夏の横断歩道

 汗っかきの私にとって、夏場の正午ごろに外出するというのは、非常に辛い行為なのですよ。それこそ外に出たくないがために、昼食を抜いてしまおうか、なんて迷うほどには辛いのです。

 けれど、残念ながら、私の体はあんまり燃費がよろしくありません。昼食を抜いたらエネルギー不足でフラフラになってしまい、午後の活動に影響がでてくるのです。

 

 ただでさえ午前中は寝不足で低効率になっている私ですから、午後も動けないとなりますと、一日なにもできなくなってしまいます。さしもの私も、それだけは避けねばなりません。

 となれば、えいや! と気合を入れて、外に出てみるしかないのです。

 

 しかし。

 

 夏の日差しが降り注ぐ鼠色の海原に漕ぎ出てしまえば、その瞬間から、世は大後悔時代に早変わりであります。今の時分は「くーるびず」なる装いが隆盛を極めていますから、半そでシャツのオジさんたちが通りにひしめいています。

 皆さんハンカチを片手に、ひぃひぃ、ふぅふぅ、食を求めて彷徨っているのです。

 外に出てしまった以上は仕方ありません。私も流れに身を任せます。

 けれど私はとっても汗をかきますので、ハンカチではなくタオル持参であります。


 すでにタラリと汗が垂れてきました。歩いて3分ほどです。額の汗を拭います。続けて5分で、今度は服の内側を拭きたくなってまいります。汗でシャツが貼りつき始めているのですね。ですが人目が気になり、できません。恥ずかしいですからね。

 汗でビタビタなだけでも羞恥に塗れてしまうわけですが、服の内側にタオルを突っ込んでグリグリ汗を拭くのは、さらにもう少しだけ恥ずかしいのです。

 ここは我慢です。我慢するしかありません。

 そう心中で呟いている間にも、人の流れは――止まっていますね。


 暑さにやられて足元ばかりを見ていた私は、こっそり顔をあげました。

 渡ろうと思っていた交差点の青信号が、パカパカと、点滅を繰り返していました。

 走る気力なんかありません。なにより走ったら吹きだす汗で大惨事です。

 もう赤色が灯っています。

 こちら側とあちら側、二つの人の塊を、車の列が分断します。流れが悪いですね。

 あとは信号が、いっていいよ、と言うまで、ただ黙して耐えるしかありません。


 照りつける太陽は私とアスファルトの黒い路面をミディアムレアに焼き焦がそうとしています。汗がじっとりと体の表面に浮き出てきました。ふいに、かつてアインシュタインが言ったという言葉を思い出しました。

「愛する恋人と過ごすのと、焼けたストーブの上に座っているのでは、同じ一分でも長さが違うだろう」という言葉です。

 普段だったら何言ってんだコイツ的なジョークの意味も、今なら理解できます。

 たしかに、非常に長く感じるのです。

 

 身動きできず、ただひたすら暑さに耐えるというのは、やはりキツいですね。

 汗を拭い、周囲に視線を巡らせます。皆さん、辛そうにしておられます。小さな子供も顔を歪めて耐えています。無理もありません。背の低い少年少女は、地表の熱をより近い距離で受け止めるよう強いられているのですから。

 信号機の足元に置かれている花束なんて、子供たちよりさらに焼けた地表に近いところにあります。もうカラカラのシオシオのグンニョリであります。


 と、信号が「いってもいいよ」と言いました。人の波が流れだします。

 私も顔をあげました。彼岸にぼやっとした青い光が見えます。

 信号機はすでに6時間は日に焼かれていますからね。熱気を孕んだ空気に巻かれて、ゴーサインも霞んでみえます。まるで遠い水面です。陽炎がでているんですね。

 見れば縞々の横断歩道も揺らめいています。いまや人が行きかう道路は、此岸と彼岸を分かつ、無色透明の川面となりました。


 暑さでクラクラしてきて、変な見立てまでしてしまいますね。

 突っ立って眺めていたとして、それでは彼岸にたどり着けません。

 仕方なく、人をも焦がす川へと、漕ぎ出でていきます。

 水分不足なのか、どうにも足が重くなっていました。靴底が路面にへばりつくような、とでもいいましょうか。あるいは、幼児の手が足首を掴んでいるかのような、というべきですか。


 ともかく、足がうまく動かないんですね。歩くたびに体がよろめいてしまいます。

 いくら暑いと言っても、おかしいですよね。

 もしかしたら本当に子供が足にまとわりついているのかな、なんて、ありえない映像を頭に浮かべて、目を足元に向けてみます。

 私の体が、ちっぽけな陰をつくっていました。それだけです。

 当然、足を掴む子供の手なんて、ありませんでした。


 途端に自分の行動が可笑しく思えて、笑ってしまいました。首を振りあげ、真っ青な空を見やります。私のみならず、世界を焼こうと、太陽が浮かんでいました。

 再び横断歩道に視線を落としてみます。路側帯です。彼岸はもう目の前でした。

 だというのに、とうとう、足が完全に動かなくなりました。

 おかしいですね。おかしいですよね。足に力を込めます。力が入っているのかも分かりません。――いえ、力は入っているのです。現に体は前後に揺れます。

 

 もしかしたら何者かが私の服の裾でも掴んで、道路に引きずり込もうとしているのかもしれません。

 なぜ。

 目的は分かりません。けれど、ありえないとも言えません。

 私は気を落ち着けるために深く息を吸い、服をはたいて、歩き出そうとしました。

 もちろん足は動きません。もう周囲に人の気配がしなくなっています。


 顔をあげると、信号が点滅しているではないですか。彼岸の人々はすでに足を止めています。信号が変わるまでには渡り切れない、と判断しているのでしょうね。

 子供が一人、眉をひそめて、こちらを見ていました。

 まずいです。早く渡らないといけません。

 私は焦燥感に駆られて、腕を振っていました。勢いで歩きだそうとしたんです。

 そのときでした。 


 私の服が、引っ張られたのです。後ろに。つまり道路に。

 何者かが体を引いているに違いありません。今度は確信がありました。

 私は乾いた喉を鳴らし、首筋の汗をタオルで拭きます。妙に冷たい汗でした。

 勢い込んで振り向きます。

 そこには。


 誰もいませんでした。

 代わりに、とでも言いますか、幽かに、髪の毛がそよいでいました。

 ああ、風が吹いたのですね。

 そう思った途端に、足が回るようになりました。

 私は這う這うの体で彼岸に漂着したのです。


 いまやかつての彼岸は此岸となって、渡りきった陽炎の川の対岸こそが、彼岸となっていいました。すでに多くの人が溜まっています。大人も、子供も、平等に、皆が日差しに焼かれていました。

 信号機の足元で、乾いた花束だけが、風に揺られていました。

 私は安堵の息をつき、行きつけの喫茶店を目指して歩きだします。

 足は、もう、軽くなっていました。


 いま考えてみれば、おかしな話です。たしかに熱波で空気が温められているとき、風に気付けないこともあります。しかし気付けなかったのだとしても、そよ風なんかに足を止められるわけがないのです。

 あれは、いったい、何だったのでしょうね。

 実は気になることも、ひとつあります。

 一緒に信号待ちをしていた少年は、私より先に彼岸に渡ったはずです。

 なぜ振り向いたとき、また彼岸にいたのでしょうか。

 そもそも、彼は、暑さで顔を歪めていたのでしょうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る