第一章① 無間焦熱

 全くついていない。以前世話になった新宿署の四課に顔を出したところに暴力団がフロントを務める店で通報があり、自分もほとんど無理やりに引っぱり出されることとなった。

 歌舞伎町をパトカーが飛ばしていく。サイレンの音を鳴らすと路上でふらついている客引きが何事かと焦ったように通りから引っ込んでいった。

「全く、せっかくの飯の時間を邪魔するのはどこの馬鹿だ。くそったれめ」

 助手席で警視庁捜査四課の刑事、津田志堂がぼやく。中学から続けた野球で鍛えたむくつけきの身体を窮屈そうに座席に収め、シートベルトで縛り上げている。

 眠らない街、歌舞伎町。その賑わいぶりは世界有数の歓楽街とされており、またそれと同時に堅気とは言えない稼業に就く者達の根城ともなっていた。

 華やかさの中をよくよく鼻を利かせれば、すえた臭いが漂ってくる。それでも見てくれと印象は不健全なものはあるが、意外なところ夜間の凶悪犯罪率はそれほど高くない。こまごまとした厄介ごとは多いが。一五分毎に同じ場所をこれ見よがしに巡回してくるパトカーの前で不届き千万を働こうとする酔狂な馬鹿は、ヤクザであろうと酔客であろうと少なくなった。無論、少なくなっただけで完全にその姿は無くなったというわけではないが。そして今夜、津田が通報を受けたのはそんな馬鹿のせいである。

 新宿区役所の前を通り過ぎ、表通りから横道に逸れるとやがてパトカーは通報元であるクラブに辿り着いた。

「確かこのクラブは的場組のものじゃなかったか?オーナーは何をちんたらやってるんだ」

「それっぽい人間はまだいないみたいですね」

 運転席から降り、クラブの入り口を見上げながら口を開く部下に対し助手席から降りた津田は「お前はここで入り口を封鎖しろ」と指示を下した。

 店の前では応援を今か今かと待ち受けていた店員と思しき制服を来た男が二人ほど、おろおろと落ち着かない様子でいた。津田と部下の二人の姿を認めると、具合の悪そうな血相で津田に駆け寄ってきた。こういった事態にはオーナーとなっている〝組織〟が収拾にあたるのが習わしなのだが、どうやら到着が遅れているようだ。

「あい、ちょっとごめんよ」

 入り口で警察手帳を見せつけながら店内に入り込むと、ガラスが割れる音と怒号が響いていた。それに臆せず、津田はずんずんと大仰そうに店内の騒ぎの元へと足を踏み入れていった。

 店員から聞いた話は以下のようになる。歌舞伎町を根城にしている指定暴力団的場組のものであるこのクラブで今日、的場組ととある福岡のヤクザたちの会合が行われていたという。最初は和やかな雰囲気ではあったが、どうやらアルコールが入っていく内に両者ともタガが緩んでいき、そうしている内に的場組の一人の不用意な一言がきっかけで福岡ヤクザの一人を瞬間湯沸し器にしてしまったようである。今店内で暴れているのはそいつだ。

「くだらねえなぁ、おい」

 警視庁捜査四課、通称マル暴一筋二〇年の刑事生活の中、連中の下らなくない理由の争いなど何一つなかった。無論、下らなくない理由の闘争など一つもありはしないのだが。

 津田は近くのテーブルにあったビール瓶を奪い取るように手に取ると、逆さにして中身を捨てていく。どぼどぼと温くなったビールが床を汚していく。視線をしっかりと福岡ヤクザに据えると、瓶を持った腕を大きく振りかぶる。

「いい加減にしねえか、このゴミ野郎が!」

 怒声と共にビール瓶を放ると、見事に男の額に命中し砕け散った。高校時代に取った杵柄を活かした見事なコントロールである。

「調書取って署であったかい飯食おうぜ。こんなクラブのもんよかマシなもんだ」

 だが男は少し怯んだものの、どうにも大人しくなる様子はなかった。さしたダメージは無し。瓶の破片で切れて血とビールがしたたる額を拭うと怒りに歪んだ形相をゆっくりとこちらに向ける。

