。全てだ」

 剥がし取った生爪をそこらに放り捨て、痛みに喚き散らしばたばたと身じろぎする六実の側頭部をペンチで殴りつけて黙らせる。

 ご近所付き合いが皆無となっている社会問題が面白おかしく騒がれている今日だ。六実が罵詈雑言と悲鳴で喚き散らしたところで、ご近所の方々は今はなんとも思わない。仮に警察に通報するのも遅くとも恭矢が目的を果たして現場を立ち去った後になるだろう。

「早く教えないと、剥がす爪が無くなるぞ」

 言いながら、二枚目、三枚目と続いていく。

 言いたくてもいえるわけがないだろう、口がガムテープで塞がれているんだ。そんな抗議の声すらも言葉にならない。

 片手の指の爪が全て無くなった頃に、ようやく恭矢は六実の口を塞いでいたガムテープを引っ剥がした。皮膚が引っ張られ唇が切れる。痛みに悶えながらも目の前の恭矢を罵倒する声を張り上げる。

 だが、六実の口汚い言葉に恭矢はその仏頂面を寸分も崩さない。「で、しゃべる気になったのか?」と冷たく重い口調を投げかける。「……貴様」と反抗の意を表すと、再び頭部をペンチで殴られ、ガムテープで口を塞がれた。

 片手の爪が全て剥がされると、恭矢はこちらの顔を覗きこんだ。涙と鼻水で汚れた顔。言う、言うからこのテープを剥がしてくれ、と呻くが恭矢は「無様だな」と零して、もう一方の手の指にペンチを近づける。

 やめろ、やめてくれ、言う、言うからこれを剥がしてくれ。こちらの言わんとしていることはわかっているはずだ。しかし恭矢は獣じみた悲鳴を上げる目の前の人物を何ら気にする様子もなく、淡々と爪を剥がしては六実が激痛に身悶えしていく様を、なんら感情の伴わない目で見下ろすのは、もはや狂気としか言えない。

 そしてもう片方の手の爪が全て剥がされる。そこでようやく恭矢は再び六実の口を塞いでいたテープを乱暴に剥がしてやった。

 六実は痛みに悶えながらも恭矢が目的としてる物の在処を吐いた。

 今までに書き溜めた我来との取材メモやノート、そして我来の近親者と関係者の情報。

「どうしてそこまで我来に対して忠義立てする。おかげで両手の爪が全部無くなってしまったな」

 自分で剥がしておいて、喋られなくしておいて何を言うか。一言言い返してやりたかったが、六実にはもはやそんな気力はなかった。ただ今のこの苦痛から解放してほしいことだけを考えていた。

「まあ、その程度の隠し物、探し出すことなんてわけないだがな」

 言いながら懐から一冊の分厚い手帳を取り出す。付箋やらドッグイヤーやらで膨らんでおり、使い込まれていることが見て取れる。さらに恭矢は傍に置いてあった紙袋の中身を見せつける。ノートやスクラップ記事をまとめたファイルがそこに収められていた。

 それを見て六実の表情が絶望と悔恨に染まっていく。その様子が恭矢には面白おかしく思え、思わず笑みが溢れた。

 この男は、ただ俺をいたぶって楽しんでいただけだというのか。怒りに喚き散らす六実を他所に、恭矢は手に入れた六実の手帳をぱらぱらとめくって流し見していく。

「ほう、我来の家族だけじゃなく我来の部下の家族構成までばっちりじゃないか。よく調べあげたな」

 そして次に恭矢はいくつかのUSBメモリを見せつけていく。

「この手帳と一緒に保管されていた。中身も確認済みだ」

 恭矢の手の中にあるUSBメモリを目にし、六実はようやく黙りこくった。

 USBメモリの中身、自分が掴んだニッタミのスキャンダルだ。過去に行われた不正会計の動かぬ証拠だ。いや、自分が掴んだというのは正確な表現ではない。むしろ我来の方から提供されたものだ。我来は親しくなった記者に対し機密同様の情報を渡して逆に番記者として子飼いにする手管を取っていた。このような手段を取ることによって我来は敵とも言える自身に都合の悪いマスコミを最初から排除することに成功したのだ。一方、情報を渡された記者である六実は一蓮托生の間柄となり美味しい思いを独り占めできるという算段だ。無論、六実がこの機密情報をスクープとしてリークさせたところで我来にもダメージが渡るものの、六実はそれ以上の痛手を負わされる羽目になる。具体的には二度と記者としての活動を許されない体となるといった具合だ。

だからこそ、六実は恭矢を利用して鞍替えをしようと考えたのだ。

「そ、そうだ。その通りだ」

 六実はこの現状を打開するための一筋の光が見えたようにも思えた。どうにかしてこの男を言いくるめ、自分の味方につけよう。自分が助かるにはこれしかない。

「知ってることは全て話す。だから葛木さん、俺と手を組まないか? 我来が、ニッタミが憎いんだろ? 俺とならそれが出来る。その手帳とメモリにもないことを俺は知っている。だからさ……」

 六実の懇願にも似た提案。鼻水と涙と涎でぐしゃぐしゃになった六実の顔を恭矢が汚物を見る目で見下ろす。

「知るべきことはこれだけで十分だ。もうお前は必要ない」

 だが恭矢の答えは拒絶のそれであった。

「お前は美奈子を侮蔑した。そんな人間と手を組めるものか。反吐が出る。我来に取り行って甘い汁を啜れるだけ啜ったら、今度は寝返るか。ブン屋というのは本当に卑しいな」

 言いながら恭矢はその場を離れると、玄関先にあったポリタンクを持ってきて蓋を外し、その中身を六実へぶちまけた。灯油のむせ返る鼻につく臭い。外気に触れた途端気化を始めていく普段の冬場の生活から嗅ぎ慣れた臭いと、それが引き起こすであろう現象に六実は恐慌状態へと陥った。六実は口汚く恭矢を罵り喚き散らすが、恭矢は何も聞こえないかの如く何ら反応をみせず、今度はキッチンのほうへと向かった。

 締めてあったガスの元栓を開きガスコンロとガス供給口とを繋ぐゴムチューブをナイフで裂く。開かれっぱなしの元栓からシューと音を立ててプロパンガスが漏れだし始めた。

 次に恭矢はテーブルの方を向かうと、食パンを焼くためのトースターに適当な新聞紙を差し込みタイマーのツマミをぐるりと回す。トースターのタイマーはきっかり一〇分。こんがり焼ける。ガスが屋内を満たすには十分な時間だ。

 ナイフを仕舞いながら恭矢は拘束されている六実を冷たく一瞥すると玄関へと向かった。

「わかった! 謝る! 謝罪する! ちゃんと紙面のほうで正式な謝罪文を載せるから!金も払う! 謝罪金だよ! あんたの味方にもなる!」

 玄関のドアノブを握ったまま、恭矢は侮蔑するように六実のほうへ首を向けた。

「だめだ。美奈子を傷付けた連中は全員許さない。皆殺しだ」

 そう吐き捨てると、恭矢はドアの向こう側へと消えていった。足早にその場を後にする。

 十分後、爆発音が遠くで轟いたのは恭矢が自身の車で久我山駅周辺を出たころだった。

「何がジャーナリズムだ、下衆め」


 恭矢はマンションの自室に戻ると、テレビは京王線久我山駅の傍にある集合住宅で発生したガス爆発のことを触り程度に報道していた。まるでよくあるような、どこで火災があって、誰が行方不明となっているかということと同じように。

 夜のニュースを尻目に、拡大プリントした何枚かの顔写真を並べ立てていた。六実から強奪したUSBメモリ内の我来を中心とした取材先個人情報からのものである。恭矢はその内の一枚を人差し指で引き寄せる。

