それより、ひとつお願いがあるんだけど、いいかな?
倒れる緋美子を抱き止めた篤志は、主婦らしき中年女性を睨みつける。
「あなた、なにやってるんですか? 人を呼びますよ?」
ポケットから携帯電話を取り出す。
相手の反応次第では本当に警察に通報するつもりだ。
緋美子は店を去ったときよりもボロボロになっていた。制服も汚れているし、膝からはまだタラタラと血が伝っている。恐らく、あのあとも黒妖犬に追われたのだろう。亜理寿のことがあったとはいえ、すぐに追いかけてやれなかったのが悔やまれる。
そんな少女を、さらに突き飛ばしたのだ。
頭から倒れる緋美子は、篤志が受けとめなければひどい怪我を負っていたはずだ。最悪、死んでいたかもしれない。
中年女性は顔に怒りを浮かべる。
「なんて失礼なこと言うのかしら!」
耳障りなやかましい声だった。
「怪我をしてる女の子を恫喝した上に突き飛ばすというのは、ちょっと普通じゃないと思いますが?」
携帯電話のボタンに素早く指を走らせ、一一○番を表示させる。
そこで、ようやく我に返ったのか緋美子が声を上げる。
「ち、違うんです、先輩。この人、緋美子の伯母さんで……」
「それと暴力を振るっていいかは別の話だ」
むしろ、その言葉で篤志は確信を深めた。
――この人が、黒妖犬をけしかけた犯人か?
亜理寿の話では、緋美子の親族なら魔法に関わる才能を持っているかもしれないということだ。
それがこんな悪意を向けているのだ。疑わない方がどうかしている。
ただ、だからといってこいつを殴り倒せば解決する問題でもないらしい。この人物が緋美子を呪うことを諦めない限りは同じことが繰り返される。
篤志が鋭く睨むと、中年女性はまぶたをヒクヒクと震わせる。
「この私が暴力ですって? なんて失礼な子供かしら! どんなねじ曲がった教育をしてきたらこんな子が育つのかしらね! 親もろくでもない人間に決まってるわ」
そのセリフには、腹を立てるよりも引いてしまった。
――真っ先に親の悪口から言うのか。すごい神経してるな……。
世の中の若者がみんな家族を愛しているわけではないだろうが、他人に親を侮辱されて気分のいい人間は少ない。
少なくとも篤志は自分の親を尊敬している。
……まあ、ふたりともいろいろ駄目なところもある人ではあったが、彼らは篤志の人格を肯定してくれていたし、愛されていたとも感じていた。
それをこんな豚のような生き物に罵倒されるのは腸が煮えくり返りそうだが、それ以上にこんな身内を持っている緋美子が可哀相に思えた。
篤志は通話ボタンに指を添える。
「続きは、警察で吼えてください」
篤志が本気で通報すると感じたのだろう。さすがに中年女性も顔色を変えて、踵を返した。
「ふん、不愉快だわ!」
ドスドスと体を揺らしながら、中年女性は去っていった。
その背中が見えなくなって、篤志は肩から力を抜く。
腕の中から、緋美子が申し訳なさそうな声を上げた。
「あ、あの、先輩……」
「ああ、すまない。立てるかい?」
「あうぅ……」
顔を真っ赤にして、緋美子は身じろぎするだけだった。どうにも、まだひとりで立つのは難しそうだ。
「いまの人になにを言われていたんだ?」
「……いえ、悪いのは緋美子ですから」
とてもそうは見えなかったが、緋美子はそう言って黙り込んでしまう。
――まあ、きっと立ち入ったことなんだろうけど。
赤の他人が首を突っ込むようなことではない。だが、そんなことは百も承知で篤志はここに来たのだ。
代わりに、緋美子は怖ず怖ずと問い返してくる。
「先輩こそ、なんでここに?」
篤志は地面に置いた学生鞄を拾い上げる。
「店に忘れものをしていっただろう? ないと困ると思って、届けにきたんだ」
「あっ、ありがとうございます」
緋美子の家は、以前送ったときに知っている。
黒妖犬に追われているのに家に帰っているかは賭けだったが、篤志は賭けに勝ったのだ。特に、途中で会うことができたのは幸いだった。
――まあ、なんとか間に合ったってところみたいだけど……。
篤志は額に汗を滲ませて、中年女性の去っていった方向を見る。
「ひっ――」
緋美子が身を強張らせる。
そこには、黒い靄が立ち込めていた。
――いや、確かに犬だ。
亜理寿から具体的な姿を聞いたおかげか、靄の中に犬のような輪郭を見て取ることができた。
「せ、先輩……ッ」
「大丈夫。それより、ひとつお願いがあるんだけど、いいかな?」
緋美子に鞄を押し付けて、篤志は前に立つ。
「この事件が解決したら、またうちのお店に来てくれないか。お客さんとして」
こんなときになにを言っているのかと、緋美子は目を丸くする。
――でも、重要なことなんだ。
篤志が緋美子を助けるためには、彼女が“客”である必要があるのだ。
だからもう一度問いかける。
「駄目かな?」
「――行きます! 行きますから、逃げて……」
涙ぐんで叫ぶ緋美子に、篤志は笑い返した。
「なら、君はうちのお客さんだ。お客さんは、守らないとな」
――魔法を使うのなら、なんのために使うのか、自分のルールをはっきりさせろ――
庄太郎はそう言った。
そちら側に関わるなら、どこからどこまで関わるのか――つまり、亜理寿が“秘密のお仕事”として引き受けるかどうか、それを明確にしなければならない。
その条件として、亜理寿が提示したのがこれだった。
――『ロッコ』のお客さんになってくれること――それがわたしへの報酬です――
亜理寿が得られる報酬が存在することで、これはただの偽善から魔法使いの仕事に変わる。
魔法使いの仕事なら、亜理寿のパートナーである篤志も関わることができる。
言葉遊びのようなものかもしれないが、そんな小さな約束ごとも魔法には大切なものらしい。
篤志は黒妖犬に向かって身構える。
腕には、古いジャケット――春先に着ていったまま『ロッコ』のロッカーに忘れていたものだ――を巻き付けてある。
篤志が身構えた瞬間、黒妖犬が突進してくる。
世界一大きな犬はグレート・デーン種といっただろうか。全長二・一メートル、体重なんと百十一キロに達するという。
黒妖犬はそれさえも小さく見える巨体だった。
むしろ、熊やイノシシの方が近いだろう。
そんな巨体――体重があるなら二百キロ以上だろう――がぶつかってくるというのは、大型バイクに撥ねられるようなものだ。
しかし避ければ、後ろの緋美子が襲われる。
覚悟は、もう決まっていた。
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