「おいおい、ちょっと……」

 津田が言葉を漏らした時には遅かった。やばいと思った時には既に突進してきた男に捉えられ、そのまま壁に背中をしたたか打ち付ける。

「がはっ!」

 肺の中の空気が無理矢理に押し出され、津田は痛みに身を動かせずにいた。その隙をも捉えられ、男の両腕が津田の両足を捕らえるとそのままちゃぶ台返しの要領でひっくり返す。さすがにこれはまずいと判断した津田は上半身を捻り、左腕を頭部に添える。硬いタイル敷の床に脳天をしたたかに打ち付けることを防ぐためだ。結果、左肩を犠牲にして頭を庇うことは出来た。だが激痛に身をよじり、致命的な隙を晒すことになった。福岡ヤクザもそれを見逃すはずもなく、津田の上に跨ると右拳を大きく振り上げる。立ち上がり躱すこともままならない。せめて防御だけでもと、津田は両腕を上げて顔を守る。

 両腕の間から男の拳が迫り来るのが見えた。ごう、とさえ聞こえてきそうな思いトドメの拳。だが、それが津田に届くことはなかった。

 突如、横から飛んできた鋭い拳に男がぶっ飛ばされていった。

 両腕で身構えていた津田も何が起こったのかわからない体で呆けるばかりであった。そしてきょろきょろと辺りを見渡すと男がこちらに跨っていた場所のすぐ傍では、また別の、今度は細身の男が立っており、こちらを見下ろしていた。殴り飛ばされた福岡ヤクザのほうは立ち上がると、更に顔を紅潮させ怒りに震えていた。

「津田さん、下がって!」

 突然の大声。だが聞き慣れた声色だった。津田は四足でばたばたと男の傍から離れる。

 巨体を殴り飛ばされたことをひどく屈辱と感じたのか、福岡ヤクザはさらに顔を真っ赤にさせ右腕を振り上げながら、細身の男へ突進していく。

 ぶん、と風を切る音すら聞こえてきそうな男の豪快な右拳。殴られれば骨をも砕きそうなものだが、あまりにも大振りだ。津田であっても冷静であればよく見てかわせる。そして細身の男はそれ以上に対処しながら反撃に移せるだけの実力を兼ね備えていた。

 細身の男は突き出された拳を左掌で軽くいなすと、素早く右腕で絡めとって脇に挟み込み関節を極める。腕をねじり上げられ悲鳴を上げる福岡ヤクザ。

 そこに細身の男は大外刈の要領でヤクザの膝裏に踏み込むように踵を叩き落とす。ヤクザが沈み込む。更に俯いたところを今度は背中に肘を突き刺した。それがトドメだった。倒れこんだ福岡ヤクザの右腕をねじり上げながら、細身の男は後頭部うなじの当たりを踏みつけた。ごきん、という音と共にヤクザが今までで一番の悲鳴を上げた。捻じりあげられた右腕と右肩がずれる。それが終演の知らせだった。

 静まり返る場内。細身の男に注視される幾つもの目。まだやるか、と言わんばかりに同じ福岡ヤクザ仲間と思しき連中のほうへと向けられる男の殺気を孕んだ鋭い目。

 空気が張り詰める。対峙する両者がわずかにでも動きを見せれば、次の瞬間には怒号に包み込まれかねない緊張。それをほぐしたのは、低くも柔らかい声音だった。

「大丈夫ですか、津田さん」

 こつんこつんと靴音を立てながら声の主が津田の元へ近づいてくる。津田の視界の端に磨きぬかれた革靴が入り込むと、津田は全身に鈍く残る痛みを堪えながら首をもたげる。そこには見知った顔があった。

「ま、前原か」

 津田が知己の人物を認めると、前原と呼ばれた男は膝を少し折って、こちらに手を差し出してきた。津田はその手を取り、立ち上がった。

「お久しぶりです。津田さん」

 前原は柔和な笑みを浮かべ津田にカウンターから取ってきたばかりであろうお絞りを差し出した。津田はそれを受け取ると、脂汗の浮き出た顔を拭っていく。周囲を見れば遅れてやってきた制服警官たちが店内に立ち入り、先ほどとはまた別のどよめきに近い騒ぎとなっていた。制服警官の指示に従い、福岡ヤクザたちが店外へと連行されていく。

「津田さん、彼らのこと、お手柔らかにお願いします。今日のところはとんだトラブルとなってしまいましたが、彼らは俺のビジネスパートナーになるかもしれないんです」と連行されていくヤクザを尻目に前原が言う。

