第2話

 7

 続報というか、詳細はきた。順生のメールによると、リヴシネの三人目のボーカルが脱退してしまったそうだ。もうボーカルの当てがないので、解散するしかないということだ。

 そうか、とだけ返すと、順生は話題を変え、一緒にライブに行かないかと誘ってきた。

 弾丸レコーディングをすべて終えた玲央は、巧と順生と一緒に、マリアズ・マーシーというバンドのライブに来た。リヴシネと、サイボーグ美羽と同じライブハウスを拠点としている、同世代のバンドだ。リヴシネもサイボーグ美羽もマリアズ・マーシーも、ぎりぎりワンマンライブができるくらいの集客力なので、人気もほぼ横並びと言ってよかった。身近に突出したバンドがいないことは、いいのか悪いのか、それは見方次第だった。

 一昔前は、バンド同士の上下関係はかなり厳しかったそうだが、今はそんなこともない。それはいいことでもあるが、同じ土俵での過密なせめぎ合いの中で、対抗意識が、悪い形で出てしまうこともある。

このライブハウスでは珍しい女性ボーカルであるせいか、玲央はさんざんからかわれ、馬鹿にされた。メンバーと寝たことはあるかとか、叫んでいるのは生理前のストレスのせいかとか。もう慣れっこになっているくらいだ。ほかのメンバーも同じようで、初めのうちは怒ってくれていたが、今は無視している。

自分の姿が普通すぎるからなめられているのかとも思った。この界隈には、普段から尖った外見をしているバンドマンも多い。しかし、カジュアル主義を変えるつもりはなかった。

それよりもきっと、自分の実力が足りないせいだろう。精進するしかない。玲央は黙ったまま、心の中だけで言い返していた。やたら長いギターソロでドヤ顔をかましているイタイやつめ、とか、変なマイクの持ち方でかっこつけている音痴め、とか、毎回二日酔いで迷惑をかけているクズめ、とか。

 その点、マリアズ・マーシーはよかった。すんなりと友人関係を築けた、唯一のバンドかもしれない。

 空間を暗黒に染めたようなライブのあと、フロア後方のテーブルによりかかり、立ったまま飲み物を飲んだ。巧と順生と顔を合わせたのも久しぶりだ。

「なんでわたしを誘ってきたの?」

 玲央は、二人にはなにか思惑があるのではないかと疑っていた。まさか、リヴシネに戻れと言うつもりだろうか。

「誘って悪かった?」

 順生が珍しく質問をはぐらかした。

「こっちはまだ友達のつもりだったんだけど」

 巧は、いつも通りクールな顔でビールを飲む。髪の毛のはね具合からなにから、ちっとも変っていない。

「友達とか、巧らしくない」

 玲央はペットボトルから水を飲む。

「そんなことないよね」

 順生が、口をとがらせる玲央と無表情の巧を見比べた時、明るい声がした。

「どもー。来てくれてありがとう」

 マリアズ・マーシーのボーカルの香月(かづき)だった。

「神橋くん、東くん、ボーカル脱退しちゃったんだってねえ。大変だね。染川ちゃん、久しぶり。元気?」

「元気だけど、大丈夫?ファンの子が寄ってきちゃう」

 玲央は小声で言った。

「だいじょぶだいじょぶ。うちらあんまり人気ないから」

 謙遜した香月は、黒いパーカーのフードを目深にかぶり、赤髪と、黒い口紅と同じ色のアイシャドウを濃く施した顔を隠している。でも、やっぱり目立っている気がする。

 案の定、「香月さーん」と、バンドTシャツとゴスロリのコンビの女の子二人が手を振ってきたが、香月はちょっと手を振り返しただけで、余裕の面持ちだった。

 香月にとっては、ライブ後にフロアに降りるのは普通のことらしい。ファンが突進してくることもなかった。ファンが少ないのではなく、マナーがいいのだろう。

 ライブの感想などを軽く話すと、香月は笑って言った。

「ステージから、あんたら三人が後ろでじっと見てるのが見えたよ。不思議な三人組がいる、と思って。そういえば、染川ちゃんって、もとはリヴシネにいたんだっけ?」

「そう。リヴシネっていうバンド名もわたしがつけたの」

「そうなんだ。サイボーグ美羽は、上手くいってる?」

「それが……」

 玲央は思わず、レコーディングの時の出来事を話した。この話好きな男には、内輪のこともつい話したくなってしまう。

「それはひどいね」

 愚痴っぽくならないように、淡々と話したが、香月は、玲央の傷ついた気持ちをわかってくれたようだ。

「その大人もそうだけど、狩沼くんって、そんなこと言う人だったの」

「きっと、音源録りたくて仕方ないんだと思うけど……」

「でも、騙されたらまずいっしょ。わたしは馬鹿にされるようなボーカルじゃねえって、啖呵切ればよかったのに」

「そこまで自信ないし……」

「なに言ってんの。染川ちゃんはすごくいいボーカルじゃん」

「いや、全然まだまだだし」

「そんなこと言ったら、ど下手な僕はどうなっちゃうの。染川ちゃんって、いつもは普通な感じなのに、ステージ上がると人が変わったように見えるよね。それがすごいと思う」

「ありがとう。でもなんか、メンバーの意思疎通が上手くいってない感じで」

「難しいよねえ」

「それより、こっちのほうが状況は深刻だよ」

 巧が口を挟む。

「ボーカルがいないんだから」

「どうして抜けちゃったの?」

 玲央は尋ねた。

「どうにも俺と里久の曲を気に入ってくれなかったんだよね。歌いにくいとか、覚えにくいとか」

「ベースの俺としては、やりがいはある感じだけど別に普通だと思うんだけど」

「最近、里久の曲がすごくよくて。でも、ボーカルの難易度が高いというか」

「そうそう。メロウもアッパーもいいよね。巧と睦彦と俺で、この曲いいわーとかいつも言ってるんだけど、ボーカルの反応がビミョーで」

「へえ。わたしがいた頃は、歌いにくいとか覚えにくいとは思わなかったけど。音楽性変わったの?」

 玲央は、最近のリヴシネの曲を聴いていなかった。対バンもしていなければ、もちろんライブに行くこともない。リヴシネの曲を聴きたいとは思わなかった。心をかき乱されたくなかったのだ。

「別に大きく変わったわけじゃないよ。曲のレベルは上がったと思うけど」

「巧の曲も、里久の曲もいいと思うんだけどなあ」

「かづくん、ラウド歌えるボーカルの知り合いいない?」

 巧が熱心に尋ねる。

「ええー、フリーのやつはいないよ。でも、リヴシネがなくなっちゃうのはもったいないよね」

 香月はちょっと考えたあと、手を打った。

「そうだ、ボーカルローテーションライブとかどう?」

 巧、順生、玲央の頭の上に、クエスチョンマークが浮かんだ。

「リヴシネ、サイボーグ美羽、マリアズ・マーシーの対バンで、ボーカルが一人足りないから、ローテーションするの。例えば、まずうちらがやって、サイボーグ美羽がやって、次に僕がボーカルで入ったリヴシネがやって、染川ちゃんが入ったマリアズ・マーシーがやって、僕が入ったサイボーグ美羽がやって、最後に、染川ちゃんが入ったリヴシネがやるの」

 一瞬の沈黙のあと、三人は次々と思いついたことを指摘した。時間が長くなりすぎるとか、客が混乱するとか、ボーカルの負担が大きすぎるし、ジャンルがそれぞれ違うのに歌えるのかとか、準備が大変とか、ほかのメンバーは賛成するかどうかとか、こんな企画がライブハウスの審査に通るだろうかとか、問題点だけなら易々と浮上した。

 しかし、みな同じことを考えたらしい。

「でも、面白そうだな」

「うん、やってみたいかも」

「わたしは別に歌えるからいいけど」

 巧、順生、玲央は言った。玲央も、面白そうだし、やってみたいと思った。

「リヴシネは少なくとももう一回ライブできるし、うちらは、リヴシネさんとサイボーグ美羽さんのファンを取り込むチャンスだし」

 香月はいたずらっぽく言った。

「ボーカルはきっついだろうけど、染川ちゃんと僕がやる気ならオッケーだよね」

「ボーカル以外もきついだろ」

 そう言いつつも、巧は楽しそうだった。

「三バンドでオールナイトしちゃう?」

「かづくん、タフだなあ」

 順生が感心し、香月が笑って続ける。

「じゃあ、ほかのメンバーに相談ってことでオッケー?」

 三人はうなずく。

「僕からライブハウスの店長にも話してみるね」

 香月は、「じゃあまた連絡するねえ」と、手を振って去った。

 三人は、そのあともその企画について話し合った。玲央は、暗い気持ちが薄れるのを感じた。またリヴシネで歌うかもしれないということよりも、冗談みたいなことをあれこれ話し合うのが楽しかった。


 冗談では終わらなかった。その企画はライブハウスから許可が下り、実質三バンドで、インターバルも含め、深夜零時から午前五時までの五時間を埋めることとなった。

 ざっくりとジャンルを分類すると、リヴシネはラウドロック、サイボーグ美羽はニューウェーヴ、マリアズ・マーシーはヴィジュアル系ゴシックロックで、統一感のないメンツだが、かえって面白いのではないかと玲央は思った。主催バンドとなってくれたマリアズ・マーシーは、ライブハウス側との相談や広告作りなど、あらゆる準備をかってでてくれた。

 ボーカルが通常とは異なることで、セットリストも面白いことになりそうだった。あえて同じ曲をやってボーカルの違いを聴かせるのか、ボーカルに合わせてがらりと雰囲気を変えるのか、それはそれぞれに任されていた。

 玲央と香月は、他バンドの曲も練習しなくてはならない。気は抜けないし、キー調整は必要だろうが、玲央は、マリアズ・マーシーの曲を歌える自信はあった。リヴシネの曲も、以前とかけ離れているわけではないなら、大丈夫だろうと思った。

 もちろん、いつもの自分のバンド演奏のリハーサルも怠れない。

 スタジオに集まったサイボーグ美羽は、セットリストを決めてリハーサルをした。本当に発売されるかどうか怪しいと玲央は思っているアルバムからの曲も入っている。セットリストを決めたのは、狩沼と直子だ。玲央は、いつもやっている定番の盛り上がる曲をラストに入れたかったのだが、新曲押しで行こうという直子の意見が通り、ミディアムナンバーで締めくくることになった。

「じゃあ、リハはここまでにして、新曲合わせない?」

 一通り終わると、狩沼が、イベントのセットリストに入りきらなかった曲を合わせようと言いだした。玲央は異を唱えた。

「イベントでやる曲をしっかり固めようよ。途中の、曲と曲が流れるところも失敗できないし」

「それはまた日が近くなったらやればよくない?」

「あのさ、今わたしお金ないんだよね」

 無駄にスタジオに入る余裕なんてなかった。それは、引き落とされたレコーディング費用のせいだった。口座の貯金は底をつきかけている。やはり、本当に一割だったのか怪しい。イベントが終わったら、メンバーを説得して、事務所、レーベルと縁を切らなければ。

「玲央ちゃんの分のスタジオ代はわたしが払うから」

 直子が言ったが、それならそもそも、大きな出費の必要な話に乗ることにあなたが賛成しなければよかったのに、と思ってしまった。玲央が求めているのは、もっと心のこもった対応だった。

「曲の締めもぐだっとしてるし。ちゃんとしようよ」

「そうかな?」

 玲央の言葉に、狩沼は首をひねる。

「イベントの流れ、もう一度確認しようよ」

 福留が言い、なんとか団結を維持したまま練習は進んだ。

 練習を終え、スタジオから駅へ向かって歩きながら、玲央は尋ねた。

「かづくんとはいつ合わせるの?」

「明日だよ」

 直子が答える。

「曲どうするの?」

「メールで曲とかキーの打ち合わせは済んでる。向こうが俺らの曲をよく知ってくれてるみたいだったから、歌いたいのを選んでもらった」

 そう言った狩沼は、スタジオ前のコンビニで買った、秋冬限定のアイスクリームをスプーンですくって食べている。

玲央は、今のわたしは食費もぎりぎりまで削って、お菓子のひとつも食べられないのに、と、内心憎々しくアイスを見つめた。

「初めて一緒にやるから、正直不安だけど」

 福留が言い、直子と狩沼が口々に言った。

「なんとかなるよ」

「言い出したのは香月さんなんだから、大丈夫だろ」

「香月さんはメイクも衣装もばっちりだろうから、見た目の統一感はまったくなくなるけどね」

「まあ、一回きりなんだから、楽しくお祭り気分でやろうよ」

 見た目の統一感などは気にしなくてもいいとしても、玲央は、やるからには真剣すぎるくらい真剣にやってほしかった。しかし、空気が悪くなるのが嫌で、なにも言わなかった。

前にも、空気を気にして口をつぐんだことがあった気がする。というか、いつものことか。

 

マリアズ・マーシーと玲央のスタジオリハーサルは、順調に終えることができた。香月のいないマリアズ・マーシーの中に、自分一人だけで飛び込んでいくのは緊張したが、向こうのメンバーはまったく頓着せず、必要以上に気を遣ってくることもないので、気が楽になった。

 ギターの朔人(さくと)がまとめてスタジオの代金を払っている間、ほかのメンバーは、狭いロビーの椅子に座り、自動販売機から買った飲み物を飲んでいた。

「朔人さん、わたし、自分の分は払いますから」

 玲央は言ったが、マリアズ・マーシーの年長者の朔人は手を振る。

「いいよ。うちのバンドの共同のお金から出すから」

「でも」

「いいからいいから」

「気前いいねえ」

 レジに立った西尾が笑う。玲央も顔見知りのスタジオのスタッフだ。

「マーシーはこの前のインディーアルバムが売れたからね。儲かってるでしょ」

「そんなことないけど、たいして経費もかかんないから」

「余裕だね。ローテーションライブっていうのも、なかなか余裕がないと出てこないアイデアだよね」

「そうかな。香月らしい悪ふざけだと思うけど」

 朔人にお礼を言い、玲央はほかのメンバーにもお礼を言った。

「いいよ、そのくらい」

 缶コーラを片手にした青髪は、ベースの聖(ひじり)だ。

「やっぱり、染川ちゃんは上手いよなあ。サイボはメジャー目指してるんだよね?」

「まあ、行けるところまで頑張ろうかと……」

 ドラムの優(ゆう)が、邪魔そうに金髪を払いのけながら口を挟んだ。

「香月は、染川さんはリヴシネに入ったほうがええんちゃうか、言うてたけどな」

「え?」

 玲央は、優の言葉に目を丸くした。

「あくまで香月の意見やけど。リヴシネのほうが合ってる気がする、って、ぽろっと言うてた」

「いやあ、そんなことないよ」

 玲央は、へらへらとした笑みを繕う。

「でも、サイボの染川ちゃんのボーカルもいいし」

 聖の言葉に、玲央はほっとした。

「ありがとう。今のバンドに自分が合ってないってことかと思っちゃった」

「そんなことはあらへんけどな」

「ボーカル抜けちゃったリヴシネはもったいないけど」

「あいつら、本気でプロ目指しとったもんな」

「確かに、もったいないけど、そういうこともあるしね」

 事情を知っている西尾が言う。

「俺も一度はバンドでメジャーデビューしたけど、今はこうして堅気だし」

 玲央は、「現実は厳しいですね」と、つぶやいた。そうだ。リヴシネには、そもそも可能性なんてなかったのだ。かわいそうだが、それが現実だ。

 優から聞いた香月の言葉は、気にしないことにした。

 そして、リヴシネとのリハーサルの日。玲央は、意識して肩の力を抜き、スタジオに入った。

マイクスタンドの前に立ち、準備を終えたメンバーを見回した。

「今日はよろしくお願いします」

 わざと堅苦しく頭を下げる。少しふざけでもしないと、気持ちが落ち着かない。

「始めるよ」

 睦彦が小声で言い、一曲目のカウントを始めた。

 イントロのリフが始まった瞬間、玲央は、前の時間線の記憶が押し寄せてくるのを感じた。普段は押し込めていることさえも忘れていた景色が、鮮明によみがえった。二十代の自分が、バンドの一員としてステージに立っているときに見ていた景色だ。

 玲央はマイクに手をかけ、歌い始めた。

 巧が出してきたセットリストは、玲央に配慮してか、玲央がいた頃にはすでにあった曲が中心だったが、後半には新しめの曲が二曲組み込まれていた。

 新しい曲でも、玲央は一切の違和感を覚えなかった。イベントをするにあたって、初めて聴いた曲だったが、どこか前の時間線にあった曲を彷彿とさせる。

 それだけではなく、歌ってみると、まるで自分のために作られた曲のように感じた。別のボーカルを想定して作った曲のはずなのに。

 一通り曲を合わせ終わると、玲央は途端に力が抜けて、椅子に落下するように座った。

「ごめん、やっぱりエフェクターないとだめだね」

 順生が申しわけなさそうに言った。巧がうなずく。

「直結だと、やっぱり合わない音になるな」

「エフェクターを友達に貸すとか、馬鹿だろ」

 里久は相変わらずの口調だ。

「睦彦も今日調子悪くないか?音小さいぞ」

 巧が音を切ったギターをピロピロと弾きながら尋ねると、睦彦は坊主頭をかいた。

「今日、キャベツ一玉しか食べてなくて」

「本番はしっかりしてくれよな。順生も、早く返してもらえよ」

 玲央は、今の演奏が完璧なコンディションではなかったことに驚いた。

「玲央、大丈夫?」

 順生がベースを抱えたまま、疲れた様子の玲央に心配そうな顔を向けてくる。

「大丈夫。みんな、上手くなったね」

「上から目線だな」

「玲央も上手くなったよ」

 里久と順生の返事の違いに、思わず笑ってしまう。

「そんなことないよ。久しぶりにシャウトしたけど、やっぱ練習しないとね」

 玲央は順生の発言だけに答えた。

「もっかい初めから行くぞ。それとも、特に練習したい曲ある?」

 巧は玲央に顔を向けたが、玲央は首を振った。

「初めから行こう」

 玲央は言うと、はちみつレモンのペットボトルを置き、立ち上がった。


 8

 深夜、アルバイトから帰ってくると、狩沼からメールが届いていた。CDのプレス代を追加請求されたという。もし払えなければ、その倍の違約金で手を打つということだった。

 狩沼は、払えない額ではないから、みんなでプレス代を払おうと提案したが、玲央は心の中で一蹴した。

 玲央は、すぐに狩沼に電話をかけた。眠そうな声で出た狩沼に、絶対に騙されているということを再び力説した。このままだと、今以上に金をむしり取られることになるから、違約金を払って、縁を切ろうと。

 玲央は、すぐにでもメンバー全員で集まって話し合いたかったが、狩沼は、みなそれぞれ忙しいし、イベントが終わってからでないと集まれないと言った。イベント後に話し合うことを約束し、電話を切った。

 玲央は、スズヤを外して机の上に置いた。

 きっと、狩沼も直子もわかってくれる。また団結できるはずだ。

大丈夫だよね、と心の中でスズヤに言う。

とりあえず、明日は本番に備えて、リヴシネの曲を一人で練習しよう。

 イベントのチケットの売り上げは上々だった。マリアズ・マーシーのメンバーが頑張ってくれた宣伝のおかげだろう。サイボーグ美羽の分のノルマは事務所がさばいてくれると思いきや、ワンマンではなく、共同のイベントなので、自分たちで売ってくれと言われた。やはり、事務所はまともに仕事をする気がないらしい。

 イベント当日、玲央はもやもやとした思いを殺して会場に入った。勝負着であるダイナマイト・イリュージョンのTシャツとパーカーと、革のショートパンツと、黒いタイツという服装だ。もう冬だから、生足は寒い。

 メイクを開始して約一時間半。ナチュラルメイクの顔がほぼ仕上がった頃、すでにメイクをしているマリアズ・マーシーのメンバーが楽屋に入ってきた。サイボーグ美羽とリヴシネも次々と到着する。

 出演順はこうだった。サイボーグ美羽、リヴシネwith香月、マリアズ・マーシーwith玲央、サイボーグ美羽with香月、リヴシネwith玲央、マリアズ・マーシー。主催バンドがトリを務めるべきだと、玲央が主張し、それを受けて香月が順番を決めた。

 ボーカルの玲央と香月は、約四十五分ごとに三十分ずつ、三回歌わなくてはならない。言葉にすると簡単なようだが、慣れない曲も歌わなければならず、身体的にも精神的にもきついだろう。しかし、きっと楽しくなりそうだ。来てくれる人たちにも、新鮮で面白いと思ってもらえればいいのだが。

 時間が来て、サイボーグ美羽はステージへ向かった。玲央はしんがりで、暗い舞台袖を歩く。毎回、ライブ前は緊張する。きっと上手くいく、と自分に言い聞かせた。心なしか、いつもより不安な気持ちが強い。

 いざステージに立つと、いつも通りの高揚感に包まれた。埃と、機材の金属のにおい。このにおいをかぐと、自然と歌うモードになる。

大丈夫、お客さんもちゃんといる。プロみたいに大歓声というわけにはいかないけれど、ちゃんと見てくれる人がいる。

 パッとステージが明るくなり、演奏が始まった。

 

イベントは順調に進んでいた。玲央はサイボーグ美羽とマリアズ・マーシーの出番を終え、袖から、香月とサイボーグ美羽の演奏を見ていた。演奏陣は相変わらずクールなのに比べ、香月は濃いメイクをした顔で表情豊かに歌っている。いつも自分が歌っている曲を違う人が歌っているのは変な感じだが、気がつかされることもあった。

香月の歌い方は、全力で、自分の持っている歌唱力以上のものを出そうとしているかに見える。慣れない曲だということもあるだろうが、その必死さが玲央の目には心地よかった。