 岡安大毅。ノンフィクションの、その中でも経済界の人間を中心にモデルにした小説を執筆している作家である。元を辿れば、極東経済新聞社を経て城南新聞社に籍を置いていた。その時に我来との親交を深め、既に作家としてもデビューしていた岡安は彼をモデルに『若輩社長』という小説を書き上げ出版した。

 内容は至ってシンプル、かつ唾棄すべきものだ。我来のやることなすことを全て礼賛し、あろうことか勧善懲悪と表現している。我来が起業を志し、ニッタミを設立し、ベトナムにボランティアで学校を設立し、社内外で我来を陥れようとする敵を倒すサクセスストーリー。これを一般文芸として出版したのであれば、恭矢からすれば最早文芸などという概念は塵屑も同然としか思えない。

 美奈子を傷つけた奴を礼賛したのだ。殺す理由には十分過ぎる。

 岡安の顔写真にナイフを突き立った。

 六実から手に入れた情報で最近の岡安の行動パターンは既に把握できた。

 その日、世田谷区内の岡安大毅の自宅近くに恭矢はいた。

 恭矢は人影の少ない道に身を潜めながら、ジャケットの懐からグロックを取り出すとスライドを引きチャンバーへと初弾を送り込む。その銃口は五〇〇ミリペットボトルが呑口とビニールテープで巻かれ繋がれていた。即席のサプレッサーである。

 欲を言えば正規のサプレッサーが欲しかったところだが、さすがにこのようなものまで所持していれば、いくらヤクザのボディガードの身といえど問答無用で真っ先に警察に睨まれる。最近の暴力団は入用の時以外は不必要に銃器を持たせず、きっちりと金庫などでの管理を怠らない。

 よくゲームや映画ではサプレッサーを装着すれば、銃声は完全にかき消され銃弾が空気を裂くような音だけになるような描写があるが、それは映画特有の誇張された演出であり現実には誤りである。実際には周りに響くエコー音が大きく減る程度であり、戦闘であるならば発砲の際にはこちらの居場所が察知される程の音量である。だがその音は本来の銃声とは程遠いものだ。

 要は物音を立てても銃声と思われなければ良いだけの話である。夜中の住宅街で大きな破裂音が響いた所で馬鹿が騒いでいるか何かとしか思われないのが関の山だろう。例え岡安の死亡と発砲音の発生が同時刻であったことが判明したとしても、既にアリバイ工作も済んでいる。警察の捜査は、葛木恭矢へと辿り着くことは致命的なまでに遅くなる。

 試射することもかなわない、ぶっつけ本番の勝負。ペットボトルサプレッサーは初めてだ。弾道や威力にどのような影響を及ぼすのかわかったものではない。実際の銃声もどれほど抑えられるかも懸念するところだ。さらにはメンテはしたとはいえ数年ぶりの実射だ。

 いくつもの不安要素が恭矢の思考に絡んでくる。だがその不安要素は緊張感へと変貌し、恭矢の思考と精神、そして肉体をかつて〝組織〟に属していた頃のものへと引き戻した。

 片方の唇の端が釣り上がる。その隙間から白い歯が覗き見えた。この感情は逸りなのか、愉悦なのか。

 いやむしろ、これが本番ではない。ただの試射だ。生きた人間を的にした、数年ぶりに発砲する銃の試射。自身の精神を〝組織〟の要員だった頃に合わせるためのチューニング。自分の射撃の腕が鈍っていないかということを確かめるための、タダのトレーニング。的は生きた人間。

 お目当ての人物が乗った車が目の前を通り過ぎる。恭矢はグロックをジャケットの中へ隠すと、物陰が出て車を追った。車のリアガラスから後部座席に人がいないことを確認する。助手席にも誰もいないことも目の前を通り過ぎた際に確認した。

 車内には岡安のみ。静まり返った夜の住宅街。これから岡安の死を目撃する者はいない。

 車はしばらく徐行した後に、邸宅とも言える大きな住宅の前で止まるとバックで数段掘り下げた車庫に入った。恭矢は車側から見えない位置へと屈む。周囲を見渡す。人影はまったく見えない。住宅の窓から灯りがついているのは見えるが、物音は全く聞こえない。テレビの音すら漏れ出ていない閑静な住宅街。恭矢はジャケットの中に隠し持っていたグロックを露わにし、グリップを両手で保持する。

 車庫に入った車のエンジンが止まる。キーが差されたことを伝える電子音の後に、ドアが開く音の後にバタンを閉める音が聞こえた。恭矢はそれを確認し、物陰が姿を現した。

 岡安は恭矢の姿を見て、怪訝な表情を浮かべる。

 恭矢は岡安の人相を改めて確認する。微妙な変化はあれど事前に確認したものと同じだ。岡安大毅。我来を礼賛するような小説を書いたプロパガンダ作家、その本人。

 恭矢の確認は一瞬だった。

両手で保持し銃口を地面に向けていたグロックを素早く岡安に向ける。

 岡安からはペットボトルが向けられたようにしか見えない。一体何だ。一体誰だ。それは何だ。その刹那、岡安の疑問は岡安本人の人格と脳漿ともに霧散した。

 静かな住宅街に、車のドアを叩きつけるように強く締めたような破裂音が二回響いた。銃声とは決して思いもつかない、ただの生活音としか思えない、深夜の住宅街を脅かさない程度のくぐもった音だった。

 どさりと、大人一人の体が倒れこむ音は恭矢を除き誰一人として聞こえることはなかった。そして軽い金属が落ちて転がるような音が二つ。

 こんなものか、と恭矢は排莢された二つの空薬莢を拾い、それをポケットに仕舞った。


 清勝館学園の一日は当直の守衛による開門によって始まる。

今日もまたいつもと同じように、騒々しい一日が始まる。

 当直の守衛が見回りに出ると、ちょうど中庭に人影が立っているのが見えた。よもや、侵入者か。大慌てで守衛は確認のために駆け寄ろうとした。まさか昨夜、警報のスイッチを入れ忘れたのだろうか。そうなれば自分の責任問題となる。冷や汗と焦りとともに守衛が大慌てでその人影の元へと近づく。だが、その影の輪郭が明瞭になるにつれ守衛は歩を緩め、やがて足を止めた。

 ピロティと校庭へと続く道を隔てる煉瓦の壁に人影は大の字にへばりついていた。

人影は全裸の女の死体だった。

 

「あ!どうも葛木さん、お疲れ様です!」

 新宿東口、旧新宿ミラノ座近くのゲームセンターで恭矢は待ち合わせていた人物と落ち合った。相手は前原の下で働いている新入りの若い構成員である。名前は八柱といったか。クレーンゲームに夢中になっており、一区切りついたところを恭矢は声をかけた。

「待たせたか?」と恭矢が尋ねる。

「いえ、自分も今さっき終えたところです」

 八柱の返答に恭矢は頬を緩ませる。

 先ほどまでこの男は近くの風俗店でコトにしけこんでいたのだ。それも恭矢の奢りである。おかげで八柱の表情には幾分、上気しているように見えた。

「しかし、良いんスか?」

「そういう時は素直にありがとうと言っておけ」

「えへへ、そっすね。ありがとうございやす」

 まだ少年の面影を残した満面の笑顔。それに恭矢はどこか胸が絞まる思いを感じた。

「まぁ、日頃前原さんの下でどやされながらも頑張ってるみたいだしな。あまり褒めてくれないだろう、前原の兄貴は」

「そっすね。でも怒鳴られても嫌じゃないんですよ。ちゃんと俺のこと見てくれてるっていうのか。俺、そんな人、今まで出会ったことなかったすから」

 彼らは言うなれば、社会が画一的かつ一方的に敷いたレールからはみ出してしまった者たちだ。病的なまでに普遍普通を至上とする社会の中で片親或いは両親の不在、国籍、貧困、虐待、ネグレクト、非行などの様々な事情を問答無用で悪とみなした。

