あれ、この前のお兄さん?

「大変だ!」


「おいおい……」


 慌てて篤志はカウンターから飛び出す。さすがに庄太郎も新聞を放り出してそれに続いた。


 飴色の扉を開け放つと、少女はうつぶせに倒れていた。可愛らしい学生鞄まで投げ出されてしまっている。


「だ、大丈夫ですか?」


 篤志が助け起こそうとすると、庄太郎がそれを止める。


「頭打ってるなら、下手に動かさねえ方がいいぞ?」


「……確かに」


 意外にも冷静な指摘に、篤志も手を止める。見たところ出血はしていないようだが、果たして無事なのだろうか。


 声をかけると、少女は呻きながら目を開けた。


「大丈夫ですか? 頭を打ったようだから、急に動かない方がいいですよ」


「頭……? 私、なにかに、襲われて……」


 恐らく記憶が混乱しているのだろう。少女は怯えるように周囲を見渡す。

 篤志は地面に転がった看板を示した。


「この看板が落ちてきたんですよ。うちの看板で、本当に申し訳……あれ?」


 そんなやりとりをしていて、篤志はようやく思い出した。数日前も、同じような会話を交わしたのだ。


「君は、新堂さん……だったかな?」


 新堂緋美子と言っただろうか。

 先日、道ばたで倒れている彼女を見つけて、家まで送ってやったのだ。


「あれ、この前のお兄さん?」


 向こうも篤志の顔に気づいたらしく、ふにゃりと笑った。


「えへへー、またお兄さんに助けてもらいました」


 ただ、その笑顔から思い浮かんだのは“作り笑い”という単語だった。


「九条だ。一応、名乗ったはずだけど?」


「はい、九条のお兄さん」


 なんだか調子の狂う子だった。

 庄太郎が怪訝そうな顔をする。


「なんだ、知り合いか?」


「ええ、まあ……」


 本当にただの知り合い以外のなんでもないが。

 なのだが、庄太郎は納得したように頷く。


「そういや、その制服は篤志と同じ学校か」


「……よく覚えてますね」


 庄太郎には面接のときに履歴書を提出している。当然、篤志の卒業校も記載されていたわけだが、彼がそんなことを覚えているとは思わなかった。


 篤志が心底意外そうな顔をすると、庄太郎は渋面を浮かべる。


「お前、俺をなんだと思ってるんだ。そりゃ従業員の履歴くらい覚えておくさ」


 ――そういう勤勉さを、営業に向けようとか思わないですかねえ……。


 感心したような呆れたような微妙な視線を送っていると、緋美子が驚いた声を上げる。


「あれ? お兄さん、緋美子と同じ学校だったんですか?」


「去年度の卒業生だよ。君は……二年かな?」


 タイの色を見て、篤志は言う。

 つまり、篤志が三年のときの一年生だ。

 緋美子はまたふにゃりと笑う。


「えへへー、お兄さんは先輩だったんですね」


「それより、怪我は大丈夫かい? あまり動かない方がいいよ」


「あー、いつものことなんで大丈夫ですよ」


 緋美子はそう言うと、なんでもなさそうに立ち上がる。


「今回のは比較的軽いやつなんでそこまで痛くないですから」


「いつものことって……」


 風で飛ばされた看板が命中するようなことが“よくある”というのは普通ではないと思うのだが……。


 そう考えて、篤志もおかしなことに気づく。


「……風なんて、吹いてませんよね?」


 本日はあいにくの曇り空だが、風はない。風でも吹いてくれればこのじめっとした梅雨の湿気も少しはマシになるだろうに。


 庄太郎も、両手で看板を拾い上げて眉をひそめる。


「こっちも、ちょいと揺れたくらいで壊れるような造りじゃねえみたいだがな」