「なぁに、留置したりはしねえよ。調書取ったら、ちゃんとすぐに返すって。それより」

 津田が先ほどの男を指さす。大柄のヤクザ相手に大立ち回りを演じながら、息一つ荒らげておらず、涼しい顔で乱れた襟を整えていた。

「あいつ何者だ? 新入り?」

「そんなところです。用心棒で、私の専属ボディガードですよ」

「おいおい、お前も専属のボディガードがつくまでになったか。偉くなったもんだな。ええ? それじゃあ、いくつかフロント任されているのかい?」

「はい。ついでにこのクラブも。オーナーは私が務めてます」

 津田が前原の背中を力強く叩く。前原は照れくさいのか、苦笑するばかりであった。

「どら、ちょっくら挨拶してくるよ」言いながら、津田は細身の男に近づいた。その気配に気づいたのか、男は津田の方へと振り向いた。

「俺ァ、捜四の津田だ。お前さんのボスとは昔からの馴染みだ。よろしくな。知ってるだろ、お前らがマル暴って呼んでる部署だ」

「ええ。存じております」

 地を這うような低い声で男が答える。闇夜に自ら溶け込んでいくような上下漆黒のジャケットとスラックスという出で立ち。インナーのシャツは真紅の色をしており、まるでどこか返り血を浴びたかのように思えて、ぞっとしない。伸びている髪は目元を隠しているが、だらしなさよりも色気を演出しており、色男というのは自分のような凡夫とは様々な要素というものが根本から違っているのだなと思った。意味もなく悲しくなってきてしようがない。

「おたく、シブいねえ。よく見りゃいい男だしよ」

「それで、マル暴の刑事さんが、俺に一体どのようなご用件で」

 大した用がないなら消えろ、と言わんばかりの口調に津田は少し態度には出さなかったが、心中でたじろいだ。なるほど、的場組の金庫番である前原の用心棒を務められるだけの迫力はあるようだ。

「いやよ、お前さんのボスである前原とは長い付き合いなんでよ。そいつが専属ボディガードまでつくぐらい出世したもんだから、そのボディガードさんにもちょいと挨拶しておこうと思ってよ」

 言いながら、津田は懐から警察手帳を出すと、その中からまた自分の名刺を取り出して男に渡した。渡された名刺を恭矢は物珍しそうにまじまじと目を通す。

「いいんですか、刑事さん。こんなものこっち側に渡して」

「お前さん、ヤクザもんになってまだ日が浅いな?」

 津田の言葉に男は名刺に落としていた目線を上目遣いにしてじろりと津田に鋭い眼光を飛ばす。腕は立つが、任侠の流儀にはまだまだ新人というところか。だが纏う剣呑な雰囲気と先ほど披露した腕っ節から、兄貴分と杯を交わしたばかりのチンピラ上がりの若い構成員とは到底思えないが。

「こいつは元は津田さんと同職だったんですよ。な?」

 前原の言葉に男は黙ったまま首を縦に振った。

「なんだと。そいつぁほんとか!?」

 驚いた。確かに前職の職能を生かして警察からヤクザに鞍替えする者も少なくはないと聞いていたが、実際にその者を見るのは津田は初めてだった。だがヤクザへと鞍替えするのは圧倒的にマル暴が多いという話も聞いている。さきほどのこの男の反応からして、元マル暴というわけではなさそうだが。そして、先ほどから突き刺さっているこの男の「それ以上踏み込んでくるな」と言わんばかりの鋭い目つきに従い、これ以上は踏み込まないことにした。津田も馬鹿ではない。このような許容範囲の見切りができなければ、マル暴で長年飯を食ってはいけない。ひとまず当り障りのない話題へとスライドさせていくことにした。

「ところで、お前さん何かやってたのかい。格闘技とか」

「……いえ。テレビや映画で見た色んなヤツをかじって混ぜてみました」

「我流かい」

 嘘だ。津田は断定する。先ほどの動きはスポーツの延長にある格闘技のそれなんかじゃないし、ヤクザのよくある力任せの喧嘩殺法にも見えない。合気道にも似ているがもっと実戦的なもののように思えた。軍隊格闘かシステマか何かとでも言うべきものなのだろうか。先ほどの一連の動作はカウンター狙いで相手の間接を極めにいく、相手の制圧と無力化を第一の目的としたものだ。無論、この無力化の範疇には絶命も含まれている。その気になれば喉も潰しにかかれただろう。格闘技といった型にはまったものじゃない。あれは立派な戦闘術だ。元同業とは聞いたが刑事などではないのだろうか。もしやもっと荒事専門の……。長年の警察屋としての生活で培ってきた観察眼は、わずかな挙動などから少ない情報を得て、的確にかつ多量の推測を立てていく。

