真っ黒で大きな犬が、あの人を追いかけていきました

「とりあえず、珈琲をどうぞ」


 今日の亜理寿が座ったのは、いつもの窓際の席ではなくカウンター席だった。

 悠長にくつろいでいる場合ではなかったのだろう。つい先ほどまで緋美子が座っていた席で、彼女の学生鞄が置いたままになっている。


 珈琲を出しながら、篤志は改めて問いかける。


「いまの子――新堂さんというんだけど、亜理寿ちゃんにはなにか見えたのかい?」


 篤志には見えなかったのだ。ただ“得体の知れないなにかがいる”ことが悪寒として伝わってきただけだ。


 亜理寿は、露骨に怯えた顔をする。


「真っ黒で大きな犬が、あの人を追いかけていきました」


「犬……?」


 どんな恐ろしい怪物の名を口にするのかと思えば、存外にまともな答えに肩透かしを食らった気分だった。


 コクンと頷いて、亜理寿は言う。


「たぶん、黒妖犬というものだと思います。精霊の一種で、普通の人には見えないはずです。日本では初めて見ました」


 こういう言い方をするということは、どこか別の国――恐らく亜理寿の母の故郷あたり――で見たことがあるということなのだろう。


 ――精霊って……そんなもの、本当にいるのか?


 あのおぞましさは悪魔と言われた方がよほど納得できそうなものだったのだが。

 ついつい訝むような顔をしてしまうが、亜理寿はかまわず続ける。


「もともとは英蘭の精霊で、黒妖犬、ブラックドッグ、ヘルハウンド、墓守のグリム、いろんな呼ばれ方をしています」


「あ、もしかして映画の『ホリー・パッターの冒険』とかにも出てたやつかい?」


 イギリスのファンタジー小説を元にした映画だ。ホリーという可哀相な少女が魔法使いの学校に入り、その魔法学校での七年間を描いた作品である。その三作目あたりで黒い犬の怪物が出てきていた。


 亜理寿は曖昧に頷く。


「その元になった伝承だと思ってもらえればいいです」


「危険なものなのかい?」


 聞くまでもないことだとは思うが、つい問い返してしまう。


「……はい。見た者を死に至らしめると伝わっていて、怒るとすごく獰猛で力も強いそうです。なにより、一度狙われてしまうと、どこまでも追いかけてくるんです」


 つまり、逃げられない。

 それが精霊たる所以なのだろう。


「下手に追いかけると、篤志さんも襲われていたかもしれません。もちろん、あの人が危ないのも変わりないですけど」


 だから、亜理寿は追いかけるのも放っておくのも危険だと言ったのだろう。


 確かに篤志の取り柄など、ただ少し握力が強いというだけなのだ。そんな生物でさえないような猛獣に襲われて生きていられる保証はない。


 だが、それでも納得のいかないところがある。


「そんなものが、実際に人を襲うなんてこと、あるものなのかい?」


「中世のヨーロッパならともかく、現代ではまずあり得ないことだと思います」


 日本なら幽霊や妖怪が出たと言われた方が、まだ受け入れられるような気がする。


 ――いや、待てよ?


 篤志は緋美子との会話を思い返す。


「彼女、おじいさんが英国に住んでたとかでそっちに行く機会はあったみたいに言っていたよ。そこで黒妖犬に取り憑かれたなんてことはないかな?」


「本当ですか?」


「ああ。ただ、そのおじいさんはもう亡くなっているらしいけど」


 そう話すと、亜理寿の表情が険しくなった。


「だとしたら、やっぱり……」


「なにかわかったのかい?」


 難しそうな顔で、亜理寿は頷いた。


「黒妖犬は獰猛で知られていますが、本来そこまで凶暴な精霊でもないんです。むしろ守り神のような側面だってあります。それが人を襲うということは……」


「……襲うということは?」


 篤志が続きを促すと、言いにくそうに亜理寿は口を開いた。


「誰かが明確な意志を持って、黒妖犬をけしかけている――つまり、誰かがあの人を呪ったんだと思います」


「――ッ」


 息を呑んだ。


 ――呪うって、新堂をか?


 少し話したことがあるだけで、そう親しい間柄というわけでもない。それでも、明るくて人から恨みを買うような人間には思えなかった。


 だが、すぐに先日出会った笹倉のことを思い出す。


 一見すると人格者だったが、彼の中は自分への憎悪と後悔であふれ返っていた。


 恨みなどどこで買うかわからないし、人がなにを考えているかなどわかるものではないのだ。


 そこで、あることに気づく。


 ――けしかけるって、普通の人間にできることなのか?


 見ず知らずの人間の恨み辛みに、誰彼かまわず応えるような存在がいたら、世の中は不審死にあふれている。


 ならば、それができる特別な人間がいるということにならないだろうか。


「ち、ちょっと待ってくれ。ということはまさか……」


 その続きを口に出すのには、篤志にも勇気が必要だった。


 以前、篤志は魔法とはなんなのか、と亜理寿に訊いたことがある。

 そのときの彼女の答えは――


 ――自然とか精霊とか神さまみたいなものから力をわけてもらって、少しだけ摂理を曲げる方法のことです――


 そう答えたのだ。


 そして、いま黒妖犬も精霊だと言った。


 ここに国外の精霊などという、普通は存在しないだろうものが緋美子を襲う理由があるのだとしたら……。


 それを見越したように、亜理寿も左右で色の違う瞳をじっと向けてきた。


「はい。篤志さんのご想像通り、黒妖犬は、魔法使いに力を貸してくれる精霊のひとつです。つまり――」


 ごくりと咽を鳴らす篤志に、亜理寿は重たい声でこう答えた。


「黒妖犬があの人を狙うのには、魔法が関わっているのかもしれないです」


 先日の笹倉も、亜理寿にある人物を殺せと依頼してきた。


 結局、それは自分の命と引き換えに愛娘を生き返らせてくれというものだったが、魔法を使った人殺しのような依頼があり得ないわけではないのだ。


 ただ、と亜理寿は続ける。


「魔法使いがけしかけたのだとしたら、もっと怖いと思うんです。たぶん、あの人だって逃げることもできないんじゃないかって思います」


「どういうことだい?」


 なにが言いたいのかわからず、篤志は首を傾げることしかできない。

 亜理寿も言いたいことを整理するように俯いて、やがて抑揚のない声でこう告げた。


「あの人を呪った誰かには魔法使いの才能みたいなものがあって、それが黒妖犬を引き寄せてしまった、という可能性があります」


「無自覚な魔法使いみたいなのもいるってことかい?」


「はい。……それもたぶん、あの人の、お身内の方とかだと思います」


「――ッ、身内ってどういうことだい?」


 亜理寿は躊躇いがちに口を開く。


「あの人、綺麗な赤い髪をしていました。わたしの目もそうですけど、そういう“違う色”を持って生まれた人は魔力のようなものを持っている場合が多いんです。だから、あの人の身内に同じような方がいてもおかしくないと思うんです」


