猫の声
私が住んでいるのはマンションの中階層で、角部屋の隣という、すごく中途半端な位置なのです。
けれど大満足ポイントがひとつあります。南向きにベランダがあるんですね。その先は中庭を挟んで、同マンションの別棟があります。
あんまり日当たりがいいので、プランターを並べてプチ花壇です。
陽光は四季を選ばず窓から部屋へと差し込みます。
それこそ欠伸をしながら「朝かぁ」なんて言いつつ背筋を伸ばし窓際の植物に挨拶をするといった、まるで太古少女漫画の原風景のような起床に興じられます。朝方には鳥も来るので朝チュンすら可能です。シングルベッドですが。
そんな私が寝起きする部屋の窓の下には、空のプランターが置かれています。増やしすぎた植物群の管理がしきれず、一部お亡くなりになってしまったのです。だからといって植えても管理できませんので、プランターだけ取りおいてあります。
そのプランターが、ですね。
深夜、カタカタ、鳴るのです。
当初は中庭を風が抜けていくときに揺れるのですね、と思っていました。
ところが、どうも違うようなのです。
ある夜、いつものようにプランターが音を立てた、すぐ後のことです。
にぁぁぁ。にあぁぁぁぁ。
と、猫の鳴き声がしたのです。
なにも知らなければビックリします。けれど、そうはなりません。
私は周辺に結構な数の野良猫さんが住んでいるのを知っていますからね。夜も深くなると、喧嘩をしている猫の怒声や、恋をしている猫の歌声が聞こえてきます。
ところが、どうも様子がおかしいのです。
にあぁぁぁぁ。にああああぁぁぁぁぁ。
声が近すぎます。
中庭の音は別棟にぶつかって部屋に入ってきます。当然、驚くほど近くで聞こえることもありますが、あくまで反響音なのでです。
その音がどこで鳴ったのかくらいは、だいたい、わかるはずです。
その鳴き声は、窓のすぐ下から聞こえてきたのです。
それでも慌てはしません。
私は子供の頃から住んでいますからね。似たような経験があります。
一度だけですが、白猫がベランダの鉄柵の上を歩いていたことがありました。ましてや、私は野良猫のお尻を追いかけて迷子になるような、いい歳した大人なのです。
猫に逃げられないように、窓の外に目をやります。
暗い星空です。他に音はありません。まさに草木も眠るなんとやら。
にあぁぁぁ。
窓のすぐ下です。確信しました。
網戸を開けたら逃げてしまいそうなので、そっと首を伸ばします。
何もいません。
思わず唾を飲み込みました。急いで窓を閉め、布団に潜り込みます。
にあぁぁ。にあぁぁ。
鳴き声です。プランターがカタカタ鳴っています。やめてほしいです。
……という話をしていましたら、心優しい方に助言を頂けました。
『プランターにミントを植えたらどうでしょう』
なるほど。妙案です。
まず空のプランターに土が入って揺れなくなります。次に猫はミントの匂いを嫌います。くわえて、古来よりミントは魔除けの薬草として、重宝されてきました。得体の知れない泣き声には、うってつけの植物なのです。
私はさっそく種を買ってきまして、プランターに蒔きました。時期としてはあまりよくありませんが、ミントは強い植物なので、発芽しちゃえばこっちのものです。
それが、数日ほど前の私です。
昨晩、また猫の声がしたんです。
朝、早く芽吹けと思いつつ、水を汲んで窓の下まで持っていきます。
ミントの種は、掘り返されていました……。
なんていう不思議なことは起きませんでした。驚きましたか?