 だがそのように推測を立てていったところで解答が得られるわけではない。ひとまず津田の中で立てた推測から、今のところは恭矢をよくよく目を光らせていくべき人物とすることを結論にした。飼い主の前原は信頼に値できる人間ではあるため、そうそう下手なことはしないと思うが。だがそれ以上にこの男はある一線を超えた時、飼い主の制止すらも振り切ってくるのではないかという懸念が津田の中でにじみ出た。具体的で論理的な根拠などない。強いて言えば長年の刑事生活で培われた直感といったものだった。

 その後、調書取りを部下に押し付けて、津田は前原との久方ぶりの河岸を変えての会合と洒落こんだ。無論、ボディガードということで先ほどの用心棒の男も付き添いだ。前原がまたもオーナーを務めているという小さなバーのカウンター席で数年ぶりに杯を酌み交わした。オーナーからの要望ということで予め他の客は入れないようにしていたようで、店内は寡黙なバーテンと前原と津田、そして用心棒の男の四人のみであった。用心棒の男は空気を読んでくれたのか、離れたテーブル席でコーラをストローで啜っていた。何かあった時のために、アルコールは入れないらしい。

 バーのカウンターには前原と津田。この二人が並んでいると果たしてどちらがヤクザでどちらが警察かはわからなくなってくる。細身にこれまた細いブランドものの眼鏡をかけてストライプのウェストが絞られたスーツで決めている前原は、一見すれば丸の内を闊歩するやり手のビジネスマンにしか見えない。片や津田の方はと言えば、典型的なマル暴、ヤクザよりもヤクザらしい風体である。二人はそこで互いの業界の情報交換と相成った。

 前原と津田、二人の関係はおよそ十年年近く前のことになる。前原はその見た目の通り腕っぷしで裏社会に乗り込んだわけでもなく、かといって社会的にドロップアウトしてその受け皿としてヤクザがあったからというわけで暴力団入りしたわけではない。むしろ前原は一流大学の出だ。裏社会入りの理由は、就職活動の際に日本の企業社会へ失望したからだと津田は本人から聞いていた。

 すました顔で嘘をつき、〝自己分析〟にハマり、面接で臆面もなく大声を出す学生たちと「面白い奴が欲しい」と、頓珍漢な質問をして悦に入る面接官たち。学生側に非が無いと言えば嘘になるが、なまじ他人よりも地頭の良かった前原にとっては面接官が皆阿呆にしか思えなかった。果たして、就職面接というのはいつから大喜利になったというのだろうか。もちろんそんな阿呆を出し抜くことは前原にとっては朝飯前のことであり、内定をいくつも勝ち取ることができた。だが、それが前原の失望へと繋がった。それ以降、前原は独り財テクで食べていく道を選んだ。大学では経済学を学んでおりそれなりの心得はあったが、どうやらそちらの道に天賦の才というものがあったという。それまでのアルバイトでの僅かな貯金をあっという間に二倍から五倍、そして十倍へと膨れ上がらせたのだ。

 そしてそうやって順風満帆でいれば調子に乗って行くのが常であり、若き日の前原の例外ではなかった。堅気の人間ならば渡ってはいけない危ない橋。それを若気の至りで前原は足を踏み入れてしまった。結果として的場組に睨まれることとなる。だが、前原には地頭だけではなく胆力も備わっていた。前原は逆に的場組の内部へと潜り込むこととなったのだ。裏稼業では顧問弁護士などの腕っ節の仕事ではなく頭脳労働を担当するインテリヤクザも珍しいものではない。前原はその手腕で兄貴分の小遣いを膨れ上がらせると、あれよあれよと幹部連中に気に入られることとなった。

 組織内で急速に立場を強くしていく前原に対し、もちろん良い感情を持たない連中もいる。古株の武闘派たちだ。連中の意趣返しは程なくして行われた。幹部同士の会席中、生来の癇癪を起こした当時は幹部だった現組長の大井が別の幹部を刺したというのだ。

 さしもの前原も目の前で起きた流血沙汰にいつもの冷静な頭を沸騰させていた。

武闘派はそれを見越して、前原を嵌めたのだ。このような状況の場合、誰かが親分の罪を代わりに被るのが常なのだが、その場に居合わせた武闘派の連中は前原に大井の持っていた匕首をべったりと握らせ指紋を残したのだ。