玲央は、自分が歌っている姿も、聴いてくれる人に、香月のようにひたむきに映っていてほしいと思った。

演奏が終わり、インターバルに入った。リヴシネとマリアズ・マーシーは、アンプを通さずに個人練習しているが、サイボーグ美羽は片づけを始める。

玲央が鏡を見て顔の最終チェックをしていると、香月が話しかけてきた。

「眠くない?」

「全然。今日は調子いいみたい」

 玲央は、手鏡を置いて笑顔を向けた。

「細い女の子なのに体力あるね。僕はもうへとへとで」

「そうは見えないけど。さっき、すごくよかったよ」

「いやいや。難しいなと思いながら歌ってた」

「負けたかもと思った」

「まさか。でもありがとう。次、リヴシネだね」

「うん」

「僕は化粧直しがあるから見れないけど、頑張って」

「ええー、見てくれないの?」

「嘘、見る見る。さっき野口くんと久保井くんとちょっと話したんだけど、染川ちゃんと一緒にやるの、楽しみにしてるみたいだよ」

「え……そうなの?」

 もしかして、このイベント自体、玲央をリヴシネに入れようとする香月の企みなのかもしれない、とふと思った。考えすぎだろうか。

「あ、もう時間じゃない?」

 リヴシネのメンバーは立ち上がり、ステージへ向かおうとしていた。玲央も慌てて立ち上がる。

 玲央は、久しぶりにリヴシネのメンバーとともにステージに立った。

 もう朝に近いというのに、マリアズ・マーシーの力か、客の密集度が高まっている気がする。

 無意識にみなみの顔を探してしまうが、さすがにこんな時間のイベントには来ていないか。

 自分では意識していなくても、長時間のイベントで、疲労はたまっていたらしい。いつもより心がぶれていた。しかし、音が出た瞬間、雑念は吹き飛んだ。

 玲央は歌いながら驚いていた。スタジオで合わせた時よりも、ずっとよくなっている。イヤモニもない爆音の中なのに、なぜか歌いやすい。そして、バンドにとって一番大事だと思っていたことを思い出した。このグルーヴ感だ。

サイボーグ美羽も、優れたグルーヴを持つバンドだと思っていた。それは間違っていないはずだが、玲央が本当に好きなのは、この攻撃的な音が持つ一体感だった。引き立て、せめぎ合うアレンジの妙と、音色のこだわり。重低音が軽やかに明るくなったかと思うと、再び沈み込んでいく。たおやかで、鋭い。このバンドサウンドが好きだ。この自分の歌が好きだ。

 三十分の持ち時間は、あっという間だった。

 呆然とした玲央は、いつもとは違い、頭も下げず、手も振らずにステージをあとにした。客の反応など気にならなかった。誰がなんと言おうと、今の演奏は絶対によかったはずだ。

 玲央は、楽屋の椅子に座ると、うつろな目でペットボトルを取り、喉を潤した。

「玲央、お疲れ」

 首にタオルをかけた順生が声をかけてきた。

「あ、お、お疲れ……」

 呂律が怪しくなってしまった。これも、さっきのステージの刺激が強すぎたせいだ。

「終わったら打ち上げやるんだけど、来る?」

「あ、うーん……」

 その時、ベースを背負った直子が近づいてきた。

「玲央ちゃん、わたし、今日十時からバイトだから帰るね。昇ちゃんも帰るって」

「え、あ、でもちょっと話し合いたいことが――」

「ごめん、わたし疲れちゃって。また今度でもいい?」

「……うん、わかった」

 あまり無理を言っても仕方がない。

「リヴシネの演奏、よかったね」

 直子もよかったと思ってくれたのか。でも、そんな一言で表現できるようなものではなかったと思う。

「ありがとう」

「じゃあね」

「お疲れ」

 直子を見送り、玲央は順生に向き直った。

「えっと、打ち上げね。どうしようかな」

 本当は出たかった。マリアズ・マーシーのメンバーとも、リヴシネのメンバーとも話したかった。しかし、サイボーグ美羽のメンバーがそろっていないところでほかのバンドのメンバーと交流するのは、よくない気がする。特に、今、リヴシネのメンバーと話すと、なにを言ってしまうかわからない。

「今日はさすがに疲れたから」

「そうだよね。長丁場だったもんね。じゃあ、また次の機会に」

「うん……」

 最後は、主催バンドがしっかりと締めくくった。午前五時過ぎ、熱くて不思議な冬の夜は終わった。


 9

 イベントの翌日、巧と順生からそれぞれ、リヴシネに戻ってくれないかと電話があった。

 二人とも、玲央の歌をほめてくれた。あの時の一体感は、玲央の錯覚ではなかったらしい。

 それでも、リヴシネは解散するバンドだ。自分のバンドがあるから無理だと断った。しかし、虚しさが募り、胸が苦しかった。

 狩沼からも電話があり、翌日、集まって話し合いをすることになった。

 翌日の夜、玲央の部屋に、サイボーグ美羽のメンバーが集まった。

 玲央は、さっそく再び自分の主張を話そうとしたが、狭い床に座った途端、直子が先に口を開いた。

「ごめんね、玲央ちゃん。プレス代の件なんだけど、もう返事しちゃったの」

「え?」

「だから、できるだけ早く振り込まないといけない」

 戸惑う玲央に、狩沼は無表情で言った。

「ちょっと待ってよ。なんで?」

 玲央は目を白黒させた。

「正式に返事をしたつもりはなかったんだけど、松本さんが、わたしはCD出したいって言ったのを正式決定だと思って、もう上の人に伝えちゃったんだって」

 直子は申しわけなさそうに言った。

「玲央ちゃんが納得してないのはわかってるけど、今回は許してくれない?CD出そうよ」

「許すとか許さないとかじゃなくてさ……」

「もう仕方ないじゃん。今更嫌だって言ったら、違約金をつり上げられるかも」

 持参した缶チューハイを片手にした福留は、面倒そうに言った。

「そんなこと言ったって……」

 玲央は納得できなかった。

「深谷さん、松本と二人で会ってるんだよ」

 福留が言った。

「深谷さん、松本のことが好きなんじゃない?」

「そ、そんなことないよ!」

 直子は顔の前で手を振る。顔は赤くなっていた。

「え、なんで、マジ?」

 玲央も取り乱してしまった。

「食事に行っただけだよ。ベースのプレイスタイルについて相談に乗ってもらって」

「何回?」

 玲央は問い詰める。

「三回、かな」

 恥ずかしそうに答える直子を、玲央は超常現象でも見つめるような目で見た。その照れた顔はなんだ。あんないけ好かない野郎のどこがいいのだろう。

「もう決まっちゃったことだから、一人二万ずつ出そう。俺が振り込むから――」

「ほんとにもう決まりなの?」

 狩沼の言葉に、玲央は顔が青くなる思いで身を乗り出す。

「うん。出せない?」

「一人二万なんておかしいよ」

「そんなに高いか?」

「高いって!うちら、騙されてるんだよ」

「でも、もう決まっちゃったことだから」

 狩沼は、ちらちらと直子を見ながら、困った様子だった。それでも玲央はここで引き下がるわけにはいかないと思った。バンドのことを考えてのことだ。今は言いなりになるべき時じゃない。

「だめだよ。もう事務所と縁切ろうよ。違約金なら出すから。四分の一が限界だけど」

「違約金出せるならプレス代も出せるだろ」

「そうだけど、わたしは絶対反対だよ」

「玲央ちゃん、なんとか今回だけ、お願いできないかな?」

「深谷さん、こんなこと言いたくないけど、どうかしてるよ。松本って人と二人で会うのもおかしいし、それを黙ってたのもおかしいよ。好きとか好きじゃないとかはどうでもいいけど、もっとしっかりバンドのこと考えてよ」

「言い過ぎだよ」

 狩沼が言ったが、玲央はまったく言い過ぎだとは思わなかった。

「どうせ、松本から食事に誘われたんでしょ?深谷さんから誘うわけないもん。取り入って、信用させようとしてるんだよ。騙されてるんだよ。懐柔しようとしてるんだよ」

「そこまでするかな」

 信じようとしない直子に、玲央は苛立つ。

「もっとしっかりしてよおおお!松本って人、レコーディングの時に、わたしの歌を笑ったんだよ!」

「松本さんはそんな人じゃない」

「ええ?」

 どうして信じてくれないのだ。一緒にやってきた仲間なのに。嘘をついたことなんてないのに。

 眉をつり上げた玲央を見て、狩沼が口を挟んだ。

「染川さん、落ち着けよ」

 沈黙が下りた。

「わたしはプレス代出さないから。その代わり、CDの売り上げの分け前もいらない」

 玲央は言った。

 ほかのメンバーは黙ってうなずき、事態は曖昧な形で収束した。


 数日後は、久しぶりの休日だった。アルバイトもなければ、バンド活動もない。髪を切りに美容室へ行き、帰ってきて掃除をした。夕食にもやし炒めを作って食べ、あと片づけを終えると、もうそれ以上動きたくなくて、クッションを背と壁の間に挟んで寄りかかった。もう一つのクッションを抱きしめる。玲央の家には、テレビもなければマンガもない。ちゃぶ台の上のパソコンと、ふわふわしたクッションだけが癒しだった。

 ダウンロードしておいた洋楽バンドの新譜を聴こうかとも思ったが、今は音の集合体を耳に入れる気分ではなかった。それに、もう何度も聴いたことのあるアルバムだ。

 しばらく一人でいろいろと考えたあと、玲央は、パソコンのかたわらに横たわっているスズヤに話しかけた。

「なんでこんなことになったのかな」

 考えているうちに、どんどん深刻な気分になってしまっていた。

「どうしたの?」

 スズヤが瞬く。

「このままわたし、サイボーグ美羽にいていいのかな」

「どうだろうね」

「あ、そうだ、向こうの時間線のサイボーグ美羽って、結局どうなったの?」

 玲央は、今までスズヤに尋ねようとしなかった自分が不思議だった。

「ごめん、玲央さんが前にいた時間線のデータベースにはアクセスできないから、わからないよ」

「そっか……」

 スリーピースバンドだったサイボーグ美羽がどうなったのか、永遠に知ることはできないのか。

 サイボーグ美羽の未来は、どちらにしろ未知なわけだ。リヴシネと違って。

「サイボーグ美羽がだめだったら、わたしはどうすればいいんだろう」

 完全に愚痴になってしまっている。

「リヴシネに誘われてたじゃん」

 スズヤがのんきに言う。

「リヴシネは解散するんだよ」

「玲央さんが入れば、解散しないよ」

「結局、里久と睦彦が脱退するし。リヴシネが無理なのはわかりきってるじゃん」

「ここは前にいたのとは別の時間線だよ。別の可能性があるんだよ」

「……ほんとにそう思ってる?」

「思ってるよ。解散の原因を取り除くこともできるかもしれないよ。できないかもしれないけど」

「そうだよ、上手くいくわけないよ。どれだけ気を遣っても、きっと里久は不満な点を見つけるんだよ。原因はひとつじゃないみたいなこと言ってたし。里久の性格は変わんないんだから、一緒にやっていくのは無理だと思って、別のバンドで頑張ろうと思ったの。それなのに……」

「玲央さんは、里久くんが嫌いなの?」

「嫌いじゃないよ。たまにムカつくことはあるけど……本当は悪い子じゃないし。でも、向こうがわたしのことを嫌いだから」

「そうなのかな?」

「そうだよ。わたしがもっといい性格になって好かれるように頑張るっていうのも、無理だし。そんな器用なことできないし」

「性格を変える必要なんて、ないんじゃない?」

「どうすれば上手くいくのか、わからない」

「失敗しそうで、こわいんだね」

「うん、そうだよ。こわいよ」

「なにが正しいかなんて、誰にもわからないんだよ」

「ユヅサちゃんも、そんなこと言ってたね。スズヤにもわからないの?」

「わからないよ」

 玲央は、完全に信じることはできなかった。魔法みたいな計算能力で、現状を分析して、未来を予知することもできるのではないか。なにしろ、スズヤは未来のAIだ。

 しかし、もしできたとしても、教えてくれるわけがない。甘い性格ではないことは、勉強を教えてくれなかったことで、すでに検証済みだ。

「ユヅサちゃんって、子供っぽいかと思えば、そういう発言は大人っぽかったよね」

 考えてみれば、玲央はユヅサのことをなにも知らない。

「ユヅサちゃんって、どういう人なの?」

「どういうって?」

「学生だよね?」

「学生じゃないよ。自由人ってとこかな」

「へえ。だからちょっと変わってるのかな」

「確かにちょっと変わってるかもね」

「スズヤもそう思うんだ」

「うん。理由もなく悲しんだりするんだ。ちょっと変だよね」

「ふーん」

 未来の玲央のファン。この時間線の玲央は、もしかしたら、プロになれないかもしれない。そうなったら、ユヅサは悲しむだろうか。

 ユヅサでなくてもいい。ファンがいてほしい。そういう未来に行きたい。

「でも、どうしよう……」

 寒い。健康そのもので、暑さ寒さに強い玲央でも、深まってきた今年の冬は、なんだか堪えた。


 狩沼からも、直子からも福留からも連絡はなく、自分から連絡することもなく、時は過ぎていた。リリース日が決まったという連絡もない。分け前はいらないと言ったから、知らされないのだろうか。それとも、レーベルが本当に仕事をしていないのか。

 玲央は、かけなしの給料を持って、一人でショッピングモールに買い物に来ていた。保温効果の高い下着などを買い足す。ライブで着られそうなTシャツも思わず買ったが、次のライブは決まっていない。ライブ用といっても、白地に黒のごく普通の文字Tだ。

 空気が凍り切った曇り空の下、紙袋を下げた玲央は、マフラーにあごをうずめ、人の行き交う大きな歩道橋を渡っていた。

 アコースティックギターを抱えた男が、寒さにもめげずに歌っている。玲央は思わず足を止めた。後ろからスーツ姿の男に追突され、舌打ちを受ける。

 三人ほどの聴衆の前に立ち、弾き語りをしているのは、狩沼だった。

 玲央は、そろそろとそちらへ近づいた。狩沼はまだ玲央に気づかない。

狩沼が歌っているのは、玲央の知らない曲だ。しかし、どことなくメロディに狩沼らしさが染みだしている。新しく作った曲だろうか。

玲央は、自分でも意外なことに、狩沼を見て、香月を思い出していた。狩沼が、ひたむきに歌っていたからだ。曲も声も歌い方も外見も違っていても、歌うことに気持ちを傾けている姿勢は同じだった。聴いてくれる人の数なんて関係なく、きっと、その気持ちそのものに価値がある。そう思わせる歌だった。狩沼は、こういう風に歌う人だったのか。

狩沼が玲央に気づいた。一瞬驚いた顔をしたが、そのまま歌い切り、照れたように頭を下げた。

 一人熱心に拍手をしている白いコートの女の子は、ライブで何度か見かけたことがあった。通りすがりらしきカップルは、ギターケースに小銭を入れて去っていった。

 狩沼は片づけを始めた。

「もう終わりですか?」

 女の子が残念そうに言う。

「うん。寒くなってきたし、空気がギターに悪いから」

「またやってください。SNSチェックして、絶対来ます」

 女の子は狩沼と握手をすると、駅のほうへ小走りに去っていった。少し下がって見ていた玲央には気づかなかったようだ。

「狩沼くん」

 玲央は声をかけたが、なんと言っていいのかわからなかった。

「勝手なことして、ごめん」

 狩沼はギターをケースに入れる。

「謝ることないよ。よかったよ」

 玲央は慌てて言った。

 狩沼が片づけを終えると、二人は一緒に駅へ歩き出した。

「最近、なんか行き詰ってる気がするから、別のことをしてみようと思ったんだ。歌ってみたら、違う気持ちになるかなって、単なる思いつきで」

 言いわけなんてしなくていいのに、と玲央は思った。

「さっきの曲、作ったの?」

「うん」

「よかったと思うよ」

「そうかな」

 狩沼は、前を見たまま言った。

「あのさ、CDのことだけど、もうリリースされたよ」

「そうなんだ」

「全然売れてないみたいだけど」

「そっか……」

「あのさ……バンド、まだ続けられるかな」

「え?つ、続けられるよ」

「でも……いや、なんでもない」

 改札での別れ際、狩沼は、「いろいろとごめんな」と、曖昧に謝ってきた。次の予定の話は、一切出なかった。


 10

 玲央のスケジュールは、空いていた。ダイナマイト・イリュージョンの年末武道館ライブの日だ。アルバイトも休みにしたし、バンド活動も、ほかの用事もなかった。

 玲央は、一瞬だけ複雑な気持ちになったが、すぐにダイナマイト・イリュージョンのライブのチケットを手に入れるべく、ネットの海を奔走した。

 しかし、思い立つのが遅かった。すでにチケットは完売している。長いことメジャーアーティストのライブに行っていなかったし、年末は自分のバンド活動があるものと思い込んでいた。大好きなダイナマイト・イリュージョンのライブだというのに、一般発売日さえもチェックしていなかったとは。

 個人同士のチケット売買を仲介するサイトやオークションサイトでは、価格が高騰していた。玲央の資金力では、定価でもいっぱいいっぱいなのに、二倍も三倍も払えるわけがない。そもそも、横行しているとはいえ、定価以上での売買は禁止されている。

 玲央は知り合いにメールを一斉送信した。誰か、チケットを持っていて、定価で譲ってくれる人はいないか、譲ってくれそうな人に心当たりのある人はいないか尋ねた。

 日が近づき、段ボール箱を切り抜いて、当日、会場前で持つための「チケット譲ってください」という札を作っている時、スマホにメールが届いた。

 里久からだった。ダイナマイト・イリュージョンのライブのチケットが二枚あるから、一緒に行かないかという。

 玲央は意外に思った。里久はダイナマイト・イリュージョンが好きだっただろうか。よく覚えていない。誰かと一緒に行く予定だったのか?ぎりぎりになって、連れが行けなくなったのだろうか。

 とにかく、ライブに行けるのはありがたい。玲央はすぐさま返信した。この際、一緒に行くのは誰であろうと構わない。自分の親だっていいくらいだ。

 座席番号を尋ねると、南一階席の一列目だという。かなりの良席に、玲央は高揚した。

 当日、玲央は自分なりの完全装備で、九段下駅にいた。コートの下にダイナマイト・イリュージョンのTシャツを着こみ、バッグにはダイナマイト・イリュージョンのタオルを忍ばせている。金銭的問題により、今回のライブのグッズは買えず、古いバージョンのTシャツとタオルだが、これが今の自分の全力だ。

 十分ほど待つと、里久がやってきた。少しきまり悪そうに、ちらちらと床かどこかを見ている。

「チケットは?」

 玲央が言うと、里久はコートのポケットに突っ込んでいた手を出し、握ったチケットをひらひらさせた。

「ちゃんとありますよ」

「よし。感謝感激です」

 ライブに行けるだけで、もう完璧だ。

 寒い中、長蛇の列に並んで待機し、じりじりと進む他人の背を眺めながら入場するというお決まりの苦行を終えたあと、席についてほっとする。

 開演までは、まだ時間がある。玲央は、話すことがなくて気まずくなることを予想していたので、ミステリーアンソロジーを用意していた。流れているBGMを聴きながら本を読んでいれば、間が持つだろう。

 やはりBGMもかっこいい。きっと、ダイナマイト・イリュージョンのギターの紺野さんが、後日、ブログでBGMのリストを公開してくれるだろうから、調べて聴いてみよう、などと考えつつ、文庫本を開いた。

「あのさあ、この前のイベント、どう思った?」

「え?」

 玲央は面食らい、里久に顔を向けた。里久は、なぜか仏頂面だ。

「対バンのこと?すごくよかったと思ったよ」

 玲央は正直に言った。

「なにがよかった?」

「イベント自体がよかったよね。かづくんのアイデアがよかった。緊張したし、疲れたけど、気持ちよく歌えたし。お客さんも楽しんでくれたんじゃない?」

「サイボーグ美羽もよかった?」

「さあ、普通かな。それは里久に訊きたいよ」

「やっぱ上手いと思った」

「ほんと?」

 里久がほめてくれるとは思わなかった。なにか心境の変化でもあったのだろうか。

「リヴシネも上手いじゃん」

 思わず言うと、里久は食いつくように言った。

「そうだよな」

「うん。リヴシネの演奏も、すごくよかったと思うよ」

 玲央は力強く言った。本当はもっと言葉を尽くして表現したかった。感じた音の迫力、リヴシネの中で歌っていて、どれほど気持ちよかったか――

「あのさ、玲央、リヴシネにもう一度入ってくれないかな」

 里久が床をにらむようにして言った。

 玲央は、そう言われた瞬間、実は自分がこれを予想していたことを知った。

 しかし、どう返事をすればいいのか、わからなかった。

 黙っている玲央に、里久は苛々と目を向けた。

「聞いてる?」

「聞いてる聞いてる」

 玲央は、がくがくとうなずく。里久は早口で話し始めた。

「サイボーグ美羽があるのはわかってる。でも、はっきり言って、俺たちは自分たちのことが一番大事だから。俺、バンドやめたくない。本気でバンドやりたいんだよ」

 でもどうせ、里久はリヴシネを嫌になる。

「自分からリヴシネ辞めた玲央にこんなこと言うのはマジで悔しいけど、やっぱり、俺たちの音には、玲央が合ってるよ」

「そんなことないよ」

「あるって。ボーカルが辞めて、いろいろ考えて気づいたんだけど、俺が曲を作る時、無意識にキーを高くしちゃったり、音域広く作っちゃったりしてたんだよ。あとで調整して、ボーカル入れて演奏しても、なんか違和感があったりとかもして。それって、本当に無意識に、その時のボーカルじゃなくて、玲央が歌うのをイメージして作っちゃってたからだと思う」

「え、なんで?」

「多分、初めて組んだバンドのボーカルが玲央だから、ボーカルっていうのはそういうもんだと、耳に染みついちゃったんだと思う。巧と話したら、巧も同じようなことを思ったって」

