第二章 黒妖犬の少女
――追いつかれたら、殺される!
暗い夜道を、少女は追いかけられていた。
梅雨の湿気とは無関係に、じっとりとした嫌な視線を感じる。
それがなんなのかはわからない。
荒い吐息。地を蹴る爪の音。そしてなんとも形容しがたい獣のような生臭さ。とても後ろから迫るそれが人間であるとは思えなかった。
――なんでこんなことに……。
異変を感じ始めたのは、半年ほど前のことだ。学校帰りのふとした拍子に、誰かから見られているような感覚に陥ったのだ。
ねっとりとした視線。
それでも自分を見ているような人間は見つけられず、気のせいだろうと思った。
だが、次第にその視線は外だけでなく学校や家の中でも感じるようになり、同時におかしなことが起こり始めた。
風もないのにものが落ちてきたり、ひどいときには突き飛ばされたり。一度などは駅で電車を待っているときに突き飛ばされ、線路に落ちそうになった。
そして、ついにそれは隠れることをやめて少女に襲いかかってきたのだ。
――追いつかれたら、殺される!
光もない、暗闇の中を必死で駆けていく。
いつから走り続けているのか思い出せない。手足の感覚はすでになく、呼吸をするたびに咽が焼けるようだ。
なのに、追いかけてくるなにかは、首筋に息がかかるほどに迫っていた。
――もう、息が……。
目の前がぐにゃりと歪み足がもつれてしまう。
と、そこで不意に声が聞こえた。
「――あの、大丈夫ですか?」
視界が開ける。
まばゆい光に目を細めると、目の前に誰かが立っているのがわかった。
やがて、それがひょろりと背の高い青年なのだと気づく。まばゆいと思った光はた
だの街灯のようだ。
「立てますか?」
青年にそう言われて、少女は自分が倒れていることに気づく。
背筋にまで迫っていた、あの不気味ななにかは影も形も見当たらない。心臓はいまもバクバクと鳴っているし、全身が汗でびっしょりと濡れている。
だが、全力疾走の直後というほど息は切れていなかった。
「あ、あれ……?」
追われるうちに気を失ったのだろうか?
それとも――
戸惑いながら、少女は身を起こす。
冷たいアスファルトの上に転がっていたせいか、体のあちこちが軋むがその程度だ。怪我もなければ衣服が破れているようなこともない。
「夢……?」
あの目に見えない“なにか”に追いつかれたら、殺されると思った。なのに、自分は怪我もなくここにいる。
青年は首を傾げながらも少女に手を差し出し、立ち上がらせてくれた。
「本当に大丈夫ですか? 救急車、呼びましょうか?」
青年の言葉に周囲を見渡すと、そこは少女の家の近くだとわかった。
少女は首を横に振る。
「大丈夫です。家は、すぐ近くですから」
もっとも、帰ったところで誰もいないが……。
誰かいっしょにいてほしいとは思ったが、通りすがりの青年に家に来てくれと言えるほどの大胆さは、少女にはない。だから、そんなふうに答えるしかできなかった。
「そう。じゃあ、暗いから気を付けてね」
心配そうな顔をしながらも、青年はそう言い残して去ろうする。
「あ……」
呼び止めるつもりはなかった。
それでも、ついすがるような声が漏れてしまった。
青年が振り返る。
「あ、いえ、なんでもないんです!」
少女がとっさにそう答えると、青年は少し困ったような顔をして頭をかいた。
それから、仕方なさそうに向き直った。
「あー、ええっと、そうだな……。実はひとりで散歩をしていて暇だったんだ。よかったら、少しいっしょに歩かないか?」
どうやら家まで送ろうかと言ってくれているらしいが、なんて不器用な言い回しなんだろう。
少女は思わず噴き出しそうになりながら頷いた。
「すみません。お願いします」
「いや、僕が付き合ってもらうだけだからね」
そう言って、青年は少女に足を合わせてくれた。家はすぐ側だったので、いっしょに歩いた時間はそう長くはなかったが。
「じゃあ、僕はこれで」
玄関まで送ってくれた青年に、少女は頭を下げる。
「わ、私、緋美子って言います。新堂緋美子です。ありがとうございました。……あの、お兄さんは大学生の方ですか?」
「いや。あいにく、浪人生なんだ」
そう言って、青年は困ったように笑い返した。
「僕は九条だ。九条篤志」
感じのいい人だなと思った。
だが歳も違うし、同じ学校に通っているわけでもない。もう会う機会はないだろう。
そう思っていたのに少女はまた青年と再会することになった。
◇
珈琲店『ロッコ』。
本日も静かな店内にはケルト調の音楽が流れ、格子の嵌まった窓の向こうをたまに通行人が通り過ぎるだけで、時間が止まっているような錯覚を抱く。屋根からぶら下がった一枚板の看板が風に揺らされ、大時計の振り子のようだった。
窓の向こうを通り過ぎた通行人は、会社員らしい背広姿の中年がふたりと、カジュアルな格好の若者が三人。朝から数えてたったの五人である。