かくして件の下手人は前原であるという既成事実ができあがる。無論、警察側もそれを重々承知の上であり、ヤクザもつまらない茶番劇の幕を早く引かせたく、動機だなんだといったものを無視して前原とさっさと逮捕、送検するに至った。

 前原と津田が出会ったのはその時だった。このようなヤクザの茶番劇はいくらでもあり、そうしてスケープゴートにされる構成員に限って有能な者が多い。出る杭は打たれるといった摂理は堅気もヤクザも同じもので、それは警察内部も同じだ。折しも、当時は阿呆な上司が頭痛の種であった津田も前原のような人間に対し同情を禁じえず、前原としては取り調べの際もなるたけ穏便に接するようにしていた。これを機に前原と津田の今日までに至る付き合いが始まった。

 その後前原は実刑五年、模範囚として過ごして実質の刑期を二年半として獄中生活を送り出所となった。無論これには的場組の意向、そしてその上位組織である香川会のそれもあった。だがその頃には既に前原は萎えきっていた。東映ヤクザ、Vシネマの龍の如きヤクザなど、それこそ創作だけの存在だった。仁義で動くヤクザなど絶滅したに等しく、今では打算と欲望しかヤクザは抱えていない。堅気もヤクザも同じこと。前原が再び失望を抱え始めたその時、業界全体がやおら泡立ち始めた。福岡を拠点とする暴力団の台頭である。組織の緊急事態に個人の感情など配慮されるはずもない。

 例え街中で堅気の前だろうと容赦なく手榴弾を投げつけ拳銃をぶっ放す業界きっての武闘派。全国唯一の〝特定危険指定組織〟とされた九州の荒くれに三大都市の裏世界を牛耳るトップ達は頭を悩ませた。どう対応するべきかと連日の喧々囂々の会合が繰り返され、まずは互いに腹の底に含んできたものは一旦棚上げにすることと、情報を密に交換していくというところでひとまずは落ち着いた。だが、その矢先に今度は福岡と広島の睨み合いが始まると、大慌てで幹部の警護を固めさせた。今すぐ戦争となるわけではない。だが火種はその目ではっきりと見えている。一触即発とは言えないものの、張り詰めた状況。前原があの用心棒の男に声をかけたのは、ちょうどそんな時のことである。モチベーションも緊張感も無いなど言い訳のきかない炎上している状況の中、当時前原がオーナーを任されていた小さなバーでチンピラ同士の諍いがあり、それを力づくで諌めたのがたまたまそこで呑んだくれていたあの男であったらしい。現場に到着した頃にあの男が大立ち回りを演じていたということで、男の腕っ節に惚れ込んで声をかけたという顛末だ。しかも後に聞けば元刑事だったというのだから、当時の前原の心境はどんなものだったことやら。

 さて腐っても公務員であるであるため安月給なマル暴刑事が自分の財布で、そう頻繁にヤクザたちのご相伴に預かるのは難しい話だ。そうなると必然的にヤクザ側の財布に頼ることが多くなる。このような点からヤクザとマル暴の癒着が騒がれるのも、こういった事実があるからである。だがその一方で、敵の情けは受けないなどという先走った理想論のご立派なことをのたまっていれば、貴重な情報を取り逃しかねない。仕事の出来ない刑事など税金泥棒としか言えず、貸し借りの関係のやりとりの中でうまく一線を引き、現実と職務の中を行ったり来たりして初めてマル暴としての役目を果たす。傍から見れば、警察側がヤクザに擦り寄ってるようにしか見えず、有事の際には暴力団幹部を警察が護衛するというのはその最もたるケースだ。そもそものところ、警察もその根とする部分はヤクザと変わりはないとも言える。謂わば天下御免の国営ヤクザであり、日の丸会直参桜田門組とは言い得て妙である。警視庁捜査四課、通称マル暴は正しくその尖兵であるのだ。

 なぜならば、警察が遵守すべきものは国家に益する法と秩序であり、決して国民ではないのだから。

「ところでそこの色男さんよぉ」

 津田がテーブルの方へと振り向く。津田の口調には幾分か酔いが回っているように聞こえた。

「あんたの名前、まだ聞いてなかったなあ。何て言うんだい?」

 その問に用心棒の男は、地を這う唸るような低い声で、はっきりと自身の名を口にした。

「葛木恭矢です」

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