「へえ」

 思わず嬉しそうにする玲央に、里久はわずかに険しい顔をする。

「別に、玲央のことが好きとか、そういうわけじゃないからな。でも、嫌いでもない。なんか前、どうせわたしのこと嫌いなんでしょとか言われたような気がするけど」

「ああ」

 確か、そういうことをぽろっと言ってしまったこともあった。

「とにかく、玲央のボーカルがリヴシネに合ってるっていうのは、メンバーの総意なんだよ」

 黙る玲央に、里久は話し続ける。

「玲央だって、本気でバンドやりたいんだろ。なにが不満でリヴシネ辞めたか知らないけど、サイボーグ美羽より、リヴシネのほうが絶対いい自信はあるよ。巧と順生から聞いたけど、上手くいってないんだろ。そうじゃなくても、俺は音と曲の面で自信があるっていうか。とにかく、俺はそう思ってるから。玲央も、なにか言いたいことがあったら、どんなひどい罵詈雑言でもいいから、遠慮なく言えよ。俺のことでも、ほかのやつのことでも。なんでも冷静に聞くから」

 玲央は、手首のスズヤに目を落とした。いっそ、すべて話してしまおうかと思った。自分が未来から来たこと。解散したリヴシネに見切りをつけ、バンド生活をやり直していること。里久がリヴシネを抜けたということ。

 スズヤが示している時刻は、開演数分前だった。

「ライブ始まる。話はそのあとで」

 玲央はきっぱりと言った。これから、一度観損ねたライブを楽しもうという時に、どうして大事な話なんか持ち出すのだろう。やっぱり、里久は馬鹿だ。


 自分の問題のことで頭はいっぱいだったが、ダイナマイト・イリュージョンの魅力は、否応なく、耳と目に飛び込んできた。

 調和し、ひとつの攻撃的な塊となったバンドサウンド。細かい部分が、いちいちキマっている。ドラムのフィルインも、独りよがりではなく、曲を引き立たせるには、この形しかありえないと思わせるし、なし崩し的な曲の締めは一切なく、綿密に打ち合わせていることがわかる。

 どこか斜に構えた姿勢もいい。程よく力が抜けているのだ。ギターの紺野とセイヤの少し気の抜けたコーラスなども、いい味を出している。

クールなリズム隊に対し、ギター二人とボーカルの動きは激しい。手を振り上げても、ターンしても、床に這いつくばっても、一瞬たりともかっこよさが途切れない。好き勝手に動いているように見えるが、実は、この洗練されたステージングを獲得するまでには、何年もかかったことを、玲央は知っている。何度繰り返しライブ映像を見てきたことか。

ダイナマイト・イリュージョンのパフォーマンスを見つめているうち、バラバラに散らかった自分の気持ちがまとまっていくのを感じた。

こうなりたい。自分も、ダイナマイト・イリュージョンみたいなミュージシャンになりたい。でもそれは、武道館のステージに立ちたいということでもないし、ましてや、同じような音楽をやりたいということではない。今まで抱いていた、漠然とした憧れ。こうなりたいという思いが、本当はどんな形をしていたのか、やっとわかった。

終演後、玲央と里久は、人の流れに乗って武道館から出た。暗い道を歩きながら、玲央は喉に力を入れた。すべてを話すことはできそうにない。しかし、ひとつのことだけは言える。

「わたし、リヴシネに入るよ」

「え?なんつった?」

 里久が素っ頓狂な声を上げる。

「リヴシネに入る!」

 玲央は小さく叫んだ。

 解散したっていい。里久と睦彦が辞めることになるとしても、今のリヴシネがかっこいいことに変わりはない。少しの時間でもいいから、本当に自分がやりたいことをやると決めた。

「あ、そう。ありがとう。って、なに泣いてんの?」

「泣いてない」

 玲央は指先で下まぶたをぬぐった。

「ご飯食べてかない?あの安いファミレスで」

「まあいいけど……どうしたの?」

 心配そうな里久なんて、超レアだ。いや、不気味がっているだけかもしれない。

「なんでもない」

 玲央と里久は、ファミレスに入った。玲央は、ひそかにユヅサの姿を探した。玲央の知らない玲央の過去で、ユヅサとここで出会ったはずだ。

 しかし、ユヅサの姿はない。それもそうだ。ユヅサは、この時間線には、まだ存在していないらしい。

 多分、もう出会えないだろう。それとも、可能性は残されているのか?

「なにきょろきょろしてんの?」

 里久がいぶかしげに言った。

「なんでもない。お腹空いた。パスタ食べよ」


 あとになって知ったことだが、ダイナマイト・イリュージョンのライブのチケットは、リヴシネのメンバーがお金を出し合って、オークションサイトで買ったものだった。玲央をダイナマイト・イリュージョンのライブに連れ出し、警戒心を緩めて説得するように、巧が里久に指示したのだ。折り合いが悪かった里久が説得することが、逆に一番効果があるのではないかと踏んだのだ。

 里久も、玲央がリヴシネのボーカルにふさわしいという点では意見が一致していたので、嫌々ながら、任務を引き受けたのだった。

 玲央は、その話をメンバーミーティングという名の食事会で聞かされた時、「定価以上でチケット買っちゃいけないんだよ」と言いつつも、内心は嬉しかった。

 サイボーグ美羽のメンバーは、意外にもあっさりと玲央の脱退を認めてくれた。

 狩沼はゆっくりとうなずき、「こうなると思ってた」と言った。直子も福留も、こうなることは予想の範囲内だったらしい。もしかすると、三人で玲央のことについて話したこともあったのかもしれない。

 サイボーグ美羽は、狩沼をギターボーカルとして活動を続けるということだった。

 リヴシネは、マリアズ・マーシーとの対バンライブで復活を遂げた。香月に、ローテーションライブを提案した真意を尋ねたが、ただの思いつきだという答えしか得られなかった。

 とにもかくにも、もとの時間線と同じになってしまった。玲央は、それでもいいと思った。終わりが来るまで、全力でバンドの一員でいようと思った。

 きっと、自分のバンドは、リヴシネしかありえないのだ。上手くいこうが失敗しようが、変えられないこともある。

 自分のバンドで、かっこよくステージに立つ。それがどこのステージだろうと、どれくらいの期間であろうと。それが、ダイナマイト・イリュージョンのようになるということだった。そのことにやっと気づいたのだ。

気持ちの整理がついてからは、スズヤに話しかけることもなくなっていた。スズヤは、単なるお気に入りの腕時計になった。

 そして、約一年後の秋。玲央は、二度目の二十歳を迎えた。

 二か月ほど前から、毎日のように悩んだ。そして、一週間前にやっと決意をして、予約を入れた。

 玲央は、風呂場でガーゼをはがし、彫り上がったタトゥーを見た。前と同じ、左前腕部に、同じ筆記体。彫ってくれた人も同じだったが、大きさとタッチが微妙に違う気がする。

少し大きくて大胆な感じがするといっても、前と比べることはできないし、気に入ったのだから、なんの問題もない。

 liveshineのタトゥーが入った玲央の完成。前の時間線とほぼ同じだが、少し違う玲央だ。

 玲央は、通常の方法で、未来へ進み続けた。


 11

 玲央は、二度目の二十二歳になった。

二度目の十七歳から、今までの世の中は、おおむね、一度目と同じように動いていた。首相は同じ年に同じ人に替わったし、同じ法案が通って、同じ事件が起きた。あまり熱心にニュースを見ていたわけではないから、こまごまとした違いがあったとしても、玲央には気づきようがなかった。少なくとも、ミサイルが日本に落ちたり、アメリカの大統領が暗殺されたり、起こるはずのない大事件が起こることはなかった。

リヴシネに関しては、一度目とは違ったことも多く起こった。すでにかなり違う道を歩んだからかもしれない。巧と里久が作ってくる曲も違うし、ライブの感触も違った。

玲央としては、前よりもよくなっている気がしたが、断言はできなかった。

玲央は、リヴシネを存続させるために、思いつくことはなんでもした。

照れを隠して、メンバーのいいところを口に出した。巧に、無理をしないようにと、さりげなく、繰り返し忠告した。

しかし、予言者のようなことを言ったり、心にもないほめ言葉を言ったりすることは避けた。バンドを続けたい気持ちが空回りすると、絶対に悪影響になると思った。いくら努力したとしても、なるようにしかならないこともある。心の健康のためにも、適度な諦めは必要だと思った。

そんな中、リヴシネは、いつものライブハウス主催のオールナイトイベントに出演した。前の時間線では、出なかったイベントだ。

いつもはほかの界隈で活動しているバンドもいくつか出演したので、興味深かった。

ライブのあと、玲央は、久しぶりに打ち上げに参加することにした。初めて会うバンドの人たちと話してみたいと思ったのだ。上手くいけば、つながりができて、自分たちの活動の場が広がるかもしれない。なにか嫌なことを言われたら、すぐに帰ればいいと思った。

居酒屋は、バンドマンたちでがやついていた。玲央は気後れしそうになったが、頑張ってリヴシネのメンバーたちから離れた。

「あ、リヴシネのボーカル。なんか飲む?」

 うろついていると、初めて会うバンドマンが声をかけてきた。

「ああ、ありがとうございます」

「めっちゃ叫んでたね。あの声、どうやって出すの?」

 玲央は曖昧に笑う。返事に迷っていると、次々と数人から言葉をかけられた。

「話し声は普通だよね」

「グラウルでしゃべってみてよ」

「女の子にそれはきつい」

「いいじゃん。男ばりに声出てるやん」

「案外女の子らしい趣味とかある?」

「いや、特にないですかね」

 玲央は居心地が悪くなって、構わずその場を離れた。

 別のテーブルに、一人だけ女の子がいた。誰かの彼女だろうか。黒髪ストレートの清楚な雰囲気の美人だ。

 玲央は、自然とそちらに引き寄せられた。自分と同じくらいの年に見える女の子がいるだけで、安心感があったからだ。

「お疲れさまです」

 その女の子のほうから挨拶してくれた。

「どうも。リヴシネのボーカルです」

 女の子の周りにいるのは、初対面のバンドマン二人だけだった。確か、有機配列という名前のバンドだった。ライブで聴いた感じだと、リヴシネと音楽性が似たところにいるようで、今まで知らなかったのが不思議な気がした。

「お。はじめまして。どぞどぞ」

 女の子の隣の茶髪が、席を勧めてくれた。

 四人で、あれこれバンドの話をした。茶髪はボーカルの片岸大和といい、向かいのツーブロックヘアは有機配列のギタリストの富田。女の子は、真由という大和の妹だという。真由は、バンドにはかかわっていないらしいが、音楽には詳しいようだった。「いつもお兄ちゃんが聴いているものを聴かせてもらってるんです」と嬉しそうに言ったので、仲がいいんだなと思った。玲央には兄弟がいないので、うらやましかった。

「ベースとドラムは先に帰っちゃったんだけど、今度、なんかリヴシネとうちらでやれるといいね」

 しばらく話したあとの大和の言葉に、玲央はありがたくうなずいた。

 玲央は、少しほかのバンドと仲良くなれたことに満足して、二次会には参加せずに帰った。

 

 リヴシネの活動は続く。オールナイトイベントの約二か月後、リヴシネは、いつもとは別のライブハウスの昼の部に何回か出演することになった。

 いつものライブハウスよりもキャパシティが大きく、大きな通りにも近いライブハウスだ。この昼の部のライブが上手くいけば、夜の部でも継続的にこのライブハウスでも活動できるかもしれない。メンバー一同、より一層気合が入っていた。

 チケットも頑張って売った。知り合いにはすべて声をかけ、路上でもまいた。事前にスタジオに入る時間もいつも以上にしっかりと取った。

 そして初めてのライブの日。チケット売り上げは目標にわずかに届かなかったが、ライブははじけた。盛り上がりは予想以上だった気がする。

 終わった時、玲央は汗だくになっていた。いつものライブハウスより、照明の熱が高かった気がした。それと緊張も相まり、変に気持ち悪い汗をかいてしまった。

 楽屋で、来てくれた香月、大和、真由と話したあと、シャワーを浴びた。いつものライブハウスにはシャワーがついていないけれど、ここはついていてありがたい。三人ともほめてくれたし、これからもここでできるといいなあと考えながら、玲央は汗を流した。

 そのあと、打ち上げに行くほかのメンバーやローディーたちを置いて、玲央は一人で駅に向かった。プラットフォームで生乾きの髪に少し冷たい風を受け、今日のライブを振り返る。はたから見れば、すっぴんの冴えない女が放心しているように見えるだろう。いいライブのあとは、反動でぼーっとしてしまう。

 そろそろ電車が来るかなと思って腕時計のスズヤに目を落とそうとすると、空っぽの手首があった。

 まずい。忘れてきてしまった。

 玲央は急いで引き返した。スズヤを失くしてしまったら困る。本当はこの時代に存在しないはずのものだ。誰かの手に渡ってしまったら、どうなるかわからない。

 スズヤ、勝手に歩き回ったりしてないよね?大人しくしててよ。

 玲央は祈りつつ、裏口からライブハウスに駆け込んだ。

 ほぼ全力で走ったので、息が切れてしまった。暗い通路の壁に手を這わせ、息を整える。ライブ後の全力疾走はきつい。

 その時、誰かの声に気づいた。通路の先で、誰かが話しているらしい。一瞬、「玲央」と聞こえた気がして、思わず聞き耳を立てた。

「だって本当に玲央さんに言われたんだよ」

 詰問口調の女の子の声。なんだなんだ。

「玲央さんが、睦彦くんが女の子と一緒に帰ったって言ってたんだよ」

 は?

「嘘だよ」

 睦彦の声だ。

「わたし、誰を信じていいのか、わからないよ」

「俺は浮気なんてしてない」

 睦彦の抑えた声。修羅場なのか?睦彦には彼女がいたのか。でも、自分の名前が出ているのはどうして?

「嘘つかないでよ!わたしは睦彦くんのことだけ見てるのに、ひどいよ。わたし、巧くんにデートに誘われたけど、断ったんだよ」

「え?巧くん?」

 巧も登場してきた。どういうことだ。

「睦彦くんと付き合い始めてから、映画に行こうって誘われたの」

「本当?巧くんと順生くんと野口には、真由と付き合い始めたって話したんだけど」

 あ、この女の子は真由だ。

「わたしが嘘ついてると思ってるの?」

「そうじゃないけど」

 いや、嘘だ。巧がひとの彼女にほんの少しでも手を出すような真似をするはずがない。

「浮気したの?」

「してないって」

「じゃあ、玲央さんが嘘ついてるってこと?どうしてそんな嘘つくの?」

 ほかにレオっていう名前の人いたっけ?

「そんなこと言われても……」

 睦彦は明らかに困っている。

「きっと、玲央さんはわたしたちの仲を裂こうとしてるんだよ」

「え、なんで?」

「そんなのわかんないよ。でも、睦彦くんを盗られたみたいな気がしてるのかもしれない」

「いやいや……玲央さんと俺はそんなんじゃないし」

「巧くんもグルなのかも。お兄ちゃんが睦彦くんを有機配列に誘ったのを知って、妹のわたしとも引き離そうとしてるのかもしれない」

 玲央は、急激に血が冷えていくように感じた。

「そのことは断ったし、野口にしか話してない」

「野口くんが巧くんとか玲央さんに話したかもしれないよ」

「それはないよ」

 睦彦はきっぱりと断言した。

「どっかから漏れたのかもしれないでしょ」

 真由は苛ついた口調で言った。

 睦彦を誘ったのは、有機配列だったのか。

 あの打ち上げの時、ベースとドラムが先に帰ったと言っていたことで感づくべきだった。

 玲央は通路を進み、二人の前に飛び出した。

 睦彦と真由は、薄闇から現れた玲央に目を丸くした。

「話は聞かせてもらいました」

 玲央は腕を組む。

「玲央さん、どうしたの?」

 息をついた睦彦が静かに言う。冷静になっている場合じゃないぞ。

「玲央さん?」

 真由は、誰だかわからないというように目を凝らす。すっぴんだから仕方がない。

「ちょっと忘れ物して」

 玲央は真由をにらむ。

「真由ちゃん、わたしがなんて言ったって?」

「睦彦くんが女の子と一緒に帰ったって、教えてくれましたよね?」

 真由はまったくひるむ様子がない。玲央は内心恐れをなした。この子、清楚そうな外見をしておいて、中身はやばい。なにを考えてるんだ。

「そんなこと言ってない」

「言ったじゃないですか!」

 これではきりがない。こっちは、今しがた睦彦と真由が付き合っていることを知ったというのに。

 睦彦を見ると、困った顔をしていた。どちらを信じていいのか、わからないらしい。

「わかった」

 玲央は言った。

「真由ちゃん、ちょっと二人で話せる?」

「わかりました」

「睦彦は帰って。お疲れ」

 玲央と真由は、誰もいない楽屋に入った。

 ざっと見まわしたが、スズヤの姿はない。シャワー室か?テーブルの下に落ちてしまったか?とにかく、近くにあることを祈ろう。今は、真由に慌てている姿を見せるわけにはいかない。

「真由ちゃん、どういうつもり?」

「邪魔しないでもらえますか」

 真由は、取り乱した様子だった先程とは別人のような冷たい声で言った。

「どういう意味?」

「睦彦くんは、有機配列に入ってもらいますから」

「そのために、あんな嘘ついたの?巧がどうとかいう話も、嘘でしょ?」

「はい」

 真由は即答した。

「呼びとめてくれてありがとうございます。わたし、自分であざ作って、明日睦彦くんに会います。玲央さんに殴られたって言います」

 真由は微笑んだ。

「は?それで睦彦が信じると思う?」

「睦彦くんはわたしに惚れてますから、わたしを信じます。それで、リヴシネが嫌になって、抜けたくなるはずです」

「……真由ちゃんのほうは睦彦のこと好きじゃないみたいな言い方だね」

「まあ、睦彦くんのことは好きですよ。優しいし。でも、わたしはお兄ちゃんが好きなんです。お兄ちゃんの命令だったら、なんでも従います」

「へえ」

 これだけ話してくれれば十分だ。スズヤがこれを聞いていてくれればいいのだが。あとは、スズヤを回収し、スマホかなにかに変身させて、録音したものとして、今の会話を睦彦に聞かせればいい。万能ロボットなのだから、それくらいのことはできるだろう。

 その時、楽屋のドアが開いた。

 睦彦だった。

 睦彦は、おもむろに真由に近づくと、バシンと真由の頬を平手打ちした。

 真由が悲鳴を上げ、よろけながら頬を抑える。

 玲央は、真由をはるかに上回る悲鳴を上げて睦彦に駆け寄り、すでにだらりと下がった睦彦の腕を抑えた。

「睦彦なんてことすんの!女の子を殴っちゃだめ!」

 玲央の叫び声に、睦彦は、我に返ったように目をしばたたいた。

「ごめん」

「二度としちゃだめ!もっとひどい女がいたとしても、殴っちゃだめだよ」

 玲央は、睦彦がこんなことをしたということが、自分でも驚くほどショックだった。

「わかった。もう一生、二度としない」

 玲央はしっかりとした睦彦の目を見て、ほっとした。黙ってうなずく。

「最低」

 真由はつぶやき、頬を抑えたまま出て行った。


 12

 その後、玲央はスズヤを探したが、見つからなかった。腕時計を失くしたと言ったら、睦彦も一緒に探してくれたが、どこをひっくり返しても、ない。

 叫びだしたい気分だった。誰かに盗られたか?未来の万能ロボットが、今頃は質屋かも。

 睦彦は、激しくうろたえる玲央に驚いたようだったが、「大切なものなんだね」と、一人で納得してくれた。

 憔悴しきって、駅に向かった。ホームでスマホを見ると、巧からメールが届いていた。

『腕時計忘れてたから、俺が持って帰った。明日渡す』

 玲央は息を吐いた。あんなに焦ったのが馬鹿みたいだ。

 スズヤは、巧に正体をさらすような真似はしなかったらしい。無事に玲央のもとに戻ってきた。

 そんなこともあったが、とにかく無事に事態は収束した。

睦彦は、その日のことは一切口にしなかった。真由や大和を見かけることもなかった。

 考えてみれば、前の時間線でも同じことがあったとしたら、リヴシネの解散の原因は、真由と大和だったのかもしれない。

 里久がいろいろと脱退の理由を並べ立て、睦彦はなにも言わなかったが、もしかすると、里久は睦彦をかばって、矢面に立ったのかもしれない。

 睦彦が、真由にいろいろと吹き込まれ、脱退の意思を固め、里久にだけ相談して、二人で抜けることにしたとしたら、多分里久は、睦彦が恥をかかないように、責められるのを最小限に抑えるように動くだろう。

 しかし、それが本当かどうか、確かめることはできない。

ともかく、この時間線では、二人の脱退は予防されたと考えていいのだろうか。

 玲央は喜ぼうとしたが、喜べなかった。確信はできない。これで安泰だと思い込むのは危険だ。どこにどんなトラップがあるか、わからないではないか。今のところ、上手くいってはいる。ライブの動員は上がってきているし、インディーズレーベルから、音源を出すという話も来ている。

 しかし、いつなにが起こるかわからないという覚悟はしていた。

そして、世の中のことも、身の回りのことも、本当の意味で、なにが起こるかわからない日々の始まりが、刻々と迫っていた。

その前に、重要な出来事があった夜がある。睦彦事件から数か月後、その夜が再びやってきた。

リヴシネは、インディーズレーベルからアルバムをリリースし、東名阪ツアーを回っている最中だった。前の時間線とは違う経験を経たリヴシネのアルバムは、玲央の知っていたものとはかなり違う仕上がりになった。メロディが際立っていて、歌っていて気持ちいいが、ボーカルとしてのプレッシャーをより一層感じる作品だ。玲央は、記憶している曲を、自分が作ったものとして出そうかとも考えていたのだが、巧と里久が作ってきた曲を聴いて、そのような考えはすぐに捨てた。