 看板の造り自体はフックに木の板を引っかけるという単純なものだが、それだけにフックが折れでもしない限りそうそう外れるものではないとわかる。


 当然、フックが折れている様子もない。


 篤志と顔を見合わせると、庄太郎は仕方なさそうに言う。


「ま、とにかく嬢ちゃんに氷でも出してやれ。こんなもんがぶつかってんだから冷やした方がいいだろう」


 そう言って、庄太郎は壁に看板を立てかけて店へと戻っていく。看板を直すために脚立でも取りに行ったのだろう。


 ――意外とあの人、こういうときに動じないんだな。


 珍しく働いている店長は存外に頼りになった。

 やればできるのなら普段からきちんとしてもらいたいものだが、いまやるべきことはこの少女の手当てだ。


「とりあえず、中にどうぞ」


 鞄を拾ってやり、店の中に案内する。


 緋美子をカウンター席に座らせると、篤志は氷をタオルで包んで出してやった。学生鞄は隣の席に置いておく。


 大げさですよ、と笑いながら緋美子は氷を後頭部に当てた。


「本当に、大丈夫かい?」


「さっきも言いましたけど、よくあることなんで大丈夫ですよ」


 ――だから心配しているんだけど……。


 先日見かけたときは、ずいぶん心細そうにしていた。


 あのときは夜だったというのもあるだろうが、なんというかいまのそれはやせ我慢をしているように見える。


 もちろん、ほとんど初対面の男になにもかも打ち明けるような軽率な娘ではないのだろうが、このまま“はいさよなら”と帰していいものなのか迷った。


 そんなことを考えながら、篤志は自然と珈琲を用意していた。

 熱されたサイフォンの中で湯と珈琲豆が混ざり合い、胸がすくような香りが立つ。


「どうぞ」


「あれ? 緋美子、珈琲なんて注文しましたっけ?」


「いえ、ぶつかったのはうちの看板ですし、ひとまずお詫びにどうかと。もちろん、サービスですからお代はいりません」


「いいんですか? えへへ、じゃあいただきます」


 緋美子は砂糖ひとつとミルクを入れると、カップに口をつける。

 その唇から、ほうっとため息がもれた。


「ふわ、なんかまろやかさというか香ばしさというか、普通の珈琲とはなにかが違いますね先輩!」


「いや、無理して違うとか言わなくていいから」


 亜理寿あたりならともかく、普通の若者はたったひと口で味の違いなどわからないだろう。


 緋美子は苦笑した。


「あはは、バレバレです」


「まあ、美味しく飲んでもらえたならなによりです」


 話しながら、篤志は自然と緋美子の髪へ目を向けてしまう。左右でふたつにまとめた赤い髪だ。


 ――綺麗な髪だな……。


 視線に気づいたのか、緋美子は前髪を持ち上げる。


「あはは、やっぱりこの髪、似合わないですよねー」


「……? 似合ってるもなにも地毛だろう、それ?」


「ふぇっ?」


 緋美子の髪は生え際から赤いのだ。染めたものではないだろう。


 ――ああ、もしかすると気にしてたのかな?


 髪の色ひとつでも、他の人と違うと苦労があるものかもしれない。

 だから篤志は元気づけるように笑いかけた。


「僕は綺麗な髪だと思うよ」


「……はう」


 緋美子は髪の色に負けず劣らず顔を真っ赤にしてしまう。

 それから、なにやら慌てた様子で手をパタパタと振る。


「こ、この髪、死んじゃったおじいちゃんが外国の人だったから、それが遺伝しちゃったとかそんな感じらしいんですよね! だから緋美子も夏休みとかおじいちゃんとこに連れていってもらったりして、けっこうよくしてもらったというか!」


