雨の止まり木

景 詠一

雨の止まり木

 夏という季節が、私は好きだった。

 うだるような熱も、遥か空に照らされる入道雲も、青い葉の間を飛び交う鳥や虫たちも、何もかもが好きだった。

 その点、私は同世代の子と比べて『変わっている』と言われる。


 夏という季節の入り口が、私は嫌いだった。

 まとわりつく湿気が、突然の雨が作り出す牢獄が、月夜を隠す暗雲が、何もかもが嫌いだった。

 その点、私は同世代の子と比べてもあまり『変わっている』とは言われなかった――。







 六月、上旬。

 つい数日前のニュースで、私の住んでいるこの地域も梅雨入りしたということが伝えられた。

 六月は祝日すらない癖に、ここにきて雨まで持ってくるのか。毎年のようにぼやくのが、私の癖だった。

 雨の中を歩くのは辛い。髪の毛も整わない。風の強さも加われば、横殴りの雨が制服を濡らす――お母さんに怒られる。

 詰まる所、本当に嫌なことだらけだ。

 別に雨というもの自体は好きでも嫌いでもない。ただ、この季節はあまりにも頻発するからこそ嫌気がさす。



「あー! もう!!」



 土曜、昼の十二時過ぎ。

 補修を終えて下校を開始した私に現れたのは見事なまでの雨だった。

 家までの下校手段、徒歩。友達にはバスとか使わなくて楽だねとほほ笑まれた徒歩。今は全てにおいて私をいじめ抜いている。

 いつもは入れっぱなしだったはずの折りたたみ傘は、思い出せば乾かす目的で家に放置したままだ。これも全部梅雨のせいである。

 家までの道のりはまだ半ば。ここから考えられる選択肢は濡れ鼠覚悟で家まで走り切る――いやそれは絶対に怒られる。というか、明日着ていく制服がなくなってしまうか生乾きになるだろう。

 制服も靴下も革靴も鞄も、びしょ濡れコンプリートしてしまえば帰宅後早々に土下座を決め込まねばならない。もしもそうなってしまえばただでさえ雨で落ち込んだ気持ちが余計に落ちていく。

 ならば手段は一つ、どこかで雨宿りをするしかない。

 時間を潰せる施設や店でもないかと見渡すも土曜日だ。個人商店の多いこの周辺は休日を守るホワイトな人々だらけである。

「どこかに……どこかに……ん?」

 私はこの時、『諦めないことって大事だなぁ』と呑気に理解した。

 忙しなく動き回っていた私の視界は、ある場所に辿り着いたのである。

「あんな店……あんな所にあったっけ?」

 疑問を払拭するよりも早く、身体は雨から逃れるために踏み込んだ。





(埃臭い……)

 床を踏む度にギィという鈍い音が鳴る。

 私はそんなに体重が重い訳じゃない――はずだが、店はかなり古い様子だった。

(あんまり濡れてないかな?)

 幸い、衣服も頭もそれほど濡れていない。これならばすぐに乾くだろう。

「ここ、本屋さん……なんだ」

 店の入り口にあっただろう店名はしっかりと見ていない。

 ただ、店内の古臭い棚と並んだ本から察するに本屋しかありえないだろう。見渡す限り本以外のものは売っていないから、昔ながらの商売を続けている店なのかもしれない。

 店内はそこそこに広い。近所のコンビニ程度の敷地はあるようだが、通路は狭いし苦しく埃臭さが目立つ。

「……いらっしゃい」

 奥の方でしゃがれた声が聞こえた。

 室内なのにハンチング帽をかぶった、白髪の老人。訪れた客には一瞥すらせず、新聞に目を向けている。

「……どうも」

 向こうには伝わらなさそうなほどの小声でちょっとばかし頭を下げながら、私はなるべく静かに歩き始めた。

 せっかく本屋に来たのだ。雨宿りも兼ねているけれども、適当に棚を物色してみることにした。

(難しい本が多いな……)