――あ、六人目だ。
いま赤い髪の女子高生が通り過ぎて行こうとしていた。そろそろ高校も授業が終わる時間なのだろう。
――あれ、うちの母校の子だな。
篤志が卒業した高校の制服だ。面識はないが、篤志の後輩ということになる。……だからといってお客さんになってくれるというわけではないが。
女子高生はもちろん『ロッコ』には目もくれずに通り過ぎていく。
そして変化のない静けさが戻ってきた。
――せめてBGMくらい変化が欲しいな……。
店内に流れる音楽も毎日何周も聴き続ければ飽きもくる。今度、北の楽器店街で――南の古書店街にもたくさんあるが――新しいCDでも探そうかと思う。
コーヒーカップを磨きながら、篤志はぼんやりと呟いた。
「今日は、亜理寿ちゃん来ませんね」
その呟きに、カウンター席で新聞を広げていた青年が気のない声で答える。『ロッコ』の店長、庄太郎だ。
「あいつは今日は試験らしいからな。さすがに学校に行ったぞ」
新聞から顔を上げると、またポケットから懐中時計を取り出してネジを巻き始める。
どうやらネジ巻きの時間らしい。この駄目な大人にしては驚くほど忠実なことで、よく毎日続けていると思う。よほど大切な時計なのだろう。
……単に、新しいものを買うのを面倒くさがっているだけかもしれないが。
不思議そうにその光景を眺めながら、篤志はまた独り言のように呟く。
「はあ、いまどきは小学生でもテストがあるもんなんですね」
「亜理寿はあれでいいとこの学校に行ってるからな。あいつがいつも着てるのも制服
だろう?」
亜理寿はいつもセーラー服タイプの制服を身につけている。だから最初は篤志も小さな中学生なのかと思っていたくらいだ。
「そんないいとこの学校を、あんなにサボってて平気なんですか?」
「さあな? 本人が言うには成績はいいから許されてるみたいだったな」
「あー、いつもなにか分厚い本読んでますからね」
本を読んでいることが頭がいいことに直結するわけではない。
だが、あれだけ分厚い本を読んで理解するためにはそれ相応の知識が必要になる。しかも彼女が読んでいる本は洋書であることも多い。洋書の大半は、魔法に関する本だというのだからさらに難解だろう。
それだけの知識があれば、確かに進学校といえど小学生レベルの課題なら問題なくクリアできるはずだ。
そんなことを話していると、庄太郎が口元に笑みを浮かべる。
「あれあれ? なんだなんだ亜理寿が気になって仕方ないって感じだなあ?」
「はあ、というか……」
篤志は木製の家具が並ぶ店内をグルリと見回す。
「この店、亜理寿ちゃんまで来なくなったら、本当に誰も来ないんだなあって……」
すでに昼を回った午後二時だというのに、これまでたったひとりの来客もない。
もはや庄太郎でもいいから話し相手になってもらいたくなるほど、暇なのだ。篤志がぼやきたくなるのも無理はないだろう。
庄太郎がなってないというように頭を振る。
「かーっ、篤志。いまから金のことしか考えないようじゃろくな大人になれねえぞ?」
「庄太郎さんは少しくらい売り上げのことを考えてください」
むしろ金のことを考えなかったからこんな駄目な大人がいるのだ。
冷たく言い放つと、窓の向こうを七人目の通行人が通り過ぎようとしていた。
……いや、違う。六人目だ。
――あれ? あの子、さっき通り過ぎた子だな。
篤志の母校の生徒だ。
あの鮮烈な赤い髪は見間違いではないだろう。道に迷っているのか、キョロキョロしながら行ったりきたりを繰り返している。
篤志が急に黙ったことで、庄太郎も新聞から顔を上げる。
「あん? なんかおもしろいものでもあるのか?」
「いえ、窓の向こうでウロウロしてる子がいるもので」
「迷子か?」
確かに、ここは通りを外れた脇道の奧にある。うっかり入り込んでしまったら方角を見失うこともあるだろう。
道くらい教えてあげるべきなのだろうが、そのついでに珈琲の一杯くらい飲んでいってくれないだろうか。このままいくと、本当に本日の来客はゼロ人という悲惨な結末が訪れてしまう。
救いを求めるように少女を見つめて、篤志はふと気づく。
――あれ? なんだか見覚えのある顔だな……。
一応、篤志の母校の生徒だ。どこかですれ違っていてもおかしくはないが、そういうのではなく最近見たような気がする。
それが誰なのか、とっさには思い出せなくて頭を捻ったときだった。
「え――」
窓の向こうで揺れていた看板が、不意にフックから外れた。
「危ない!」
店の中でそんな声を上げても届くはずはない。
篤志が叫んだときには、看板は道行く少女の真上に落下していた。
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