な、なにを、したんだい?
「な、なにを、したんだい?」
「拍子木というものです。鳴り子と言った方がわかりやすいでしょうか。お祭りや火の用心なんかでも使われている楽器です」
聞き慣れない単語に篤志が眉をひそめたのを見て、亜理寿は簡単に説明してくれる。
「黒妖犬はこの音を聴くと力を封じ込められてしまうんです。ただ、少し特別なユーカリの木から切り出した枝が必要で」
拍子木自体は珍しいものではないが、特殊な素材のものが必要だったらしい。それを手に入れるのに手間取っていたらしい。
黒妖犬の、あのおぞましい威圧感が消え失せたのを感じて、篤志も立ち上がる。
「これで、終わったのかな?」
「ひとまず、当面は。黒妖犬をけしかけた人を止めないと、いずれ同じことが起きるかもしれませんけど」
だがそうなったとしても、この拍子木があれば追い返せる。
緋美子の身を守るには、十分なのかもしれない。
篤志は緋美子の元に向かう。
「大丈夫かい、新堂?」
緋美子はビクッと身を震わせる。
そして篤志の腕や足を見て顔を覆ってしまう。
「ごめんなさい、先輩。緋美子のせいで……」
言われて気づく。
噛みつかれた左腕だけでなく、篤志は膝や右腕などあちこち傷だらけだった。黒妖犬に突き飛ばされたり、逆に飛びかかったりして何度も地面を転がったせいだろう。
篤志は首を横に振る。
「大したことじゃないよ」
それはもちろん痛い。いますぐ病院に駆け込みたい気分だが、この程度の傷で緋美子が死なずにすんだのだ。そう考えれば、大した問題ではない。
なのだが、緋美子は泣き止まなかった。
「ごめんなさい。やっぱり、緋美子はいたらいけない子なんです……」
「そんなこと言わないでくれよ……?」
篤志の怪我に責任を感じるなというのは難しいのかもしれないが、事件が起きたの
は緋美子のせいではない。彼女は被害者なのだ。
なんとか慰めようと、手を伸ばしたときだった。
「篤志さん」
亜理寿が、キュッと裾に掴まってきた。
その声が震えていたことで、篤志も気づく。
「なん、で……」
消えたはずの黒妖犬が、再び夜の通りに現れようとしていた。
まだ、実体を持たない靄のような姿だ。
それでも、また緋美子を狙って現れたのだ。
「どうして……。拍子木は効いたはずなのに」
亜理寿も唖然とした声をもらして、ハッとする。
篤志もまた気づいてしまった。
――黒妖犬をけしかけた犯人が、あの伯母さんじゃなかったとしたら?
緋美子の身内以外にも、もうひとりそれができる人間がいたはずではなかったか?
篤志と亜理寿は、同時に緋美子を見た。
炎のように美しい赤の髪。こういった“違う色”を持って生まれた人間には、魔法の才能がある場合が多いと聞いたはずだ。
――新堂が、黒妖犬を呼び寄せていたっていうのか?
だが、思い当たるところはあった。
――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――
緋美子が自分を責めるような言動を取るたびに、黒妖犬は力を増していった。
かと思えば、彼女が学生鞄で殴りつけたくらいで、黒妖犬は怯んで吹き飛んだ。篤志の腕力でもビクともしなかった怪物なのに。
そしていま、篤志の怪我を見て緋美子はまた自分を責めてしまった。
黒妖犬は、それに応えて現れたのだ。
――どうする?
あの伯母をどうにかすれば事件を解決できると思った。
もちろん、きっかけはそこなのだろう。あの伯母が緋美子を恫喝するところは篤志も見た。緋美子はずっとあんな悪意を向けられ続けてきたのだ。
だが、その悪意を受け入れてしまったことでこの黒妖犬は生まれた。
これは悪意から守ってやればいいような話ではない。緋美子自身が、自分を責めることをやめなければ終わらない。
ならば他人の傷に心を痛めることが悪いことだとでも告げろというのか?