 例えるなら、学校の図書室で誰も手に触れないエリアの本。

 著名な芸術家の絵画まとめとか、誰が読むのかわからない辞典など。

 多少は理解できそうな小説のコーナーもあるが、ハードカバーの厚みが目立つ。

 そういった本が大小さまざまな棚に並んでいて、どうも見ているだけで頭が痛くなってくる。

「あ、こっちは漫画かな?」

 と、別の通路に立った瞬間に視界が開けた気分がした。

 このあたりならばまだわかりやすい。とにかく目につくものを探してみると――、

「ん……?」

 ふと、違和感が沸き上がる。

 並んでいる漫画はどれもこれも正しく漫画だ。本の背表紙だって、見慣れたデザインと配色をしている。

 だがどうも――並んでいる本は――見慣れない。

 正確に言えば一度も見たことがないような作品ばかりが並んでいた。

「知らない作品……ううん、違う」

 独り言を噛み締めて、一冊の本を指先で引き出す。

 その漫画はやはり見たことがないものだった。いやむしろ――見たことがないのが当然だった。

「古い……」

 絵柄も、中身も、値段も。

 私の知っている『今』の概念よりも、少しばかり古い。

 よくよく眺めてみれば辛うじて知っているタイトルもあったが、それもとっくに完結したものばかりだ。

(まさか?)

 私は一つ思い至り、さっきの小説のコーナーに戻った。

 すると――やはり、思い通り。

(発行日が十年くらい前だ……)

 この棚に並んでいる小説も、本としては古めのものばかりだった。

 つまり、この本屋さんにある書物はどれもこれも最近のものではない。

「古本屋……だったのかな?」

 だとしたらなるほどと頷ける。こんなに古い本ばかりが並んでいるのだ。むしろそうでなくてはおかしい。

 なんとなく普通の本屋ではなさそうだったが、まさかそういう理由とは――



「古本屋じゃあ、ないよ」



 ――声を向けられる。

 雨音に遮られることなく、目標のある声が届いた。

「え?」

「だから、古本屋じゃあない」

 恐る恐る棚の影から顔を出すと、あの店主の視線は真っ直ぐに私を見ていた。

 新聞は読み飽きたように机へ放りだされ、今は老眼鏡を磨いている。

「ここはね、古本屋じゃない。れっきとした普通の書店だよ、お嬢さん」

「お嬢……」

 お嬢さんだなんて、そんなの家でお父さんだって言ってくれない。むしろ、歳を取ったからこそそんな言い方ができるのか。

「……い……いやいやー、そんなことはないでしょう?」

 お嬢さんのインパクトに面食らったが、気を取り直して訂正を促す。

 こんなに古い本ばかり扱っていて普通なはずがない。ここは客観的に見て古本屋である。

「違うさ、置いてあるのはどれだって一度たりとも他人の手に渡ったことがない」

「渡ったことがないってそれって……」

 ――つまり、売れ残りでは。

 要するにこの店にある古い書物の数々は――ただの売れ残り。

 十年も十数年も下手すれば私が生まれる前から売れ残っていた本。それがここに集まっている。

「……商売になってないじゃないですか」

 なんて、冷静にツッコミを入れられる程度には、私は落ち着いているようだ。

 とにかく、とてもじゃないが正気の沙汰とは思えない。

 まともな店ならば、あるいは普通の店ならば売れ筋の商品とかをどんどん入荷するはずだ。

 この店主は、そんな商売人としての当然すら投げ出している。

(よく見れば棚の本、隙間もあるな……)

 この隙間が示す事実は『補充していない』に尽きるだろう。売ったら売ったまま、それっきりのままに放置するのだ。

 気圧の変化から来る頭痛かはわからないが、変な痛みを堪えつつ、我ながらとんでもない本屋に来てしまったものだと痛感する。

「で、何か買うかい?」

 にやりと笑う店主に一瞬戸惑ったが、

「……いえ、出直します」

 私は素直に耐酸の意を示した。

 丁度、雨も上がっていた。







 二日後、一昨日の雨が嘘のように乾いた昼間。

 私は下校途中のついでにあの書店に寄ってみた。

 古本屋ということを断固として否定する頑固者の店主が構える本屋さん。今まで気づくこともなかった本屋さん。

「……閉まってる」

 予想していた通りと言うか、なんとなくわかっていたというか。

 私の目に映ったのは、色の剥げ落ちたシャッターの閉まる店舗だけだった。







 そしてさらに翌日の放課後。


「ああああああああああああああ!! もおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 ――私は懲りずに、突然の豪雨に襲われていた。

 折りたたみ傘はまた家に忘れて来た。本当に懲りなさすぎて自己嫌悪に陥りそうだ。

 相も変わらず下校の途中。周りに雨宿りできそうな場所は一つしかない。

「――開いてる……」

 例の本屋がそこにあった。

 今日は、昨日のようにシャッターは下りていなかった。

「ぐ……今日は、かなり濡れちゃった……」

 制服は透けないように頑張ったが頭髪は完全にノーガード過ぎた。

 固まった毛先から水滴がポタポタと続いて行く。

「いらっしゃい」

「……どうも」

 今回は二回目だからか、店主はこちらを見て言った。

 私もつられて軽く会釈をする。明らかに冷やかしなのは間違いないが、店主は追い出そうともしなかった。

(相変わらず埃臭いなー、もう……)

 衣服に染み付くほどではないが気になる匂いなのは確かだ。

 長年にわたって熟成した古書の香りが店内を覆っているのだろう。

「あれ?」

 ふと気が付くと、店主の姿が消えていた。

 店の奥にでも戻ったのか? そんな風に考えていると――

「ほれ」

「え? ――わぷっ!」

 目の前が真っ暗に――もとい、真っ白に覆われる。

「これ、タオル……?」

 それはよく洗濯された真っ白なタオルだった。

 ほんのりと洗剤の香りが残っている。こんな梅雨時期でもちゃんと洗っているものだ。

「濡れた頭を拭きなさい。ここ、本屋だからね」

「あ……す、すいません!」

 大きく謝りながらも有難く使わせてもらうとする。最近は暑い日が続いているが、それでも濡れっぱなしの髪のままじゃ冷えてしまう。

「よく降る雨だね。最近大気が不安定だからかな?」

「そう、ですね……参りました」

「こんな日が続いたら、どんな店だってお客さんは少なくなるかもね」

 店主は言い残すと、ふらりと椅子に座った。

 まるでやることはやったと言わんばかりの表情で、『それじゃああとはご自由に』と新聞を読む姿勢が語っている。

(やる気感じないなぁ……)

 先日と違って幾分か慣れたから、私はより客観的に店内を見渡した。

 店は埃臭い。店主はやる気ない。だけどタオルを貸してくれる程度には優しい。ああ、最後のは余計か。

 とにかく、最も疑問なのは――どうしてこんな風にやっているのか。

 新しいものをほとんど入れないで、古いものの中に埋もれていく。

 個人経営だとしても本当に理にかなっていない。

「あの……」

 私はなんとなく訊きたくなって、しばらく悩んで、


「……タオル、次の時に返しに来てもいいですか?」


 一瞬止まった雨の道を見て、問いかけた。

 頷いてくれた店主の姿を見て、外へ踏み出した。



 翌日、曇った空は崩れ切れずに雨を落とさず、あの店のシャッターは閉まったままだった。

 翌日、天気予報通りに快晴が広がり、店は閉まったままだった。

 翌日、

 翌日、

 翌日、

 翌日、

 翌日、翌日、翌日――――。






 翌日、天気予報で予報士の人が笑顔で言い切った。


『今年の梅雨は明けました』


 翌日も、店は開かなかった。









 ――雨自体はそんなに嫌いではない。でも、このままじゃ嫌いなりそうだ。

 とても我儘な言いようだけど、会いたい時に限って来てくれない。来てほしくない時に限ってやって来る。

 下校途中、私はぼんやりと空を見上げながら歩いていた。

 一緒に並んでいた友達には何度も心配されたけれども、実際の所大丈夫ではない。

 今も私が持っている鞄の中にはあのタオルが入ったままで、軽いながらも鞄の面積を占領している。

「…………」

 気が付くと、公園のベンチに腰掛けていた。

 あれ以降はずっと晴れが続いて、微妙な暗雲も雨にまでは至らなかった。

 夜分には降ったこともあったけど、さすがに学生身分で夜道は歩けない。だから結局、私にとってはまだ《雨》は訪れていない。

 私は雨を待っている。

 たぶん、その本質はこの借りものを返したいだけなんだろうけど。

 私は雨を待っている。

 たぶん、その理由はこの借りものを返したいだけじゃないだろう。

 私は雨を待っている。

 ぐるぐると悩み悩み、わけのわからなくなりながらも待っている。

 あの本屋は何なのか、あの店主は何なのか。

 何故、雨の日だけに開いているのか――どうしても知りたい、どうでもいいピースを探している。


「……ん……ん!?」


 ぴちょんと、首筋に冷気が落ちた。

 見上げた空に私は思わず微笑む。見下ろした景色に私は走り出す。

 待ち人は、来た。



「いらっしゃい」

「……どうも!」

 埃臭い店内は三度目だが、どうやら鼻は慣れたらしい。

 やたらと軋む床も古臭い雰囲気も、やっと戻って来たという感覚がある。

「タオル、返しにきました」

「ああ……そう言えば貸してたっけね。わざわざどうも」

 下げる頭もどことなくやる気がない。だけどこんなのは今まで見た通りだ。

「……前から訊きたかったんですけど。どうして――」

 伝えようかどうか迷ったが、飲み込まない。

「――どうして、雨の日だけ開けるんですか?」

