――あの日記を、人に見られるわけには……

 ――生意気なガキ!


 東野貴美――緋美子の伯母は、自室で悪態をつきながらパソコンを叩いていた。


 日記をつけているのだが、そこに綴られているのは日々の恨み辛みだった。特に本日は“使命”を邪魔されたこともあってすさまじい悪口雑言が並べられている。


 結婚はしていない。実家で年老いた両親の家事手伝いというのが彼女の職である。

 姪の緋美子を教育していたら、見知らぬ青年が邪魔をしたのだ。


 どうやら緋美子とは顔見知りのようだった。まさかとは思うが、恋人なのだろうか。そう考えると余計に腹立たしくなる。


 ――私は独りなのに、どうしてあんなガキが男を作って盛っているの!


 許せない。


 だが本当に許せないのは緋美子の母――つまり貴美の妹だった。


 学生時代の貴美は優等生だった。


 なにもしなくとも周りの人間は媚びてすり寄ってくる。みんな頭の中は空っぽだ。無能な馬鹿だから優等生の自分の言うことを聞くために集まってくるのだ。


 自分は女王で、周囲は下僕だった。

 そんな中で特に極めつけの馬鹿が妹だったのだ。


 いつもヘラヘラとしていて、愛嬌を振りまくことしか能のない娘だった。優れた長所もなく、鋭い洞察ができるわけでもない。成績も中の下で、なにひとつ貴美と対等なものがない。本当に姉妹なのか疑いたくなるほどだった。


 なのに、いつの間にか貴美の周りからは人が消え、ちやほやされるのは妹の方になっていた。


 誰も貴美のことを認めなくなっていった。

 まあ、みんな馬鹿なんだから仕方がない。馬鹿に対して自分は賢すぎたのだ。彼らに理解しろというのも酷な話だろう。


 月日は流れ、貴美は一流の企業に就職した。


 自分の能力を遺憾なく発揮できる職場だと思った。

 なのにそこでも周囲は自分を認めようとはしなかった。革新的な企画を考案し、馬鹿な上司にその正当性をいくら説いても理解されることはなかった。


 それどころか、僻地の支部へと左遷される始末だった。


 貴美は仕事を辞めた。


 それが己の協調性のなさが原因だとは、彼女は最後まで理解できなかった。


 なのに、実家に戻ってみれば妹は成功していた。


 気の良い青年と結ばれ、あたたかな家庭を築き、社会に出て評価もされていた。妹が認められた理由は、人柄のよさだという。


 くそ食らえだ。


 だが、妹を攻撃することはできなかった。

 妹を直接攻撃することは、自分が妹を僻んでいると認めるようで、貴美には耐えられなかったのだ。


 代わりに目を向けたのは、妹の娘――緋美子だった。


 生まれつき、気持ちの悪い赤い髪の子だった。

 妹の前では悪意を隠して笑顔で接し、緋美子の面倒をかいがいしく見てやり、妹の気づかぬところで緋美子を攻撃してみた。


 お前は母の唯一の汚点だと吹き込んでやった。

 幼い緋美子はそれを真に受け、サメザメと泣き出した。


 初めて、胸がすく気持ちになれた。


 緋美子は自分に虐げられるために生まれてきたのだ。あの子を虐げるのは貴美の特権、いや使命なのだ。


 やがて夫を失った妹は仕事に追われ、緋美子を放置するようになった。

 緋美子の面倒を見る役目は、貴美が買って出たからだ。姉を信頼しきっている馬鹿な妹はそこに疑問を抱くことはなかった。


 いまや緋美子に悪意を向けることが、貴美の存在意義なのだ。これなくしてはもう生きていけない。


 そうして今日も緋美子を痛めつけていたというのに、邪魔が入った。

 緋美子は幸せになってはならないのだ。


 なのに、自分を裏切って幸福になろうとしている。その可能性を持ってしまった。


 ――私を裏切るなんて許せない。


 そう、これは自分への裏切りだ。


 明日はもっと徹底的に心を痛めつけてやらなければ。

 常人からすれば反吐が出るような悪意の塊が、この女の原動力だった。


 そのときだった。


「――ッ、な、なに?」


 背筋に、悪寒が走った。

 パソコンのディスプレイから目を離し、後ろへ振り返る。

 そこには窓があるだけで、なにも見当たらない。


「……あらいけない。カーテンを閉めてなかったわ」


 今日も貴美のアカウント宛てに「あなたの言っていることはおかしい」などと書き込んでくる礼儀知らずがいた。最近ではSNSから住所を特定される事件も多いという。世界は他者を攻撃すること、足を引っぱることでしか生き甲斐を感じられない者であふれているのだ。


 誰に覗かれるともわからないのに、迂闊だった。


 カーテンを閉めようと立ち上がると、外はとっぷりと陽が暮れて真っ暗だった。つい日記を書くことに夢中になりすぎたようだ。


 そうしてカーテンに手をかけたときだった。


 ――明かりもついてないのはおかしくない?


 暗いのではない。まるで墨でもぶちまけたように真っ黒なのだ。

 なのだが、貴美はそれを異常だとは認識しなかった。


「ちょっとちょっと、街灯壊れてるんじゃないの? ほんと役所は仕事しない無能なんだから……」


 ガラッと窓を開ける。

 途端に、獣のような生臭さが鼻を衝いた。


「なによこのにおい。どこかの馬鹿がまた生ゴミでも……?」


 悪態をつく貴美の鼻先に、ぽっかりとふたつの明かりが灯った。


 小さくて、真っ赤な光。


 妙に近くに見えるのだが、なんだろう?

 手を伸ばすと、湿った毛布のようななにかが手に当たった。すぐ目の前だ。


「なにかしら、これ……」


『グルルル……』


 それは、夜の空よりもよほど暗い色の、犬だった。


「ぶぎいっ?」


 悲鳴を上げて、貴美は尻もちをつく。

 それから四つ這いになって部屋の奥へと逃げていく。


「母さん! ちょっと母さん! 警察、いや保健所よ! 保健所に連絡して。猛獣がいるわ!」


 喚き散らして、パソコンが点けっぱなしであることに気づく。


 ――あの日記を、人に見られるわけには……。


 パソコンを消そうと立ち上がるが、そこに窓から黒い犬が入ってきてしまう。

 犬を刺激しないようにパソコンへと手を伸ばすが――


『ガウッ!』


 犬はそれを阻むように吼えてくる。


「ち、畜生の分際で……っ」


 しかし素手で猛犬に挑むほど貴美も命知らずではない。


「母さん! 保健所に連絡してったら!」


 再度そう怒鳴るが、下の階の両親がそれに応える様子はない。

 舌打ちをもらして後退ったときだった。


「あ――」


 不意に、足元から床の感覚がなくなった。

 いつの間にか、貴美は部屋の外まで逃げてしまっていた。その足元には、一階へと続く階段が伸びていたのだ。


「ああああああああああああああああああああああああっ?」


 醜い悲鳴を上げて、貴美は階段を転がり落ちていった。

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