いらっしゃいませ、新堂さん
「おはようございます、先輩」
あの夜から二日ほどして、緋美子は『ロッコ』にやってきた。まだ午前の十一時で、走ってきたのだろう。肩で息をしていた。
約束通り、彼女はこの店のお客さんとして来てくれたのだ。
「いらっしゃいませ、新堂さん」
篤志も腕の怪我には包帯を巻いているが、仕事をしていて痛むほどではない。それも制服の袖に隠れて人目を惹くようなこともない。
本日は土曜日だ。学校も休みなのだろうが、緋美子は制服姿だった。窓際の席には、当然のように亜理寿が腰掛けている。緋美子も亜理寿に気づいて、小さく会釈を交わしあっていた。
それから、篤志に向かってペコリと頭を下げる。
「すみません、昨日のうちに来たかったんですけど」
「学校があるだろう? 無理をしなくていいんだよ」
カップを磨きながら篤志が応えると、緋美子は呼吸を整えてからなにか言いたげに口を開く。
しかし数秒ほどごにょごにょと口の中で転がすだけで、言葉にはならなかった。
首を傾げながらも、篤志は席に促す。
緋美子はがっくりと肩を落として、以前と同じカウンター席に座った。注文は本日の珈琲だった。
サイフォンをアルコールランプにかけながら、篤志は声をかける。
「あれから、大丈夫だったかい? その、伯母さんとのこととか……」
黒妖犬を追い払うことには成功したが、伯母との関係が改善したわけではない。
あの人間をどうにかしない限り、緋美子が本当の意味で笑って暮らせるようになったとは言えない。どんなに気持ちを強く持っていても、あんな悪意を向けられ続ければまた心が折れてしまう日が来るかもしれない。
「それなんですけど……」
緋美子は困ったような顔をした。
「大丈夫になったというか、なってしまったというか……。とりあえず、緋美子は大丈夫です」
「どういうこと?」
首を傾げる篤志に、緋美子はなんとも気まずそうに語り始めた。
「実はあのあと、伯母さんが怪我をしたらしくて……」
緋美子が家に帰ると、祖母から「伯母が階段から落ちた」と連絡が来たのだという。
もちろん、彼女も最初は黒妖犬のことを考えたが、どうやら話は思わぬ方向に転がったらしい。
「怪我は大したことなかったんですけど、おばあちゃんが伯母さんの日記を見つけちゃって、そこに……その、いろいろ、緋美子にしたこととか、他にも口に出すのも憚られるようなことがたくさん書いてあったらしいんです」
なんでもその伯母は近所の人間にも嫌がらせをしていたらしい。それを両親に知られたことですさまじい騒ぎになったのだという。
あれであの伯母は、緋美子の母や祖母の前では猫をかぶっていたのだという。それゆえ余計に裏切られたと身内は激怒したようだ。
「しかもネットでも過激な書き込みをしてたらしくて、おまわりさんにも目を付けられてたことがわかっちゃって……」
ネットでは匿名で発言できるから好き放題書いてしまう人間は多いが、SNSは少なからず個人情報を登録する必要がある。警察にはサイバー犯罪対策係というものがあり、架空の名前でアカウントを使用していても身元を特定されるときはされるのだ。
緋美子は申し訳なさそうに肩を落とす。
「そういうのが発覚しちゃったんで、昨日は一日大騒ぎで、お母さんまで仕事休んで帰ってきちゃったものだから余計に……」
警察沙汰になるほどの騒ぎだ。
その渦中にいた緋美子の心情は、察するに余る。
「それは、大変なことになったね……」
