二階の女

「つか。マジ入れないんですけど」


 はじまりは、Sさんの勤める印刷所にやってきた女性客、いわゆるキャバ嬢の一言だった。

 印刷所もこの不況で、顧客の層が大きく変わった。Sさんいわく、現在の上得意は水商売の女性らしい。客に名前をおぼえてもらい、個人指名をより多く獲得するために、彼女たちは毒々しいくらいに派手な名刺を作りたがる。パソコンの印刷用ソフトなどで作成する子が大半だが、売れっ子になるとそれなりの枚数が必要になり、個人で作るよりも割安な印刷所に依頼するケースが多いらしい。

 その日訪れた彼女も、Sさんの会社に千枚単位で名刺を依頼していた。だが、印刷所の玄関をくぐるなり、件の台詞を言ったきりで一歩も動こうとしない。

 困り果てた受付嬢からの内線で、Sさんがオフィスから呼び出された。

 二階ですよね、ワタシが行くのって。ぽつりと呟いて、キャバ嬢は何やら考えこんでいる。香水の匂いにむせ返りながらSさんが立ち尽くしていると、おもむろに彼女が手を突き出してきた。


「なんかの紙と書くものとか借りれたら説明する事が出来るかもしれないかも」

 砕けた日本語に戸惑いつつ紙とサインペンを渡すやいなや、彼女は何かをすらすらと書きはじめた。


「ここ一階で、その廊下の右奥が階段ですよね。よね。そこから机がたくさん並んだ、大きい部屋まで行けるんですよ」


 彼女が書いているのは、どうやらこの社屋の間取りのようだ。

 廊下を進んだ突きあたりの階段。そこを昇ると事務室に辿りつく。その隣、ドアを開けた先には会議用の小部屋。

 すべて、当たっていた。


「で、ここに和室の小さい部屋があるじゃないですか」


 キャバ嬢は間取り図の奥を、マジックでぐりぐりと真っ黒に塗りつぶした。

 確かに、そこには小さな和室がある。かつては従業員の休憩室として使用されていたが、いつの頃からか物置代わりになって、今では開かずの間と化している。


「ここにね、足の無い女がいるから、二階に行きたくないんです。てか行けないし。この人、ここのヌシっすよ。マジ殺される」


 翌日は〝霊感キャバ嬢〟の話題で持ちきりだった。

 おおかた支払う金が無くなって、適当な言い訳を作ったんじゃないの。いやあ、やっぱ夜の商売やっている娘って、ソッチ系にハマるんだねえ。

 彼女を揶揄して皆が盛りあがっていたところへ、


「あのさ」


 古参の従業員であるBさんがやって来て、口を開いた。


「先週、の夜だったかな。残業してたんだよね。そろそろ日が変わるって時間に、突然シュレッダーがビイイイイイイイイイイイイイイイって作動したの。アレさ、手動スイッチなんだよ。手でいじらない限り動かないんだよ。何だか厭な気分になってね、帰っちゃった」


 Bさんの話が終了するのを待っていたかのように、中堅のJさんが身を乗り出して喋りだした。


「そういや、先月かな。九時過ぎに得意先まわりを終えて会社に戻ってきたら、二階の窓んとこで誰かが、こっちに向かってぶるぶるぶるぶる手ぇ振ってるんだわ。で、行ったら、無人。あのさ、部屋の電気がすっかり消えてたのに、何で人影が見えたのかね、俺」


「あの……三ヶ月くらい前、会社に残っていたんです。午前二時くらいだったかな。ぺたん、ぺたん、ぺたんって、スリッパをぶかぶかに履いた足音が階段から聞こえてきて。あ、誰か残っているって廊下に出たら。誰もいないの。真っ暗」


 A子さんの告白が途切れると、オフィスに静寂が戻った。コピー機が静かに唸っている。

 配達用トラックのバックする警告音が遠くで響いている。事務室の隅に置かれた電話が鳴った。誰も、取りに動こうとはしなかった。


「で、でもさ」


 お調子者で知られるG課長が、いつもより更に軽い調子で、輪の中に割って入った。


「おかしいじゃん。和室にいる女ってキャバ嬢が言うとおりなら、足が無いんでしょ。スリッパ履けないっしょ。ぶかぶかどころか、そもそも履く足が無いっつうのよお」


 G課長のおどけた言い回しに、場の空気が和みかけた。


「それ、もしかして」


 古参のBさんが、再び呟く。


「腕で階段を這っている音じゃないの。ぺたん、ぺたん、て」


 仕事が立てこんでいたにもかかわらず、その日は全員が定時で帰ったという。




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