薬の女

 Kさんは高校生の時、小遣いかせぎに早朝の新聞配達をおこなっていた。

 まだ薄暗い町を自転車で駆け、百軒あまりの家々に新聞を投げこむ。始めのうちは、籠に詰めこまれた新聞の重みにハンドルを取られて転倒を繰り返していたが、半月も経つ頃には重心を取りながら走るコツをおぼえ、配達先の家々を把握したのもあって、さして配達が苦にならなくなっていた。

 雪が降り始めたのは、そんな矢先の事である。


 雨ならば、籠をビニール袋で覆っておけば何とかなる。風が強くとも、ハンドルを普段よりしっかりと握っていれば、転ぶ事は無い。

 しかし、雪だけはどうしようもなかった。

 新聞配達は、除雪車もまだ稼働していない明け方が勝負だ。どれほどの豪雪であっても配達を遅らせるわけにはいかないから、おのずと起床時間が早くなる。

 寝ぼけた頭は、配達し始めて五分も経つと寒さのために覚醒する。手が真っ赤にかじかみ(新聞を摑むため手袋は使えない)、ちぎれそうなくらいに耳が痛む中、轍も出来ていない雪原のような路を、前輪で搔き分けて進む。

 その朝も、前夜から降り続いている雪が、膝ほどの高さまで積もっていた。

 重いペダルを踏みこんで雪を裂きながら、自転車は進む。吹雪で視界は無いにひとしい。ぼんやりと映る水銀灯だけを道標に走る。

 やがて、灯りらしきものを見つけたKさんは、光めがけてスピードを上げた。

 それが街灯ではなく車のヘッドライトだと気づいた時には、もう遅かった。


 自転車は真正面から衝突し、Kさんは投げ出されてボンネットに乗り上げた。

 フロントガラスにぶつかり、跳ね返るようにずるずる滑り落ちて道路に投げ出される。時間にしてわずか二、三秒だったはずだが、その間に「向こうの家のジイさん、少しでも遅れると配達所に文句の電話入れるんだよな」「自転車を買い換えるとなると、夕刊も配らないと間に合わないな」などと様々な事を考えていたのを、今でも憶えているという。

 地べたに叩きつけられた直後から、あまりの痛みに、悠長な思考は吹き飛んだ。

 しばらく動けずに呻いていると、周りを大勢の人間が取り囲む気配がする。

 目をこらしたものの、雪のためか顔はよく見えない。それでも、丸い輪郭や長い髪で、周囲に居る連中が女性だと解った。

 女たちは、覗きこむようにしてKさんをじっと見つめながら、何ごとかを呟いている。背中に走る痛みに、声も出せぬまま耳をそばだてていると「くすり……」と云う単語が聞きとれた。

 これは、薬をだれかに頼んでいるのだろうか、むしろ、救急車を呼んでもらったほうが助かるのに。そう告げようと、力をふり絞って口を開こうとした瞬間、ぬっと顔が近づいてきて、

 声がはっきりと聞こえた。


「くすりゆびだけちょうだい」


「くすりゆびだけちょうだい」


 間近に居るはずなのに女たちの目鼻はぼんやりと滲んだままで、並んだ顔のどれにも色が無かった。安っぽい墨の滲んだ、古い紙のような顔だった。

 そのあとどうなったものか、失神するまでの記憶が欠けている。


 気づけば、病院のベッドに横たわっていた。

 さいわい怪我は思ったよりも軽く、命に別状は無かった。

 ただ、その事故がもとで、Kさんの薬指には指輪のような傷跡が残り、随分と長い間、きちんと曲がらなかったという。




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