疾走当時の服装は

光田寿

疾走当時の服装は


 * *


「あの黒い車の後を追ってくれ!」

 ――――レスリー・ニールセン主演『裸のガンをもつ男』


 * *


 折笠智一おりかさともかずにとって、この計画は全てが順調だった。FX為替相場で全てが無駄になった金は返ってこないが、復讐にはなる。

 机上の空論でしか無いが、金を手に入れる段取りも出来た。ぬかりは無い。死体の処理方法も最善の策を思いついた。

 そう、彼にとっては絶好のチャンスだったのだ。だが、絶好のチャンスとは、最悪のタイミングでやってくるものでもある。


 * *


 雲の隙間から太陽が顔を覗かした時、木造建築のアパートには血生臭い匂いしか漂っていなかった。

 高木加奈子たかぎかなこは目の前の死体を見下ろしていた。もう何年も会っていないが、池本武典いけもとたけのりの死体は、加奈子の前にごろりと転がっていた。人間という生き物では無く、もはやただの物体として。恨み辛みはあった。何度も虐げられた。それを忘れるように、加奈子は池本を刺した。近所の百円ショップで買った包丁でも、人は殺せるものだなと関心してしまう。

「ハァ……ハァ……」

 呼吸を整える。加奈子は緊張すれば目が乾く癖があった。慌てて、目薬と点眼器をズボンのポケットから探った。そこで、自分の服を見て気付く。いや、気付いてしまった。自分がとんでもないミスを犯してしまった事を。


 * *


 入道雲の間を突き抜け、陽光が目を指した。空を見た瞬間分かった。何か嫌な予感がする。中山和彦なかやまかずひこはこめかみを擦り、目横の鼻筋を正す。彼の癖だった。これで予感というものは体外、外れる。独自のがん掛けだったが、胸騒ぎというものはどこかしている。

 ――――まぁいい。

 そうだ。彼はこれから大金を手に入れる……はずなのだ。手に持っているキャリーバッグの中には、グラム単位数百万円で取引されるクスリが入っていた。

 ――――『クスリ』か。カタカナで書くだけで随分印象は変わるものだ。

 何故か、彼の頭の中にはそのような考えが思い浮かんだ。単純に言えば人を狂わせる大麻だ。

 大勢の目の前の中、例えばこれが、いかにも取引をしているという風貌。即ち黒服のダブルスーツに怪しげなサングラスを着用していれば怪しまれただろう。普段の服装だけでも目立ったかも知れない。キャリーバッグだけでは怪しすぎる。だが、これがアロハシャツに所々破れたジーンズではどうだろうか? 放浪ほうろうの旅に出ていた大学生辺りに見えないだろうか? 幸い彼は若かった。若いからこその無茶も出来るのだ。

 人ごみを掻き分けながら、ある喫茶店の前で立ち止まる。看板には『喫茶清風きっさせいふう』と書かれている。彼はもう一度、目横の鼻をつかむ。

 そうだ、全てが巧く運ぶ。何のトラブルも無く全てが――

 いわば、一人麻薬カルテルである。中山はこれから入る大金を思い描き、唇が微笑むのを手で隠した。数分後、その取引相手を殺す事になろうとは予想もせずに。


 * *


 巨大な外壁が囲んでいる。空は晴れ間が覗いてきたようだ。

 『雛鳥ひなどり』と名づけられた殺し屋にとって、この街はあまりにも静か過ぎた。感傷的になるほどである。

 雛鳥――こと、芹沢武せりざわたけし、彼がこれから殺そうとしている、中国マフィアは親のかたきであり、仲間でもあった。矛盾した事だが、相手の持っている鞄の中。そこにある物こそが、親を殺した唯一の相手を射抜ける道具でもある。

 拳銃チャカ。コルトM1911AI。

 ――お前が母さんを殺したのと同じ銃で、お前も殺してやる。

 しかもその相手と取引でもらった銃で。皮肉だ。だが、この皮肉こそ、目の前の中国人に唯一相応しい死であり、最高のブラックジョークでもあった。

 商店街を抜けると、入り組んだ路地に入った。その一角、古びたスナックと居酒屋の間に地下へと下りる階段がある。この下でいよいよ銃の取引が始まろうとしている。相手がブツを渡してきた瞬間、相手の獲物を取り、撃つ。ただそれだけだ。殺し屋はマルボロを口に含むと、階段を下りていった。