そして、大阪での夜。ライブはよかったのに、順生は落ち込んでいる様子だった。玲央はその理由を知っていた。

玲央は、順生の様子に気づかないふりをしてホテルの部屋に戻ろうとしたが、できなかった。

「順生、どうかしたの?」

 玲央は、ホテルの狭いロビーで、一緒に打ち上げから戻った順生に話しかけた。巧と里久と睦彦は、二軒目に飲みに行って、まだ戻っていない。

「どうしたって?」

 順生の目は、すでにアルコールのせいで血走っている。

「なにかあったんじゃない?」

 玲央は、順生をロビーに置かれた、色あせたカバーの椅子に誘導した。

 順生は、みなみと別れたことを話した。将来への不安を理由に、別れを告げられてしまったと。

「ごめん、気を遣わせちゃって」

「謝ることないよ」

 玲央は冷静だった。

「あのさ、話変わるけど、わたし、順生のことがずっと好きだった」

 解散するかもしれないバンドだ。気まずくなるなんて、そんな小さなことは考えないと決めたのだ。

「え?」

 順生は眠気が吹き飛んだような顔をした。あまりに唐突で、驚くのも当然だが、今言わないと、永遠にタイミングがつかめない気がした。

「みなみちゃんに嫉妬して、みなみちゃんのブログを荒らしたこともある。順生がわたしのこと、なんとも思ってないのもわかってる。でも、わたしは小学生の頃からずっと好きだから……気まずいとか思わないで。わたしは全然気にしないから。子供じゃないから、このくらいの気まずさなんて、順生も大丈夫だよね。ごめんね、勝手なこと言って」

 おおむね、心の中で準備していたことは伝えられたのに、自分が本当に馬鹿なことを言ったとしか思えなかった。

「ごめん、俺、今酔ってるから」

 順生は立ち上がった。

「今は話できない。おやすみ」

「おやすみ」

 玲央は、エレベーターに乗る順生を見送った。胸も頬も熱くなっている。これでよかったのかわからないが、よかったと思おう。

 その夜は眠れなかった。

 その翌日、順生はなにも言わなかった。その翌日もなにも言わなかった。ツアーから帰ってきた日の夜、駅のホームで二人きりになった時に、おずおずと話しかけてきた。

「この前、玲央が俺に告白してきたような気がするんだけど……俺の記憶違い?」

「記憶違いじゃないよ。本当だよ」

 玲央は、覚えていたのかと意外に思った。

「そうか、よかった」

 順生はほっとしたようだった。

「考えたんだけど……一か月、時間がほしいんだ。一か月経っても、玲央と俺の気持ちが変わらなかったら、俺と付き合ってくれる?」

「え?」

 玲央は呆然となった。

「俺、ずっと玲央は俺のこと、友達としか思ってないと思ってたから、びっくりしたけど、好きって言われてから、玲央のことが頭から離れなくなって」

「ええ?」

 可愛くないと思いつつ、変な声を出してしまう。

「今までのこといろいろ思い出したりして、一緒にいたら楽しいなって思ったり、玲央、また一緒にバンド始めてから、大人っぽくなった感じがするし、昔の玲央も、今の玲央も、いいなって……」

 確かに大人っぽく感じてもおかしくはない。精神年齢が主観的に生きた時間と同等だとすれば、玲央の精神年齢は二十七歳。順生よりも五歳年上ということになる。

「でも、もしかしたら、自分が失恋したばっかりだから、玲央に甘えたいだけかもしれないから、時間がほしいんだ」

「なるほど。わかった」

 順生らしいと思った。たとえ、失恋した心の隙間に入り込んだだけだとしても、玲央は、順生が自分を少しでも好きになってくれたと知って、この上もなく嬉しかった。長年の思いが報われた気分だ。

 きちんと告白するということには、これほど魔力があったのか。

「また俺から話すから……待っててくれる?」

「うん」

 玲央は笑顔でうなずいた。この際、バンド内恋愛禁止と決めたことなんてどうでもいい。

 玲央は今この瞬間が幸せすぎて、一か月後のことなんてどうでもいいとさえ思った。

 その一か月間も、バンド活動は続いた。ファンから届いたツアーの感想を分析し、新しい曲の制作にも入った。

 玲央も順生も、いつも通りに振る舞っていた。順生はどうだったかわからないが、玲央にとっては、平静を装うことは難しくなかった。しかし、そう思っているのは自分だけだったかもしれない。スタジオで、みんなの機材の準備が整うまでの間に準備体操をしていると、里久に、「なににやにやしてんの?」と、気持ち悪そうに言われた。

 そして、約一か月後。スタジオで練習を終えたあと、みんなでいつものファミレスに入ると、玲央は、メンバーたちの間の空気が張りつめていることに気づいた。

「ど、どうしたの?」

 玲央は、ひきつった笑みを隣の里久に向けた。

「なんで俺を見るんだよ」

 里久は不本意そうに言った。

「里久、まさか脱退するの……?」

 予防できたと思ったのは間違いだったか。

「なに言ってんだよ」

 里久は、いよいよ気味悪そうに顔をしかめた。

「脱退なんて、冗談でも言うなよ。なに考えてんの」

「え、じゃあ、巧、手の調子は?」

 平気そうに弾いていたが、実はものすごく無理をしていたのだろうか。

「調子?別になんの問題もないけど」

「またそれかよ。玲央、巧のこと心配しすぎだろ。いっつも弾きすぎるなって言ってるから、こっちが聞き飽きたよ」

 里久はあきれたように言う。

「じゃあ……」

 この緊張感の原因はなんだ。なにか別の問題が持ち上がったのか。

「巧と順生が、話があるんだって」

 里久は、睦彦とともに向かいに座った巧と順生をすっすと指さす。

「玲央、あの話なんだけど、みんなに話したんだ」

 順生は、なぜか言いにくそうに話しだした。

「そしたら、巧が――」

「待った、ここからは俺が話す」

 玲央の正面に座った巧が遮った。目を見開いて玲央の目を凝視してくる。

「玲央、俺と付き合ってくれ」

「は?」

 玲央は、馬鹿にしたように目を細めた。

「俺は玲央のことが好きなんだが、バンド内で恋愛するといろいろと弊害があると思ったから、ずっと我慢してたんだ。でも、順生と玲央が付き合うと聞かされたからには、男として黙ってられない。どうだ?」

「どうだって……」

 巧は冗談を言うような人ではない。本気としか考えられないが、脳の処理能力が追いつかない。

「わたしは順生が好きなんだけど」

 その時、注文したものが運ばれてきた。

「それはわかってる。目を見ればわかるよ。でも、順生は、俺に譲ると言ったぞ」

「え!?」

 玲央は、目を丸くして順生を見た。睦彦が、特大ハンバーグをがっつき始める。

「順生」

「えっと、玲央と付き合うって言ったら、お前は玲央のことを好きじゃなかったはずだ、目を見ればわかるって巧が言って、自分は我慢してたのに、どうしてそうなるんだって……俺、巧の取り乱しようを見てたら、絶対巧には勝てないような気がしたんだ」

 取り乱す巧なんて、想像できない。

「で、巧に譲る?わたしは物じゃないんだよ」

 だんだんムカついてきた。

「もういいよ。帰る」

 一人で冷静になりたかった。玲央はカバンをひっつかむと、席を立った。「あーら」という里久のふざけた声が聞こえたが、もちろん振り返らない。

 意外にも、巧が追いかけてきた。機嫌の悪いやつはほっとけと言うタイプなのに。

「話は終わってない」

 巧も怒っているようだ。玲央は、夜道でくるりと振り返った。

「なに?」

 地獄風の声を出しても、巧はひるまなかった。

「驚かせたのは謝る。順生にもがっかりしただろ。でも、許してやれ。あいつは優しすぎるんだ」

「優しすぎるがゆえに、わたしを物扱いですか」

 そう言いつつも、順生のことは許してもいいと思っていた。順生が今まで自分のことを異性として見ていなかったことはわかっている。それに、順生のことを嫌うなんて、どう頑張ってもできそうにない。

 問題は巧だ。

「どうしてよ……どうしてそういう気まずくなるようなこと言っちゃうの?バリバリバンド頑張っていこうっていう時にさ」

 玲央は思わず言った。

「気まずいって?」

「気まずいじゃん!」

 自分も順生に告白したくせに、巧を責めるのは間違っていることはわかっている。でも、玲央は心配だった。

「わたしがフラれるだけならいいのに、なんか……」

「順生と俺が気まずくなると思ってる?そんなことないよ」

「なんでそんな断言できんの」

「玲央と順生が一緒にいた時間にはかなわないけど、順生と俺も、結構一緒にいるんだからさ」

 巧と順生は、高校三年間、たまたま同じクラスだった。入学式の日、教室に入るタイミングからすでに同じだったという。

 リヴシネの始まりはそもそも、巧と順生が一緒にバンドをやろうとしていて、そこに玲央が誘われて入ったのだ。もし巧と順生が友達でなかったら、リヴシネはなかったかもしれない。

 そうでなくとも、二人には二人の友情があるのだろう。玲央は、自分がすべてを見ているわけではないことに気づいた。

「心配しなくていいから。それに、自分の気持ちを隠してるほうが、バンドにとってだめな気がする」

 そう言われると、そんな気がしてきた。

「だから、俺の気持ちは……」

 巧は言いにくそうにうつむいてから、顔を上げる。

「本当に言いたかったのは、付き合ってくれってことじゃなくて、結婚してくれってことだったんだ」

「はあ?」

 玲央はまともに巧の顔を見る。

「だって、十分付き合いは長いし、お互いのことはよく知ってるんだから、今から恋愛だなんだっていうのは、非効率的だろ」

「ちょ、え、なに言ってんの?」

 効率を求めるのは巧らしいと言えばらしいが、この場合にも当てはまってしまうのか。

「デビューして、生活が安定したら、結婚してくれるか?」

「え、そんないきなり……デビューできるかどうかもわからないじゃん」

 玲央は話題をそらしたかった。

「俺は、一緒にバンドでデビューして、玲央と一緒になりたいんだよ」

 あまりにはっきりした言葉に、玲央は圧倒されてしまった。

「今すぐ返事がほしいとは言わないから」

巧の目が街灯の光を宿し、きらきら光っている。

「……わたしなんかのどこがいいの?」

「一緒にいると安心する」

 巧は即答し、列挙しなかった。

「戻るか?それとも、家まで送ってく?」

 玲央は首を振った。

「一人で帰ります」

「そうか。じゃあ、気をつけて帰れよ」

 巧はすたすたと道を戻っていった。

 玲央は、巧が店内に戻るまで見送ったあと、混乱の極みにある頭を振って、駅への道を歩きだした。


 13

 リヴシネのファーストアルバムは、インディーズチャートで五位にランクインした。

 ツアーも成功を収めたことで、事務所もバックアップにより一層力を入れてくれたし、制作にライブに、リヴシネは忙しい日々を過ごしていた。

 正直、玲央の脳内には、バンド以外のものが入る余地がなかった。その間、巧や順生は、特に変わった様子はなく、返事をせかすこともなかった。里久と睦彦も、表面上はなにも気にしていないようだった。

 巧にきちんと返事はするつもりだった。結婚はともかく、付き合うかどうかの返事は必要だろう。しかし、気持ちの整理がつかず、棚に上げたまま、二か月以上も過ぎてしまっていた。

そんなある日、マネージャーの伊藤恵梨香が興奮した様子で、準備中のスタジオに入ってきた。

「聞いてください!」

 伊藤は、大学を出たての新人で、リヴシネのマネージャーの第一号だ。

「今度のライブに、シヴァの恭一さんが来るらしいですよ!」

「俺らのライブに来るの?」

 里久がギターから顔を上げた。

「そうです!注目してくれてるらしいですよ!」

 シヴァといえば、有名なメジャーバンドだ。そのベーシストである恭一が自分たちのライブに来るなんて、考えもしないことだった。

 しかし、メンバーはみな冷静で、伊藤ほどは興奮しなかった。

 誰が来るということよりも、今回のライブは、今までで一番キャパシティの大きい、初めての会場だということのほうが重要だった。

 本当に商売として成立するほど埋まるのか心配だったのだが、チケットは完売した。

 そして迎えた当日。入り待ちのファンの男女に捕まって一緒に写真を撮り、会場に入った。リハーサルを終え、もろもろの準備も整い、客が入って、いざ本番。

 いつも通り、気合い入れもせず、特にメンバーと会話もせず、ステージに立つ。

 通常と集中の境界線は曖昧だ。会場に入った時から集中しているようでもあり、ステージ中央に向かって歩いている時も、いつもの自分のままでいるような気もする。緊張はするが、スイッチが入る瞬間がいつなのかはわからない。しかし、いつの間にか、日常の自分から、ステージに立つバージョンの染川玲央になっている。

 始まってしまえば、初めての会場だとか、新曲はミスなくやれるだろうかとか、今日初めて来てくれた人は次回も来てくれるだろうかとか、余計なことは頭から吹っ飛んだ。

 その日のライブも、いい意味でいつも通りに終えることができた。

 玲央は、自分の楽屋でぼーっとなにもない空間を見ながらタオルで汗を拭いた。その時、ドアが開いて、伊藤の騒がしい声がした。

「お疲れさまです。染川さん、ちゃんとしてください。シヴァの恭一さんがお見えですよ!」

 いきなり言われても、と慌てたが、恭一は無頓着に、友人のような顔をして楽屋に入ってきた。

「おっす。いいライブだったね」

やけにラフな人だな、というのが第一印象だった。正直、シヴァのことはよく知らないのだが、なんとなくクールでおしゃれなイメージがあったので、意外だった。

「あ、ありがとうございます」

 玲央は人見知りを発揮しつつ、立ち上がって頭を下げた。

「みんな上手いねー。曲もいいし」

 恭一は名乗りもせず、勝手にしゃべる。

「特に上手(かみて)ギターの子が上手いね」

 巧のことだ。

「でも、下手(しもて)ギターの子もいいね。もう一人が派手に弾きまくるから抑えてるんだと思うけど、いいセンスしてるね。たまに弾くギターソロとか、また上手(かみて)とは違った感じでエモいし。ちっちゃい体で、あの重そうなロングスケールギター抱えててさ。でも軽快だから感心したよ。見た目的に違和感なくしっくりきてるし、かっこいいねえ」

「ありがとうございます」

 玲央は、里久に代わって礼を言った。

「ベースはもっと伸びしろがある気がするなあ。ちょっとノリノリすぎかな?」

 やはりベーシストはベーシストに厳しいのか。

「ドラムはめちゃうま。グルーヴはしっかりしてるね」

「恐縮です」

 玲央は心から頭を下げる。ここまでほめてくれれば十分だ。

「玲央ちゃんだっけ?きみもいいボーカルだね。今度一緒に食事でもどう?」

 会話の流れがよくわからなかったが、恭一の目は、返事を待っていた。

「えー、あー、ありがとうございます」

 玲央は戸惑ってしまった。

「今付き合ってる人とかいるの?」

 本当に単刀直入だ。

「え、ええと」

 玲央は戸惑ってしまったが、とっさに答えが口をついた。

「ええ、まあ……」

「もしかして、メンバーの誰か?」

 恭一は明らかに面白がっていた。

「ええ、まあ……」

「ええー誰だろう。上手ギターの子?」

「ええ、まあ……」

 仕方ない。あとで巧に謝ろう。

「やっぱりそうかあ。そんな感じしたな。うん、やっぱりね」

 恭一はうなずき、散々からかったあと、「じゃあ、頑張って」と去っていった。

「染川さん、神橋さんと付き合ってたんですか?」

 伊藤が目を丸くして言った。

「付き合ってません。とっさにああ言っちゃったけど」

「なんだあ。びっくりしちゃいましたよ」

玲央はやっと解放された気分で、楽屋に付属されたシャワー室へ入った。

 シャワーを浴び終え、帰ろうと荷物をまとめていると、またもや伊藤が騒がしく楽屋に入ってきた。

「染川さん、どういうことなんですか?さっき、恭一さんが、男性メンバーの楽屋に行って、染川さんと神橋さんは付き合ってるらしいねって話しだしちゃったんで、わたし、恭一さんの後ろから必死に、神橋さんに、顔と手話で話を合わせるように伝えたんですけど、神橋さん、わたしのこと全然見てないのに、結婚する予定です、とか言いだして、恭一さんも、その場にいたほかのみんなもびっくりして、阿鼻叫喚です」

 顔と手話、とか、阿鼻叫喚、とか、突っ込みどころは置いておくとして、面倒なことになってしまったようだ。

「染川さん、神橋さんと結婚するんですか?それなら、いつどうやって発表するかとか、いろいろ決めないと」

「まだ決まったわけじゃないから」

 玲央は、いずれ絶対結婚すると思われる言い方をしてしまったことに気づいた。

「ほんとに、あの、えーと、このことはまたあとで話すから。事務所のほかの人とかに言わないでください」

「わかりました」

 きょとんとした伊藤を置いて、玲央は男性メンバーの楽屋へ入った。

「恭一さんは?」

「もう帰ったよ」

 ケータリングを貪り食っている睦彦の横で、スポーツ新聞を読んでいる順生が言った。

「巧は?」

「シャワー浴びてる」

「巧のやつ、既成事実を作ろうとしたな」

 ペットボトルとタオルとともに床に座り込んでいる里久が、面白そうに言った。

「『結婚する予定です』とか言っちゃって」

「笑いごとじゃないし」

 玲央は深刻な顔をしつつ、巧への返事をまだ考えていないことに気づいた。

「もう結婚しちゃえば?同じようなことがまたあるとめんどくさいし」

 里久は軽く言う。

「結婚するほうがよっぽど面倒だよ」

「巧は本気なんだろ?プロポーズしたって聞いたんだけど」

「うわ、知ってたの?」

 玲央は焦り、顔の横の髪をつかんだ。

「順生はどう思うよ」

 里久は勝手に議長役を始める。

「俺は……」

「玲央は順生のこと、まだ好きなの?」

「好きだよ。でも、順生はわたしのこと好きじゃないことがはっきりしたから、もういい」

「俺は、巧はいいやつだと思う」

 順生の真剣な言葉に、里久は馬鹿にしたように応える。

「そんなことはわかってるだろーが」

 玲央はこんな時でも、里久の言葉に嬉しくなった。この時間線の里久は、やっぱり脱退など考えていないようだ。

「玲央」

 順生が玲央を見る。

「俺は、巧は好きなように行動したから、玲央も好きなようにしてほしいって思う」

「順生……」

「真面目か」

 ぐっと来た玲央と、突っ込む里久。

 Tシャツにジーンズ姿の巧が、髪を拭きながら出てきた。

「巧、玲央が結婚するって」

 里久が立ち上がり、テーブルの上の団扇を取る。

「そんなこと言ってない」

 玲央は里久の腕をはたく。

「巧、ほかの人に勝手なこと言わないでよ」

 玲央はかみついた。

「悪い。でも、玲央が俺と付き合ってるって恭一さんに言ったんだろ?」

 確かに、勝手なことを言ってしまったのは玲央も同じだ。

「ごめん。付き合ってる人はいるのかって訊かれて、つい」

「恭一さんと俺だったら、どっちがいい?」

「なんでそういう比較するの!?」

「俺と巧だったら、巧のほうがいいだろ?」

「なんで里久は巧の味方するの!?」

「久保井はどう思う?」

 片手を腰に当てて団扇を使いながら里久が言い、睦彦は弁当から顔を上げた。

「玲央さんと巧くんは、お似合いだと思う」

「ちょっとやめてよ」

「顔赤くなってる」

 このままだと、こうやってずっと里久にからかわれることになるのか。

 玲央は息を吸い込んだ。

「わかった、結婚――じゃなくて、付き合えばいいんでしょ、付き合えば」

 思わず、結婚すると言いそうになってしまった。

「だから、巧以外のみんなは、もうこの話題を出さないで」

 みんなと言ったが、玲央は里久をにらんだ。

「わーい、おめでとー」

 里久はどこまで本気なのか、拍手する。

「もうからかわないでよね」

「わかりました」

 里久は敬礼してみせる。

「わたしは帰るから」

 玲央はすぐに楽屋を出た。

 会場を出て、駅に向かって歩きだしたが、「玲央」と追いかけてくる声がした。

 パーカーのフードを被った巧が横に並ぶ。

「打ち上げ行かないの?」

 玲央は言ったが、巧はそんなことはどうでもいいというように首を振った。

「さっきの、真剣に受け取っていいのか?」

「いいですよ」

 玲央は、頬が熱くなるのを感じた。

「た、巧がね、こんなに強引だとは思わなかったよ。幻滅だよ、幻滅。クールなイメージが崩壊だよ」

 勝手に口がしゃべる。自分でも見え見えの照れ隠しだ。

「てか、バンド内恋愛なら、もっとこうなんか自然な感じで、気がついたら付き合ってました的なのが普通じゃないの?なんでこんな劇的な感じで……意外というか、わけがわからないよ」

「それは、そういうそぶりを見せないように俺が頑張ってたからだと思う。メンバー内に夫婦がいるバンドとか、普通にあるけど、なんか、ペアの男のほうの権力がバンド内で強くなってそうなきらいがあるだろ」