 こんな店を――とまで言うのはさすがに侮辱だから、多少は噛んで、飲んでをしつつ。

 さぁ、ちゃんと訊いた。これで店主もしっかりとした返答を

「そんなの、僕の勝手じゃないか?」

 するわけが無かった。

「好きな時に開けて、好きな時に閉める。必要な時だけに必要であればいいのさ」

「言ってる意味がよくわかりません……」

 店主は適当な上に抽象的な人物だったようだ。

 これじゃあ生半可な学生である自分が太刀打ちなどできるだろうか。かなり怪しくなってきた。

「ふーむ……ま、あれさ。僕はここが、止まり木であればいいと思ってる」

「止まり木?」

「そ。例えば君みたいに――土砂降りの中を駆けこんで来る人の為のね」

 ビッと指を指されて顔が赤くなるのがわかった。

 何故か、自分が情けない人物のように扱われた気がしたからだ。

「正直さ、君が初めて来た時に『古本屋』って言ったのは的を射てるよ。正しい表現だ」

 あれだけ否定していた店主はあっさりとその事実を認めると、眠るように目を閉じる。

「ここは僕の店だ。法に触れない程度に自由にやっている店だ。でも、同時にどうしようもなく老木だってこともわかってる」

 年老いた自分の見た目の事も踏まえているように、彼は語る。

「でも、老木にだってできることがある。飛んでる鳥たちの羽休めをさせるくらいには、まだ命を持っている。この店は、そんな老木なんだよ」

 雨の日限定だけどね。店主は、意地の悪そうに笑った。

「この店は僕の若い時に建てた。今じゃああちらこちらが傷んで、僕もしわくちゃになった。わかるかな? 僕とここは一心同体なんだ」

 聞けば、跡取りも別にいないらしい。

 だから彼がいなくなれば、この店はこのまま消えてしまう――と。

「それで、決めたんだ。一緒に老いて行こうってね」

 故に、新しいものを増やすことはやめた。

 いくつもの果実を実らせる若い木々よりも、外を眺めて消えていく老木になることを決めた。

 とても単純で、訊いてしまえば簡単な話だったけれども――私には、どことなく残酷なことのようにも思わずにはいられない。

 この店主は、消えていくことを受け入れているのだ。それって、とても寂しいことじゃないだろうか。

「寂しいさ。だって、もう新しいことはできないからね」

 諦めではなく、そう決めたから。

 歩み続けることよりも、止まって眺めることにしたのだから。

「でも何もかもが悪いわけじゃあない。だってほら、ね?」

 店主はじっと、私を眺めた。

「――悪くないだろ。雨の日だけでも、この店にやってきてくれる人に会うのはさ?」

「あー……はは……」

 そこで、私は理解する。

 妙に美談っぽく話していたけど、実際、この店主は商売が上手だったんだろう。

 だってもう、私のようなリピーターを掴んでいる。

 自分の店を止まり木として使ってくれる人を、彼はきっと何人も得ているはずだ。

 この本屋は店主の望んだ止まり木であると同時に、老木に止まってくれる鳥たちを眺めて楽しむ店主の趣味も兼ねていたのである。

 こうやって雨の日だけに店を開き、立ち止まった人たちと話したりしているのだろう。

「趣味、悪いですね」

「ま、良いとは言えないかもな」

 苦笑しながらも、店主の顔には反省の意は見えない。

 老木にとっての、唯一の楽しみだと彼は言う。

「……で、訊きたいんだが」

「何ですか?」


「ここは、君にとっての止まり木になったかな?」


 返答は、ただ一つだった。

 認めるみたいで癪だったけど、ぐうの音も出ないほどにこれしかなかったのだから。






 夏という季節の入り口が、私は嫌いだった。

 まとわりつく湿気が、突然の雨が作り出す牢獄が、月夜を隠す暗雲が、何もかもが嫌いだった。


 ――だけど。


 雨という天気は、今はそんなに嫌いじゃない。

 好きでも嫌いでもないっていう曖昧な判定から、ちょっとだけ好きだと言える程度には嫌いじゃなくなった。少なくとも昔よりも、嫌悪感は薄れた気がする。

 それはたぶん、雨の日だけ止まれる老木のことを、そこにいるおかしな店主の顔を、私は知っているのからだ。

 あの妙に意地の悪い所のある老木を守り続ける変な店主が、記憶の片隅に加わってくれたからなのだ――。

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