 健全な社会というものは、どうやら不健全さを改善させるものではなく、次々と切り捨てていくものらしい。その健全な社会という普遍普通の価値観から見て、排除すべき存在とされているヤクザが彼らの受け皿となり社会性と生きる術を学ばせているというのは何かの悪い冗談か痛烈な皮肉としか思えなかった。

 今会話しているこの男だって、実際に面と向かって話してみれば悪い男ではない。若い構成員らしく付け焼き刃の威圧感を併せたチャラついた様相だが、中身はどこにでもいるような歳相応の男である。本当に人と間の巡りあわせが少し悪かっただけで、この国の空気と社会は簡単に人間を排除出来る。

「それに、昨日は葛木さんも風俗おごってくれましたし。俺、ここならなんとかやってけそうです!」

 恭矢は苦笑した。

「良い気分転換になったろう」

「ええ、そりゃあもう! 明日からまた頑張れそうです!」

 無邪気な八柱の笑顔に恭矢も「そうか」と笑みで返す。

「それじゃ、俺、そろそろ寝床に戻ります。お疲れ様でした。おやすみなさい」

 ペコリとお辞儀して八柱は元気よく新宿駅東口のほうへと駆けていった。途中、一度振り返りこちらにもう一度頭を下げた。返すように恭矢も軽く手を挙げて微笑んでみせた。

 八柱が見えなくなり、挙げていた手を力なく下ろす。恭矢の柔らかい表情は一変し元の陰のある仏頂面へと戻っていた。

 八柱に風俗をおごったのは、只のアリバイ工作に過ぎない。この男に渡した風俗店の会員証は恭矢の名義のものである。的場組の幹部がオーナーを務めている店で、恭矢が用心棒として雇われた時に一度だけ前原に連れて来られたことがある。当時は全く持ってそんな気分ではなかったが。

 万が一、警察による捜査の手が伸びてこようとも、岡安大毅が射殺された時間に恭矢は現場にはいなかったことが、この風俗店によって証明される。どれだけ探りを入れられようと、恭矢は岡安大毅射殺の時にはお楽しみの最中だったという捏造した事実は決して真実とされ変わらない。例え、そのアリバイが工作だったことが発覚したとしても、捜査の手が及んでくるその頃には既に恭矢は自分の最大の目的を成し遂げている。

 八柱の姿に背を向け、恭矢は次なるターゲットの元へと向かう。

 次は誰を殺してやろう。次はどんな風に殺してやろう。


「ったくよー、昨日の今日で一体どうなってやがるんだ」

「一昨日は爆殺、昨日は銃撃、そして今日は滅多刺しですか」

 警視庁捜査一課の刑事である高根とその部下である木戸が清勝館に辿り着いた頃に、ようやく遺体は壁から引き剥がされようとしていたところだった。

 校門には停止線が張り巡らされ、清勝館は物々しい雰囲気に覆われていた。陸上競技用のウレタンが敷き詰められた中庭は血で紅く染まっており、鑑識の人間がその現場を隅々まで様々な角度からカメラで撮影していた。無論、今日の授業は中止である。

「守衛は何をやっていたんだ。ったく」あらかたの説明を受けた高根がぼやく。

「当直の人間が二人就いてまして、交代で勤務にあたってますが特に怪しい人間は見なかったそうです。それと警報も問題なく作動してました。もー、全部がぐだぐだっすね」と部下の木戸が先ほどまでの説明に付け足す。

「まったくだ」

 嘆息しながら、二人はブルーシートで覆われた区画へと向かう。シートをめくり中に入ると、そこには血糊にまみれた一人の女の遺体が安置されていた。

「死因はこれだな」

 高根はざっと見渡しただけでもわかるほどの大きな傷口、遺体の首筋、ぱっくりと開かれた切創を指さす。乾ききった血でどす黒く染まっているが、明らかに刃物で裂かれたような真一文字の傷跡があった。

 二人は立ち上がり周囲を見渡した。血糊はこれ見よがしに中庭にぶちまけられている。高根は赤く染まったウレタンの地面を靴で擦ってみる。血飛沫といった程度ではない。まるで予め抜いた血液を別の容器に移して、それから振りまいたような飛び散り方。よもやこの血痕は殺害する際に飛び散ったものではなく、最初からぶちまけることを目的としたのだろうか。これでは嫌でも人目につく。

 何の為にこんなことをした? 無論、この殺人を誇示するためにだ。

 誰に誇示するのだ?絞りきれていないが、この学園の人間とみて間違いないだろう。さらにはこの陰惨さだ。マスコミも釣れに釣れる。

 極めつけは、遺体の損傷具合だ。アキレス腱が裂かれ逃げられないようにしたあげく、その双眸には本来はそこに収まっているものがなく、目玉が繰り抜かれている。他にも見渡せばあまり直視はしたくない惨たらしい傷跡が散見された。

 被害者の尊厳を踏みにじるような冒頭的な仕打ち。

「キレてやがるな……」

 高根がぼやく。

「こんだけ酷いことしでかすことですし、犯行は怨恨によるものと見て間違いないでしょうか」と木戸。

「たかが私立学校の校長の娘がここまで恨まれるようなことするか?」

「まぁ普通の私立学校ならねえ、そうかもしれませんけど……。ここはあの清勝館学園ですよ?」

「だからどうかしたのかよ」

「知らないんですか? ちゃんとニュース見てます? 新聞だけじゃなく、いくら信頼性が無いとはいえど週刊誌やネットにもある程度は目を通さないと」

 木戸が呆れる。厳しい上司に勝れる分野を見つけられて嬉しいのか、木戸は勝ち誇ったように言ってみせた。

「清勝館ってったら、あのニッタミが経営する学校ですよ」

 ニッタミの単語にようやく木戸が何を言わんとするかをようやく察することができた。

「ああそうか、ニッタミか」

 今やニッタミといえばブラック企業の代名詞的な会社とされている。

 あまりに酷な労働実態を苦にして自殺したのは、一人や二人などというものではない。

 端金で使い潰した若い人材は五十人、百人では収まらない。

 そういえば、ニッタミが経営する外食チェーンのエリアマネージャーが社員である店長に対し殴る蹴るの暴行を加えるという事件もあったな。労基署も出張ってきて、果てはマスコミやその手のジャーナリストの登場でてんやわんやの大騒ぎとなった。下手人のマネージャーは情状酌量の余地無しとのお裁きでで今頃は府中あたりか。偶然だが取り調べをちらと見たことがあったが、どうやら上に立った人間は下の人間を奴隷のように扱ってもいいと勘違いしている人間が実際にいることに、高根は反吐が出そうになったことを覚えている。いや、奴隷ですらもっとましな待遇だ。結局、そのマネージャーは取調官の怒声に面食らってひっくり返っていたが。エリアアネージャーとやらがどれほど偉いのか、三流大学を卒業してこの方ノンキャリ刑事稼業一本で飯を食ってきた高根にはわからないが、容疑者であるにも関わらず取調室でふんぞり返っていられる連中というのは一人残らず、人を人とも思わぬくそったれで間違いはなかった。

「ま、こんなニッタミだからこそ、清勝館学園でも色々やらかしちゃってるんですがね」

「ほう、例えば?」

 高根が促すように顎をしゃくる。

「死亡事故とかありましたね。家庭科室でのガス漏れ事故で女生徒が一人亡くなってます。あとは転落事故ですね。今はもう無いみたいようですが、以前はピロティに地下の体育館に繋がる吹き抜けの部分がありまして、もちろん柵と網でしっかり封鎖していたんですがそれを乗り越えてふざけていた生徒が何かの拍子に柵が外れて、そのまま地下四階まで真っ逆さま。それと……」