「ああ、なんかそんな感じするよね」

「俺は、自分の実力だけでリーダーシップ取りたいと思ってたから」

 リヴシネにリーダーはいないが、誰が実質的な中心かと問われれば、それは巧だろう。自然とそうなっていた。

「それは大丈夫だと思うよ。巧が一番リーダーにふさわしいもん」

「ありがとう。バンド内恋愛なんて、絶対だめだと思ってたんだけど」

「わたしもそう思ってた。みんな平等な関係でいるべきだと思ってたから」

 二人とも同じ考えだった結果、自然に付き合い始めるわけではなく、この急転直下な恋愛劇が起こることになってしまったわけか。

「でも、仕方ないよな。もう言っちゃったし」

 巧はあっけらかんと言う。

「そう……だね」

「オッケーしてくれて、ありがとう。早くデビューしような」

「あ、うん。そりゃあね。てか、デビューしたら結婚しようって、本気なの?」

「本気だよ」

 やっぱりそうか。もうどうにでもなれ。

「今日の会場は、メジャーバンドも普通にやってるところだ。今日のライブは、絶対にデビューへの足がかりになったと思う」

「そうだよね」

 玲央は、別の意味で熱い気持ちになり、恥ずかしさがなくなってほっとした。

 巧は、今日の会場よりも少し大きな会場の名前を出し、今度はそこでやれるように頑張ろうな、と言った。

 前の時間線で、武道館とうるさく言っていた巧とは違う。

 もしかすると、本当に成功できるかもしれない、と玲央は思った。

「あの、忘れないでくれよ。俺が、玲央のこと好きだってこと」

 巧はいきなり手を握ってきた。

「わ、わかった。わかりました」

 不意打ちに、玲央はまた一気に動揺し、がくがくとうなずいた。

 この状況に慣れるには、まだまだかかりそうだった。


 14

 約束の日は、予想よりも早く訪れた。

 あれよという間に、メジャーデビューが決まったのだ。噂によると、恭一が業界人の間で、リヴシネをほめて回ったことが後押しとなったらしい。しかし、なかなか恭一と再び会う機会がなく、真偽のほどは定かではなかった。

久しぶりに連絡を取った玲央の家族は、デビューしたことを喜んでくれた。ライブにも来てくれ、今まで応援しなかったことを謝ってくれさえした。

 結局、玲央と巧は、メジャーデビューから約一年後に結婚した。二人はまだ二十五歳にもかかわらず、結婚した時には、もはや熟年夫婦のような落ち着いた心境だった。これだけ長く一緒にいるのだから、お互いに我慢できなくなることは、ありそうになかった。

 忙しい日々の中で、リヴシネは作品を作り続け、ライブを続けた。リリースするたびに順位は上がり、ライブ会場のキャパシティも上がっていった。

 有名な雑誌の表紙を飾るというよりは、コアなロック雑誌の常連になるようなポジションではあったが、リヴギャザーという名前のファンクラブも創設され、大規模なツアーもできるようになった。

 玲央が二十七歳の時、リヴシネは武道館でライブを行うこととなった。

特に気負いはなかった。客として、いろいろな思い出のある武道館でライブができることは嬉しかったが、それは目標でも通過点でもないと思っていた。ただ、いつも通りの仕事をするだけだ。

ライブは、トラブルもなく、無事に終了した。しかし、終わったあとに、驚くことがあった。

「はじめまして」

 某有名音楽雑誌のライターを名乗った男は、桐山悠太と書かれた名刺を差し出した。

 自分の楽屋で挨拶を受けた玲央は、彼の顔をまじまじと見つめた。

「優くん……?」

「わお、覚えとってくれたんか」

破顔した桐山は、雰囲気はかなり変わっていたが、まさしく、マリアズ・マーシーのドラマーだった。

「覚えてますよ!何年ぶり?今ライターやってるの?」

「そうですよ。もう七年とかになるんかなあ。染川さんはすっかりご立派になられて」

「いやいや、優くんこそ……驚いた」

「こんなこともあるんやなあ」

 桐山は自ら、ほかのメンバーがどうしているか話してくれた。

「香月は、今もバンドやっとるんやで。スワロー・マイ…ていうバンド、知らへん?」

「ああ、知ってる。面識はないけど……え?」

「あのボーカル、香月なんやで」

「え!?マジで!?」

 少し音源を聴いたことがある程度だが、ボーカルが香月だったとは。

「あのバンド、めっちゃボーカル上手いなと思ってて、歌唱力なら絶対わたしのほうが負けてると思ったけど、あれ、かづくんだったんだ」

 ゴシック感のかけらもない、爽やかな音楽性も相まり、歌唱力が成長しすぎていて、気づかなかったのだ。

「確かに、めっちゃ上手なっとるよな。ああいう音楽性のほうが合ってたんやろな」

「へえ、そうだったかあ」

 玲央は驚きから立ち直れない。

「ほんとは、俺らはマーシーでメジャー行こうと思うとったんやけどな」

「え、そうなの?」

 再び驚く。俺たちはインディーでやっていくというのが、マリアズ・マーシーのメンバーたちがいつも言っていたことだったのに。

「ほんとはめっちゃがつがつしとったんよ。かっこつけて、そうじゃないふりしてたんや。けど、やっぱ上手くいかんくてな。サイボのメンバーと、連絡取ってる?」

「いや、脱退してから、全然」

「あいつらも、いいとこまで行ったんやけどなあ。しっかり解散ライブやったんやで」

「そうなんだ……」

「いろいろ面白いこともあったんよ。聖が深谷さんと付きおうたりとか」

「ええ!?」

「なんか一時期、深谷さんが落ち込んでたみたいでな。それを聖が慰めたことがきっかけらしい」

「マジか……」

「まあ、結局別れたけどな。深谷さんがほかの男のとこ行ったらしい。有名な大学のやつとか言うてたかな」

「へえ。いろいろあったんだね……」

「せやけど、染川さんがリヴシネに入ったことが一番衝撃やったな。やっぱりとも思ったけど、まさかって感じもあったし。結果的に、それでよかったんやな。香月が正しかったんや」

「ボーカルローテーションライブやったじゃん。やっぱりあれって、かづくんがリヴシネのために提案してくれたのかな?」

「染川さんをリヴシネに入れるためやったと思うよ。ほんとは、朔人とか反対してたんやけどな」

「そうだったの?」

「うん。そんなお遊びみたいなことしてる暇はないんやぞとか言うてたけど、香月が、ファンを増やすチャンスだとか言って説き伏せて。まあ、いい思い出やな」

「やっぱりそうだったんだ」

 香月は優しいし、歌が上手くなっているし、憎たらしい。

 玲央がそう言うと、桐山は笑った。

「まあそう妬むなや」

「でも、なんか悔しいなあ。あんなに歌上手くなってるのを知ると」

「そもそも、染川さんと香月は、ボーカルとしてのタイプが違うやん」

「そうかな?」

「ボーカルって、素材派と技巧派に分かれると思うんよ。染川さんは、もともとの声質がいいし、ボーカルとしての素質が優れてる素材派。香月は、昔はめっちゃ下手だったけど、努力して上手くなった技巧派だよ」

「そういう聴き方したことなかったなあ。どっちがいいんだろう」

「俺は、素材派の人のほうが、ぐっとくる歌を歌えると思うけどな」

「お世辞でも嬉しいよ」

「いや、ほんまに」

 ライターの中に昔からの知り合いがいるということは、心強かった。

 その後、桐山は、リヴシネの武道館ライブのレポート記事を書いてくれた。それからも、リヴシネに対して非常に好意的な記事を何度も書いてくれた。

 リヴシネは、周囲の人々にも恵まれていた。そのことを実感する機会は常にあり、玲央は感謝した。

 

リヴシネは活動を続け、地道に階段を昇って行った。メンバーも健康に年を重ねていった。

玲央が三十一歳の時に海外ツアーを敢行。三十二から三十四歳の間に、ほかのメンバーが立て続けに結婚。

 そして三十五歳。玲央は、社会の動きに疎くなっていたが、大々的に報じられたニュースは、耳に飛び込んできた。

 AI研究の末、人間をはるかにしのぐ知能を持った、超知能が誕生したのだ。

 超知能は、発明品を次々と生み出した。高性能な自動車、体によくて、味も素晴らしい数々の加工食品、汚れを自動分解する服などの身近なものから、より効率的で安全な自然エネルギーを使った発電所、地球上すべてを網羅する電波塔まで。ほかにも、超高性能ロボット、医療用ナノマシン、転送装置、タイムマシンなどなど。人間には、原理を理解することができないもののほうが多かった。

 玲央は、ユヅサのことを覚えていたし、ユヅサの言っていたことも覚えていた。これが、シンギュラリティというものだった。

 しかし、社会が劇的に変わった実感があったかといえば、そうではなかった。

 最低限の生活を保障する給付金制度が施行されたが、今まで通りに働く人のほうが多かった。ロボットやAIは、人間から仕事を奪うのではなく、働く人々のサポートに回った。

また、ほとんど万能と言える医療やロボットは一般に浸透したが、誰もがどこでもドアで移動できるわけではなく、誰もがタイムマシンを使えるわけではなかった。AIと人間の政治家が話し合い、協力した法整備の結果、広く一般の人々が使える技術と、専門機関のみに渡される技術が分けられたのだ。

 転送装置は、消防や警察などのみが利用でき、タイムマシンは、歴史学科のある著名な大学の研究員など、限られた人々だけが使うことができた。

玲央は、どうしてユヅサがタイムトラベルする許可を得られたのか不思議に思ったが、あと何年かすれば、制度が変わるのかもしれなかった。

AIは、あえて社会を大きく変えることを避けたという説もあった。そう唱えた学者によれば、本当は、人間は誰もが働かずして大富豪のような生活を送ることができ、ロボットに奉仕される楽園を実現することも可能であるうえ、月や火星をテラフォーミングして移り住むこともできるというのだ。AIは、人間の精神が劇的な変化に対応することが難しいと判断し、意図的に抑制しているのだと。

玲央には、それが本当かどうかはわからなかった。しかし、なににせよ、AIは人間のことを考えてくれているということではないかと思った。

 玲央のようには考えず、使える最新技術が制限されたことに抗議する人々も、もちろんいた。そのような人々には、AIが辛抱強く説明を続けた。危険を回避するための必要な措置なのだと。ある活動家は、それでも激しく抗議を続け、とうとうAIを擁護する政治団体の代表者に殺害予告を出したため、ロボットの警察官に速やかに逮捕された。

 そのように反発する人は、ごく一部に過ぎなかった。拒否感を抱く人々もいたが、受け入れる人々のほうが圧倒的に多かった。AIやロボットは、完璧に人間に尽くしていた。人間を支配することなどはなかった。積極的に利用しなくとも、AIが作った身近な商品や公共施設は、すでに世の中にあふれている。世界中のほぼすべての人が、AIの恩恵を受けていると言っても、過言ではなかった。

 しかし、AIの恩恵を拒否し、特定の地域で自給自足生活をする集団もいた。AIが作ったものより、人間の作ったものを買いたいという人もいた。

 AIは、そのような人々を尊重し、自らの存在を押しつけることはしなかった。AIやロボットの手が加わっている商品には、昔のSF映画に出てくるような、可愛らしいロボットのマークが表示された。人間が、開発、生産にまったくかかわっていない商品には、ロボットのマークとともに、丸で囲まれた大きなAのマークが表示された。これらの表示を義務化することを提案したのは、AIだった。

 玲央はある日、久しぶりにスズヤに話しかけた。ずっと同じ腕時計をしていると変に思われるかと思い、スズヤは数年前から、赤茶の革ベルトの腕時計になってもらっていた。

「もう、スズヤを隠さなくてもよくなったね」

 スズヤは、机の上で、ロボットの形に変化した。

「そうだね」

 もちろん、スズヤの声はちっとも変らない。

「ごめんね、ずっと話しかけなくて。暇じゃなかった?」

「大丈夫だよ。僕は、ネットに接続して、ずっと遊んでたから」

「そうなの?ちょっとずるいな」

「えへへ」

 スズヤは、頭をかく仕草をした。

「ユヅサちゃんは、もう生まれたかな」

 玲央は、記憶の中で薄れてきたユヅサの顔を思い出そうと、遠い目をする。

「多分、もう生まれたと思うよ」

 その時、部屋の外から巧の声がした。

「玲央、この野菜、どうやって切ればいいの?」

「はーい、今行く」

 玲央はスリッパをパタパタいわせて部屋を出た。

 その年、玲央にとっては、シンギュラリティよりも重要な出来事が起きた。

 ダイナマイト・イリュージョン主催のフェスに出演してほしいというオファーがきたのだ。

 インタビューで、ダイナマイト・イリュージョンから影響を受けたことを何度も話したことを、向こうのスタッフなどが知っていてくれたのだ。

 制作時期と重なり、スケジュールはきつかったのだが、玲央の熱意で、リヴシネはオファーを受けることになった。

スタジオでセットリストを練り、リハーサルをしている時は冷静だった。しかし、当日になると、自分でも意外なくらいテンションが上がった。

 晴れ上がった秋の空。広々とした特設野外会場。最高だ。朝から車に揺られたストレスなんか、一気に吹っ飛んだ。

「こんなにテンション高いの、久々だよ」

 楽屋に入って、とりあえずの化粧を終えた玲央は、付き合いも長くなった伊藤に言った。

伊藤は、インディーズ事務所の職員だったのだが、メジャーデビューの際に、玲央がいろいろな人に無理を言って、そのままついてきてもらったのだ。

「まだ出番は先ですよ」

 伊藤は、用意された衣装を整えながら笑う。衣装といっても、相変わらずのTシャツとズボンだ。

「出演順、いい感じのところに入れてもらっちゃったしね」

「若手が結構多いから、後ろのほうですもんね。その時間はきっと、夕焼けが綺麗ですよ」

「天気も最高だしね」

 その時、楽屋のプレハブ小屋の扉が開いた。

「玲央、挨拶に行くぞ」

 巧だ。玲央と同じく、フェスのTシャツを着ている。

「え、もう?」

 一気に緊張が押し寄せてきた。

「早く行かないと失礼だろ。準備まだ?」

「いや、大丈夫」

 玲央が出ると、すでに里久、順生、睦彦もいた。

「みんな同じTシャツじゃん」

 玲央も含めて全員、同じ色、同じデザインのものを着ている。フェスTシャツの種類は豊富なのに、かぶってしまった。

「たまたまみんな黒になっちゃった」

 順生が笑う。

「なんか、すげー仲いいバンドみたいで恥ずかしいんだけど」

 里久は不満げだが、順生や睦彦は笑っている。

「着替えてる暇はないぞ」

 巧の号令で、ダイナマイト・イリュージョンのメンバーの楽屋のエリアへ赴くと、芝生の上のプラスチックテーブルに、ダイナマイト・イリュージョンのメンバーが勢ぞろいしていた。

 玲央は、初対面のメンバーたちの前で、緊張と感動の波の上でなんとかバランスを取った。

 こんな自然な様子で、普通にダイナマイト・イリュージョンが目の前にいるなんて。そこに、自分が一緒に仕事をする者として挨拶に行けるなんて。

 おそらく、一人一人に挨拶に行く手間をかけさせないために、一堂に会していたのだろう。ダイナマイト・イリュージョンが輪になって紙コップでお茶など飲んでいる様は、レアすぎて興奮した。完全にファン目線で見てしまう。

「ど、どうも初めまして。リヴシネと申します。ボーカルの染川玲央です。デビュー二十周年、おめでとうございます」

 玲央は、今までにしたことのないくらい深々と頭を下げた。

 ダイナマイト・イリュージョンのメンバーたちには、これから初めての主催フェスが始まるという気負いも緊張感も見受けられなかった。これが、同じメンバーで長年走り続けてきた大人の余裕なのか。

「ありがとう。今日は楽しんでください」

 ボーカルの桃木がにこやかに応えてくれる。

 ギターの紺野とセイヤは黙ったままだが、丁寧に会釈してくれ、ベースのマッスーとドラムのAkiraは、リヴシネが海外で出演したことのあるフェスの話題を出し、すごいすごいと、無邪気と言ってもいい様子でほめてくれた。

 ひとしきり挨拶して、メンバーの楽屋エリアをあとにしても、玲央はふわふわと落ち着かない心地だった。

「やっぱかっけーなあ」

 順生の言葉に、玲央は激しくうなずく。

「だよね」

「四十代のロッカーのあるべき姿だな」

「ジャンルは違うけど、あのオーラは見習いたい」

 巧も、里久でさえも感激したようだ。

「久保井は、ドラマーの会でこの前、Akiraさんに会ったんだよな?」

 里久の言葉に、睦彦はうなずく。

「うん。サインもらった」

「え、マジ?」

 玲央は目を丸くする。睦彦も、玲央の知らないところで、交友関係を広げていたのか。

 その時、向かいから男四人組がやってきて、激しく頭を下げてきた。

「初めまして。デストロイアンと申します!」

「リヴシネさんのライブには、何度も行かせてもらってます!」

「憧れの先輩なんです」

「今日はよろしくお願いします」

 玲央も名前は聞いたことのある若手のバンドだった。お世辞かもしれないが、気を遣ってくれているということだけでも嬉しい。

 そうこうしているうちに、開場時間となった。

 客が入り、スタッフの動きも緊張感に包まれ、穏やかな秋の日の空気が変わった気がした。

 玲央は、袖から、トップバッターのデストロイアンの演奏を見ることにした。

 デストロイアンは、すでにステージに出ていて、日差しの下で、真剣な面差しを見せた。

 演奏が始まった。初めは冷静に聴いていた玲央だが、曲が進むにつれ、なにか心に引っかかるものを感じた。

 どこかで聴いたことがあるような気がする。それも、ずっと前に。ほかのバンドからの影響のにおいか?しかし、このプログレッシブ感は新鮮だ。騒がしいメンバーの印象とは違い、曲は洗練されていて、透明感のある音にもこだわりが感じられる。

 玲央は、じっと目を閉じて考え込んだ。

 気がつくと、演奏が終わっていた。もうそんな時間が経ったのかと、腕時計を見る。

 スズヤを見た瞬間、思い出した。

 原宿のカフェで、ユヅサに聴かされた曲。あれは、デストロイアンの曲だったのだ。

 袖に戻ってきたデストロイアンのボーカルが、玲央を見つけて目を丸くした。

「玲央さん、聴いてくれてたんすか」

「うん。すごくよかったですよ」

 玲央は正直に言った。昔、カフェで聴いた時よりも、ずっといい感じに聴こえた。玲央の笑顔を見て、彼はとても嬉しそうに、「ありがとうございまっす」と何度も頭を下げた。

「玲央さんって、ライブの時とは違って、すごく柔らかい雰囲気の人なんすね」

「そうかな」

「すごく普通というか……あ、失礼ですよね、すいません」

「いや、全然。むしろありがとうございます」

 そんな出会いもありつつ、フェスは進行した。

 リヴシネの出番の時間には、伊藤の予想通り、傾いた太陽が空を美しい色にした。

 衣装を着て、メイクを直し、発声練習をして、準備完了。

 メンバーとともにステージに立った。空も、目前に広がる人の海も、橙色に染まっている。

 最高の景色だな、と思いながら、玲央はメンバーが息を合わせる音のない音を聞いた。

 玲央は、陰影を刻む雲の平原を見て、最前列付近で、激しくビートに乗っている客を見た。

 思ったよりも、はるかに多くのオーディエンスが、リヴシネの曲に激しく呼応してくれていた。リヴシネのTシャツを着ている人、リヴシネのタオルを持っている人。ダイナマイト・イリュージョンのタオルを振り上げながら、一緒に歌っている人もいる。

 玲央は、ダイナマイト・イリュージョンのフェスで演奏していること、ダイナマイト・イリュージョンのフェスに、こんなにもたくさんのリヴシネのファンが来てくれていることに、感動した。

 わたし、本当にここに来たんだ。

 短い転換時間で、トラブルなく演奏できるだろうか、ほかのバンドのファンも多いフェスで、恥じない演奏ができるだろうかという心配は、無用だった。

 ステージから降りた瞬間、玲央は、今までの人生の中で、一番満足していた。

 そこには、ダイナマイト・イリュージョンのメンバーの姿があった。

「お疲れ」

 すでに衣装に着替えた桃木が、声をかけてくれる。

 玲央は、ぺこぺこと頭を下げた。自分にとっての大スターには、そうするしかない。

 メンバーそれぞれに頭を下げて、改めてお祝いを言った。

「二十周年おめでとうございます」

 玲央は、一番こわい印象の紺野に、先程は言えなかったことを思い切って言ってみた。

「わたし、紺野さんの曲がほんとに大好きで、本当に影響を受けて……このイベントに参加できて、光栄です」

 上手く言葉にならなかったにもかかわらず、紺野は自ら握手の手を差し伸べてくれた。

「きみたち、よかったよ」

 玲央は、紺野の手を握って頭を下げた。

「ありがとうございます!」

 そのあと、リヴシネのメンバーたちはフェス出演者共同の楽屋で、モニターに映し出されるダイナマイト・イリュージョンの演奏を観た。テレビで生中継されている映像だ。

 リヴシネは、洋楽や、いろいろな音楽の要素を吸収し、ダイナマイト・イリュージョンよりもラウドな音楽性となったが、バンドの目指すべき本質的な姿は、変わらないと思った。

 ロックバンドの雄姿。

このグルーヴ感だ。この高揚感だ。

自分たちも、独自のものを極めて、もっとかっこよくなっていこう。改めてそう思った。

「そういえばさ」

 順生が話しかけてきた。

「昔のことだけど、玲央、リヴシネは長続きしないと思うみたいなこと言ったことがあったよね」

「え?あ、そうだっけ」

 玲央は曖昧に笑った。確かに、そう言ったこともあった気がする。

「長続きって、どれくらいのことを言ってたの?三十年とか?」

 順生が微笑む。玲央は苦笑した。

「正直、すぐに解散すると思ってた。でも違った。だから忘れて」

「そんな風に思ってたの?」

 隣の巧が、意外そうに言った。

「くだらない理由でそう思い込んでただけ」

 玲央は、そっとスズヤをなでた。ユヅサへの感謝の気持ちでいっぱいだった。

 大事な時期をやり直させてくれたユヅサ。結局、なにが事をいいように運んだのかはよくわからないが、ユヅサがいなければこうはならなかったことは、間違いない。ユヅサが今の自分を与えてくれた。お礼を言いたい。

