珈琲、お代わりはいかがですか?

「笹倉、さん……?」


 そこに立っていたのは、笹倉だった。

 彼は疲れたように微笑む。


「そう身構えなくても、もう亜理寿くんになにかするつもりはないよ」


 それからカウンター席に目を向ける。


「また珈琲を飲みに来ると約束していたのを思い出してね。……かまわないかな?」


「え、ええ……」


 篤志は亜理寿に視線を向けてから、カウンターの中に戻る。


「ご注文は、なんになさいますか?」


「そうだね……。とは言っても、相変わらずこういう店は不慣れなものでね。この前と同じ珈琲をいただけるかな」


「かしこまりました」


 本日の珈琲はコロンビアのストレートだ。あの日、笹倉に振る舞ったブレンド珈琲はメニューにないが、篤志は慣れた手つきで同じ珈琲を注ぐ。


 笹倉はカップを手に取ると、ゆっくり香りを味わってから口をつける。


「やはり、ここの珈琲が一番だ」


 そういう顔は、本当に満足そうだった。

 先日の鬼気迫る姿の彼とは別人のようである。


 ――なんていうか、憑きものが落ちたみたいだ……。


 この男の中でどんな変化があったのか、問いかけずにはいられなかった。


「あの、笹倉さん。あなたは、これからどうするつもりなんですか?」


 彼は亜理寿を狙うつもりはないと言った。

 しかし、だからといって亡くなった娘のことを諦めるとも思えない。

 笹倉は深いため息をもらすと、テーブルの上で腕を組んだ。


「そうだね……。どうしようか、まだ決めていない」


 ただ、と彼は続ける。


「親というのは、やはり自分の子供が可愛いものだ。子供のためならなんでもしてあげたいと思ってしまう生き物なんだ」


 それは、あの日の笹倉の姿を見れば嫌というほどわかる。

 では、また亜理寿を狙うようになってしまうのではないだろうか。


「だけどね、同時に親っていうのはこうも思っているものなんだよ」


 笹倉は真っ直ぐ篤志を見上げ、そして壁際に座る亜理寿の顔を見つめる。



「我が子が誇れる親でありたい」



 考えもしなかった言葉に、篤志は目を丸くした。


「誇れる親……ですか?」


「ああ。尊敬されたいというのは少し違うかな。この人が自分の親でよかった、そんなふうに思ってくれる人間でありたい。親っていうのはそういうものじゃないかと、俺は思っている」


 それから、後悔の滲んだため息をもらす。


「あのとき、美奈ともう一度会えたとき、俺はあの子になにも言ってやれなかった。あの子のためと言いながら、自分がやろうとしていたことを考えたら、なにも言えなかったんだ」


 それは、きっと笹倉が思う“誇れる親”の姿ではなかったのだ。


「それでも、あの子は俺のことを大好きだと言ってくれた。そしたら、なんだか恥ずかしくなってしまってね」


 カップを傾けて、笹倉は微笑む。

 その顔から、以前のような負の感情は見出すことができなかった。


「最後まで駄目な親だったけど、せめてあの子が恥じないでいられる人間でいようと思う。だから、恥知らずな真似はもうやめることにした」


 その気持ちは、篤志にもわかるような気がした。


 ――僕も、父さんや母さんが恥じない息子でありたい。


 彼らがいなくなってから、余計にそう思うようになった。

 笹倉のそれは、篤志よりももっと強い気持ちなのかもしれないが。

 そして、笹倉は体ごと亜理寿に向き直る。


「亜理寿くんにも、すまなかった。娘と大して歳の変わらない子供に、俺はとんでもないことをした。許してくれとは言わないが、謝らせてくれ」


「……いえ」


 亜理寿は硬い表情のまま、小さく頷き返す。


 ふたりの間から、ようやく緊張が解けたように見えた。その様子から、ようやくこの事件は解決したのだと感じた。


 体から力が抜けて、篤志は言う。


「珈琲、お代わりはいかがですか?」


 笹倉のカップには、もうひと口分ほどの珈琲しか残っていなかった。

 カップを見つめて、笹倉は首を横に振る。


「いや、長居をするつもりはないから遠慮するよ」


 それから、改めて篤志に目を向ける。


「ああ、そうだ。ひとつだけ聞いておきたいことがあったんだ」


「なんでしょうか?」


 首を傾げると、笹倉は真面目な表情で口を開く。


「うちの扉だけど、ドアノブごと鍵がねじ切られていた。普通の人間の力じゃない。君も、そっちの人間なのかい?」


「……いえ。自分でも、なんでこんなことになっているのかはわからないんですよ」


 きっかけに思える事件はあった。この力に気づく少し前に、忘れがたい事件が起こったのだ。


 だが、原因となると皆目見当もつかない。


 これが一過性のものなのか、それとももとには戻らないのか、それさえも篤志にはわからないのだ。


 そうか、と笹倉は俯く。


「だが、力を持ってはいたわけだ。なあ、篤志くん。君にはあんな力があるのに、どうして初めから俺を取り押さえようとしなかったんだい? それに、あのときの君は震えていた」