――そんなの、理不尽じゃないか。
そんな理不尽から守ってやりたくて、篤志はここに来たのではなかったか。
篤志は大きく息を吸って、気を落ち着かせる。
それから、亜理寿の肩に両手を載せた。小さな肩は、怯えるように震えている。
いまの亜理寿に、これを言うのは理不尽なのかもしれない。それでも、これを頼めるのは彼女しかいないのだ。
「亜理寿ちゃん、しばらくあれを押さえられるかい?」
「……やってみます」
亜理寿の拍子木なら黒妖犬を追い返せる。
この様子ではいつまで通用するかはわからないが、緋美子と話すだけの時間は作ることができた。
篤志は緋美子の前にかがみ込む。
「新堂」
名前を呼ぶと、緋美子はビクリと身を震わせた。
「この事件が終わったら、また珈琲を飲みにきてくれるって言ったよね」
なにを言っているのかと、緋美子が顔を上げる。
「僕はお客さんが珈琲を飲んでる間だけでも、悩みごとを忘れられたらいいなと思って入れている。でも、本当は悩みごとなんて持たずに珈琲を楽しんでくれるのが、一番なんだよ」
珈琲には悩みや辛さを紛らわしてくれる力があると思う。
だが、そんなものを紛らわせるために飲んでいたら、きっと本当の意味で珈琲を味わうことはできないのだ。
だから、篤志は真っ直ぐ緋美子を見つめる。
「僕には君の悩みを解決することなんてできない。僕にできるのはせいぜい、こういうときに少しだけ身を守る手伝いをすることと、話を聞いてあげることくらいだ」
そして、黒妖犬を示す。
犬としての輪郭を取り戻し、再び緋美子に襲いかかろうと身構えている。
駆け出してくる黒妖犬を、亜理寿が拍子木で追い払う。
犬の姿が砕け、黒い靄になって霧散するが、それもまたすぐに集まっていく。
さっきよりも、もとに戻る速度が速い。
数十秒と経たないうちに、あれはまた犬の形になって襲ってくるだろう。形を取り戻すまでの時間も、どんどん早くなっている。
「……新堂。このままで、いいのか?」
だから、真っ直ぐその言葉を突きつける。
「あんな怪物に、いつまでも付きまとわれて、そのままでいいのか?」
緋美子は、震えながらも首を横に振る。
それだけで、黒妖犬の形がまた崩れる。
やはり、彼女の意志が黒妖犬を形作っているのだ。
――でも、全然足りない。
この程度の意思表示では、あれを追い払うには圧倒的に足りない。
「なら、ちゃんとそう言うんだ。わけのわからない悪意を向けられて、それで自分が悪いなんて抱え込むのは逃げてるのといっしょだ。ふざけるなと言い返してやれ」
それは黒妖犬に対しての言葉ではない。
伯母に立ち向かえという意味でもない。
これから先、伯母がいなくなっても彼女に悪意を向ける人間は現れるだろう。そのたびにこうやって蹲るのか、それとも立ち向かえるのか、そう問いかけているのだ。
答えられないでいる緋美子に、篤志は突き放すようにこう告げた。
「君は、本当に自分がいらない子だと思ってるのか? いまここで君を助けようとしてる僕たちは、無駄なことをしているのか?」
緋美子は首を横に振る。
「違う……」
黒妖犬がわずかに怯む。
それでも、犬の姿を取り戻すことを止められるほどではない。
ついに牛のような巨体を取り戻した黒妖犬は、またしても篤志たちに向かって突進してくる。
「……ッ」
亜理寿がそれを迎え撃とうと拍子木を構えるが、篤志はその手を握って止めた。
「篤志さん……?」
困惑の声をもらす亜理寿に、篤志は頷き返すだけだ。
「なら言ってやれ! ちゃんと自分の言葉で言い返すんだ」
両手の下から顔を上げて、緋美子は叫んだ。
「緋美子は、いらない子なんかじゃないです!」
その声は、拍子木の音色よりも強く響いた。
『ギャンッ』
そして、黒妖犬の巨体が弾ける。
篤志の頭に迫る牙も消し飛び、黒い霧だけがそこを通り過ぎていった。
ただ、なぜか篤志にはその霧が緋美子の頬を撫でていったように見えた。
まるで、愛し子の成長を褒めるかのように。
――なん、で……?
あの凶暴な姿から、なぜそんな幻想を抱いたのか、自分にも理解できなかった。
それでも、消えた黒妖犬はもうここに現れることはなかった。
へなっと、緋美子がへたり込む。
「もう、大丈夫だな」
「え……?」
「あんな怪物に怒鳴り返せたんだ。人間相手に言い返せないわけはないだろう?」
それから、肩を竦める。
「言っちゃ悪いけど、あの伯母さん、黒妖犬と良い勝負なのはこう、太ってるところだけじゃないか」
キョトンとまばたきをして、緋美子は噴き出した。
「先輩、それはひどいですよ……」
そう言って、緋美子は笑った。
涙をこぼしながら、いつまでもケラケラと声を上げて。
――ああ、この子はこんなふうに笑うんだ。
それはいつものへらっとした作り笑いではなく、心からの笑顔だった。
黒妖犬が、この少女を襲うことはもう二度となかった。
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