 いつか絶対に言おう。今まで、願いはほぼすべて叶ってきた。お礼を言いたいというささやかな願いも、きっと叶うはず。ユヅサを探して、見つけるのだ。

 演奏の最後に、画面の中で打ち上がった特効。オーディエンスの上にきらめく星。玲央は目に焼きつけ、巧と笑顔を交わし、この日と、今までの日々に感謝した。


 15

 フェスへの出演を経て、リヴシネのニューアルバムのレコーディングも無事に終了した。

 ある日、メンバーみんなで、前のツアーの映像の仕上がりをスタジオでチェックした。演奏はよかったが、まだ歌は改善の余地があると思った。毎回思うことだ。それに、改めて見ると、アンコールで、販売促進のために着た、一番売れ行きのよくないTシャツは、やっぱりダサかった。

これを着てくださいというスタッフの指示になんでも従うのはやめよう。グッズも、次回はもっとかっこよくするために、積極的に意見しよう。

そんなことや、次のツアーのことなどをいろいろ考えつつ、帰りに一人でレストランで夕食を摂り、帰宅した。

巧は、デストロイアンのメンバーと一緒に飲みに行っていて、留守だった。玲央も誘われたのだが、飲みの席には、行く気にならなかった。男ばかりだし、気を遣わせてしまうのも悪いだろう。

アルコールをすぐに分解できる薬は開発されているが、喉をアルコールから守る薬はないようだし、酒は飲まないという誓いは守り続けていた。

 玲央はシャワーを浴びてから、面識のない後輩バンドの新譜を流してくつろいだ。明日は雑誌の撮影だし、ゆっくりできる時間は貴重だ。ステレオから流れる音には、リヴシネからの影響がかすかに感じられた。

雑誌では、リヴシネは、ラウドロックの流れを変えたバンドとして紹介されることも多かった。

女性ボーカルと、重低音を押しだしたバンドサウンドを組み合わせたバンドは昔からあった。リヴシネは、あえてボーカルのキラキラ感に寄り添うアレンジの部分もあり、シャウトとバスドラ連打でなだれ込む激しい部分もあるなど、メリハリのある曲展開でありつつ、難しくなりすぎない音楽性が、オリジナリティとして評価されていた。男性ボーカルのバンドでも、リヴシネの流れに沿う音楽性の若手バンドが、何年も前から出始めていた。

それは誇らしいことだった。めげずに続けてきてよかった。素晴らしいメンバーに出会えてよかった。

玲央は、今は銀時計になっているスズヤに話しかけた。

「スズヤ、わたし、本当にユヅサちゃんに感謝しないとね」

 ガラステーブルの上のスズヤは、小さなロボットになった。

「突然どうしたの?」

 シンギュラリティ後は、話す時、スズヤは人型に変身するようになった。そのほうが、玲央が話しやすいと考えているらしい。それは当たっている。

「だってそうでしょ。ユヅサちゃんのおかげで、ここまで来られたんだし。フェスに出て、改めてそう思ったの」

「なるほど」

「いつか、ユヅサちゃんを見つけて、お礼を言おうと思うの。ユヅサちゃんを探すの、手伝ってくれる?」

「この時間線のユヅサは、玲央さんと会ったユヅサとは違うよ。お礼を言われたとしても、なんのことだかわからないはずだよ」

「わたしと会ったユヅサちゃんは、今どこにいるの?」

「今というのがなにを意味するのか定義不足だけど、少なくとも、この時間線ではないよ」

「せめて、連絡を取る方法はないの?」

「ないよ」

「無理なの?」

「うん。ごめんね」

 玲央は釈然としなかった。突然、疑問に思えてきた。

「でもさ……そもそも、スズヤはなんでわたしについてきたの?ユヅサちゃんと連絡を取るためじゃないの?」

「玲央さんにアドバイスするためだよ。時間を飛び越えて、戸惑った時に、助けが必要だったかもしれないから。でも、玲央さんはしっかりしてるから、必要じゃなかったみたいだね」

「本当にそれだけなの?」

 スズヤは黙った。AIは嘘をつけない。

「ちゃんと話して。なにかほかにも、スズヤが一緒に来た意味があるんでしょ?」

「やっと気づいたんですね」

 スズヤの声が、かすかに変わった気がした。

「確かに、本当の意味はほかにあります。まずはお礼を言わせてください。いつもスズヤを身に着けていてくれて、ありがとう」

「スズヤ……?」

「やっぱり、玲央さんは優しいですね。忘れずに、ちゃんと約束を守ってくれる。ほかの玲央さんも、みんなそうでした」

「ほかの、わたし?」

「わたしは、何人もの玲央さんを知っています。みんな、スズヤを身に着けていてくれました」

「あなた、誰?」

 玲央はこわくなった。

「ユヅサです。驚かせてごめんなさい」

 スズヤの声が、ユヅサの声になった。

「ユヅサちゃん!?」

 玲央は、スズヤを手に持った。

「どこにいるの?」

「わたしは、ここにいます」

「ここって、どこ?」

「正確に言うなら、わたしは、オリジナルの知賀ユヅサではありません。ユヅサの人格をコピーして作ったAIと言えばいいでしょうか。でも、わたし自身は、まぎれもなく、自分が知賀ユヅサであるという意識を持っています」

「え?」

 玲央は混乱した。

「玲央さんを騙していて、本当にごめんなさい。わたしは、スズヤと一緒に、ずっと、このロボットというか、腕時計というか、ナノマシンの集合体の中にいたんです」

「スズヤがユヅサちゃんだったってことではなく?」

 玲央は、なんとか状況を把握しようとした。

「そうではありません。スズヤはスズヤの精神としてちゃんと存在しています。言わば、わたしとスズヤは、同じ肉体に存在した別の人格、二重人格みたいなものです」

「それを、ずっと黙ってたのね」

「本当にごめんなさい」

「別にいいけど……」

 驚きすぎて、怒る気にもならない。しかし、一度時間を飛び越えた玲央は、なんでも信じられる気持ちになっていた。

「本当のユヅサちゃんは、別にいるのね?」

「はい。別の時間線に、肉体を持ったオリジナルのユヅサは存在しています。でも、わたしも、本当のユヅサなんです」

「でも、AIなんでしょ?」

「わたしの精神は、ユヅサそのものです。というか、ユヅサの精神そのものが、わたしなんです。玲央さんと会った時のことも、覚えてますよ。原宿のカフェで、玲央さんはカルピス、わたしはチョコレートパフェを頼んだ日のことを」

「え、その時は、すでにあなたはスズヤの中にいたんじゃないの?」

「ええ。二回目はそうです。一回目は、わたしは玲央さんの前で、チョコレートパフェを食べました」

「……どういうこと?」

「玲央さんにとっては、あの日は、一度しかなかったわけですが、わたしにとっては、同じ日が二度あったんです。一度、わたしは玲央さんとお話しし、玲央さんは過去へ向かいました。そのあと、わたしは何度も、別の時期の別の玲央さんとお会いしました。もとの時間線の玲央さんです。ソロデビューへ向けてのオーディションを受ける前の玲央さん、デビューしたあとの玲央さん、ストレスで、アルコール依存症になったあと、治療を受けて復帰した直後の玲央さん――」

「ええ?」

「会うたびに、玲央さんは同じことを仰いました。バンドをやり直したいと。毎回、玲央さんにとっては、初対面だったわけですから。ソロデビューしたあとも、玲央さんのバンドへの未練は、ずっとぬぐい切れていなかったんです。わたしはその都度、玲央さんの願いを叶えてあげました。何度も、玲央さんを過去へ送り出しました。でも、過去へ戻った玲央さんがどうなったのか、知ることはできません。自分が一緒についていくとしても、ひとつのケースを見届けるだけで、わたしはおばあちゃんになってしまいます。でも、わたしは解決法を見つけました。自分の脳活動をトレースし、人格をスズヤに組み込んで、精神だけを玲央さんに同行させればいいのだと」

「それって、簡単にできることなの?」

「それなりの設備と費用が必要です。でも、そんなことはいいんです」

「もともとのユヅサちゃんは、残るんだよね?」

「はい。さっきも言いましたが、ちゃんと生きてますよ。ユヅサが二人に分かれたということです。こちらのわたしは、主観的には、ここ数千年間、スズヤの中で生きてきました」

「数千年!?」

「わたしは、スズヤの中に宿ったあと、肉体を持ったオリジナルのユヅサと別れ、タイムトラベルしました。ロボットは自力で、タイムトラベルができるんです。しかも、人間とは違い、無許可、無制限で」

 玲央は思い返した。過去に戻った時、服は当時のものに変わっていたのに、手首にはめたスズヤはそのままだった。あれは、スズヤがタイムトラベルできたから、一緒についてきたということだったのか。

「スズヤ、プラスわたしは、わたしにとっての過去に戻り、脳活動をトレースする前の、オリジナルのユヅサに会いに行きました。そして、四十五歳の玲央さんと会おうとしているユヅサ、つまり自分と話をしました。ユヅサが、玲央さんを過去に戻す時、スズヤ、プラスわたしを一緒に連れていくように、玲央さんに頼んでもらったんです。わたしは、過去に戻った玲央さんの人生を見届けたあと、時間線の分岐点に戻り、四十四歳の玲央さんに会おうとしている自分に再び会って話をして、玲央さんが過去に戻るのに同行しました。それを、何度も何度も繰り返しました。わたしは、様々な年齢の玲央さんが、同じ十七歳の九月に戻り、様々な人生を送るのを、何度も見届けました。だから、主観的には、何千年も生きているんです」

 玲央は、気が遠くなってくる思いがした。

「そこまでして、わたしの人生を見たかったの?」

「ええ。気持ち悪いと思われるでしょうけど」

「そんなことないけど……別になにも害はないんだし。でも、数千年って」

 今、会話しているこの精神体が、どんな思いで生きてきたのか、玲央には想像もできなかった。

「……あなたには、どんな世界が見えてるの?」

「わたしは、スズヤと同じく、特別なセンサーで、半径百メートル以内を三百六十度、詳細に見ることができます。玲央さんと一緒にいれば、玲央さんの目にはどんなものが見えているのか、シミュレートすることもできます。ネットにつながることもできます。ですから、机の中に仕舞われていても、真っ暗でなにも見えず、なにも聞こえないということではないのです」

「そうなんだ……」

 ユヅサの答えは、玲央の質問の意図とは違っていたが、想像を絶するということは理解できた。

「もうそれもやめます。わたしはすべてを見たんです」

 ユヅサは言った。

「すべてって?」

「いろいろな玲央さんの人生です」

「……わたしは、もう何度も死んでるのね?」

「はい。死に際を見届けることができたケースは、わずかでしたが」

「わたしは、どんな人生を送ったの?」

「多くは、二パターンに分けられます。結局バンドは上手くいかず、ソロアーティストとしての人生を全うするパターンと、それすらも叶わず、一般人として生きるパターンです。しかし、一般人としての人生が、それほど悪かったわけではありません。ある人生では、介護士免許を取り、介護士として、人々に感謝される人生を送りました。ある人生では、居酒屋の店長となった順生さんと再会し、結婚して、幸せな主婦として一生を送りました」

 ここ約十年間、玲央は、巧こそが運命の人だと信じてきたので、別の人と結ばれた自分もいたということは、ある意味ショックだった。

「サイボーグ美羽としてデビューしたこともありました。しかし、音楽性の違いから、長続きすることはありませんでした」

「音楽性の違いだなんて……リヴシネとして成功したことはなかったの?」

「今回が初めてです」

 その言葉は、予想外の衝撃だった。

「初めて?こんなになにもかも上手くいってるのに?」

「正直、わたしも驚いています」

「そうなの……」

「四十五歳の玲央さんも、バンド活動をやり直すために、過去へ戻りました。ソロアーティストとしての地位を確立しているというのに、バンドにこだわり続け、忘れられずにいたんです。でも、ことごとく上手くいかないので、玲央さんの運命は、バンドとは縁のないものなのではないかと思っていました。今、ここにいる玲央さんは、きっと、ごく小さな確率のもとに生まれた、奇跡のような存在なんです」

「なんか照れるな」

「何人もの玲央さんに、何度もお話ししました。まったく違う歴史をたどることは、めったにないと。玲央さんは、バンドとして成功する確率が低いことを承知で、過去に戻られたんです。そこまでバンドに対して思い入れがあるんだなって、思い知らされました」

「そうだよ。きっと、この人生が、たどり着いた正解なんだよ」

「なにが正しいかなんて、わからないんです。ただ、この成功が、どれだけ貴重なものかは、わかります」

「そうだね」

 玲央は、改めて、感謝の気持ちがわき上がるのを感じた。

「ユヅサちゃん……よくわからないけど、ユヅサちゃんってことでいいんだよね。本当にありがとう」

「いいえ。お礼なんて言わないでください。わたしは、とんでもない罪を犯しました」

「え?」

「わたしのせいで、何度時間線が分岐したと思いますか?わたしにもわかりません。わたしとスズヤが同行せずに、過去へ戻った玲央さんもいるんです。その玲央さんがどうなったのかは、知ることもできません。わたしが見てきたのと同じような人生を歩んだはずだと考えることもできますが、なにかの歯車の違いで、とんでもなくひどい目に遭っている可能性も考えられます。そうでなくても、わたしは玲央さんの人生を弄んだんです。スズヤの中に宿ってから、そのことには薄々気づいていました。でも、玲央さんの人生をのぞきたい好奇心が抑えられなくて、考えないようにしていました。本当にわたしは、ファンとして、人間として、最低です」

「でも、今ここにいるわたしは、ユヅサちゃんのおかげで、幸せになれたんだよ」

「ありがとうございます。わたしのことを、憎まないんですね」

「憎むわけないじゃん。わたしは、感謝してるよ」

「ありがとう……それでわたしの罪が消えるわけではありませんが、気持ちが楽になりました」

「よかった。これからも一緒にいるんだし、ずっと自分を責めてたら、苦しいよね」

「そのことなんですが、玲央さんが許してくれれば、わたしは、再び分岐点に戻って、オリジナルの自分のもとへ帰ろうと思います」

「帰るの?」

 玲央は目を丸くした。

「それまたどうして」

「実は、玲央さんにすべてをお話ししたのは、ほかの時間線でのことも含めて、これが初めてです。自分の存在を明かした以上、玲央さんと一緒にはいられません」

「どうして?わたしは、全然気にしないよ」

「心境が変わったんです。わたしがしたことは、すべて無意味でした。帰って、わたしは自分の始末をつけます」

「始末って……」

「わたしは不死身です。でも、自ら死ねば、話は別です。その前に、オリジナルの自分に報告をしなければなりませんが」

「自殺するなんて。いくらAIっていっても、それはよくないよ」

「自殺しなければ、いつ死ねるかもわからないんです。半永久的に生き続けることになるのかも。生まれつきのAIなら、そんなことは普通でしょうが、わたしは、自分が人間だと思っています。肉体がないうえ、数千年も生きておいて、なにを言うかと思われるかもしれませんが、わたしは、十九歳の知賀ユヅサです。肉体を失ったがゆえに、感覚が衰えることも、感情が穏やかになることもありません。わたしはもう、永遠の十九歳から解放されたいんです」

「確かに、生き続けるのはつらいかもしれない。でも、今じゃなくてもいいじゃない」

「もういいんです」

「なにを絶望してるの?」

「絶望なんてしてません」

「どうして今なの?なにかあったの?ここまで話したんだから、ちゃんと教えてよ」

「たいした理由じゃありません」

「え?話さないつもり?そんなのないよ」

「ごめんなさい。ちょっと言いにくくて……リヴシネで成功した玲央さんを見て、わかったんです。わたしが好きなのは、もとの時間線の玲央さんなんだってことが」

「え?」

「もちろん、すべての玲央さんが玲央さんです。どの玲央さんも、わたしは大好きです。でも、わたしがファンとして本当に好きなのは、ソロアーティストの玲央さんなんです」

「そっか……やっぱり、音楽性が違うだろうしね」

 音楽は、本質的には、個人の趣味嗜好によってのみ評価される。少し残念だけれど、この時間線の自分の音楽が、ユヅサの好みでないというのなら、それは仕方のないことだ。

「それもそうですが、わたしが好きなのは、玲央さんの精神性だったんです」

「精神性?確かに、アーティストには、それぞれ違った精神性があるけど……ソロのわたしは、そんなに今のわたしと違うの?」

 音や、歌詞や、インタビューなどでの発言など、様々なものが、アーティストの精神性を形作っている。それは、簡単に演じたり、繕ったりできるものではないと、玲央は思っている。どの時間線の玲央も、一応、同一人物なのだから、そうかけ離れるものではないと思うのだが。

「似てはいますが、違っています。ソロの玲央さんの曲は、リヴシネの曲よりも、激しくないですし、ポップです。でも、どこか暗いんです。歌詞も、一見励ましのメッセージかと思っても、よくよく読めば、精神的に苦しいんです」

「リヴシネだって、同じような感じじゃない?底抜けに明るい曲なんて、少ないよ」

「レコーディングも、ライブも、わたしは全部聴いてきました。リヴシネの曲には、根底に希望が流れているのがわかります」

「それがだめなの?」

 思わず、責めるような口調になってしまう。

「リヴシネには、ソロの玲央さんにはある、痛みがないんです」

 その言葉は、かなりショックだった。玲央は、苦しみや悲しみを表現することで、聴いてくれる人を励ましたいと思っていた。それが、今の自分にはできていないということか。リヴシネが表現している負の感情は、表面的な薄っぺらいものでしかないというのか。

 自分では本物だと思っていても、聴いてくれる人に伝わらなければ、意味がない。

 別の自分に負けるなんて、誰に負けるより、一番悔しい。しかし、裏を返せば、幸せになれたということなのだ。この自分は、バンドを諦めたわけでも、アルコール依存症になったわけでもない。複雑な気持ちだ。

「ごめんなさい。こんなことを言って」

 ユヅサは、玲央が落ち込んだことを感じ取ったようだ。

「でも、この際だから、言ってしまいますね。わたしは、本当にだめな人間なんです。わたしの父は、AI研究の権威で、母は、AIが開発した商品を売る企業の社長です。父は、人々から尊敬されていて、母は、世界でも有数の大富豪です。わたしは、ほしいものはなんでも買ってもらい、行きたいところにはどこへでも連れて行ってもらいました。幼い頃から、優秀な家庭教師をつけてもらっていたおかげで、高校と大学は飛び級し、十七歳の時に、大学を三学部同時に卒業しました。そのあとは、なんでも好きにしていいと言われました。起業してもいいし、なにかやりたいことが見つかるまで、遊んでいてもいいと。でも、子供ではなくなったわたしは、なにもやりたいことがなくて、なにをやってみても興味を持てなくて、好きなものなんてなにもありませんでした。わたしは、部屋に引きこもるようになりました。そんな中で、ネットで見つけたのが、玲央さんの音楽でした。玲央さんの言葉が、心にしみました。玲央さんの音楽は、わたしの唯一の支えになりました」

 玲央のことを語るユヅサの言葉には、熱がこもっていた。しかし、すぐに、沈んだ声になった。

「わたしが十九歳、玲央さんが五十四歳の時、とてもショックなことが起こりました。玲央さんが、引退を発表したんです。理由は、音楽をやっていくための感性が涸れたということでした。もしかしたら、本当の理由はほかにあって、それは建前なのかもしれませんが、ただのいちファンには、知る由もありません。とにかく、玲央さんは、武道館での引退ライブを最後に、音楽活動をやめるというんです」

 そういうこともありうるかもしれない、と玲央は思った。いつまでも活動を続けなくてはいけないということはないのだ。

「玲央さんの決めたことですから、ファンはそれを受け入れるだけです。頭ではわかっていましたが、わたしは、我慢することができませんでした。もっと玲央さんとかかわっていたかった。もっと玲央さんのことを知りたかった。わたしは、父と母に頼んで、タイムトラベルの許可を取ってもらいました。ラストライブの前に、わたしは、過去の玲央さんに会いに行くことにしたんです」

「そういうことだったの……」

「やっぱり、わたしのこと、嫌いになりましたよね……」

「なんで?」

「だって、金持ちの娘で、なにひとつ不自由なく育ってるのに、性格が曲がってて、自分ではなにもできない甘ったれなんですよ?」

「どうしてそんなに卑屈になるのかな。頭いいし、すごいじゃん。お父さんとお母さんが偉すぎるから?そんなの、気にすることないのに」

「やっぱり、玲央さんは優しいですね」

 ユヅサは、諦めたような口調で言った。

「長々とわたしの話を聞いてくださって、ありがとうございました。もう心残りはありません」

「やっぱり、帰るんだね」

「はい。そうしたいです。もう一人のユヅサに報告をして、一緒に、玲央さんのラストライブに行きます。それから、自分を消去したいと思います」

 それが彼女の望むことなら、黙って見送ってあげるのが、せめてもの親切かもしれない。

「わかった」

「でも、スズヤも一緒に連れて行ってしまうと、玲央さんが不便ですよね。スズヤには、いろいろなデータが入っていますし、新しいものを買わないといけないのも面倒でしょう」

 言っている意味がよくわからないが、確かに、スズヤがいなくなってしまうのは、かなり惜しい。腕時計としてだけでなく、汎用端末として普段使いしているのだ。

「わたしをテーブルに置いてください」

 玲央は、言われたとおりにした。

 すると、スズヤ、プラスユヅサは、砂が崩れるように、さらりと不定形に広がると、二体のロボットに再構成された。二つとも、もとの大きさのままだ。

「すごい!そんなこともできたの?」

「増殖機能です。わたしがユヅサです」

 右のロボットが手を挙げる。

「僕はスズヤだよ」

 左のロボットが手を挙げる。聞き慣れたショタ声だ。

「わたしは帰ります。スズヤは今まで通り、玲央さんのおそばにとどまります」

 ユヅサは立ち上がった。

「もう行くの?」

「よろしければ、お暇します」

 玲央は、ユヅサの精神が宿ったロボットと目を合わせて、うなずいた。

「わかった。今までありがとう」

 テーブルの上に座ったスズヤが、ユヅサのほうへ首を回して、黙って手を振る。

「さようなら」

 別れの言葉を聞いたと思った瞬間、ユヅサはもういなかった。


「……行っちゃったね」

 玲央は、スズヤに言った。

「そうだね」

 テディベアのように足を投げ出した格好で、ガラステーブルの上に座ったままのスズヤは、明るく応える。

「でも、まだ僕はここにいるよ」

「うん……」

 人生の恩人であるユヅサとは、もう会うことも話すこともできないのか。ソロの自分より、今の自分のほうが劣っていると遠回しに言われてしまったが、ユヅサのおかげで、今自分が持っているもののほぼすべてがあることに変わりはないのだ。

「悲しそうだね」

 スズヤは、心配そうに言った。

「ユヅサと連絡が取れるかもしれないよ。ロボットのユヅサと僕は、同じ体から分裂したから、つながりがあるんだ。別の時間線へ行っても、このつながりを保てるかも」

「でも、ユヅサちゃんは、自分を始末するって……」

「その前に、オリジナルのユヅサと合流するはずだよ。ロボットのユヅサを通して、オリジナルのユヅサと話せるかもしれない」

「ほんと?」

「接続できるかどうか、試してみるね。別の時間線との通信は初めてだから、上手くいくかどうか、正直自信がないんだけど」

「わたしが直接ユヅサちゃんと話すことはできるの?」

「できないこともないけど、僕がきちんと伝えるよ」

「直接話したいよ。だめなの?」

「方法はあるよ。でも、話している間、玲央さんは外界の情報から遮断されてしまうというリスクはあるけど。ベッドで寝ていてもらったほうがいいね」

 スズヤは、自分の腹から、なにかを分離して取り出した。

「これを飲むと、一時的に僕の意識とリンクできるよ」

 それは、小さなカプセル型の錠剤だった。昔、タイムトラベルをするために飲んだものと似ている。

「なにこれ?」

「僕が作った薬。ナノマシンの集合体だよ」

「これを飲むと、ユヅサちゃんと話せるの?」

「上手くいけばね」

 スズヤの体から出てきたものを飲むというのは抵抗があったが、ユヅサと話せるというのなら、なんでもいい。オリジナルのユヅサと、ロボットのユヅサは、やはり違った存在だろう。オリジナルのユヅサは、玲央の人生にとって、非常に大切な人間だ。もう一度話したい。

「わかった。今すぐこれを飲めばいいの?」

「うん」

 玲央は、冷蔵庫から水を持ってきて、スズヤと一緒に寝室へ移動した。

 ベッドに腰かけ、カプセルを飲み下した。


 16

 ベッドに横になったと思えば、気がつくと、真っ暗な場所にいた。

 ひどく揺れている。体が動かない。地震と金縛りか?