「で、でも、そのおかげって言ったらなんですけど、おばあちゃんたちがもう緋美子の近くに伯母さんが近づけないようにしてくれたんです」
それから、緋美子はへらっと笑った。
「緋美子、ちゃんと嫌だったこと、嫌だったって言えましたよ!」
「うん。がんばったね」
きっと、黒妖犬の事件がなかったら、伯母のことがバレても緋美子はなにも言えなかっただろう。そして結局、うやむやになって嫌がらせは続いていたかもしれない。
それをはね除けられたのは、紛れもなく彼女の成長だと思う。
心からの労いの言葉をかけると、緋美子もふにゃりとした笑顔を返してくれた。
そこで、珈琲ができあがる。
「どうぞ、本日の珈琲です」
「いただきまーす」
角砂糖をひとつとミルクを加えると、緋美子はカップに唇をつける。
「……苦いです」
「ココアに交換しようか?」
ここは珈琲店だが、メニューにはココアや紅茶もある。
篤志がそう提案すると、緋美子は首を横に振った。
「うー、これがいいです。……これ、なんていう珈琲なんですか?」
「マンデリンですよ。香りと苦みが強いので有名です」
営業口調で、篤志は説明する。
ちなみに、亜理寿は今日も香りだけで銘柄を当てていた。
苦そうに舌を出して緋美子は砂糖を追加するが、ミルクで温度の下がってしまった珈琲ではなかなか溶けなかった。
――次から、ミルクも温めて出した方がいいかな。
シロップを出すという手もあるが、そもそもミルクを入れたくらいで珈琲が冷めてしまうことが問題だ。
そんなことを考えるが、篤志の胸中にはひとつ気がかりなことが残っていた。
――伯母さんが怪我をしたっていうのは、偶然なのか?
緋美子が黒妖犬を追い返した直後に、出来すぎではないだろうか。
「――人を呪わば穴ふたつという言葉があります」
篤志は腕を組んで頭を悩ませると、亜理寿がカウンター席に移動してきた。
「黒妖犬に形を与えてしまったのはこの人かもしれませんが、最初に呪いを生んだのはやはりその伯母さんなんだと思います。なら、破られた呪いが返るところも……」
そのひと言には、緋美子も顔色を変えた。
「じゃあ、伯母さんが怪我したのって、もしかして緋美子のせいなんですか……?」
「……階段から落ちた以外の、不審な怪我などはなかったんですか?」
「それなら、きっともっと騒いでると思いますけど……」
「なら、きっと違うんでしょう。あなたが見た“アレ”は、階段から突き落とすくらいで許してくれる相手でしたか?」
緋美子はブンブンと首を横に振る。
亜理寿なりに慰めてくれたのかもしれない。緋美子もホッとした顔をしていた。
しかし、と篤志は思う。
「新堂がうちの看板をぶつけられたのも、黒妖犬のせいなんだよな?」
「……だと、思いますけど」
亜理寿のフォローを台無しにするようだが、篤志はこう言った。
「そういう、直接的でない攻撃ができるのだとしたら、あの黒妖犬は伯母さんが一番困るタイミングで脅かした……なんてこともあるんじゃないかな?」
「それは……」
またしても青ざめる緋美子に、篤志はこう言った。
「いや、責めてるわけじゃないんだ。なんていうか、あの犬は、本当は新堂を守ろうとしてたところもあるんじゃないかなって……馬鹿げた考えかもしれないけど、そんなふうに思えてね」
冷静に考えてみれば、あんな猛獣に襲われてかすり傷で済むはずがないのだ。篤志が襲われたときでさえ、黒妖犬は本気ではなかったのではないか?