 * *


 高知県は東平市の一角にある、古びたコンクリート製の建物。庭にはワシントンヤシの木が生え、四国の南国感を出している。コンクリートの壁には窓がいくつか点在しているが、誰も掃除をしないのか、建物全体がどこかくすんで見える。

 そんな壁に垂れ幕が下がっている。『飲酒運転ゼロの町を目指して』『警察官募集中』『犯罪するなら東京で』……。ついでに門構えには朝日をかたどった旭日章きょくじつしょうのマーク。その下には東平警察署ひがしだいらけいさつしょという文字。そう、この建物は誰が何と言おうと警察署であった。

 その二階。外壁とは裏腹に中は白いオフィスになっている。強行犯第一係。通称甲ノかんのうら班。そんな作者がいくつも「。」を打つ部屋の一室で、小池万喜こいけかずき巡査はため息を吐いた。彼は、自分の名前が嫌いだった。まず初対面の人間には『万』という漢字は、どう見ようと『かず』と読まれない。他人に聞くと、たいていの人間が『まんき』と読んでしまう。昨今のキラキラネームなどと呼ばれる、親と親族と役所員の神経を疑う読み方よりは、まだマシだと感じるが、やはり気に入らない。

 おそらくここには両親の事情があったのだろう。初めは『一喜』と書いて『かずき』であったが、彼の親にしてみれば、『一つ』だけの『喜び』では満足出来なかったのだ。『まん』の『喜び』を自身の人生で知ってほしい、そして『万』の『喜び』を人の人生に分け与えてほしい。そのような動機もあったのだろう。だが、この警察組織に入り、彼は今まで一つだけでは無い、まんの嫌な呼び方をされたのである。そのおそらくが、いや、九千九百九十九回が、彼の目の前に座っている直属の上司である。

「おぅ、マンよ!」

「そのあだ名で呼ばないでください。万喜かずきです」

 がっがっがっがっ! 笑い声が返ってきた。彼特有の喉を鳴らすような声である。事件と聞けばかならずこの声が聞ける。小池は女性器を表現するようなこの呼び名と、この笑い声と、更に言えば、それら全てを発する糞みたいな目の前の人物――否、汚人物おじんぶつが単純に嫌いであった。

「事件らぁ、起こったようやわ! 銀行強盗やと、早よぉ行くどぃ!」

 でっぷりと太った体躯に、身長は百六十センチと小柄の体。頭頂部は見事にハゲ上がり、肌色のその丸い山の上には大量の汗という名の雨粒が落ちている。ちなみに山頂、後方部こうほうぶには、少々寂しくなった針葉樹林帯しんようじゅりんたいが残っている模様。頭とは逆にアゴの方は剛毛ジャングル地帯、あるいは樹齢百年の木ばかりが生えた林、または大根おろし、さもなくば普通より三倍の量の針が生えた剣山けんざんのような髭が生え茂っている。そのせいか、普通に見れば怒り顔、逆さにすると泣き顔になる、騙し絵のような顔である。おそらくいつも怒っているわけではないが……。

 話脱線。そう、この男こそが、小池の前で「事件起こっちょらぁ! 事件起こっちょるんよ!」とはしゃぎまわっている直属の上司。甲ノ浦文雄かんのうらふみお警部に他ならないのである。だが何故か県警で一番の犯人逮捕率を持ち、若い頃には本庁からの引き抜きもあったとかいう噂を持つ。本当かどうかは定かでは無い。

