調子に乗るなよ、犬っころ!

「来い!」


 ジャケットを巻いた腕を突き出す。


 ――まあ、お前らの初仕事だからな。アドバイスくらいはしてやる――


 そう言ったのは、庄太郎だった。


 ――黒妖犬っても、姿は犬だからな。分厚い布を巻いておけば、噛みつかれてもなんとかなる――


 猛獣などに出くわしたときの対処法のひとつなのだという。望ましい素材は革だというが、そんな高級品は篤志には無縁だ。


 黒妖犬がそこに牙を突き立てる。


「ぐう……っ」


 岩の塊にでもぶつかったような気分だった。踏ん張った足が一メートル近くもアスファルトを滑り、靴底から煙が噴き上がっていた。


 ――こんなときくらいしか役に立たない馬鹿力だろう!


 歯を食いしばり、篤志は踏み堪える。

 だが、その腕からはポタポタと血が滴っていた。


 ――あんまり、効果ないみたいですよ、庄太郎さん。


 所詮は猛獣への対処法だ。精霊などという超常の存在が野良の獣に劣るはずもない。


 黒妖犬の長い牙は、ジャケットを貫き腕の肉へと突き刺さっていた。それでも食い

千切られなかっただけマシなのだろう。


「あ……あ……あ……」


 篤志の腕から伝う血を見て、緋美子が青ざめる。

 黒妖犬は血のにおいに興奮したのか、さらに顎の力を強めて暴れ始めた。


「調子に乗るなよ、犬っころ!」


 篤志は黒妖犬の顎を下から鷲掴みにする。

 顎の骨というものは上下に対して強い力を持つが、左右からの圧力には極端に弱い。篤志の力で掴めば、人間だろうが狂犬だろうがパスタのようにへし折れる。


 獣の姿をしている以上、黒妖犬だって無縁ではないようだ。


 メリメリと恐ろしい音を立てて骨が軋み、たまらず篤志の腕から牙を離した。

 その隙を逃さず、篤志は黒妖犬を放り投げた。とたんに、牙が抜けた腕が傷を思い出したように痛み始める。


 このまま倒れ込んでしまいたかったが、亜理寿からの助言を思い返す。


 ――素人の魔法使いが無自覚に襲わせているなら、少し痛い目に遭わせればすぐに逃げていくと思います――。


 そのはずなのだが、放り投げた黒妖犬は立ち上がって再び威嚇の声を上げている。篤志を睨みつけて襲いかかる隙を窺っているのだ。


 逃げていく様子はない。


 ――まあ、やっぱりそうだよな。


 そんなことで追い払えるなら、緋美子が何度も襲われることはなかっただろう。これも亜理寿や庄太郎が予想してくれたことだ。


 だから篤志は慌てず、時間稼ぎに専念する。

 そう、時間稼ぎだ。


 篤志には直接的な解決手段がない。だから亜理寿がそれを用意するまで、緋美子の身を守る。


 それが、篤志がここに来た理由だ。


 ――でも、あまり長くは保ちそうにないよ、亜理寿ちゃん……。


 襲撃を邪魔されたせいか、黒妖犬はずいぶんと殺気立っている。徘徊するように道路を左右に移動し、少しずつ距離を詰めてきていた。


 それに、緋美子だ。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 彼女は篤志の流血を目の当たりにしたせいか、完全に取り乱して同じことを呟いている始末だ。


 もはや、篤志の声も届いているか怪しい。頭を抱えて蹲ってしまい、立ち上がらせるのも難しそうだった。


 いまの緋美子を連れて、黒妖犬から逃げるのは無理だ。


 ここで彼女を守るしかない。

 篤志が迎え撃つ覚悟を決めると、再び黒妖犬が突進してくる。


 ただ、その動きはあまりに直線的だ。もう一度くらいなら、止められる。両手で頭を押さえ込むようにして、篤志は突進を受けた。


 そのはずだったのだが――


「うわっ?」


「先輩!」


 緋美子が悲鳴を上げる。


 耐えきれず、篤志は仰向けに押し倒されていた。

 二度目の突進に、篤志の体力が落ちていたのだろうか。


 ――違う。さっきより、力が強くなってる!