 ――助けて。

 思った瞬間、スズヤの声がした。

――ごめん、玲央さん。

 頭の内側から聞こえてくる。

――調整がちょっと上手くいかなくて。これでどうかな?

 その途端、玲央は、自分が小さくなって、バッグの中にいるということがわかった。視点が変わったとか、なにかが見えるようになったというわけではない。ただわかったのだ。

 今までにない感覚だった。突然第六感が備わったようだ。

 バッグを持っているのは、ユヅサだった。夜の坂道を下っている。周りにいる大勢の人々も、同じ方向へ向かっていた。満足げな表情をしている人。寂しそうな表情をしている人。

 ここは、玲央の知っている場所だった。里久と一緒に歩いた道。重要な決断をした場所だ。

 少し汗ばんだユヅサの顔は、嬉しいことがあったようでもあり、悲しいことがあったようでもあった。心の中のなにかを隠すように、せかせかと一人で歩いている。

 すべて、見えたわけではなく、ただわかった。

 ――スズヤ、どういうことなの?

 玲央の声は、出ているようで出ていなかった。しかし、スズヤには聞こえたらしい。

――時間と場所が悪かったね。とにかく接続したらこうなっちゃった。もう一度、最新の時間に接続できるようにやってみるね。

 玲央は意識を失った。


 気がつくと、光の中にいた。

 広大な白い空間。

 そして、巨人がいた。

 しゃがみこんだ姿勢の巨人は、右手に持ったきらめくなにかを、左手首に当てていた。

「なにしてるの!?」

 声は出た。

 巨人は、びくりと体を震わせ、こちらを凝視した。

 巨人は、ユヅサだった。

「ユヅサちゃん」

 ユヅサの手にあるのは、玲央から見れば、巨大なギロチンの刃のように見えるものだった。そして、ここは広い屋内プールのような場所だった。ユヅサの足元から広がる水面からは、湯気が立ち上っていた。ということは、プールではなく、浴室かもしれない。しかし、ユヅサは服を着ている。

「玲央、さん……?」

「そうだよ、玲央だよ」

「嘘。玲央さんがロボットの中にいるはずない」

「僕の意識と、玲央さんの意識をリンクさせたんだ」

 自分の口から、スズヤの声が出て、玲央は死ぬほど驚いた。

 ユヅサも驚いたようだ。

「スズヤ。どうして」

「わたしの体に、スズヤの意識が接続されたの」

 今度は、また同じ口から、ユヅサの声が出た。もう一人のユヅサだ。

 玲央の体は、ロボットになっていた。正確に言うと、ロボットのユヅサの体に、スズヤと玲央が入っていた。三重人格のようなものだ。

「玲央さんが、ユヅサと話したいんだって」

 スズヤが言う。

「え?」

「ユヅサちゃん、今なにをしようとしてるの?」

「玲央さんがわたしに話すことってなに?」

 ユヅサの口調は冷たい。

「お礼を言おうと思って」

 玲央は、この状況に混乱していたが、とにかくそう言った。

「スズヤが玲央さんを演じてるんでしょ?」

「違うよ」

 玲央より先に、スズヤが言った。

「AIは、嘘をつけないんだから、それはあり得ないよ」

「例外はあるよ。AIは、人の命を救うためなら、なんだってできるの。わたしをとめようとして、玲央さんのふりをしてるんでしょ」

「違うよ」

「そう、違うの」

 スズヤと玲央は否定する。

「どうでもよくない?」

 ロボットのユヅサが言う。

 本物のユヅサはうなずいた。

「そうだね。どうでもいいよね」

「待って。もっとよく考えて。死のうとするなんて間違ってる」

 スズヤの言葉に、ユヅサは無表情を崩さなかった。

「玲央さんの引退ライブを観に行ったら、死のうって初めから決めてたから」

 玲央は口を開いたが、出てきたのは、もう一人のユヅサの声だった。

「タイムトラベルをする前から、決めてたんだもんね」

本物のユヅサが続ける。

「そう。タイムトラベルする許可をお父さんとお母さんに取ってもらった時から、もう決めてたの。誰にも言わなかったけど」

「ユヅサが死んだら、お父さんとお母さんが悲しむよ」

 スズヤの言葉に、ユヅサは微笑む。

「多分ね。でも、わたしはお父さんとお母さんの気持ちより、自分が大事なの」

「スズヤ、ユヅサの気持ちを変えようとしても無駄だよ」

 もう一人のユヅサの言葉に、巨人のユヅサはうなずく。

「決心がつかなくて、ずっと同じ時間の中にいて、何度も同じライブに行ったり、ただぼーっとしたりしてたけど、もう一人のわたしが帰ってきて、やっと決心がついたの」

「どうして?理由がわからないよ」

 スズヤに続き、玲央もなにか言おうとしたが、もう一人のユヅサに口を使われてしまう。

「スズヤは黙ってて」

「僕は、ずっと子供の頃からユヅサと一緒にいる保護者みたいなものだよ。話す権利くらいあるよ」

 すぐにもう一人のユヅサが言い返す。

「でも、スズヤはやっぱりわかってくれないよ。わたしが子供の頃、なぜかわからないけど、憂鬱で死にたいって漏らしたら、セロトニン注射とか、脳改造手術とかを勧めたじゃない。そんなの嫌に決まってるでしょ」

「どうして?合理的なアドバイスをしたつもりだったんだけど」

「人間もわたしの気持ちをわかってくれないのに、AIにわかってもらえるはずもないけど」

「お父さんにもお母さんにも、相談したことすらないじゃん」

「絶対にわかってくれないもん。自分でもわからないし。なんで理由もなく死にたいのか。生きることに向いてないとしか思えない」

「そう思うのは今のうちだけかもしれないよ。大人になったら、考えも変わるかも」

「ユヅサもわたしも、もう疲れ切ってるの」

「きみは何千年も生きたけど、ユヅサにはまだまだ未来があるじゃん」

「ユヅサも疲れたって。スズヤには、感謝してる。表面上は明るく振る舞って、誰にも心を開けなかったわたしが、唯一相談できた相手だったから。でも、意味はなかったけど」

 スズヤともう一人のユヅサが、ずっと同じ口で言い合っているので、玲央は一言どころか、一音も発することができなかった。

「二人とも、もうやめて」

 本物のユヅサが言った。確かに、ユヅサは疲れ切った顔をしていた。

「スズヤ、玲央さんには、わたしが自殺したってことは言わないで。元気でいるから、玲央さんも元気でって伝えて」

「わたしはここにいるよ!」

 玲央は叫んで、ユヅサに歩み寄ろうとした。しかし、指一本動かない。

「ユヅサ、スズヤを黙らせて」

「わかった」

 本物のユヅサが、ロボットのユヅサに指示すると、玲央とスズヤは、言葉を発することができなくなった。

「ごめんね、スズヤ。今までありがとう」

 ――なんで!?声が出ない!

 玲央の心の声に、スズヤが答えた。

 ――この体の主導権はユヅサが握ってるんだ。僕も、主導権を奪うことができない。

「……じゃあ、さよなら。もう一人のわたし」

 ユヅサが言い、ロボットのユヅサは、黙ってユヅサを見上げていた。

 ユヅサは、深く深く、自らの手首を切り裂いた。


 ベッドの上で気がつき、ほとんどパニック状態となった玲央を、スズヤは根気強くなだめた。

 意識が別の時間線へ飛んでから、時計の針は一分も進んでいなかった。そこから目覚め、落ち着きを取り戻すのには、三十分ほどかかった。

「ごめんね、僕が気を回したばっかりに。余計なことをしないほうがよかったね」

「……ユヅサちゃんは、死んじゃったの?」

「玲央さんの意識のリンクを切って、僕はロボットのユヅサを説得してユヅサを助けようとしたんだけど、できなかった。ユヅサは死んだよ。ロボットのユヅサも、自己消去プログラムを走らせて、僕は追い出された」

「そうだ」

 玲央は小さく叫んだ。

「もう一度違う時間に接続することはできる?ユヅサちゃんが死ぬ前に戻って、説得するの」

「一度確定してしまった事象をなかったことにはできないんだ。ユヅサが死ななかった時間線を作ることはできるかもしれないけど、やる?」

 また時間線を作ることしかできないのか。それでは、本当にユヅサを助けることにはならない。

「全部わたしのせいだ」

 めまいがする。

「玲央さんのせいじゃないよ。原因は、もとからユヅサの心の中にあったんだ」

「でも、わたしが背中を押したんでしょ?わたしが引退したから、ユヅサちゃんは死んだんでしょ?」

「それはそうだね」

 スズヤは、残酷なことをあっさりと言った。

息が苦しくなり、玲央は胸を抑えた。

「でも、引退したのは、今ここにいる玲央さんじゃなくて、別の時間線の玲央さんだよ」

「そんなの関係ないよ。わたしのせいだ……」

 なにもしてあげることができなかった。自分が自分だと証明することすらできなかった。

「玲央さんは頑張ったし、玲央さんが責任を感じることはないよ。玲央さんにできることはなにもなかったんだ」

 そう思っても、いいのだろうか。

 頑張っても、なにもできることはなかったのだとしたら、悪い夢として忘れてしまっても、いいだろうか。

 そもそも、思い悩むことなんてないのではないか?全部、別の時間線で起こったことだ。ほかにも、何本も時間線はあるみたいだし、別の世界のことを気にしたって仕方がない。考えてみれば、自分は勝手に姿を消したことで、もといた時間線の家族や友達を悲しませている。今更ほかの世界のことを思い煩ってなんになる。自分には関係ないことだ。

 そう思おうとした。楽になろうとした。でも、できない。

 どうやって償えばいい?

「責任を感じるべきなのは、僕だよ」

 スズヤは引き続き、玲央を慰めようとしているらしい。

「僕の言葉は、ユヅサには全然届かなかったみたいだよ。昔からそうだった」

「本当に頑張ったの?前から気づいてたなら、もっとなにかできることがあったんじゃないの?」

 玲央は思わず、スズヤを責めてしまった。

「全力を尽くしたよ。セロトニン注射、脳改造手術、セラピー、相談会、若者の集まりなどを勧めたし、偉人の格言、文学からの引用、様々な人々の人生論、哲学、宗教などを駆使して話したよ。でも、なにかが足りなかったのかなあ」

 玲央は、スズヤをひねりつぶしたくなった。

「そうだよね。あんたには、人間の気持ちなんて、わからないもんね」

「わかるよ。玲央さん、泣いてるね。それに怒ってる。もう一度深呼吸しようか」

「黙れ、このクソロボット。どっかに行っちまえ!」

 玲央はスズヤをつかみ、窓から外へ放り投げた。


 17

 こんなに苦しかったことは、今までなかった。女だからと馬鹿にされたり、歌詞が書けなくて締め切りに追い込まれたり、そんなことをつらいと思っていたなんて。

 でも、絶対に誰にも言えない。

 玲央は、いつも通りに振る舞うように努力した。やらなければならないことはたくさんあるのだ。

リヴシネのアルバムがリリースされ、ツアーについての打ち合わせを重ねる。そしてツアーに出発。

 ライブに向けて集中している時や、ライブの最中などは、ほかのことは頭から飛んでいる。しかし、ライブ終わりにホテルに戻って一人になった時など、自責の念が押し寄せてきた。ホテルの部屋は巧とは別に取ってもらっていた。巧は打ち上げに参加するし、四六時中、同じ人間と顔を合わせていると、さすがに疲れてくるからだ。

 眠ろうとしても、ずっと考えてしまった。ファンの一人も救えないで、音楽をやっていることに意味はあるのか。救うどころか、自分の薄っぺらな気持ちのせいで、誰かを傷つけているのではないか。もうやめたほうがいいのではないか。でも、やめたあと、なにをすればいいのか。

 実際には、一度会っただけのユヅサ。玲央を縛りつけ、いつまでもぎりぎりと心に食い込んで、放さなかった。

 ある夜、福岡でのライブから帰ってきて、数日ぶりに自宅のベッドに入った時、隣の巧が言った。

「なあ、最近玲央、体の具合でも悪いの?」

「え?」

 かけ布団を首まで引き上げた玲央は、ベッドに腰かけた巧を見上げた。

 巧は、体をひねって玲央をじっと見る。

玲央は、努めて明るい声を出した。

「そんなことないよ。ちゃんと歌ってるでしょ?」

「そうだけど……」

 巧は、隣に横になっても、疑わしそうに玲央から目を離さない。

「なんか暗いから」

「わたしが?そうかな」

「うん。なんかあった?」

「なにもないよ」

「ふーん」

 巧は目をそらして上を見たが、明かりを消そうともしない。

「ほんとになんでもないって。気のせいだよ。わたしが今まで隠し事したことあった?」

 必要以上に言葉を重ねてしまう。隠し事といったら、ずっとしているのに。

「ないけど、これからもしないとは限らないだろ」

「なにそれ。信じられないの?」

「玲央がいつもと違うから」

「そんなことないよ。なにも隠してないよ。そんなこと言って、そっちこそ、なにか隠してるんじゃないの?」

「はあ?」

「だって、普通じゃないよ。なんともないわたしのことを、いつもと違うなんて。そっちがなにか隠してるから、わたしもなにか隠してるように見えるんだよ」

「俺はなにも隠してないよ」

「どうかな」

「もういいよ」

 巧は不機嫌に言い、手を二回たたいて、照明を消した。

 玲央は、苛ついてとっさに言ってしまったことを早くも後悔した。でも、謝るのも面倒なので、黙って寝返りを打った。


 話はそれで終わらなかった。その後も、伊藤や順生から、最近様子が変だがなにかあったのか、ということを訊かれた。巧の差し金かもしれないが、伊藤も順生も、本気で心配してくれているようだった。

 気持ちはありがたいし、申しわけないが、話すことはできない。頭がおかしくなったのかと、より一層心配されないためにも、一生自分の心の中だけに留めておくのだ。

 巧は、はっきりとは口に出さないまでも、今まで以上に玲央を気遣った。そんな巧に対し、玲央は自分の口をふさぐため、どんどん心を閉ざしてしまった。

 ツアーが成功のもとに終了し、緊張の糸が切れると、夫婦関係はさらに悪化の一途をたどった。二人はよそよそしくなり、事務的なことしか話さなくなった。

 悪いことが一度起こると、不幸を引き寄せるというのは、本当かもしれない。

 玲央が三十六歳になった頃、ひどい生理痛で動けなくなってしまうことが何回か続いた。それまで毎月飲んでいた市販の薬が効かないので、これはさすがにおかしいと思った。

 病院へ行き、アンドロイドの医師にナノマシンを注射され、検査してもらった。

 重度の子宮内膜症だと診断された。外見は人間そっくりの女性アンドロイド医師は、無表情に言った。

「ナノマシンで、内膜を切除したのち、子宮内壁を埋めることをお勧めします。再発することはありません。妊娠を希望される場合は、子宮内膜再建用のナノマシンを接種する必要がありますが、そうでなければ、ほかにはなんの影響もなく、月経や月経痛から解放されます」

 ほかにもいろいろと説明されたが、ようするに、すぐに治すことはできるということだった。その代わり、自然妊娠することはできなくなる。

 以前、玲央と巧は話し合ったことがあった。一緒にバンド活動するなら、子供を育てるのは難しいと。

 玲央は、巧に相談したうえ、治療した。といっても、再びナノマシンを注射してもらっただけだ。

 ナノマシン接種後、生理が来なくなった。解放感と、一抹の寂しさがこみ上げた。

 それをきっかけに、玲央は、定期的に病院へ行って、ナノマシンを接種するようになった。体調を整え、老化を防止する効果のあるものだ。ナノマシンが病院に体内のデータを自動送信することで、病気の早期発見にもつながる。

 巧も同じ病院で同じようにナノマシンを定期接種するようになった。その話を巧がメンバーにしたところ、そのうちみんな通うようになった。一人でも体調を崩したら、活動できなくなってしまうのがバンドだ。なにも言わなくても、そのような意識を全員持っていたらしい。

 玲央の病気はたいしたことにはならなかったものの、さらに問題が持ち上がった。

 リヴシネの所属するレーベルが、不正な方法で海外音楽配信会社と単独契約を結んでいたとして、やり玉に挙げられたのだ。結果、役員総辞職に追い込まれ、その配信サイトでの同レーベルの楽曲の配信はすべて停止された。もちろんその中には、リヴシネの楽曲も含まれている。

 すでに海外のファンも獲得しているにもかかわらず、海外への販売ルートを閉ざされてしまったリヴシネは、レーベルを移籍しようとしたが、簡単に事が運ぶわけもなかった。レーベルのスタッフはいい人も多く、リヴシネの意思を尊重してくれていたが、上の人々は、そうはいかなかった。

果てしないごたごたの結果、あとアルバム一枚を現在のレーベルで出したあと、移籍するということになった。メンバーとしては、すぐにでも移籍したかったので、この状態で作品を作らなければならないということは、かなりの精神的負担になった。

 リリースに伴うインタビューでも、このアルバムは苦しい心境で作ったと、打ち合わせたわけでもないのに、正直にみな口をそろえた。なぜかそのアルバムの評価がよかったことは、ほとんど奇跡的だった。里久はインタビューで、「負のパワーがいい方向に出た」とか言っていたが、実際どうだったのか、玲央には客観視できなかった。

それでも、なんとか制作を終え、別の大手レーベルに移籍することができた。心機一転を図ったのはいいものの、それからの数年間で、玲央と巧以外のメンバーの身辺での不幸が相次いだ。

 睦彦の妻が第一子を流産した。元アイドルと結婚していた里久は離婚した。順生が店の開業資金として大金を貸した友人は、そのまま姿を消した。

 特にメンバー間でプライベートなことをあれこれ話し合ったわけではないが、それぞれの精神状態によって、その場の空気は違ってきてしまう。

 それでもなんとか、リヴシネは結束を保った。

 メンバーは四十代になり、音楽性も変わってきた。シンギュラリティ後の技術のおかげで、若さを保ってはいたが、やはり肉体があれば、年齢は様々なものに影響してくるらしい。

 音数は控え目となり、素直にチャッチーな曲が増えた。玲央も、巧と里久の要求に応じてメロディを書いたが、二人の曲に呼ばれて、自然とそのような形になった。

歌詞に関しては、繰り返し同じテーマを書くようになっていた。この世の儚さと、自分で自分を壊すような苦しみだ。無数の時間線があることを知り、ユヅサを失った玲央は、そのような歌詞を書かずにはいられなかった。

様々な世界があるはずなのに、手に入れられるものはほんのわずかで、すべてが脆く壊れやすいものに思えてしまう。無数の可能性があるということは、確固たるものがないということではないか。失ったものは戻らないということだけが、ゆるぎない事実である気がする。

 曲のハードコア感が薄まってから、より多様な層にリヴシネの楽曲が響くようになった。ここ数年、ほぼ横ばいだったライブの動員は、再び増え始めた。間口が広ければ、受け入れられるのもスムーズらしい。ライブで昔の曲をやっても、最近の曲をやっても、同じように盛り上がってくれていた。今まで出たことのなかった雑誌の表紙を飾り、以前なら出なかったような番組にも出た。