「しかし警部、今、高知市内には例の麻薬シンジケートの案件も……」

 隣にいた野根渕亮太のねぶちりょうた巡査が口を挟む。

「ほんなもん、知るかだぁ! 厚生支局の麻薬取締官まとりの仕事やろが。こっちゃぁ関係ないわ!」

「殺し屋が県内に潜んでいるとか言う噂も流れていますよ」

 野根渕が再び口を開く。

「ほんなもんは、大抵がただのガセやろが。がっがっが! ほれぃ、ほんな事よりも、強盗の方よぇ! おらぁ、小マンいくぞ! 早よ行かんかだぁ!」

 そう言いつつ、銀行強盗事件の方に甲ノ浦警部は走り出したのである。


 * *


「犯人は一人。閉店間際を狙うよりも、まっ昼間から地方の銀行を狙った線も考えて、おそらく犯行慣れしていない人物です」

 現場は既に緊迫状態であった。七月半ばの梅雨終わり、久々に晴れ間が覗いたこの時期、暑さと同時に、犯人へのイラだちもあるのだろう。特攻班係りの現場主任は目じりにシワを寄せ、呟いていた。

「強盗慣れしちょる犯人がどこにおらぁ、ボケカスアホンダラぁ」

 火に油を注ぐような甲ノ浦警部の怒声とともに、銃声が耳をつんざいた。シャッターも下ろしていない、強盗慣れしていない犯人だが、どうやら銃だけは本物のようだ。飛び散る窓ガラス、静まり返る現場。後につづく野次馬の悲鳴。

 さきほどの割れた窓から出てきた強盗犯は、覆面をしていた。だが、警察の包囲網を見ると、慌てた顔をしたのは覆面の上からでも確認できた。次に強盗犯は銃を取り出し、厳戒態勢を強いていたパトカーに向け、一発発砲した。

 ダァンッ!!

 再び耳をつんざく音。

 ――ヤバイ。錯乱している。

 今までの経験でこの様な心理状態の犯人が一番危ないという事も、小池は知っている。つづけて強盗犯は銃を構えたまま、銀行前の車道に出てきたのが確認できた。

 ――逃走する気だ! 犯人は銃を持ち、あたふたと車道を眺めているが、田舎道のためか交通量が少ない。パトカーの影に隠れていた小池の耳に「キキィィィ」という急ブレーキの音が聞こえた。

 小池は内心舌打ちする。慣れていない強盗犯と侮っていた、自分たち刑事のミスだ。銃を警戒しながら、小池はそっとそちらを確認する。

 目を疑った。犯人が止めた車は色が黒く、車体の後ろはゴテゴテしく金色の装飾が目に眩しい。そう、それは誰が何と言おうと、霊柩車であった。強盗犯は銃を持ち出し、車のドアに突きつける。黒い礼服を着た遺族たちがあわてて外へ飛び出してくる。犯人は急いで運転席に乗ると「ギギギギィィ!」というアクセル音と共に、走り出していく。

 小池を始め、その場にいた刑事たちも一瞬だけポカンとしていた。いくら田舎道で車が走っていないとはいえ、逃走用に使うにしては目立ちすぎる。あまりにも非現実的な光景。だが、一人の男の恫喝声どうかつごえが辺りに響き渡り、全員が我に返った。

「えぇい、なんしょらだぁ!」

 その声と共に現場は騒然となった。どこかへ無線で連絡する刑事、慌ててパトカーに乗ろうとする刑事、が、そこでもこの男の一括声が響いた。

「あのボケカスは俺らぁが追うわ! おんしらぁ、ちょっと静かにしちょれ! おぅ、小マン、こっちも車止めるぞ!」

 そういうなり、甲ノ浦警部は道路へ飛び出し、その場で警察手帳を取り出し、「おぅ! 警察や! ちょっと止まらんか!」と叫ぶと、追跡用の車両を止めた。小池は警部が止めた車を見てギョッとした。いや、目がギョッとする前に彼の鼻がツンッとした。

 警部が止めたのは――十トンダンプのー大型バキューム車であった。目はギョッとし、鼻がツンとし、最終的に頭を抱えるしかなかった。『積載物品せきさいぶっぴん 糞尿』という文字が嫌でも目に入った。警部がドアを開け叫んだ。