とりあえず水をあげておきました。上手くすれば来週には発芽です。
早く芽が出てほしいのです。
猫の声、だんだん、近づいてきている気がするんです。
それだけじゃありません。実は私、猫の声に、聞き憶えがあるのです。
私が小学生の頃のお話です。同じマンションで、部屋に一人でいました
突然、ピーン、と鋭い音がしました。インターフォンです。びっくりです。
心臓をバクバクさせつつ出ます。
「λμくんいますか?」
同じマンションに住む、同級生の女の子でした。丁寧な物腰は私の親向けのものでしょう。いつもは怖いのです。
私はわざとぶっきら棒に、なんですか、と答えました。
「ちょっと、助けてほしいんだよね。降りて来てくれない?」
意味が分かりません。助けてほしいってなんですか。
しかし、チャンスです。私も男の子ですからね。たまにはいいカッコをしたいのです。ささっと身だしなみを済ませて降りました。
同級生の子と、知らない女の子が二人いました。友達でしょうか。赤いランドセルを背負ったままで、青い顔をしています。
「家の前に気持ち悪い猫が座ってて、帰れないんだって」
そう言いつつ、同級生の子が、ランドセルを背負った子を指し示します。
なんですか、それは。猫のどこが気持ち悪いというのでしょう。
しかし女の子に頼られるというのは、少年魂に深くぶっ刺さります。追っ払ってやるしかないでしょう。
無関心を装っていますが、心中はドキドキなのです。
先頭に立った私は、肩で風を切りつつ、女の子の家までいきました。
家の前には、なにもいませんでした。拍子抜けです。頼りになる男にもなれません。胸の裡ではガックリです。
でも、女の子たちは息をつき、「ありがとう」と言ってくれました。よっぽど怖かったんですね。それだけで私は大満足です。
私は同級生の子と、マンションに戻ることにしました。彼女は、まだ仄かに恐怖心をもっていたのかもしれません。シャツの端っこを、つまんできたんですね。もうドキドキを通り越して爆発寸前です。
マンションの入り口に差し掛かったところで、私は足を止めました。
口説こうとしたわけじゃありません。なにせ小学生ですからね。
正面玄関の前に、一匹の茶トラの子猫が、座っていたのです。
女の子たちが怖がっていたのも、外見をみれば頷けます。
右目が大きく腫れあがり、飛び出ていました。まるで怪談噺のお岩さんです。毛並みもクシャクシャで、やせ細っていました。
「あ、あ、あの、あの猫……」
同級生の子が私の服を引っ張りました。震えているのが分かります。
私は発奮しました。生来のカッコつけ魂が燃え上がったのです。
幸いにも子猫は敵意をみせていません。右目はおそらく喧嘩でやられて病気になったのでしょう。人慣れしていて喧嘩に弱いのですから、きっと捨て猫さんです。
大丈夫ですよ、と子猫に声をかけ、手を伸ばしてみます。
子猫は一瞬だけ怯みましたが、おとなしく従ってくれました。
猫を抱えた私は、ひとつ咳払いをいれました。
先に帰っていいよ、と最高にカッコイイ声を出します。
同級生の子は訝し気な顔をしましたが、「ありがとう」と言ってマンションに入っていきました。成し遂げた――のでしょうか?
女の子が帰って急激に冷めた私には、問題だけが残されていました。
病気っぽい子猫です。
マンションはペット禁止です。ハムスターくらいならともかく、犬猫は難しいでしょう。なにより私はアレルギー体質なので、犬猫クラスは両親が許してくれません。ましてや病気の猫なんて。
私は子猫を連れてマンション裏の小さな公園に行きました。水で体を洗ってやります。されるがままです。とても弱々しく、大人しいのです。
無性に悲しくなってきた私は、子猫を連れてコンビニに行き、なけなしのお小遣いでツナ缶を買いました。当時は猫缶なんて売っていませんでした。
私はツナ缶片手に子猫を抱え、度々話にでてくる、大きな公園に行きました。
ペロペロと舐めるようにツナ缶を食べる子猫を見ていると、涙がでそうでした。できれば連れて帰ってやりたいのです。でも、できません。
私は子猫がツナ缶に夢中になっている隙に、逃げようとしました。
気づいた子猫が見上げてきました。不思議そうな目をしていましたね。ツナ缶を買い与えたのは失敗だったと思いました。
にああぁぁ。
と、鳴きました。少し喉に絡んだような声でした。
私は走って逃げました。子猫の足では追いかけてこれないはずです。
それからしばらく、私は公園に近づけませんでした。
もう随分と昔の話です。子猫が生き延びたとしても、もう寿命を迎えています。
けれど、気づいてしまったのです。
窓の下から聞こえてくる猫の声は、あの子猫の声にそっくりなのです。
いま、私は悩んでいます。
あの後、子猫が私に感謝していたとは、到底思えないのです。なにしろ、ちょっと優しくされたかと思うと、また捨てられたのですから。
それも野良猫だらけの住宅街から、今度はカラスや野良犬のいる暗い公園です。
片目を失明した子猫が生きられる環境ではありません。
私は子猫に束の間の幸せを与え、また、一人ぼっちの置いてきぼりにしたのです。
猫の声は、私に何を伝えようとしているんでしょう。
私に感謝しているのでしょうか。
それとも私を呼んでいるのでしょうか。
猫の声は、今夜も聞こえてくる気がします。
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