「まだあるのか?」

「いじめを苦にした自殺も割りと。理事長の我来が『いじめが発覚したクラス担任の給与を下げる』なんて言い出しまして、それで……」

「おい、我来ってのは論理的思考力ってのはあるのか?」

「お察しの通り、そうなれば教員はどいつもこいつもいじめの隠蔽に精を出すようになりましてね。それと自殺するのは生徒だけじゃなく教員もでして。英検だかTOFELだかの問題の答えを不正に予め教えた英語教師が自殺したなんてこともありましたね。まだまだありますよ。長野にある合宿所でてんかん症状で死亡した生徒がいたのですが、本来いなければならない保健教員が不在だったり。しかもその事実を隠蔽しようともしましたね」

 酷いもんだな。高根は胸の中で唾を吐き捨てる。

「まぁ、恨みの買い手なら大勢いるってわけだ」

 ため息とともに高根はごちた。これでは捜査線上に浮かぶ人間が大勢になる。しかしそれ異常にこの学園の汚臭するような一面に吐き気がした。

 学園の校長の娘が見るも無残に惨殺され、その血飛沫が見せつけるようにそこらにぶちまかれ、挙句その遺体を父親が務める学園に晒しあげたときたもんだ。

「こいつぁ、手こずりそうだぜ」


 その日、我来と合流するためのスケジュールを尋ねるため恭矢が的場組本部へ顔を出すと、なにやら朝から大騒ぎであった。

 何の騒ぎかと思った時に、ポケットの中で携帯が震え始めた。携帯を取り出し通話を開始する。相手は的場組の組長大井であった。スピーカー越しに聞こえる喧騒はかなり忙しく、大井の口調も非常に早口だった。曰く我来の学校で事件が起きたため、これからしばらく公の場に出る事が多いので恭矢の出番は少なくなるということらしい。今日はいつも通りに前原と行動を共にしろとの指示を受けた。

 本部を後にしようとした時のことだった。一八〇センチの恭矢をも軽く上回る巨体が目前に立ちふさがった。おそらく何度も潰されたであろう鷲っ鼻が特徴的な巨漢。綺麗に剃られたスキンヘッドに頬には天下御免の向こう傷の痕をつけヤクザとしてはお手本のような容貌である。たしか名前は何だったか。吉田か、吉本か。忘れた。

「おはようございます。吉本さん」

「……おい、舐めた態度取るのもいい加減にしろや、あほんだら」

 吉田だったか吉本だったか、巨漢が凄んできた。それに釣られるように取り巻きの若い衆も凄んでくる。その様子が恭矢には何かの動物の仕草のように思え、滑稽に思えてきた。

「あぁ、吉田さんでしたか」

「金庫番の用心棒だが知らんが、あんまり調子に乗った真似するんじゃねえぞ」

 どうやら吉田で正解らしい。思い出した。確か吉田と言ったな。毎回名前を忘れる。どうせまた明日になったら忘れるだろうが。いちいち覚えていられない。

 前原の話によれば的場組一の武闘派であるらしい。それぐらいのことしか思い出せない。ただ吉田もその部下も、血の気が多いだけのただの馬鹿だということは身を以てわかった。こちらは馬鹿とやり合うつもりは毛頭ないのに、肝心の馬鹿のほうが勝手に突っかかってくる。恭矢自身は前原を始めとした所謂頭脳労働担当、顧問弁護士などといったインテリ系の構成員と行動を共にすることが多かったため、初めての組全体の会合と顔合わせで遭遇し絡まれた時はようやくヤクザらしい人物と遭遇できたと思えたが、それきりだった。ただのヤクザ。それ以上でもそれ以下でもない。力押しがあらゆることに通ずること考えている、視界に入れているだけでも疲れる人間だ。コミュニケーションの取れない存在。ただ、大手組織直参の中での武闘派を自他共認められ自負しているあたり、その腕っ節と実績は本物であるらしい。鷲っ鼻と傷だらけの顔と二度の刑務所勤めがそれを語っている。

 そんな吉田はどうにも自分のことを気に食わないようでいるらしい。はて、名前を覚えられないこと以外に気に障ることでもしたり言っただろうか。前原に尋ねたところ「奴はただの反知性主義だ」とのたまっていた。シノギの額は組の中では最後から数えたほうが早く、腕力だけが的場組での存在意義らしい。

 さらに恭矢が元公安の捜査官であることは組内の方々で話題となったこともある。極めつけはその恭矢が組の大仕事である衆議院議員の我来の再選支援に深く関わり、あまつさえ我来のボディガードに選ばれたのだ。古株を差し置いて新参が前に出れば、いらぬトラブルを買うのも無理からぬ話である。恭矢はやれやれと嘆息して、肩で風を切りながら本部に入っていく吉田の後ろ姿を見送った。

 車で的場組本部とほど近い場所にある前原の事務所に到着すると、打って変わってこちらはいつもの様にのんべんだらりとした空気であった。若い構成員は朝の掃除に精を出している一方で、ボスである前原は積み上げた主要新聞と経済誌の面倒を見つつ、ワイドショーの映るテレビとの間で視線をうろちょろさせていた。

 だがそのいつもののんびりとした事務所にいつもはいないはずの人間が紛れ込んでいた。

「よっ。おはようさん、イケメン」

 津田だ。ずんぐりむっくりのマル暴刑事が暴力団の事務所のソファで我が物顔で朝からコーヒーをすすっている光景は、恭矢をもってしても如何とも理解し難いものであった。気の利いた返事が何も思い浮かばず、とりあえずは「ども、お早うございます」と挨拶するしか他はなかった。

 ここ最近、津田と出くわすことが多い。前原とともに事務所で待機していると、しょっちゅう顔を出してくるのだ。我来とつるみだしてからのことなので、そのようなことと関連しているのではないかと恭矢も気にしていなかったのだが、どうもそうではないと察知したのは、新宿駅東口でまるで待ち構えているかのように顔を合わせた時のことだった。

 この刑事、どうやら監視しているのは前原ではなく俺だ。

 もしや尾けられている? そうでなくてもマークはされている。

 何が目的だ。もしや自分の行動を察知されたか?

 様々な憶測と疑念が浮かぶが、自分の行動を省みて、それはあり得ないと判断する。

 さすがの恭矢も観念して、アルタ前で津田と出くわしたところを食事に誘いそれとなく尋ねたところ、「バレたか」と津田はおどけてみせた。聞けば、前原という自分が信頼している男に付いているどこの馬の骨ともわからない葛木恭矢という男は、果たして信頼に値するかということだったらしい。

 なんだそんなことか、と恭矢は仏頂面を寸分も崩さずに内心だけで安堵した。津田の態度からして、言っていることは本心。自分の今までの犯行は察知されていないと判断した。

「悪いな、つけ回すような真似しちまって」

「いえ、こちらこそ早々に津田さんに正式なご挨拶に伺うべきでした」

 このような具合で両者の緊張状態がほぐれたのは、つい先日のことである。

「おう恭矢、おはようさん。本部に顔出してきたか?」

 事務所に入ってきた恭矢を認めると、前原はデスクに置いてあるコーヒーメーカーのスイッチを押した。唸りを上げてコーヒーメーカーは豆からドリップを絞り出していく。

「はい、とんだ無駄足でしたが」

「そうだろうな」

 視線を新聞の記事の中へ沈める前原。

「自分たちは特に何かすることはないのですか?」

 津田と対面になる位置でソファーに座り、恭矢は尋ねる。

「お前真面目だな」と前原。

「俺たちが出たところでどうにかなるようなことじゃないし、一大外食産業の総裁にして学校の理事長様である彼奴とヤクザとの繋がりがあることを公にするわけにもいかない。となれば俺たちの出る幕は無いわけで」

 コーヒーメーカーが出来上がりを知らせる電子音を鳴らす。黒い液体に満たされたカップを前原は恭矢に手渡した。

「適当なところで上がっていいぞ。親父からいつでも出られるようにって言われたんだろ。体休めるなり何なりしてろ。何かあったら電話する」

 渡された黒い液体に口をつける。例え泥のような不味いコーヒーでも冬の今ではありがたいものだった。

 恭矢は視線をテレビの方へと移した。リモコンを手に取ると、「好きなの見てもいいぞー」との前原の声。遠慮無く恭矢はザッピングしていく。朝のワイドショーの時間帯はどの番組も飽きずに同じ内容を放送していた。

「どれもこれも同じことやって視聴率取れるんですかねー」と若い構成員。

 同じ内容。どの局も清勝館学園での殺人事件か、あるいは岡安大毅の銃殺事件、そして城南新聞記者爆殺事件、この三つの事件を中心に面白おかしく囃し立てていた。なんら関連性もない知識人や既に周回遅れの知識しか持ち合わせていない警察OBが、さももっともなことに思えるような適当なことを並べ立てていた。

「それで津田さん、今日はどういった御用で」

 それとなく何気のない口調で恭矢は津田に尋ねた。

「いやな、最近我来賢一郎の周辺で物騒なことが続いてるのは知ってるよな。一応、そのアリバイ調査みたいなもんだ。そういうのを一課の連中に頼まれてな。的場組は最近奴とつるむようになったろ。お前さん方のことだからどうだとうわけじゃないが、一応な」

 歯切れの悪さからそれなりに悪い気を感じているのだろう。恭矢は「構いませんよ」と促した。

「犯行時間帯に前原からお前さんの動向が聞けなかったからよ。気を悪くしないでくれ」と前原が重ねる。

「確かその時間なら……」

 恭矢が言いかけたその時、誰かから言葉を上から重ねられた。

「葛木の兄貴なら確かその時間お楽しみの最中でしたよ」

 声がした方へ恭矢が首を巡らす。そこには八柱の無邪気な笑顔があった。

「お楽しみ?」と津田が訝しむ。

「コレっすよ。コレ」

 八柱は握りこぶしを作って、人差し指と中指の間に親指を差し込む。津田はため息とともに呆れたような顔を恭矢に向けた。

「変な心配して損したよ」

「恭矢を機械か何かと思っちゃいませんかね」と前原が言葉を挟む。

「まあアリバイは成立ってことか。すまなかったな前原、葛木。朝から邪魔しちまってよ」

 警察手帳に何もメモすることもなく津田が立ち上がり出口へと向かう。八柱をはじめとした若い構成員たちが前原を事務所ビルの出入口まで見送っていった。

「全く、この三つの事件のせいで、俺たちの予定はグダグダだよ。参ったよ、なあ恭矢。ひでえことするもんだなあ、この下手人どもは」

 前原もいつの間にか新聞を折りたたみ、視線をテレビへと集中させていた。

「そうですね」

これらの事件の当の下手人は、心底興味なさそうに気のない相槌を入れるだけだった。


 岡安大毅撃事件。城南新聞記者爆殺事件。そして清勝館学園での殺人事件。これら三つの事件の初動捜査に駆り出された高根と木戸だったが、本格的に担当を受け持つこととなったのは清勝館学園での殺人事件となった。

「高根さん、ひとまず〝重いもの〟からまとめてみました」

 桜田門警視庁捜査一課内、木戸はホッチキスで纏めたいくつかの紙資料を片手に高根のデスクへと赴いた。

「清勝館学園で起きた死亡事故、いじめの被害者、自殺やパワハラ被害の教職員といった具合の比較的学園に対する怨恨の深そうな人物とその家族のリストです。現役の生徒から我来が理事長に着任してからの卒業生までです」

 高根はその紙資料を受け取ると、パラパラめくりながらと流し見していく。紙資料は結構な厚さだった。

「他はどんな感じにまとめてるんだ?」

「我来が着任してからの退学した生徒や退職した教職員、死亡とまでは至っていない事故や事件の被害者とその家族といった具合ですね」

「その辺は片手間でいい。先にこっちの〝重いもの〟を確認していくぞ」

 高根は怨恨の線で捜査を進めていた。全身をくまなくズタズタにされた挙句、父親の務める学校に死体を晒しあげるえげつなさ。そして財布には全くの手付かずということから、この線が固いと高根は踏んでいた。高根でなくとも、大方の刑事が怨恨によるものと判断していただろう。

 そしてその怨恨の持ち主は無論のこと清勝館学園の関係者だろう。生徒、教職員、あるいはその家族。怨恨を向けた先は堀田か我来だろう。あるいは両者か。

 ただでさえ学校として後ろめたいものを大量に持ち合わせているのだ。

 そして問題は、どうやって学校内の警備体制をかいくぐって死体をピロティに括りつけるようなことをやってのけたということだ。

「ここのリストにある人物、全員を調べていくぞ」

 木戸の「うぇっ」という驚きと悲鳴の声が会議室の外まで漏れた。「アホか」と高根は木戸を小突くか、気持ちはわからんでもない。経歴、履歴、趣味嗜好から実際に犯行に及ぶ動機と犯行を成し遂げるだけの何らかの技術などを持ち合わせていないかといったこと考察していくには、慎重さが要求される。さらには犯行当日のアリバイの有無も重ねあわせていかねばらない。二人は午前中の分量だけでくたびれ果ててしまっていた。

「飯にするか」

 時計の短針は既に真上を過ぎていた。木戸はデスクの上に上半身を投げ出しうつ伏せになっていた。昼食に行こうと木戸を誘ったが、どうやら生活安全課の婦人警官との先約があるらしく、高根は警視庁の食堂で一人飯ということになった。

 和・洋・中揃い踏み、果ては寿司まで取り揃えているカフェテリア形式の警視庁内の食堂で高根は日替わり定食を注文し、テレビの見える指定席とも言えるいつもの場所で昼食にありつくことにした。テレビでは相も変わらず、最近の三つの事件のことについて囃し立てていた。ワイドショーでは知性の欠片もなさそうな元スポーツ選手が事件について語っている。先ほどから根拠も論理性もない持論を堂々と大真面目な顔で全国ネットに流しているその様は文字通りの噴飯ものだった。自分だったら恥ずかしくて、次の日から往来も歩けなくなる。

「三つの事件、これもしかしたら詳しく調べたら関連性というか共通しているものがあるかもしれませんよ~。例えば同一犯だったりとか」

 テレビの中で元スポーツ選手の男がしたり顔で言う。

「んなわけないだろうが」

 高根は箸をテレビのコメンテーターへと向けて、思わず反論を突っ込んだ。

 その時だった。

「いや、案外ああいう直感って掠ってるかもしれないよ~」

 高根の目の前が一人の男によって遮られ、テレビが見えなくなった。高根は思わずたじろぐ。テレビと会話している所を見られ気恥ずかしさも覚えた。

「前、失礼しますねー」

 制服組が多い警視庁内の食堂の中でその男は元山と同じくスーツ姿であった。しかし何よりも目を引いたのは国家公務員としては考えられない髪型だった。長髪を後ろで縛り尻尾のように揺らしている総髪は、警視庁という場所どころか一社会人としてはありえない。注意してやろうかと思ったが、こんなことは早々に咎められているべきだ。それがこの男の飄々とした態度を見る限り、今日までに一度も注意を受けたとは思えない。

 まるで不可解さが服を着て歩いているようなものだ。

 この男は一体何者だ?という疑問に着地する。

 だが目の前の総髪の男はいぶかしむ高根を全く気にも留めず、トレイに乗ったちらし寿司に口に運んでいた。

 高根はひとまず、振られた話題を深めていってみることにした。

「何を根拠にそう言える」

「さあ? 強いて言うならあんたが普段から使っている刑事の勘ってやつかな?」

 言っていることは最もだが、どうしてこの男は明らかに自分よりも年下の分際でタメ口を聞いているのだ。

「それでもいいかもしれんが、その前にだ。お前のその口の聞き方はどうなんだ」

「あ、なーんだ。そんなこと」

 言いながら、総髪の男は味噌汁で口の中を流しいく。

「高根健悟警部だっけ?」

 高根が目を見開く。自己紹介などしていないし、身元を証明するものも今は見える所に掲げていない。だというのに、どうしてこの男は自分の名を……。

「警視長と警部、さてどっちが偉いでしょ~か?」

 一人で勝手にはしゃぐ総髪の男。対する高根はまさか、と目の前の男が言わんとすることを察した。だが同時に、馬鹿なとも思える。自分よりも一回りほど歳が離れたように見えている人間が警視長だと?

 津田の疑念を読み取ってか、総髪の男は懐から警察手帳をテーブルの上に滑らせて寄越した。手元に滑ってきた警察手帳を慌てて掴み取り、開いて見る。確かに貼り付けられた写真は目の前の男の顔と同じだった。〝成田司〟という名前の傍には、しっかりと警視長の文字が印字されている。そしてその所属を目にすると津田は驚きを隠せず、確かめるように口にした。

公安……! 高根が持っていた警察手帳を取り戻し、懐に戻しながら成田が言う。

「岡安と六実の共通点ぐらい探せばあるんじゃないの。二人共、城南新聞の関係者なんだから。このご時世、考えなしでマスコミ関係者を殺すような酔狂な奴はそうそういないでしょう。連中、身内が危害に遭えば容赦ないんだしさ。じゃあ犯人はどうしてそんなリスクを背負ってまでマスコミ関係者を殺そうとしたのでしょうーか。問題でーす」

 総髪の男がまた高根に箸を向ける。

「犯人にとって都合の悪いことを世に広められようとされそうになったから……」

「んー、五ポインツッ!」

 何なんだこの男は。高根はこの男に構わず、その場から離れたくなってきた。だが――

「六実に限って考えれば、そういうことになるね。でもそれだと、だいぶ前に記者辞めて今はただのベストセラー作家になった岡安に対しては、その考え方は通じないね」

 総髪の男が椅子の上に膝を乗せて、テーブルの上に身を乗り出して続ける。

「そいつらの過去の実際の仕事内容に何か関連があったんじゃないかな? 例えば六実の過去の記事とか?岡安の今までの作品とか? それに岡安は最近新作を執筆していないしね。むしろ講演活動ばっかりだったしね。目立った活動は最近はやっていない。となると、『これから二人に何をされそうになったか』というよりも『いままで二人に何をされたのか』で考えれば共通点は見つかるっぽくない? そしてその共通点の先に、清勝館学園の殺人事件の手がかりがあるっぽくなくなくない?」

 まるで最初から結論有りきの飛躍した論理展開ではあるが、その一方で言われてみれば確かにそのように思えた。最後の清勝館と繋がるかどうかはわからないが、少なくとも六実と岡安の関連性は探ってみるだけの価値はありそうだった。

「どうかな?どうかな? 僕の考え、的外れじゃないかな?」

 男は身を乗り出してこちらの顔を覗きこむ。高根は思わずたじろぎながらも、「ええ、そうですね」と答えた。

「ご、ご参考までにお窺いしたいのですが、警視長の所属は公安部のどちらになるのでしょうか?」

 明らかに自分より一回りも年下の男に対し慣れない敬語をどもらせながら、高根が尋ねる。先ほどの警察手帳には公安部までしか所属が印字されていなかった。通常ならばさらにその下の所属まで記されているものなのだが。

 その問に男はにんまりと唇の両端を釣り上がらせた。この男、俺をおちょくって楽しんでいやがるなと高根は歯噛みする。

「公安警察をね、色々と、ぐるぐるしてるというか、まあそんな感じ。公安全般だね、一言で言えば。あ、でも僕の名前はあんまり人に言いふらしたり口にしちゃだめだよ。特にあんたの上司とかにはね」

 人差し指を唇の前に当てて「しーっ」と悪戯っぽい笑みを浮かべる。その仕草はまるで子供のようだ。成田と称した男はトレイを手に席を立った。そこで「ただ……」と言葉を続けていく。

「困った時、どうしようもなくなった時はその限りじゃないよ。ただしそれ相応の代償は払ってもらうけどさ。僕はいわばチートツール。使うならそれなりの代償が必要だよ」

つまりそれは、この男は既に、この事件に真相が見えている……?

「それと、今日僕がここに来たことと、あんたと喋ったことはオフレコだかんねー」

 ただただ呆気に取られていた。会話の主導権は終始成田にあり、言いたいことだけを言われ、こちらの言い分を全く聞き入れてもらえなかった。突然目の前に現れ、いくつかの一方的な啓示の後に突風のように去っていった男。彼が何者なのかも気になるところだったが、今は先にやるべきことがある。清勝館学園については後回しだ。今は六実と岡安についての情報を再度手に入れ整理する必要がある。

 残りの昼食を掻っ込むと、高根は食堂を出て携帯を手にした。木戸へと電話をかけようとしたが、ちょうどその時に携帯が震えだした。液晶画面を見れば、今まさに通話しようとしていた木戸からの着信である。

「もしもし、木戸です」

「木戸か、今日は帰れんぞ」

木戸からかけてきた電話にも関わらず、高根が先に要件を言い放つ。

「え? マジっすか。いや、そうじゃなくて」

「何がそうじゃないんだ」

「岡安の検死結果が出たんですよ。あと、帰れないってマジですか……」

 この男何を頓珍漢なことを言っているんだ。やはり若い連中はきっちり何から何まで教えてやらなきゃならんな。

「なんで岡安の検死結果をお前が持ってくるんだ。他の班が担当してるんだろう」

「いや実は昨日、喫煙所で公安の偉い人と駄弁ってたらですね、この三つの事件は何らかの関わりがあるんじゃないかと言われまして、一応念のためと思いまして」

「なんだと!?」

 高根が驚きの声を上げる。あの成田とかいう警視長、既に木戸と面識があったのか。そして、木戸に対し自分と同じような内容のアドバイスを施したというのか。

だとすればあの男は既にこの事件の全容が見えている。だというのになぜ、自分たちにアドバイスなどと周りくどいことをする。

 木戸を大急ぎで呼び寄せ、持ち帰ってきた検死結果の紙資料に目を通していく高根。

「検死によると脳幹に二発、タマが見事にぶちこまれてやがる。だというのに現場に排莢された空薬莢はなかった。となるとリボルバーか?」

「でも、周囲の住民によると物音は聞こえたようですが、銃声らしい銃声ではなかったみたいですよ」

「サプレッサーか。そして、犯人はご丁寧に空薬莢も回収していった。周到だな」

 高根は支給されているニューナンブを連想する。リボルバー拳銃はその構造からサプレッサーによる消音効果を得ることはできない。チャンバーがほぼ密閉された形となっているオートマチックと違い、リボルバーはシリンダーとバレル周りの隙間が多い。これでは銃口にサプレッサーを装着したとしても銃声はこの隙間から漏れ出る。

 しかしだ、と高根は推測を続ける。サプレッサーなど、銃の所持を問答無用で禁止している日本国内においては銃の本体以上に手に入れることは難しい。警察あるいは自衛隊内部ですらそれは変わらない。警察官で自動拳銃やサプレッサーを必要とするようなところは限られているし、自衛官であっても一定の階級でなければ拳銃の支給と携行許可は下りない。ヤクザであってもそんなものを好き好んで買うような輩はいない。それこそ、然るべき機関でなければ。そして空薬莢をしっかり回収していく冷静さと周到さ。

「なあ木戸、何か身近なものでサプレッサーの代わりなるものってないのか」

 暗所で発砲する際にはマズルフラッシュで位置を把握されないために、銃声を抑える時と同じように銃口に被せ物をするという。これをフラッシュサプレッサーと言ったか。その身近な代用品としてハンカチを銃口に被せて使うという話を小耳に挟んだことがあった。

「もしかしてペットボトルサプレッサーってやつですかね」

「なんだそれ?」

 初めて耳にする言葉に高根は怪訝そうに疑問を示す。そんな高根の渋い顔も全く気にせず、木戸は説明を続けた。

「その名の通りペットボトルをサプレッサー代わりにするんですよ。飲みくちと銃口をテープか何かで固定させて撃つんです。映画で見たことあります。さすがに本物のサプレッサーほどの消音効果は無いみたいですけど、少なくとも音もそれほど響かなくなるそうですし銃声として認識される可能性も少なくなります。おそらく犯人はそれを用いたんじゃないですかね」

「そう言える根拠は」

「その後の捜査によると現場の遺留品として、焦げたペットボトルの破片が見つかったそうです。硝煙反応もばっちし。高根さん、ビンゴです」

「しかし、そんな知識を持ってるとすれば……」

 そして実際に銃を所持し、脳幹に二発の精密射撃を行え、空薬莢をも回収していくような冷静さを持ち合わせた人間となると自然と捜査線上に浮かぶ人物は絞りこまれてくる。

 脳裏に浮かぶ木戸が作った無数の紙資料。そこから思い当たる節を持つ人物を索引していった。銃の扱いの経験のある人物。自衛官である生徒の親、警察官の生徒の親、あるいはその関係者の名が脳裏に現れては消えていく。岡安の銃槍からして使用された銃弾は9ミリパラベラム。オーソドックスなハンドガンの弾だ。警察に支給されているニューナンブは9ミリではないし、自衛官だとしても拳銃を基地の外へと携行するのは難しい。

 使用されたと思しき銃はオートマチック。特殊部隊で無い限り、そんな代物は使わない。脳幹に二発の精密射撃、即席のサプレッサーを作る知識。

 そんな知識と技量を持つ人間など、この法治国家日本の市井に果たして存在するのだろうか。

 高根と木戸の捜査はそこで足踏みをすることとなった。だが、これ以上先に進めなくなった二人を嘲笑うかのように犠牲者は増えていく。

 その後も数日おきに六実と同じ城南新聞の記者、ジャーナリスト、コメンテーター、大学講師や教授、挙句はブロガーにまでその犠牲は及んだ。

 犯行は全て銃殺。しかも犯人は己の技量を誇示するかのように必ず脳に二発狙撃しての殺害方法をとっていた。

 固い額を避けて脳に撃ち込まれた銃弾は全て9ミリパラベラム。弾丸に刻まれた線状痕は全て同じ。つまりこれまでの銃殺事件は全て同じ銃で行われたことになる。現在、鑑識によって線状痕からの銃の種類の洗い出しが行われている。可能であればその持ち主の特定もだ。

 また高根たちの聞き込みから、死亡推定時刻から推測される犯行時刻においても周辺では銃声らしい銃声はなかったという。良くて大きな物音程度だ。

 警察でなくとも、同一犯による犯行だと簡単に推理できる。そして明らかな挑発であるとも高根は屈辱に感じていた。

 だが同一犯による犯行とここまで増えた犠牲者たちの共通点から推理していけば、おのずと犯人のシルエットが見えてくるはずである。

「木戸、まずはガイシャの共通点を洗い出せ」


 案外こんなものか。恭矢の心境はそんな具合だった。マンションの自室でメンテナンスのために解体したグロックを弄びながら、そう思った。

 テレビは相変わらず自分が引き起こした事件のことを、面白おかしく報道していた。犯人の目的よりも、いかに残酷に、無惨に殺害されたかということにしかフォーカスされていない。はてさて、いつから情報番組はスプラッタ系映像作品の解説番組となったのか。

 射撃の腕も、拷問のスキルも〝組織〟に在籍していた頃と比べても劣化はごくわずかであると自認した。最も懸念していた殺人による精神的動揺も皆無。むしろ気持ちに逸りを自覚していた。美奈子を傷つけた敵を屠れたことは喜ばしいことではあるが、もう少し自重しなければ。

 目的を果たすのに、懸念事項は一切無し。

 恭矢はこの殺人によるストレスを最も不安視していた。なぜなら恭矢は今までに自らの意志で銃爪を弾いたことは無かったからだ。全ては〝組織〟の意向。殺意を持っているのは〝組織〟の方であり、決して自分ではない。ターゲットは国益を損ねる連中、〝組織及び環境に対する有害存在(ディファイラー)〟と称される者たちであり、その者たちを屠ることが大多数の利益を守ることにつながったのだから。だから、この殺意は自分のものではない。銃を握る自分は銃爪を弾くための機械に過ぎない。恭矢はそう割り切っていた

 一人、また一人と良心の呵責によって自らを傷つけ心を病み〝組織〟を去っていった他の者たちとの決定的な違いは、この点だった。

 しかし今は違う。自分だけの殺意によって、自らの意志で銃爪を弾いている。

 如何にこの国の治安維持の暗部を務め、さらには視察に訪れた在日CIAや米陸軍グリーンベレー部隊の教官をして「クレイジー」とさえ言わしめる訓練過程を切り抜けたとしても、当時の自分はまだ自分だけの殺意によって一人足りとも殺したことはなかったのだ。無論殺人によってもたらされる強烈なストレスは、この身に既に刻みつけられている。

 だが、そんなもの愛した人を他人の手によって傷つけられたことに比べれば、カスみたいなものだ。

 今まで自らに銃爪を弾かせたのは、あくまで己の意思ではなく国家の命令によるものだ。だからこそ、今一度、自らの意思で殺意を遂げることを身に覚えさせなければならない。

 ストレス。心的負担。PTSD。そして、罪の意識。

 たかがそんなものが、この俺の美奈子を傷付けた者への怒りの妨げになることなど、断じてあってはならない。罪の意識など感じてはならない。

 だから殺す。だから皆殺しにする。

 自らの世代の恥部を巧妙に隠し通し、ありもしなかったはずの三丁目だの夕日などという妄想と幻想の産物を押し付ける。「昔は良かった」などという戯言を平然と吐くことは、裏を返せば今日を全否定しているようなもので、同時に今を生きる主役である若者たちの全否定に他ならない。老人の責任逃れを自覚せず、自覚してもそれを無かったことにしようとする厚顔無恥振りは目の前の全ての問題を「若者の某離れ」で押し通し、若い人間にその責任を無理矢理に背負わせている。

 若い世代全体に無気力が蔓延したその理由を経済的な問題といった具体的な理由が目の前に存在するにも関わらず、それを見て見ぬ振りをし、若い世代の精神性に問題を見出そうとする愚昧さ。自分よりも下の世代に無理矢理に苦役を押し付けるその傲慢さ。

 堀田と我来が美奈子に対し為した所業はまさしくそれだ。

「美奈子を傷つけた奴は家族も鏖だ」

 我来に与する人間は、全員殺す。家族であっても、例外ではない。子供であってもだ。

 現状、今すぐ手を下せるのは清勝館学園校長堀田と我来賢一郎の長女、我来聖子。

 遊び心も必要だ。恭矢は二枚の顔写真を壁に並べて、適当にナイフを投げて刺さったほうを先に殺すことにした。どちらを嬲り殺してやろうか。愉悦が止まらない。

 今まで弱者だと思い込んでいた人間に逆に蹂躙される気分はどうだ?