実際に取っ組み合ったせいか、そんなふうに思えてならない。
亜理寿は小さく頷き返した。
「黒妖犬は不吉の象徴のように言われていますが、子供を守る守り神のような顔もあるんです。だから……」
篤志が言ったような可能性も、あるのかもしれない。
そう言うと、緋美子はポンと手を叩いた。
「ああ、そっか。じゃあ、あの子は最初から、緋美子のために追いかけてきてくれてたんですね」
「自分で言っといてなんだけど、よくそんなふうに思えるね」
怖い思いをしたのは緋美子だというのに。
なのだが、緋美子は首を横に振る。
「だって、あの子に追いかけられなかったら、緋美子はこのお店に来たりしませんでした。このお店に来なかったら、緋美子はずっといらない子のままだったんです」
それを噛みしめるように、緋美子は自分の胸を押さえる。
「だからたぶん、緋美子はちゃんと守ってもらってたんです」
篤志も、それに頷いた。
「うん。僕もそう思うよ」
そうして笑い合って、緋美子がふとなにかを思い出したように亜理寿を見た。
「そういえば、この前から思ってたんですけど、この子は……? なんか、あのときもすごいアイテム持ってませんでした?」
「ああ、それは……」
篤志が答えようとすると、亜理寿がそれを制した。
「……美坂、亜理寿です。両親の職業から、少し“魔法”のようなものをたしなんでいます」
「魔法!」
「……それが、なにか?」
にこりともせず淡々と語る亜理寿に、緋美子が後退る。
「緋美子、もしかして嫌われてます?」
「……別に」
篤志は苦笑する。
「亜理寿ちゃんは、ちょっと人と話すのが苦手なだけだよ。本当は優しくていい子なんだ。君を助けるためにいろいろがんばってくれたんだから」
「そ、そうだったんですか。ありがとうね、亜理寿ちゃん……ッ?」
緋美子が頭を撫でようとすると、亜理寿はその手を避けてしまった。
「あ、あはは……。そうですよね。初対面の人に、頭を触られるのは、ヤですよね」
なにやら傷ついた顔をしながらも緋美子は笑い返す。
――……あれ? 亜理寿ちゃん、なんか不機嫌じゃないか?
事件は解決したというのに、なにか気がかりなことでもあるのだろうか。
篤志はこっそりと亜理寿に声をかける。
(もしかして、まだなにか問題が残ってるのかい?)
亜理寿は珍しく複雑そうな表情を浮かべた。
(問題は残ってませんけど、別の問題が……)
なにか言いにくいことなのか、亜理寿は口ごもったまま黙ってしまう。
篤志が首を傾げていると、緋美子が呼んできた。
「あの、先輩」
「なんだい?」
「ひ、ひとつ、お願いがあるんでしゅけど……」
(あ、噛んだ)
(噛みましたね)
緋美子の顔が見る見る赤く染まり、耐えきれなくなったように両手で覆う。
「僕にできることなら、なんでも言ってごらん」
背中を押すようにそう言うと、緋美子は意を決したように顔を上げ、目を瞑ってこう言った。
「緋美子のこと、新堂じゃなくて緋美子って呼んでもらえませんか!」
一瞬の静寂。
「……やっぱり、なんでもないです」
緋美子は耳まで赤くして、俯いてしまった。
――これは、どう受けとめてあげればいいんだろう……?
年頃の娘が顔を真っ赤にしてまで自分のことを名前で呼んでくれと言っているのだ。
これがただの友情でないことくらいは、篤志にもわかるつもりだ。
それに黒妖犬と戦ったときも、彼女は篤志のことを“篤志先輩”と呼んできた。
――でも、黒妖犬のことでそう思い込んでるだけかもしれない。
冷静になったときに別にそういう気持ちではないと気づくのかもしれない。
それにお客さんに手を出すというのはいくらなんでもマズいと思う。
かといって、これまで自分を押し殺してきた少女が精一杯振り絞ってくれた勇気を見なかったことにするのも忍びない。
数秒ほど悩んで、篤志はやんわりと笑い返した。
「じゃあ、またお店に来てくれるかい、緋美子さん」
「……ッ、はい! 篤志先輩!」
緋美子はふにゃりと笑った。
――まあ、とりあえずはこれでいいか。
なにも告白されたわけではないのだ。
友人と呼ぶには微妙な距離のまま、篤志は保留を決め込んだ。
……その隣で、亜理寿が沈痛なため息をもらしていたが、篤志は気づかなかった。
喫茶店『ロッコ』に貴重な常連客がひとり増え、亜理寿の気苦労がひとつ増えた、休日の昼のことだった。
僕の珈琲店には小さな魔法使いが居候している ファミ通文庫 @famitsu
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