 亜理寿の瞳も瑠璃色と翠色と、左右で色が違う。それが彼女の魔法使いの才能の証らしい。現実に、その魔力というのがどういうものなのかはピンと来なかったが。


 篤志は頭の中を整理しながら口を開く。


「ええっと、霊感が強いとか、そういう感覚だと思えばいいのかな?」


「たぶん、そういうことだと思います。わたしには幽霊とか見えませんけど、そういう人は無自覚に悪い霊みたいなのを引き寄せてしまう、なんて聞いたことがあります」


 なるほど、と篤志も頷く。


 ――というか、魔法使いって霊感があるわけじゃないのか……。


 そこはなんだか残念な気がしたが。


「じゃあ、新堂の身内の誰かにはそういう才能があって、無自覚に新堂を狙っているかもしれないってことか」


「はい。接点のない魔法使いの呪いというよりは、そちらの方があり得ると思います」


 篤志は唸る。


 ――なら、どうすればいいんだろう……。


 自分や亜理寿の手に負える話ではないような気がしてきた。

 亜理寿は記憶を手繰るように顎に手をやり呟く。


「黒妖犬を追い払う方法は、あったと思います」


「本当かい?」


「はい。ただ、ここで道具が手に入るかが問題で……」


 いつも分厚い本を読んでいる亜理寿は数多くの知識を抱えているのだろう。だがそれで手段が揃っているかは別の話だ。


「難しいものなのかい?」


「……はい。一般家庭やお店に置いてあるものではありませんから」


「――おいおい、なんだか物騒な話をしてやがるな」


 ふたりで難しい顔をしていると、カウンターの奧から庄太郎が出てくる。肩には脚立を担いでいて、まだ看板の修理を始める前なのだとわかった。


 それから、これ見よがしにキョロキョロと店内を見回す。


「お? さっきの嬢ちゃんはもう帰ったのか?」


「帰ったというか、彼女はなにかに狙われているみたいなんです。それで逃げていってしまって……」


「ああ。黒妖犬だったな。珍しいぜ」


 なんでもなさそうに返ってきたそのひと言に、篤志と亜理寿は硬直した。


「知ってたんですか?」


「まあ、見りゃわかる程度には俺も“そっち側”に関わってるからな」


「だったらなんで!」


 声を荒らげる篤志に、庄太郎はじっと目を細める。


「――なんで無償で助けてやらないのかって?」


 突きつけられた言葉に、すぐに反論できなかった。


「無償か有償かはともかく、助けてあげようとは思わなかったんですか?」


「おいおい、そこをともかくにしたら駄目だろう。一番重要なところだぞ?」


「あなたは……っ」


 さすがに怒りを込めて睨みつけると、庄太郎は指を突き返してきた。


「はき違えるなよ、篤志。黒妖犬がどんな精霊か聞いたはずだろう? ならお前はそれに関わるのがどういうことなのか、理解していなければならない」


「……ッ、それは」


 言い返せなかった。

 庄太郎はその動揺をつくように告げる。


「そうだ。お前がそんな化け物に関わるということは、お前自身と亜理寿の身を危険に晒すということだ」


 それは、紛れもない事実だった。


 なぜならすでに篤志は亜理寿を頼ってしまっている。魔法に関することならば、彼女の力を借りずに解決することなどできはしないのだから。


「さっきの嬢ちゃんは、そんなリスクを冒してまで助けなければいけない相手か? それで失敗した場合を覚悟した上で関わろうとしているのか?」


「それは……」


 困っている人がいたら助けたい。


 それは間違ったことではないはずだが、同時にその能力もないのに口に出すのはただの綺麗事、偽善でしかないのだ。


 緋美子が危険な目に遭っていると知って助けたいと願ったが、果たして自分はそれで亜理寿まで巻き込まれることまで考慮していただろうか。


 庄太郎が口にしたのは意地汚いように聞こえるかもしれないが、篤志が目を背けようとした現実そのものだった。


 あまり認めたくはないが、この駄目な大人は自分善がりの若者に忠告してくれたのだ。


 ――それでも、見捨てることなんてできない。


 篤志は緋美子という少女を知ってしまったのだ。

 なにもできないかもしれないからといって、なにもしないでいいとは思えないのだ。


 篤志が葛藤していると、亜理寿が小さく頷いた。


「つまり、お仕事ならいいんですよね?」


「え……?」


 篤志がポカンと口を開くと、庄太郎は口元に笑みを浮かべた。


「わかってきたじゃねえか。魔法を使うのなら、なんのために使うのか――自分のルールをはっきりさせろ。でないといつか魔法の使い方までわからなくなる」


「はい」


 信じられないことに、亜理寿は素直に頷いていた。


 ――そういえばこの人、亜理寿ちゃんの師匠でもあるんだよな。


 師弟だと感じられる姿を見たのは、初めてのことだった。

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