 その日、高根と木戸は連続銃殺事件の捜査は進展に成功した。使用された銃の種類が洗い出されたのだ。

 鑑識によって、銃の種類はオーストリア製オートマチック拳銃グロック17の第三世代であることは判明した。材質のほとんどが強化プラスチックで構成されており、従来の拳銃と比較しても非常に軽量だという。威力そのものは並だが、その軽量さと装弾数の多さによって運用するには強力だと鑑識の人間が興奮気味に語った。そしてこんな強力な銃は日本国内においてどのようなルートを用いても手に入れるのは非常に難しいとも説明された。

 また被害者たちの共通点と判明した。清勝館学園校長堀田の娘を除けば、新聞記者、ジャーナリスト、大学教授、ブロガー、皆一様にブラック企業であるニッタミに関係、あるいは擁護する意見を述べた者たちだ。

 人気ブロガーに至ってはニッタミを擁護する記事をアップしていたというだけで殺害された。だがそれ以上に、犯人はネット上の人物であってもその所在を特定する能力の持ち主であることが判明した。いくら人気ブロガーといえど、ある程度の匿名性は存在する。しかし、それも犯人の調査能力の前では無意味であったようだ。

「これ見てください。このブログの写真」

 ラップトップの画面を睨みつけていた木戸が高根を呼び、犠牲者のブログ内に表示されていた写真を指差す。

「おいまさか、これだけの情報量でどこに住んでどんな人間なのか特定したっていうのか」と高根が驚嘆の声を漏らす。

「そのまさかですよ。今回の犯人、まるで探偵じみています」

 写真は自撮りや料理、訪問先を写したものが大半だった。このブロガーは情報リテラシーも備えていたのか、ブログ上でとても人物の特定の手がかりになりえる情報は無かった。一応、自宅近くと思しき背景が移っているのも数枚はあったが、それでも情報量があまりに少なすぎる。だが犯人はその少なすぎる情報量を手がかりとしてこのブロガーを特定し殺害してみせたのだ。

「このブログの運営会社から特定の人物の情報を手に入れるってことはできるのか?」

「我々警察ならまだしも、一般人にはそれは無理でしょう」

 匿名掲示板などで犯行予告などが投稿された場合、警察は投稿元のIPアドレスからプロバイダに情報公開を要請し、その不届き者を特定する。一般にIPアドレスはネット上での個人住所にあたるものだが、これだけで特定の人物を突き止められるというわけではない。

 またネット上で炎上した人物の住所が突き止められるというケースもあるが、この場合も炎上した人物が自ら特定されやすい写真や情報を公開している間抜けたことをやっていることが多い。実際のところ、捜査二課に協力してもらいプロパイダの情報公開要請無しでブログ上の情報だけを用いてブロガーの人物特定をしてもらったが、返ってきた答えは「無理ではないがかなりの時間を要する」だった。

 少ない情報で人物特定を可能とする調査能力、脳目掛けて二発狙撃する銃の取扱の技量、そしてグロックなどという代物を手に入れることができる手段の持ち主。

 得体の知れない。だがその得体の知れなさが逆に犯人の特異性を際立たせる。

 そして見出された被害者の共通点から導き出された大きな手がかり。

 ニッタミへの非常に強い怨恨。

 

 その後も様々な要因によって検索結果が絞り込まれていく。やがて、全ての要因を満たす人物が一人現れた。

 元警察庁警備局捜査員、葛木恭矢。清勝館学園英語教員、葛木美奈子の夫だ。

 清勝館学園の関係者という捜査線上に浮かんだ人物で銃の扱いの経験があるのはこの男をはじめとした数人だった。警察官、自衛官、他の人物も銃を手に入れられ扱える可能性は少なからずもありえたが、それでも簡易サプレッサーとしてペットボトルを用いる知識と頭部に二発撃ち込む技術も鑑みれば、消去法でしかないが、この男という線が濃い。濃いといっても、かろうじて線が見える程度のものでしかないが。

 そして、清勝館学園に怨恨を持つ十分な理由もある。妻の葛木美奈子は清勝館学園の教員で数年前に自殺した。ここに何か重要な手がかりが存在する。

「でも公安の捜査員ってそんなすごいものなんですかね」

 木戸の疑問も尤もだ。警察庁警備局を中心とした公安警察と呼ばれる者たちは積極的にドンパチしていくような連中ではない。どちらかと言えばそれはSATの役目だ。銃の腕に関しても日本の警察官は十数メートル離れたカレンダーの指示された数字を的確に撃ち抜けると謳い文句にしているが、そんなものはハッタリに過ぎず、皆がそのような芸当をできるわけではない。

 何より、銃刀法のあるこの日本においてグロックなんていう代物をどうやって手に入れた。

「わからん。だが調べていけばわかることだ。ほれ、葛木の情報を洗い出していくぞ」

 今はただ刑事らしく、足と頭を動かしていくしかない。だが、その目標地点は見えたことは確かだ。現時点では重要参考人に過ぎないが、おそらくこの男が容疑者。本庁捜査一課に十年以上身をおいて磨き上げた刑事の勘が結論を下す。

 葛木恭矢。何者だか知らんが、首を洗って待っていろ。


 後日、高根と木戸は早速恭矢の顔だけでも拝むことにした。裁判所に逮捕状の発行を要請するにはまだ早急であると判断し、ひとまずは聞き込みという形で接触を図ることにした。

 だが調べあげた住所、杉並区にある賃貸マンションには既に別の住人が居着いていた。

「ズボラめ、住民票登録変えてないな」

「前進したと思ったらまたどん詰まりですね……」

 悲壮な表情を浮かべる木戸を軽く叱咤する高根。

「この程度のこと、捜査にはよくあることだ。もっと気合入れていくぞ」

 とは言いつつも、それから一週間、結局のところは葛木恭矢という人物に関する捜査は進歩無しだった。三歩進んで二歩下がるようなことは毎度のことながら、モチベーションに響く。警察庁総務人事にも調査を以来したが、帰ってきた返事は木戸にとって意味不明なものだった。これをそのまま高根に報告すればどやされるのが目に見えている。どうしたものかと頭を抱えるしかなかった。そして今日も捜査を終え、警視庁に戻ると木戸は回らない思考を引きずり気分転換をするために喫煙室へと足を踏み入れた。中は設えられた空気清浄機のキャパシティを超えた紫煙が充満している。タバコを吸う前はこんな場所に十秒ともいられなかったが、吸い始めると耐性でもつくのか、苛ついた時には喫煙室に入り浸りになっていた。そしてこの場には先客が五、六人。いずれもささくれだった感情を沈めるために紫煙を不味そうにくゆらせている。

 木戸自身、タバコを吸い始めたのは浪人生の時だった。受験への不安というありきたりな理由で始めた喫煙習慣は、どうにか滑り込んだ国立大学でのレベルの高さにどうにか食らいついていくストレスと進路決定の不安によって続けられ、警察官となった今でも不慣れな仕事のストレスによって今日にまで続けられている。今日もまた不安とイラつき、不満やその他諸々の負の感情を紫煙に込めて吐き出していく。

「おろ?」

 見慣れた顔が喫煙室に入り込んできたのはその時だった。同期の刑事、確か今は捜査四課でヤクザとのケンカのやり方を勉強中だ。だが特に感慨深い再開というわけでもなく「よお」と声をかけて互いの近況を愚痴混じりにだらだらと零すだけであった。

 仕事と上司の理不尽さを互いに嘆き合い、葛木恭矢の名を零した、その時だった。

「それでそいつに参考人として聞き込みをしようと思ったわけなんだが。参考人つってもほとんど容疑者みたいなもんなんだが」

 一本目のタバコを終えた時には、互いの今抱えている事件の話題にスライドしていった。

「ちょっと待ってくれ。そいつの名前、もう一度教えてくれ」

 同期の声音に木戸の表情も即座に切り替わる。タバコを灰皿に押し付け、警察手帳とボールペンをすぐさま取り出した。

「葛木恭矢って言うんだが、まさか何か心当たりあるのか?」と木戸が迫るように尋ねる。

「いや、顔見知り程度の上司がさ、確かそんな名前を口にしていたような気がするんだ」

 捜査四課。対暴力団。ヤクザ。葛木恭矢。

 断片的な情報が前進を促し、おぼろげながらも事件の全容を視認できるようにしていく。木戸は目の前の霧が晴れていくようなものを感じた。

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