――僕は綺麗な髪だと思うよ――

「はあ……」


 重たいため息を漏らして、緋美子はとぼとぼと家路についていた。


 空はもう、陽が暮れ始めて深紅に染まっている。分厚い雲がまだらに染められて、真っ赤な綿あめみたいだった。


 なぜこんな時間に歩いているのかといえば、どこかに鞄を忘れてきてしまったから

だ。


 学校からは持ち出したはずなのだが、あちこち逃げ回っていたのだ。どこで落としたかなど見当もつかない。鞄の中には教科書だけでなく財布や携帯電話なども入っていたのだ。探し回るうちに、こんな時間になってしまった。


 何時間も歩き続けて、もう足が棒のようだ。


 しかしため息の原因は、鞄ではない。


 ――緋美子、絶っ対変な子だと思われましたよね……。


 昼間、迷い込んだ珈琲店だ。


 珈琲係の青年は、数日前に緋美子が“なにか”に追われて気を失っていたとき、家まで送ってくれた人だった。


 しかも、緋美子と同じ高校の卒業生だという。


 二度も同じような場面で出会えば、運命のようなものを信じたくなるくらいには緋美子も乙女なのだ。


 優しかったし、背も高くて“カッコイイお兄さん”という形容詞がぴったりな青年だった。そこに思いも寄らぬ接点まであると聞けば、憧れのひとつくらいは抱く。


 それに――


 赤い髪に指を絡める。


 ――僕は綺麗な髪だと思うよ――


 あんなことを言ってもらったのは、初めてだった。

 それは向こうは接客業なのだ。ただの社交辞令なのはわかっているつもりだが、それでも嬉しかった。


 ――緋美子って、呼んでくれないかな……。


 同じように、自分も彼のことを“篤志先輩”なんて呼べたら……。

 そこまで考えて、いきなり飛躍しすぎだと頭を振る。


 それでも仲良くなりたいな、と思うのは自然なことだった。

 なのに、緋美子は挙動不審になって逃げ出してしまった。せっかく美味しい珈琲をごちそうしてもらったというのに。


 ――だって、先輩にもあの“なにか”が見えてたんだもん。


 いままで周囲にあれが見える人間はいなかった。学校で追いかけられたときだって、誰も気付いてくれなかった。


 だから今日、緋美子は学校から逃げ出さずにはいられなかった。そして逃げるうちに道に迷ってあの珈琲店にたどり着いたのだ。


 あの“なにか”が他人を巻き込まない理由というのは思いつかない。


 次は、彼が襲われるのではないか。


 そう考えたら自分が襲われるよりもよほど怖くなって、逃げ出してしまった。

 思えば、彼にこそ相談すべきだったのではないだろうか。いまからでも引き返して話すべきなのかもしれない。しかし彼を巻き込むことで“なにか”に襲われる可能性だってあるのだ。


 ――やっぱり、ダメだよ……。


 いまではもう、あの“なにか”は昼も夜も、場所も構わず追いかけてきている。


 いつまで逃げていられるか自信がない。


 それで自分を助けようとしてくれた誰かまで襲われたら、緋美子は本当に死ぬしかなくなってしまう。


 緋美子の父は早くに他界しており、母はその分仕事を抱え込むようになって家にも帰ってこないことが普通だ。


 母なりに、金銭面で緋美子に負担をかけたくないと思ってのことだ。そのことについて恨む気持ちはないが、こういうときくらい側にいてほしいとは思う。


 でも、それを口に出すとやはり母は気にしてしまうだろう。


 だから、なにも言い出せなかった。


 そうしてとぼとぼと歩いていると、やがて家が見えてくる。


 見慣れた我が家があると、緋美子もホッとした気持ちになる。家の中だからといって安全なわけではないが、部屋で毛布をかぶっていれば少しは不安も紛れる。


 疲れた足を速めて道を急ぐと、不意に後ろからねっとりとした視線を感じた。


 ゾクッと悪寒が走る。


 ――また、あの“なにか”?


 反射的に振り返ると――そこにいたのは、ただの人間だった。


 いまの不快な感覚は“なにか”とよく似ていたのだが……。


「あら、緋美子ちゃん。よく会うわね。お母さんは元気?」


「貴美伯母さん……」


 緋美子はぺこりと頭を下げる。


 パーマのかかった茶色の髪。分厚い化粧に肉の弛んだ頬。強い香水のにおいが鼻をつき、思わず顔をしかめそうになる。


 母方の姉妹の貴美だ。


 緋美子の母とは仲が良いらしく、よく家にも来るのだが、緋美子はこの伯母が苦手だった。


 貴美は緋美子の頭のてっぺんから足の先までじろりと見る。何度か転んだせいでスカートは汚れているし、膝からは血が出ていた。


「こんな時間まで遊んでたのかしら? 相変わらず緋美子ちゃんは悩みがなさそうで羨ましいわあ」


「……はい」


 傍から見ればただの世間話のようかもしれないが、丁寧な言葉の裏側から底意地の悪そうな悪意を感じる。


 どうやらこの伯母の目には、緋美子の姿は泥んこになるまで遊んできた愉快な子供に映っているらしい。素敵に平和な認識力である。


 悩みがなさそうなのはどちらだと悪態をつきたくなるが、緋美子は他人に対してそんな態度をとれる性格ではなかった。


 だから、緋美子はなんでもなさそうに笑い返すことしかできなかった。


 伯母は不愉快そうに顔を歪める。


「ヘラヘラするんじゃないわよ。私にはあんたがお母さんの汚点にならないように管理する義務があるのよ。こんな時間まで遊んでいないで勉強をなさいな」


 緋美子の耳元に顔を寄せ、伯母はいやらしい声で囁く。


 母がなにも強要しないせいだろうか。この赤の他人はこうしていつも頭ごなしに緋美子のことをなじるのだ。


 まるで母の唯一の汚点が、緋美子を産んだことだと言わんばかりに。


 ――なんで、こんなときに出てくるかな……。


 今日は二度も“あれ”に追い回されているのだ。そうでなくとも、ここ何週間もまともに眠れていないのに。


 そんな疲労も相まって、目の前がフラフラしてきた。


「ちょっと、聞いているの?」


 ドンッと、肩を突き飛ばされた。


 いや、向こうにしてみればそんな力を込めたわけではないのだろう。だが、いまの緋美子を突き飛ばすには十分な力だった。


「あ――」


 グルリと視界が反転して、赤い空が見えた。


 ――この倒れ方は、たぶんダメなやつた。


 すぐ後ろには歩道の境界ブロックが並んでいる。そこへ後頭部から倒れていくのに、受け身を取ることができない。


 でも、このまま倒れたらなにもかも楽になれるだろうか。

 そんなふうに考えたときだった。


 ふわっと、誰かに背中を抱き止められた。


「はれ……?」


 なぜか、目の前にあの優しそうな青年の顔があった。


 ――篤志、先輩……?


 優しそうな顔は、いまは怒っているように見えた。


 だが、三度目だ。


 三度もこんなふうに助けられて、運命を信じないでいるのは無理な話だった。

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