「そ、そうなんだ。おじいさんは、どちらに住んでたんだい?」


「英吉利です! ご飯はあんま上手じゃなかったですけど、不思議なおもちゃをたくさん持ってて優しい人だったんですよ!」


 その祖父の料理が下手だったのか英国の料理が不味かったのかはわからないが、篤志は曖昧に笑い返した。


 ――祖父が英国人ということは、クォーターか。


 どうやら髪のことに触れられて、気が動転してしまったらしい。

 苦笑していると、緋美子も我に返ったらしい。両手でコーヒーカップを包み込むと、ズズッとすすった。


「……なんか、すみません」


「いや、おもしろいお話だったよ」


 それから、窓の向こうに目を向ける。


「そういえば、店の前をウロウロしていたようだけど、なにか探しものかい?」


「あ、いえ、道に迷っちゃって……」


「まあ、そうだろうと思ったよ。ここを出て左に向かうと大通りが見えてくるよ。通りをさらに左に向かえば駅が見えてくるし、右に行けば……」


 篤志は簡単に道を説明する。緋美子の方も通りまで戻れればあとは自分で戻れそうだと言っていた。


 そのときだった。

 なぜかゾワッと背筋に寒気が走った。


 ――なんだ?


 周囲を見渡すと、窓の向こうに黒い靄のようなものが立ち込めていた。

 それは店に入ろうとしているのか、窓にすり寄ってくる。しかしなにかに弾かれるようにして散らばっていく。


 何度かそんなことを繰り返した後、それは溶けるように消えていった。

 同時に、悪寒も消える。


 ――なんだったんだ、いまのは……?


 自分にしか見えなかったのだろうか。

 緋美子に目を向けて、篤志は息を呑んだ。少女の顔は真っ青になっていて、カップを握る手が小さく震えていたのだ。


「新堂さん、いまの……」


「――あっ! そういえば緋美子、おつかいの最中だったんです! 珈琲ごちそうさまでした!」


 そう言うや否や、緋美子は店を飛び出してしまう。


 それで篤志も確信した。


 ――あの子、なにかに狙われているのか?


 正体はわからないが、彼女は篤志たちを巻き込まないようにあんな元気を装っていたのだ。


 すぐに緋美子を追いかけるが、そのためにはカウンターから出なければならない。

 一歩遅れてしまって、店の扉を開けるときには赤い髪の少女の姿はもう見当たらなかった。


 ――いや、大通りに向かうと言っていたはずだ。


 篤志が大通りに向かって走ると、そこで思わぬ顔に出くわした。


「亜理寿ちゃん?」


 学校帰りだったのだろうか。ペタンと尻餅をついて、座り込んでいた。

 すぐに周りの通行人たちも集まってくる。


「ど、どうしたんだい?」


「ちょっと人とぶつかってしまって……」


 見たところ、怪我はしていないようだ。亜理寿はお尻を痛そうにさすってはいるが、自分で立ち上がった。


 すると通行人のひとりが声をかけてくる。背広姿の、中年会社員だ。


「君、その子の知り合いかい? 派手な頭をした高校生くらいの子がぶつかってきたんだ。止める間もなく逃げていってしまってな。本当に最近の若いやつは……」


「いえ、ちゃんと謝っては、くれたんです」


 見知らぬ相手だからか、亜理寿は篤志の後ろに隠れながら、普段よりずっとオドオドした口調で言う。


「その、派手な頭の高校生って、どっちに行ったかわかりますか?」


「あっちに行ったと思うが……」


 会社員が示したのは古書店街の方向だったが、この時間帯はこの通りも人通りが増す。髪を染めている若者も少なくはなく、雑踏の中からあの少女を探し出すことは難しそうだった。


 篤志は呻いた。


 ――放っておくわけにはいかない。


 緋美子は得体の知れないなにかに狙われている。放っておいたら命に関わる。そんな気がしてならないのだ。


 出会ったばかりの少女ではあるが、命の危険が迫っているとわかっているのに無視できるほど篤志は冷酷な人間ではなかった。


 そうしていると、亜理寿がキュッと裾を<6451>んできた。


「篤志さん。いまの人、お知り合いなんですか?」


「本当に知り合いというだけだけどね」


 そう答えると、亜理寿は強張った表情で篤志を見上げてくる。


「いまの人、追いかけるのも、放っておくのも、危ないと思います」


 少女の小さな瞳は、篤志には見えなかったなにかを目撃していたのだった。

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