マンションの裏階段
まぁ階段に裏も何もないんですけどね。
ウチの場合はカメラ付きインターフォンのある出入口が正面玄関になるんだろうと思うので、何もついていない鉄扉がある駐車場側は裏なんだろうな、と。
そして階段は裏にしかついていないので、裏階段と呼ぶのが正しかろうもん!
みたいなね。九州方面の方言はあざといけんね。
なんで階段の話かというと、怪談……いえ、よく使うんです、という話です。
実は私は、つい一月、二月ほどまえに、血中に中性脂肪がたっぷりですよ、と診断されてしまったのですね。しかも困ったことに、私の家系を辿ると、父系は心筋梗塞で母系は脳梗塞という、「お前は必ず血管詰まって死ぬから」って血筋なのです。
血液ドロドロマンへの恐怖は人一倍強くなります。そりゃもう、とりあえず運動をしたくなるってものです。前々から散歩は好きでしたから、距離を伸ばします。たまには走ったりもしましょう。筋トレは毎日できます。毎日が大事ってよく聞きます。
毎日できる運動といったら、行き帰りの階段なんですね。
実は階段昇降は、運動強度が非常に高いのですよ。
実際やってみると結構いい運動でして、息切れせずに上りきれるようになると、ちょっとした感慨なんかもあるわけです。日々健康を積み重ねるのはいいことだ、なんて感じです。
ただ毎日のように階段を使っていると、気になることも出てきます。
皆さんもありませんか。
一回や二回なら気づけない変なこと。
三回四回と続くうちにデジャブーかな、なんて思って、五回六回七回……もう必然なんじゃないだろうか、みたいな経験、ございませんか?
私が気になったのは子供――赤子です。正確には、赤子を抱いた老婆。
非常に珍しい光景なんですね。
私の住んでいるマンションは出来てから随分と年数が経っていまして、入居世帯も全体的に高齢化しています。自然と、若い家族や子供が、気になってくるんです。
最初に出くわしたときは会釈しました。二度目も会釈。それが三度四度と続くと、にこやかに会釈しつつも、気になってきますよね。
普通に考えれば、忙しいお母さんに代わってお婆ちゃんが子供の世話を手伝っている、というだけでしょう。少し穿った目で見ても、なにか事情があって預けられた子供なのかな、というくらいです。
ただ毎日のように出くわすと、なかなか不気味なんですよ、これが。
別段、老婆を否定するつもりはありません。私は心優しい高齢者は大好きですし、子供や赤子を見ていると元気になってくるのです。
でも、会う場所が悪いんですね。
私の住むマンションは南西を角部屋にしたL字型になっています。したがって階段のある裏側は北向きになっていまして、昼間でもかなり薄暗いのですね。夕方になれば蛍光灯がつくので多少はマシになるのですが、夏場は外が明るい分だけ、より一層に薄気味悪い暗さになります。
階段の踊り場で出くわす老婆は、抱えた赤子に顔を向けていて表情も分かりませんからね。見かけた瞬間は、どうしても怯んでしまうのです。
それは外から帰ってきた時でした。
逢魔が時といっても夏時間ですからね。外はまだまだ明るいのです。郵便受けでとってきたチラシや手紙をより分けつつ、階段に足をかけます。途端、
あああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……。
と、苦悶するような声が聞こえてきたんです。
そりゃびっくりしますよ。チラシを取り落としたくらいです。公園での一件もあって、少しばかり神経質になっていたんですね。
腰を屈めて拾います。
あぁぁぁぁあああ……あああああぁぁぁあぁぁ……。
また声がしました。
勘弁してくれませんかね。そう口の中で呟いて、集めたチラシをまとめます。
別に心配はいりません。声は上から降ってきました。幽霊的なアレでないのは、私が一番わかっています。
単純に、音が反響して聞こえているだけなのです。
周辺には他にも背の高い建物がありますし、マンション裏の階段は周りを建物に囲まれています。どんな音も――特に高音は――構造物に吸収されてしまって、低音だけがこだまするように出来ているのです。
いくら不気味であっても、老婆に抱かれた赤子の声に違いありません。
ああああぁぁぁああぁぁあぁ。
なんでこう、人気のないところで聞く赤ん坊の声ってのは、怖いんでしょう。これ小説に使えませんかね。そんなことを思いつつ、階段を上っていきます。
裏階段は淀んだ空気の溜まり場所でもありますからね。酷い湿気がありました。まるでカップの底に残ったガムシロップの中を泳いでいるかのようです。
上がれば上がるほど、つまり不気味な音の発生源に近づくほど、音が赤子らしさを取り戻していきます。
ああああぁぁぁぁ。
と、まるで風洞に響く断末魔の声のようだった『音』が、
ほやぁぁぁぁ。ほやぁぁぁぁ。
と、ちゃんとした赤子の泣き声になりました。
それでも、微妙に不快感を覚えちゃいます。湿った泥が乾くときの臭いとでも言いますか、じめっとしたかび臭さを感じます。汗で肌に貼りついたシャツもうざったくってたまりません。
ほやぁぁぁ……ほやぁぁぁぁ……
声に随分近づきました。もう一階上れば、いるでしょう。私の住んでいる部屋があるのも同じ四階になります。歪んでしまっている眉を、気合いと隣人愛で戻します。
同じマンションの住人ですからね。面倒でも嫌な顔は見せられません。
……。
いました。老婆です。ちょっとよれたタオルにくるんで、赤子を抱いています。
忙しいのか白髪頭はボサボサ気味で、小さな花柄を散りばめた緑色のワンピースを着ています。足元は木底のサンダルですね。ピンク色のビニールストラップです。いつも目にする格好です。
外はまだ明るいですが、十八時を回ったので、マンションの電灯もつきました。複数の光源があるので陰が濃さを強めます。老婆の顔も陰影を深めていました。
う、と思ってしまいました。
珍しく目が合ってしまったのです。ひどく疲れているようでした。髪の手入れも許されないくらいに赤子が泣き喚いているのですから、それも仕方ありません。
大変ですね、と心中で同情しつつ、会釈します。
老婆もいつものように、弱々しく、頭を縦に揺すりました。がりがり、と木底を滑らせ、道も譲ってくれました。
子供の世話も大変だー。
そう思いながら、もう一度だけ会釈をして横を通り過ぎます。湿ったカビ臭さに混じって、加齢臭が鼻を突き刺しました。
思わず顔をしかめてしまいました。見られていないといいのですが。
角を曲がるついでに覗き見ようか考えました。公園での一件が頭をよぎります。
振り向くのはやめておきましょう。
角を曲がって家の鍵を開けます。中に入って、一息つきました。吹き出した汗がひどく気持ち悪かったです。
靴を脱ごうとして、ふと気づいてしまいました。
毎日のように老婆に会っています。毎日のように赤子を抱いて揺すっていました。
けれど、赤ん坊は全く大きくなっていないんです。思えば老婆の服装も、いつも全く同じものだったのです。
ゾっとしました。
急いで扉に顔を寄せ、耳を澄ましてみました。
赤子の泣き声は、すでに聞こえなくなっていました。
そもそも、おかしな話なんです。
私の家には裏階段へ続く廊下に面して、部屋が2つあるんです。鉄格子のはめられた窓もついています。
老婆は毎日のように裏階段で泣く子をあやしているのですから、私は毎日のように家の中でもその泣き声を聞くはずなんです。
私が泣き声を聞いたのは、裏階段にいるときだけだったんです。
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