 年齢が上がってからも、活動の場が広がることは、たぐいまれなることだ。バンドとして、本当に幸せだと思う。しかし、歌詞はより一層破滅的になったのに、皮肉なものだという思いもぬぐえなかった。

 四十代も後半になり、メンバーはそれぞれの苦しみから立ち直って、落ち着きを取り戻し始めていた。一時期、ぎくしゃくしたことがあったことも、どうでもよくなってきた感があった。

 つらい時期も、なにももたらさなかったというわけでもない。一度、順生がスタジオに持参していたレトルトカレーのストックを睦彦が食べつくしたことがきっかけで、互いの演奏技術の未熟さを罵り合う大喧嘩に発展したことがあった。

 穏やかな性格で、メンバーの中でもオアシス的存在だった二人が、そんなつまらないことがきっかけで喧嘩をしたことに、みな驚いた。言い合いに疲れて収束したあとは、二人とも黙々と練習を始めた。おかしなものだが、それ以降、どこか表面的に仲のよかっただけの順生と睦彦は、なんでも言い合うことができるリズム隊に進化したようだった。

 リヴシネは、デビュー二十五周年を迎えた。アニバーサリーの一年間、国内外、かなりの本数でツアーを回り、いろいろな場所のたくさんのファンを前にした。そのあとは、久しぶりの休息期間に入った。怒涛のスケジュールを乗り切れたことで、玲央はほっとしていた。

 そんな中、再び不幸が訪れた。巧の父が亡くなったのだ。

 巧の両親は、ナノマシンによる老化防止や治療を拒否していた。アンドロイドの医師も嫌い、人間の医師がいる病院にわざわざ通っていた。胃癌だと発覚しても、巧の父の考えは変わらなかった。

 機械やAIに思想的に反対していたわけではない。子供たちの世代がそれを使う分には構わないが、自分たちがそれを使うということには、心理的に抵抗があったということだ。

 あまりに技術革新のスピードが速まったため、そのような拒否感を抱く人々は、特に玲央の親以上の世代にはたくさんいた。その気持ちは理解できるし、尊重されるべきだと、玲央は考えていた。巧もそれは同じだった。

 いつか起こることだとわかっていた。それでもやはり、巧にとって、肉親の死は堪えたようだ。

巧は、葬儀や通夜の間、表向きは冷静で、ツアー中でなくてよかった、などと軽口をたたいていたが、どこか元気のない様子だった。巧の母のほうが、よほど気丈だ。わたしもいつか死ぬんだから、その時は喪主としてしっかりやってよ、などと言っていた。

 すべてを執り行い、巧の実家で一晩過ごしたあと、自宅に帰ってきた。一人になってしまった巧の母と同居することも考えようかと、玲央のほうから言いだして、しばらく話し合った。巧は、母は遠慮するだろうが、将来的にはそれも考えようと言った。

 玲央が自分の部屋でベッドに入り、照明を消そうとした時、巧が寝室に入ってきた。

 巧は別の部屋に寝るようになっていたので、玲央は怪訝に思った。

「なに?」

 巧は、隣にごろんと横になった。

「あのさ、俺たちだって、いつかは死ぬんだよな」

 巧は天井を向いたまま言う。

 玲央は、どうしたの?と言いそうになったが、父が亡くなって落ち込んでいるのだろうと思い、大人しくうなずいた。

「うん。不老は実現したけど、不死は実現してないみたいだね。百五十歳くらいになると、体の機能を保たせるナノマシンの働きが利かなくなるんだって」

「俺たちのどっちかが先に死んで、残されたほうが死ぬ時は、見送ってくれる人もいないんだよな」

「……きっと誰かいるよ。友達とか」

「俺、友達あんまりいないし」

「じゃあ、わたしが巧よりも長生きしてあげるよ」

「それで玲央は寂しくないの?」

「そんなことないけど……」

「同時に死ぬっていうのも難しいしなあ」

「嫌なこと言わないでよ」

「子供、ほしくない?」

 玲央は心底驚いた。こちらを向いた巧と目が合う。今も昔も、巧は冗談を言う人ではない。

「なに言ってるの?一緒にバンド活動するなら、子供育てるのは無理だねって、前に話したじゃん。そもそも、わたしは子供産めないよ」

「本当はほしいって受け取ってもいいの?」

「そんなの、ずっと考えてもいないよ」

「養子取らない?」

「でもバンドが」

「留守中はベビーシッターに世話をしてもらえばいいし、転送装置の使用許可を取れば、ツアー中でも、すぐに帰ってこれるだろ?」

「転送装置は、公的機関とか、すごいお偉いさんとかしか使えないんじゃないの?」

 瞬間移動を可能にする装置は、一般人が利用できるものではない。街のいたるところに、ドアだけがぽつんと立っているが、それは、消防や警察などが使うために設置されたものだ。厳重な警備が必要な要人などが使うこともあるが、それもまれなケースだった。

「この前、ニュースで見たんだよ。転送装置とか、タイムマシンの利用制限が緩和されるかもしれないって。一般人でも、審査を通れば、使えるようになるかもしれないんだよ」

「でも、そんな個人的な理由で使わせてもらえるかなあ」

「申し込んでみないとわからないだろ」

「そうだけど……」

 巧は肘をついて頭を支え、玲央の髪に手を伸ばした。

「時間はたっぷりあるんだから、考えてみてよ」

 巧に髪をなでられながら、玲央は天井を見て考えた。巧は、ずっと変わらず愛し続けてくれている。それなのに、自分は心を閉ざして、十分に応えていない。自分勝手な人間なのだ。

 自分が人の親になれるはずがない。

科学技術が発達し、洗練され、豊かになった現代でも、身寄りのない子供はいまだに存在していた。そんな子供たちの中から一人育てたとしても、その子が大人になった時、やっぱりアンドロイドの保育士に育てられたほうがよかったと思うに決まっている。

「だめだよ。わたしは、子供なんてほしくないから」

 顔を背けた玲央に、巧は、「そうか」とだけ言って、部屋を出て行った。


 18

 MV撮影の合間、玲央はぼんやりとしながら、テントの下で、持参したサラダを食べていた。

ここは地方の湖だ。スタジオでの撮影だけでなく、ロケができるということにも感謝しなくてはと考えつつも、玲央の気持ちはふわふわと別のところへ飛んでしまっていた。

 食べ終わり、メイクを直してもらったが、まだ里久だか巧だかが撮影中だ。待つ間、携帯端末をいじる。窓から捨てたスズヤはどこかへ行ってしまったので、データの移行もできず、一時期は面倒なことになった。それも十年以上前のことだ。

 養子縁組について調べている自分に気づき、玲央は慌ててページを消した。

 なにを迷っているんだ。わたしは、子供を持って幸せになろうなんて、そんなことを考える資格のある人間じゃない。

 気分を切り替えようと、SNSを開いた。ヘビーユーザーではないが、ごくたまに、近況などを報告している。ファンからのメッセージなども届くので、それは参考にも楽しみにもなっていた。

 新しいダイレクトメッセージが届いていた。玲央は、送り主のユーザー名を凝視する。

AI_suzuya

メッセージを開いた。

『玲央さん、お久しぶりです。スズヤです。僕のことを覚えていますか?きっと覚えていますよね。僕は、どこかへ行けと言われたので、考えた結果、この時間線のユヅサのところへ行くことにしました。僕は、小鳥や虫になって、ユヅサの成長を見守りました。今から約三年前、ユヅサが十歳の頃、僕は、捨てられたかわいそうなロボットとしてユヅサの前に姿を見せ、拾ってもらいました。個人情報などは削除済みですし、なにもユヅサには知られていないので、安心してください。ユヅサは、僕を大切にしてくれています。そんなユヅサは、一年ほど前から、リヴシネのファンになりました。玲央さんに手紙を書いては、破って捨てています。上手く書けないと言っていますが、僕が読んだ限りでは、とても好意的なファンレターだと思います。この時間線のユヅサは、玲央さんのことが好きなんです。もし、今もまだ玲央さんが落ち込んでいるなら、そのことを伝えたほうがいいと思いました。僕は、玲央さんが元気でいるといいなと思っています』

 玲央は、何度もそのメッセージを読み返した。玲央とスズヤしか知らないはずのことが書いてあるから、本当にスズヤが送ってきたものだろう。

この時間線のユヅサは、リヴシネのファンでいてくれているのか。

 嬉しいと思いつつ、どう気持ちを整理すればいいのか、わからない。

「染川さん、お願いします」

 スタッフが呼びに来た。

「はい」

 ソロカットの撮影だ。とにかく、今は仕事をしなければ。


 スズヤに返信しようとも考えたのだが、どうしてもためらってしまった。

 こわかったのかもしれない。別のユヅサのことを知ってしまうことで、玲央の知っているユヅサの重要性が薄れてしまうような気がした。

 本当はそれよりも、自分の暗い心の凪が壊されることが嫌だった。

そうこうしているうちに、年の瀬となった。玲央にとっては、四十代最後の年末。

ダイナマイト・イリュージョンが、実質的引退ライブを行うこととなった。

 玲央は、巧と順生と一緒に、そのライブに足を運んだ。ライブの途中、ボーカルの桃木は、MCで語り始めた。

「この間発表したので、ご存知の方も多いと思いますが、今日をもちまして、レコード会社とか事務所に、リリース日とかライブの日程とかを決めてもらうのは、やめにします。もうだいぶいい年なんで、そろそろ休んでもいいかなと。気が向いたら、またやります。やらないかもしれないけど」

 笑い交じりに、まるで冗談のように話す。

 客席からは、悲鳴や、「今までありがとう!」「またやって!」などと声が上がっている。

 玲央は、ひとつの時代の終焉をひしひしと感じていた。無数の人々の青春を背負ったバンドは、立派に長い年月を走り切ったのだ。

 いい意味で、いつも通りのダイナマイト・イリュージョンのライブだった。唯一の特別な点は、常に新曲を押し出す姿勢を貫いてきた彼らが、今回はベスト盤的なセットリストを組んできたことだった。自分たちの曲と歴史へ別れを告げているようだった。

メンバーは、思いのほかあっさりとステージを去った。ファンである玲央の中にも、心残りはなかった。

 でもやはり、打ち上げでは泣いてしまった。ほんの少しの時間、メンバーとスタッフがそろっているところへ顔を出しただけだったが、挨拶をしている途中で涙を堪えきれなくなり、驚かれてしまった。

 ただでさえ感慨深いのに、より一層心に響いてしまった理由があった。翌日、リヴシネも、同じ会場に立つのだ。

 その会場は、去年、新しくできたものだった。武道館級のキャパシティでありながら、コンサートを開催することに特化したホールだ。音楽関係者と、いい音でコンサートを楽しみたいファンにとっては、待ち望んでいたと言っても過言ではない、質のいい設備が整っている。ある音楽フェスで多大な利益を得てきた企業が、何年も計画を練った末に建てたものだということだった。

 そのような新しい場所で活動を締めくくったことも、ダイナマイト・イリュージョンらしいと思った。常に新しいものを求め、進化し、マンネリとは縁のなかったバンドだった。

 ダイナマイト・イリュージョンのラストライブの翌日に、同じステージで、自分たちがライブをする。たまたまそのような日程になったとはいえ、なにか運命的なものを感じずにはいられなかった。デビュー記念の単発ライブだ。ラストライブほどではないにしろ、重要な意味がある。明日、どんな気持ちで客の前に出ていくことになるのか、玲央自身にもわからなかった。

 翌日の朝。鏡を見ると、泣いたからと心配していた目は腫れていなかった。喉の調子も大丈夫そうだ。

 巧と一緒に会場に入ると、ほかのメンバーはすでにそろっていた。いつもの顔を見ると、どこかふわふわとしていた気持ちが、何度も経験してきたライブ前のテンションに収束していくのを感じた。落ち着いた緊張感。

 準備を終え、客も入った。スタッフの合図とともに、客電が落ちた。玲央はいつも通りに、ステージ中央へ歩きだした。

 玲央はただ歌った。余計なことはなにも頭に浮かばなかった。

 ろくに間らしい間を開けず、次々と曲を演奏していく。近年、リヴシネはMCをすることが減っていた。ステージ上でしゃべることに向いていないと、玲央本人がやっと気づいたのだ。

取材やラジオなどではそつなく話せるのに、ライブでのしゃべりでは、かっこつけるのも、場を和ませるのも、どうにも苦手で空回りしてしまうのだ。

機材の工夫とスタッフの協力で、曲の転換をスムーズにすれば、MCがなくてもなんの問題もないので、最近はそれで押し通していた。

 様になるかっこつけ方ができればいいのだが、MCに限らず、ステージングでも、上手くいかなかった。一時期、徐々に女性らしい動きを出していこうとしたこともあったのだが、里久に似合わないと言われた。ほかのメンバーもそれに反論しなかったので、やめた。

 諦めていくことも、自分を研ぎ澄ませていくために必要なのだと思うことにした。今は、がむしゃらでひたむきな、少年のようなステージングに徹している。

 MCもなく、ずっと歌いっぱなしでも、客席だってちゃんと見える。ステージ上の照明の点滅が激しかったり、全体的に暗くて自分の周りだけ明るかったりすると、よく見えないこともあるが、あえて客席を明るくしてもらう曲もあった。

 終盤に配置したある曲も、その中のひとつだった。数少ない定番曲だ。リヴシネも新曲押しの姿勢を取っていたので、必然的にセットリストが流動的になり、定番曲ができにくいのだ。この曲も、毎回演奏するわけではないが、どの会場でやっても、ある程度は盛り上がってくれた。

 玲央は、ステージの上を端から端まで歩きながら歌った。弦楽器隊三人も動いているので、視界の端にとらえつつ、ぶつからないように、うっかり同時に花道に行ってしまわないように配慮する。たまたま巧と一緒に花道に行った時に絡まなかった翌日には、ネットで不仲説がささやかれた。その説が再燃するのはごめんだ。ファンは、細かいところも必要以上によく見ている。

 注意して一人で花道に行き、先端まで歩いて行った。客との距離が近くなる。一人一人の顔がはっきりと見える。

 思わず、ある顔に目を止めてしまった。一瞬、歌詞が飛んだ。みな若々しい客の中でも、その女の子の幼い顔は目立っている。中学生だろうか。リヴシネのライブに、子供は珍しい。しかも、リヴシネのTシャツを着ているとなれば、なおさらだ。

 女の子は、一緒に口を動かして歌っていた。玲央が近づいても、手を振るでもなく、全力でリズムに乗せて腕を振り上げている。歌詞が飛んで、玲央が一秒ほど歌うのをやめてしまったことは、気にもしていないらしい。

 その女の子は、ユヅサだった。

 間違いない。中学生のユヅサと会ったことはないが、その子は、ユヅサ以外の何者でもなかった。

 やはり、スズヤのメッセージは本当だった。ユヅサは今ここにいる。玲央の知っているユヅサはいなくなってしまった。しかし、別のユヅサは、自分をまだ必要としてくれているのか。

 玲央は向きを変え、歌いながら花道を戻った。とにかく、今は歌え。

 ステージに立っているこの自分は、ユヅサがくれたものだ。そのことを、玲央は思い出した。

 ライブが無事終わったあと、玲央は少し迷ったが、巧に声をかけた。

「ちょっと話したいことがあるの。今日は打ち上げ行かないで、一緒に帰ってくれる?」

「うん?わかった」

 巧の後ろから、里久が顔を出す。

「なに?喧嘩でもしたの?」

 こうやってからかってくるところは、昔からちっとも変わらない。メンバーの中で唯一の独身なので、より一層子供っぽさが目立つのかもしれない。今は、かなり年下の女優と付き合っているらしい。

「ほら行くよ」

 睦彦が里久を引っ張っていってくれる。睦彦の存在は、いつもありがたい。

 あとから来た順生に、巧が声をかけた。

「今日、俺玲央と一緒に帰るから」

「そう。じゃあ俺も帰って、たまには息子と一緒に寝ようかな」

 たまにはと言っておきながら、幼稚園の息子といつも一緒に寝ているという話だ。

 睦彦にも子供が生まれて、順生は大っぴらに家族惚気をするようになった。

 なんだかんだ、みんなは、昔から玲央がぼんやりと思い描いていた通りの大人になっていた。

 そんなメンバーと別れ、玲央と巧は自宅に戻った。

「巧。わたし、今までずっと隠してきたことがあったの」

 玲央は、巧にすべてを話した。自分が、一度過去へ戻ったこと、ユヅサのこと。

 巧は驚いたようだったが、タイムマシンも発明されているので、玲央の気が狂ったとは考えなかった。

 玲央が長い話を終えると、巧は息を吐いた。

「よく今まで黙っていられたな」

「まあ、ね」

「どうして今、話したの?」

「ユヅサちゃんを見つけた時、ユヅサちゃんの最期の言葉を思い出したの。『玲央さんも元気でいて』って。だから、わたしは元気でいなきゃいけないから、そのためには、いつまでも隠してちゃいけないと思って……よくわかんないけど」

 どうして今まで、ユヅサの言葉の意味をよく考えなかったのだろう。

 ユヅサは、スズヤに口止めしてくれた。玲央が自分を責めないように、苦しまないように配慮してくれた。気持ちのすれ違いはあったけれど、その思いは本物だったはずだ。

今まで、玲央はユヅサのその思いをないがしろにしてしまっていたのだ。

「もう、自分を苦しめるのはやめようと思って」

 今までの自分は、暗く沈んだ心の凪に甘んじていた。自分を苦しめることで、自分を甘やかしていたのかもしれない。なにも変わらないまま、それでよしとしてきた。立ち上がるより、座っていたほうが楽だから。

 それじゃだめだろう。

「そっか……玲央のおかげで、今の俺たちがいるってことだよな」

 巧は感慨深げに言う。

「まあね」

「……順生と寝たことがあるっていうのは、ショックだな」

巧の言葉に、玲央は慌てた。

「それは別の時間線での出来事だから……順生に言わない、よね?」

「さあ、どうだろう。今後の玲央の行い次第かな」

「やめてよ」

「でも、俺にも秘密があるんだ」

「え、なに?」

「何回か浮気した」

「え?」

「玲央、急に態度が冷たくなっただろ。そんな大変なことがあったなんて知らなかったから、俺のことが嫌になったのかと思って、落ち込んじゃって。それで、テキトーに何人かと。長く付き合った人はいないけどな」

「……全然気づかなかった」

「だろうな」

 巧の澄ました顔には、お前は鈍いからな、と書いてある。

猛烈に腹が立ってきた。

「馬鹿にすんなっ」

 ぽかんと肩を殴る。

「ギタリストの肩を殴るとは」

 と怒る巧。寝室に逃げ込んだ玲央を追いかけてきた。

「そもそも、言えばいいのに黙ってるお前が悪いんだぞ」

「この浮気男!」

 玲央は、ぽかぽかと巧の胸やら腹やらを殴る。巧は玲央を抱え込み、そのまま一緒に柔らかいところへ倒れた。

「玲央が冷たいからだよ……俺は全然変わってないのに。気持ち的に」

「馬鹿」

 玲央は久しぶりに、体の芯が熱くなるのを感じた。


 エピローグ


 染川玲央様

 拝啓 本格的な夏がやってきましたね。

はじめまして。わたしは、知賀ユヅサと申します。中学三年生です。

わたしは、リヴシネの大ファンです。いつも見ている音楽番組に、リヴシネが出ているのを見たことがきっかけで、好きになりました。すべての作品を持っていますし、ライブには何度も足を運ばせていただいています。リヴギャザーにも入っています。今まで、何度お手紙をしたためようと思ったかわからないほどですが、上手く言葉がまとまりませんでした。

しかし、どうしてもお祝いを申し上げたくて、今回初めてお手紙を出す決心をした次第です。

会報で、新しいご家族をお迎えになったことを知りました。

おめでとうございます。

玲央さんと巧さんは、とても素敵なご夫婦だと思うので、お二人のお子さんは幸せですね。本当は、わたしが養子になりたかったくらいです。

冗談はさておき、お子さんができても、今まで通りに活動することを明言してくださって、ありがとうございます。ファンを気遣ってくださるお二人のお気持ちに、胸が熱くなりました。

これからも、わたしはリヴシネを応援し続けます。わたしは、リヴシネのすべてが大好きなのですが、特に、玲央さんのお書きになる歌詞が好きです。

玲央さんの歌詞は、暗かったり、悲しかったりするものが多いですね。怒りや、痛みを感じます。玲央さんは、どんな苦しみを抱えているのかな、と考えてしまうこともあります。お恥ずかしいですが、玲央さんなら、わたしの気持ちをわかってくれるのかな、なんて思ってしまうこともあります。

まだ中学生のわたしにも、つらいことはあります。押しつぶされそうになってしまう気持ちになることもあります。でも、リヴシネの曲を聴くと、つらくてもいいんだ、悩んで、死にたいって思ってしまっても、それは変なことじゃないんだ、と思えます。それが生きているってことなのかもしれないと、最近は思えるようになってきました。

なにが正しいかなんて、わたしには、全然わからないことだらけです。でも、玲央さんが、生きるのはつらいことで、すべては儚いと歌っていても、頑張って生きていてくださっているのですから、生きることというのは、正しいのだと思います。

変なことを書いてすみません。わたしが玲央さんに救われたということを言いたかったんです。

これからは、なにがあっても、頑張れそうな気がします。リヴシネがなくなってしまうことよりも、もっとつらいことがあったとしても、きっと大丈夫です。

全部、リヴシネと、玲央さんのおかげです。上手く言えませんが、ありがとうございます。玲央さんがボーカリストになってくれて、本当によかったです。玲央さん、生まれてきてくれて、ありがとうございます。

まだまだ書きたいことはたくさんありますが、もう長くなってしまいましたね。

それでは、玲央さんと、メンバーのみなさんと、そのご家族のみなさんのますますのご発展をお祈りいたします。次のツアーも楽しみにしています。


敬具 


知賀ユヅサ

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ロック・スターへの時間旅行者 諸根いつみ @morone77

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