 先ほどの伯母は篤志の悪態がよほど頭に来たのだろうか。黒妖犬はさらに凶暴になって食らいついてきていた。


 唯一幸運だったのは、どこにも噛みつかれなかったことだろうか。篤志の両腕は黒妖犬の首を押さえていて、その牙はわずかに届いていない。


 ガチガチと黒妖犬が歯を鳴らす。


 獣臭い息が吹きかけられ、ボタボタと涎が降ってくる。


 なにより、重い。いったい何百キロあるのだろうか。のしかかられるだけで肋骨をへし折られそうで、呼吸さえできなかった。


 ――マズい……。


 食いつかれた左腕に力が入らない。おまけに黒妖犬の体毛はつるつると滑り、押さえつけておけなかった。


 篤志だって首をねじ切るくらいのつもりで<6451>みかかっているのに、ビクともしない。


 ――もう、駄目か?


 観念しかかったときだった。


「篤志先輩を、離して!」


 黒妖犬の鼻面を、緋美子の学生鞄が直撃した。


 篤志が押し倒されたことで我に返ったらしい。蹲っていた緋美子が学生鞄を拾って殴りかかったのだ。


『ギャンッ?』


 黒妖犬の巨体がにわかに吹き飛び、篤志は呼吸を取り戻した。

 そのまま転がるようにして身を起こすが、篤志にはいまの光景が理解できなかった。


 ――鞄で殴られただけで、黒妖犬が吹き飛んだ?


 岩のような巨体で、篤志の腕力でもビクともしない化け物が、緋美子のような女子高生の細腕で吹き飛んだのだ。


 ――これも、魔法みたいな力なのか?


 亜理寿とて、緋美子にはなにかそういった才能があるかもしれないと語ったのだ。

 理由はまだわからないが、窮地を救われたのは事実だった。


「助かったよ、新堂……」


 そう言いながら、篤志は立ち上がる。


「も、もう、いいんです。逃げてください、先輩……」


「そういうわけにはいかないよ。ここで君を見捨てると、僕は一生それを後悔しながら生きていかないといけなくなる」


 冗談を言ったつもりだったのだが、あまりそういうふうには聞こえなかったようだ。


 まだカタカタと震える緋美子を背中にかばい、三度黒妖犬と対峙する。


 黒妖犬は先ほどの一撃に怯んだのか、距離を取って遠巻きにこちらを見つめているが立ち去る様子はない。


 ――とはいえ、次はもう止められそうにない。……どうする?


 傷や体力もそうだが、黒妖犬に触れた手にはぬるぬるした脂が付着していてまともにものを掴めないのだ。


 闘牛士のように華麗に突進を躱せればいいのだろうが、あいにく腕力以外は一般人以外のなにものでもないのだ。篤志にそんな反射神経は備わっていない。


 額から汗を伝わせたそのときだった。


「篤志さん!」


 亜理寿の声だった。


 ――間に合ったか!


 暗い通りの向こうから、小さな少女が駆けてくるのが見えた。

 ただ、不運だったのは彼女が黒妖犬の後ろに出てしまったことだ。

 黒妖犬は新たに現れた獲物に振り返った。


「……ッ」


 四つん這いでなお自分の背丈以上もある巨大な犬に、亜理寿も怯んで足を止める。


「させるか!」


 黒妖犬はいま、篤志に背を向けている。そこに体当たりのように飛びついた。


『グルルルルァッ!』


 黒妖犬は激しく唸って暴れるが、背中から胴体にしがみついた篤志を振り払うことはできなかった。


 そのまま道路に引き倒して、篤志は叫ぶ。


「亜理寿ちゃん、いまだ!」


「……っ、はい!」


 亜理寿が両手に握っていたのは、なんに使うのか二本の木の棒だった。葉や小さな枝を削いだだけの生木で、ちょうど笛くらいの大きさだ。


 その二本の枝を、亜理寿は体の前で打ち鳴らした。


 甲高く、澄んだ音が夜の街に響いた。


 木だというのに、水笛のような不思議な音色だった。それほど大きな音ではないはずなのに、どこまでも響いていくような。


 その音色に、黒妖犬の体が震えた。


『キャィンッ?』


 短い悲鳴を残して、黒妖犬の体が崩れる。


 腕の中からもその感触が消え、まばたきをしたあとにはまるでたちの悪い夢だったかのように黒い犬の姿はなくなっていた。

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