「いきなり力尽くで言うことを聞かせるなんて、ただの暴漢じゃないですか……」


 呆れた顔で答えると、笹倉も「確かに」と笑う。


「じゃあ、震えていたのは? 力を振るうのを我慢していたからかな」


 あのとき、亜理寿を庇って笹倉と対峙した篤志は無様に震えていたのだ。

 答えにくいことばかりずけずけと指摘され、篤志も渋面を浮かべる。

 それでも、やがて観念したように口を開いた。


「目の前にあんなに怒ってる人がいたら、普通は怖くないですか?」


 笹倉は目を丸くした。


「なんというか、君は本当に“普通”なんだね」


「面目ないです」


 無個性と言われたような気がして肩を落とすと、笹倉は首を横に振った。


「それは恐らく、美徳なんだと思うよ」


 そう言ってカップに残った最後の珈琲を飲み干すと、笹倉はようやく席を立った。


「珈琲、美味しかったよ。また、気が向いたら寄らせてもらおうかな」


「いつでもお待ちしております」


 去っていく男の背中は、しっかりと背筋が伸びた立派なものだった。

 きっと、あれが父親の背中なのだろうと、篤志は少し憧れを抱いた。


                 ◆


「よお、なんとか事件は解決したみたいだな?」


 笹倉が帰ってしばらくすると、庄太郎が店に顔を出した。


「庄太郎さん、いままでなにをやってたんですか……?」


 篤志が呆れた顔をすると、庄太郎は肩を竦める。


「まあ、なんだ? 昔から可愛い子には旅をさせろって言うじゃないか」


「庄太郎さんに可愛い子と言われても気味が悪いだけなんですが」


 真顔で返すと、庄太郎は仕方なさそうに肩を竦める。


「ま、これでお前は亜理寿の“秘密の顔”ってやつを知ったわけだ。……どうだ? それでもお前はこれまでと同じように接せられるのか?」


「当たり前じゃないですか。亜理寿ちゃんが店に来なくなったら、この店は潰れます」


 笹倉はまた来てくれるとは言ったが、常連客と呼べるような客は未だに亜理寿ただひとりだ。


 ――それに、余計に放っておけなくなった。


 魔法使いだかなんだか知らないが、彼女は周りに頼れる人間がいないのだ。

 自分がなんとかしてやらなければと、これまでになく強く思った。


「そうかそうか」


 満足そうに頷いて、庄太郎はこう言った。


「なら、亜理寿のことはお前に任せる」


「……は?」


 それは自分の耳を疑ったわけではなく、なんでこの人こんな偉そうなこと言ってる

んだという“は?”だった。


 篤志の冷たい視線をものともせず、庄太郎はバンバンと肩を叩いてくる。


「亜理寿には力がある。“秘密の仕事”を依頼するやつはまた来る。こいつが引き受けるつもりがなくともな。だが、それを自分ひとりで解決するには、亜理寿はまだ幼すぎる。だから側にいてやってくれる誰かがいないもんかと探してたわけだ」


 篤志はゴクリと咽を鳴らした。


 なにもかもが解決したような気分になっていたが、それは間違いだ。


 これは始まりに過ぎない。

 笹倉のような人間はまたやってくる。亜理寿が魔法使いである以上、それは必然

だ。


 それを思い知らされた。

 だが、納得はいかない。


「……それがわかっているなら、どうして庄太郎さんは助けてあげないんですか?」


「いやまあ、保護者だからって常にべったりってのも気持ちの悪い話だろう? パートナーってのは、きちんと外で探すべきなんだよ」


「パートナーって……いや、保護者っ?」


 亜理寿に目を向けると、沈痛そうに頷いた。表情は変わっていないというのに、恐ろしく不服そうな意志が伝わってくる。


「不本意ながら、書類上はそうなっています」


「嘘だろ……」


 小学生の保護者として、これほど不適切な大人は見たことがない。

 そんな反応に、庄太郎はなぜか気をよくしたようにこう続けた。


「さらに言うと、俺は亜理寿の師匠でもある」


「……はあ?」


 篤志が耳を疑うと、亜理寿が耐えきれなくなったように顔を覆う。


「え、まさか……」


「……すみません。事実です」


 屈辱と哀しみの入り混じった声だった。果たして、いまの亜理寿はいつものような無表情でいるのだろうか。


 気がついたときには、篤志は亜理寿の肩を抱いていた。とにかく、なにか慰めてやりたかったのだ。


 なのにこの駄目な大人は悪びれた様子もなく告げる。


「まあ、そんなわけだ。頼むわ篤志」


「いや、それは構いませんけど……じゃない! なにを無責任なこと言ってるんですか。保護者ならきちんと亜理寿ちゃんのことを考えてあげてください」


「俺がガキの子守りなんかできる人間に見えるのか?」


「見えないから努力しろと言ってるんです!」


 頭を抱えていると、いつの間にか亜理寿がすぐ側に立っていた。


「篤志さん……」


 どこまでも心細そうな声だった。


 ――そんな声を出されたら、放っておけないじゃないか……。


 とうとう、篤志も肩を落とした。


「……なにをすればいいのかは知りませんけど、わかりましたよ。亜理寿ちゃんがまたお仕事をすることになったら必ず助けてあげます」


「おう! お前ならそう言ってくれると思ったぜ」


 ――この野郎……。


 たっぷりと軽蔑を込めて睨むが、庄太郎にはまるで通じなかった。

 それから、なにやらもじもじとしている亜理寿に気づく。目が合うと、亜理寿は怖ず怖ずと頭を下げてきた。


「……ふつつか者ですが、よろしくお願いします」


「だから女の子が簡単にそういうセリフを言ったら駄目だってば……」


 確かに、この少女は言葉選びを間違えやすいようだ。

 篤志が指摘すると、亜理寿は不服そうに眉をゆらした。


「……簡単に、ではないのですが」


「……?」


「もう、いいです」


 こうして、篤志にとって亜理寿はただの常連客から、なににも優先して守らなければならない庇護対象となったのだった。

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