雰囲気コンディショナー

 雰囲気とは、つまり空気です。エアーと読みます。

 何の話かと言いますと、お外が暑いと、ついついエアーコンディショナーのスイッチを入れちゃうじゃないですか、というお話なのです。


 私が物書きをするときは、大抵はリビングに一人でいるのです。冬以外はちゃぶ台を兼ねるコタツにノートPCを設置して、膝の上にキーボードを置き、ポチポチ打鍵しているわけですね。座っているのは座椅子です。

 なんでそんな不思議な環境なのかは、ひとまずヨソにおきましょう。色々な理由が重なって、不本意ながらのスタイルなのです。


 もとい。

 そんなヘンテコな環境で執筆していると、室内の快適性みたいなものが、集中力に影響を及ぼし始めるのですね。もう少し涼しい時期なら室内温度など気にも留めません。けれど夏の盛りにおいては非常に重要な要素になってきます。


 なにしろパソコンは常に排熱してますし、私が物書きしている部屋は、南にベランダを構えています。ただでさえ窓から差し込む日差しで温められている空気に、パソコンの排熱が加わるのですね。さらには私の子供じみた高い体温も合わさりまして、ありがたくない熱気が、集中力を乱しにかかります。


 集中力の低下が執筆に及ぼす影響は、あらゆる部分に表れます。

 速度が落ちるだけならまだマシでしょう。選ぶ語彙には幅がなくなり、話の筋は単純になります。果ては陽気なはずのキャラクターが、シーンとは関係のない苛立ちを独白し始めてしまう始末です。

 そこまで至ると、もう執筆なんか進みません。仮に無理して書き上げたとしても、あとで全消し、書き直すはめになるのです。それは嫌です。


 回避のために、エアーコンディショナーのスイッチオンです。

 すると途端に快適です。

 ほこほこしていた体も休まり、打鍵速度が上がります。集中力の向上は留まるところを知りません。まるで自分が神になったかのように錯覚します。

 夏場のエアコンはコンセントレーション・コンディショナーでもあります。


 もっとも、そんなの最初の内だけで、一旦低下した集中力はそうそう高いレベルをいじできません。次第に別のものが気になってきてしまうんですね。

 なにが気になってくるのか、分かりますか?

 音です。

 エアーコンディショナーの、


ごうごうごうごう……。


 という規則的な震動音。

 うざったいですね。テレビでもつけて雑多な音を増やし、誤魔化しましょう。

 すると次は、また別のものが気になってくるんです。

 なんだかわかりますか?

 実は、人の気配が気になってくるんです。


 部屋には私一人です。他に人がいるはずがありません。けれど人の気配が、常に感じられるんです。

 なんででしょうね。

 簡単な話ですよ。

 左右と上下に隣人がいるからです。私はマンション住まいですからね。


 あれ怖い話をするんじゃないの、と思われましたでしょうか。

 これ、結構、怖い話なんです。

 皆さん、いま部屋に一人ですか? エアコンはついていますか? 扇風機でも構いません。ついていないなら、つけてみてください。


 音はしますか? 

 テレビでなくても構いません。人の声が聞こえる何かを流してみてください。

 人の気配、感じられるようになりませんか?

 少なくとも私は、他人の気配を、常にどこかに感じてしまいます。


 でもそれって、気配を察知する方法に問題があるんです。

 人の気配、皆さんは、普段どうやって察知していますか?

 私は、音と、空気の流れなんです。

 あるいは全部ひっくるめて、物の振動と言ってもいいですね。


 人は息をするとき、すぅ、ふぅ、という微かな音を立てます。音は空気の振動ですから、ごく微量な空気の流れが、集中状態の私の肌を、とりわけ産毛のような細い毛を、震わせるわけですね。

 その瞬間、人がいる、と察知できるのです。

 人の声が加われば、確信の程度はより増しますよね。


 一人で部屋にいるとき、エアコンつけるとどうなるか、もう分かりますよね。

 部屋の中に空気の流れが生まれます。空気の流れは音の振動を運びます。エアコンがつくる冷気が室内を歩き回って、肌を撫でててきます。

 すると、思ってしまいます。

 自分の視界に入らないどこかに、誰かいるのではないか。

 

 気になりますよね。振り向きますよね。誰もいませんよね。当たり前ですよ。頭の中でつくられた気配ですから、実際にいるわけがないのは理解しています。

 でも気配は消えてはくれません。

 どこから気配がするのでしょうか、と思い、立ち上がります。

 怖いわけじゃありません。不安になるのです。気配の発生源を探して歩き、ほら誰もいないじゃないですか、と言えば、安心できるのです。


 てってこ、歩き出します。冷えた床に、おっ、と思います。気を取り直して、スリッパを履いて、奥の部屋から確認にいきます。

 マンションの一室ですからね。部屋の数は大して多くはありません。

 背後で聞こえる人の声は、自分でつけたテレビの音です。少し遠くなった笑い声を聞きながら、奥の部屋の扉を開けます。


 とん、とん。


 上の階の住人が立てる生活音でしょう。くぐもって、湿った音ですよね。奥の部屋までエアコンの冷気は届かないので、どうにも不快です。

 けれど、家の中に自分以外の人はいない、とすぐに分かります。

 安心します。部屋に戻って、執筆を再開しましょう。


 パキン。


 音です。ラップ音ですか? 

 違います。外周を温められた建物の内部をエアコンが冷やしているのですから、温度差によって構造がほんのり歪み、音を立てているのです。

 そうに決まっています。間違いありません。

 部屋に戻ります。執筆を再開します。


 みしり。


 今度はフローリングが軋みました。勘弁してほしいですね。

 テレビの音をあげましょう。

 ぎゃーぎゃー賑やかになりました。これで一安心です。

 まぁ話し声が気になるといえば気になりますが、テレビの音ですからね。


 ふぅぅぅ……。


 いまのは?

 ため息ですか? 

 バラエティ番組で、ため息の音なんか出しますか? 

 きっとエアコンなのです。エアコンが鳴っているに決まってます。

 耳を澄ましてみます。


 さっきからずっと、ごうごうごうごう、と音を立てています。

 だから、だから――まだ、部屋は冷え切っていないわけですよね。あるいは冷え切った部屋の扉を開けてしまったので、また冷却をはじめたんですよね。

 なぜ、ため息みたいな音が聞こえたんでしょう。

 ふぅぅぅ、という音は、エアコンが止まるときに出る音ですよね? 


 まず、テレビを消します。エアコンの音と、生活音と、温度差が作る小さな破裂音だけが残ります。

 エアコンのリモコンを取って、スイッチを押します。

 ふぅぅぅぅ……ぃぃぃぃん。

 と、エアコンの送風口が閉じました。


 ごん、ド、ド、コ、コン……


 どれも聞いたことのある音です。

 人の気配を感じますが、それはマンションの住人がたてる生活音のせいです。そうに違いありません。

 念のため、小声で声をかけます。振り向きたくはありません。

 誰か、いるんですか?

 いるなら、どうか、返事だけはしないでくださいね。

 

 こん。


 一瞬、怯んでしまいました。

 生活音です。なんの心配もありません。

 ほっと息を吐きだして、リモコンを手に取ります。

 カタカタとエアコンが動きだします。テレビも賑やかさを取り戻しました。

 これで一安心なのです。

 

 ふぅぅぅ……ん


 誰ですか。

 今、耳に息を吹きかけませんでしたか。

 何かに撫でられるような感触がありましたよ。

 誰か、いるんですか?

 いるなら、どうか、返事だけはしないでくださいね。

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