「ちょいとすまんけどなぁ、前の車を追うてくれ!」

「な、何言うやがですか、アンタら? 正気ですか?」

 もちろん、バキューム車の中で運転をしていた作業員二人はギョッとしている。

「け……警察て……」

「お……おい……どないするがな?」

 助手席の男が運転席の男と目を見合わせた。当たり前だ。逃走する霊柩車をバキューム車で追うなど、現実的に考えれば在り得ないシチュエーションである。しかし読者の皆様、小池刑事はフィクションの登場人物なのでご安心を。

「おらぁ! 早よ行けぇ、早よぉ行かなだぁ、逃がしてしまうやろがぇ! ボケぇ」

 甲ノ浦文雄警部その人は、現実などお構いなしに運転手の男を促している。小池は心の中で思った。アーメン、ご愁傷様。こうなれば宗教など関係無い。唯一、この破天荒警部に捕まったのが運の突き……いや、ここはウンの突きであると。

「ちょっとぉ! 警部、追跡ならさっきのパトカー借りりゃぁ良かったん違いますか!?」

「アホかぁ! 警察物によぉこんなシーンあるやろが! 一回やってみたかったんじゃ! ボケぇ!」

 強盗犯も強盗犯なら、警部も警部だ。かくして疾走し始めた一台の霊柩車と、それを追うバキューム車のカーチェイスが始まったのである。


 * *


「おんしらどいちょれ! 俺が運転変わるきに」

 前の霊柩車に追いつかないためか、イラだった警部が、運転席横へ汲み取りの作業員二人を押しやった。

「け、警部! 大型車の免許持っとるんですか!」

「知るかぁ、ボケェ! 任しちょけ!」

「お、お願いします!」

 二人の男はドアへ押し付けられつつも、怯えた表情で慌てて警部にハンドルを譲った。と、その瞬間である。霊柩車の後方扉が開き、何か巨大な物が落ちてきた。

「か、棺桶だ!」

 小池が叫んだのと、棺桶が舗装されていない道路に落ち、砕け散ったのがほぼ同時であった。一瞬だけ跳ね、バラバラに割れたそれの中から、白装束の一人の男性が登場した。小池にはスローモーションで見えた。散らばる菊の花と、遺族様方の形見の品々。そして――

「あぁぁぁあああ!」

「ひぃぃぃぃいい!」

 作業員二人の叫び声が聞こえる中、白装束のもの言わぬ男性は、バキューム車のフロントガラスにぶち当たると、大きく空へ跳ね上った。まさに今から天国に羽ばたくように。いや既に羽ばたいているが。

 ――が、警部がガタンと車を揺らすと、ドンという音と何かが突き出る音がした。

 嫌な予感を感じつつ小池は窓から後方を見た。ものの見事にバキューム車後方タンク、その横に設置されている、上に向いて伸びるホース先から二本の足が伸びていた。青き空を向いて。糞尿地獄。

「ちょっとぉ! なんか犬神家みたいになっちょりますけど! スケキヨヨキケスみたいになってっますけどぉ!」

「わはははは、恋の呪文か!」

「それはスキトキメキトキス!」

 二人の漫才会話を物ともせず、バキューム車は疾走する。隣で押しやられている従業員たちはガクガクと青ざめ、鼻を握っていた。

 とんでもない悪臭が漂ってくる。窓を開ける勇気はなく、サイドミラーで死体の様子を確認する。相変わらずニョキリと伸びた二本の足の横から、タンクの中の糞尿が漏れ始めている。きっとあの中では白装束が茶色く染まっているに違いない。

「警部! いったん止めましょうよ! 始末書じゃすまされん問題行動を我々はやっちょるんですよ!」

「じゃかぁっしゃ! 小マンよ、ほんな事言いよってみぃ! あのボケ強盗に大分離されてしもうたやないかぁ!」

 前方を確認すると、霊柩車がみるみる遠ざかっていくのが見えた。

「おンしらぁ、邪魔がよ。ちょぉ、どいちょれ」

 そう叫ぶと同時に、警部は運転席側のドアを開けた。

「な、何を!」と叫ぶ暇も無い。

「おんシらