熱中症
なんだか最近は四季が移り変わる間のインターバルがゴソっと抜けている感じです。四季のエンタメ化といいますか。四季のライトノベル化といいますか。テンポよくイベントやっていこうぜ、みたいな感じです。人間の体は耐えきれないので、音を上げちゃいますよね。
そうです。熱中症です。
何年前でしたかね。あの頃も、連日のように暑い日が続いていました。
その頃の私は午後からのお仕事をしていました。なかなか自由の利くお仕事でして、気に入っていました。唯一の問題は仕事場が遠かったことくらいです。電車で一時間ちょっとかかってしまうのですね。しかもその大半は乗り継ぎの待ち時間です。
ですから電車を一本遅らせてしまうと、大惨事になるわけです。
あの日も、いつものように、お昼ご飯を食べた私は腕時計を左手首に巻き、家を出ました。時間は12時30分ですね。イマヌエル・カント並みに正確な出立なのです。
太陽が激しく照っていました。以前に書いたかもしれませんが、私は汗かきなんですね。5分も歩くと濡れ鼠さんです。
いや制汗スプレー使いなさいよ、となりますね。ごもっともです。
残念ながら私は、制汗スプレーを使うと、肌荒れしちゃうのです。スーパー敏感肌です。痛いし痒いので、小まめに汗を拭くほうが楽なのですね。
ただ、汗を拭く前には必ず「汗が流れる」があります。その段階で周囲の人に不快感を与えては申し訳ありません。そこで当時の私は、発汗を防ぐテクニックを使っていたんですね。
どんな方法か分かりますか?
ツボを押す? わきの下を冷やしておく?
他にも色々ありますが、どれも「汗が流れ始めてから」するテクです。
一番簡単な手段はですね――、
体の水分を抜くことなんですよ。
ですから、あの日も、カラカラに乾いた状態で外に出たんです。
あまりの暑さにクラクラします。一生懸命歩きます。駅まで歩いて10分くらいかかります。13時までに駅に着けばいいので、猶予は30分ですね。
汗を抑制するために少しゆっくり歩いたとしても、余裕で間に合いそうです。
コツン、コツン、と革靴を鳴らして歩きます。
角を曲がって、病院の裏に出たときでした。
ヒヤっとしました。膝を抱えて縁石に座り込んでいる人がいたんです。
頭は短く刈り込んだ白髪で、白いタンクトップと緑のハーフパンツから干物のような手足が伸びています。
まさに、枯れ枝のようなお爺さんでした。
病院の裏とはいえ、路上に座っているのは危険です。それに病院を目指して歩いていて、熱中症にやられてしまったのかもしれません。
私はちらと腕時計をみました。35分です。病院は駅と自宅のちょうど中間あたりにあるんですね。
通りに通行人はないようです。まだ皆さん、お昼ご飯を食べていたんでしょうね。
病院の裏門は閉まっていました。お爺さんを病院に連れていくなら、正面に回らないといけません。お爺さんの歩行速度次第では、私は仕事に遅刻してしまいます。
もし熱中症だったのなら、歩けない可能性もあります。そうしたら私が病院に人を呼びに行くか、警察・消防のどちらかに電話しないといけません。到着を待っていたら、もう絶対に遅刻です。
私は考えました。
そもそも、このお爺さんは熱中症で座り込んでいるのでしょうか。
病院の真裏ですから、タバコを吸おうとして出てきたのかもしれません。院内は禁煙ですし、よくそういう人を見かけました。まして時間はお昼時です。
それに熱中症だったとして、助けを求めているのでしょうか。
電車でご老人に「手伝いましょうか」と声をかけ、「放っとけ!」と怒られた記憶がありありと蘇ります。
私は、嫌々、声をかけました。
「大丈夫ですか?」
すぅ、とお爺さんの顔が上がります。
私は一瞬だけ怯んでしまいました。
お爺さんが睨んできたんですね。しかも一言も発しません。
参りましたね、と思っている内に、私はお爺さんの異変に気付きました。
よく見ると白目が黄色く濁っているんです。つまりお酒で肝臓がやられているのですね。おそらく、日常的に、大量のお酒を飲んでいるはずです。
とすると、お爺さんは朝まで呑んでいたか、あるいは、暑いからとビールでも呑んでいて、酔っぱらってヘロヘロなんです。きっと。
なんですか。昼からお酒なんて飲んでいるんじゃありませんよ。
念のため「お辛いようでしたら病院に行ってくださいね。すぐ裏ですから」とだけ伝えて、駅に向かいます。
駅の時計を見ると40分でした。まだ余裕はあります。電車に乗る前に持ち物チェックです。忘れ物があったらお仕事で困っちゃいます。
と、水を持ってくるのを忘れたようです。
普段は水筒を持っていくんです。体の水分を抜いていますからね。そのまま飲まずにいたら熱中症です。だから電車の中で一口、仕事場でがっつりと飲むわけです。
家に取りに戻れば往復で20分ですから、遅刻かどうかギリギリになります。ギリギリは嫌ですよね。駅のコンビニ「ニューデイズ」で水を買うことにしました。
せっかくなので炭酸水を買いましょう。炭酸水、大好きなんです。ただのガスウォーターですよ? 清涼飲料水ではありません。
購入して外に出ると、世はまさにカンカン照りです。手元には大好きな炭酸水。
ちょっとだけ、ちょっとだけです。と、キャップを開けちゃいました。
しゅわしゅわしゅわ……。
くぅぅぅ~、ってなもんです。
炭酸の刺激にもう一口飲みたくなります。飲んじゃいます。
あのお爺さんも、こんな感じだったのでしょうか。
ふと思いだします。
お爺さんの足元には、ビールの缶も、カップ酒の瓶も、ありませんでした。それにお酒臭くもなかったのです。もしかしたら、白目が濁っていたのも、別の病気のせいかもしれません。
コンビニの壁時計を見ます。45分です。お爺さんの場所まで5分で、駅まで戻って10分です。すると55分になります。まだ5分残ります。遅刻はしないはずなのです。
私はため息をつき、引き返しました。
お爺さんは、まだ座っていました。
ぴったり50分です。体内時計もばっちりです。声をかけます。
「あの、大丈夫ですか?」
返事はありません。目を瞑って、じっと座っています。
「暑いですけど、動けますか?」
なんの返答もしてくれません。顔すら上げない。
私は時計を覗き見ました。52分でした。3分でなんとかしないと遅刻です。
諦めてお爺さんの体に手をかけます。
そのとき。
「放っとけよ! うるせぇんだよ!」
お爺さんが私を睨んでいました。
またですか。私はウンザリしました。
こんなお爺さんに怒鳴られるため、10分も無駄にしたんですか。
私は通りを見回しました。ポツポツと人が出てきています。ランチタイムを終えて、仕事場に戻るんでしょうね。
「熱中症に気を付けてくださいね」
そう声をかけて、立ち去ります。もう振り返ったりしません。
時計を見ます。54分です。早足で駅に向かいます。
駅に着いたら汗だく半歩手前になっていました。さっき炭酸水を飲んでしまったからですね。時間は58分。たった1分しか短縮できていません。
炭酸水を一口飲み、私は駅のホームまで走りました。
結局、遅刻はしませんでした。走った甲斐がありましたね。
……どこが怖い話なんですかって?
そりゃ、あなた。
人の命がかかっているかもしれないのに、遅刻の心配ばかりしていたんですよ?
もし本当に病気だったのなら。声をかけていなかったら。
たまたま私は怒鳴られてうんざりしました。けれど、違ったら?
仕事に熱中するのも、考えものですよね。
皆さんも、熱中症には、気をつけてくださいね。
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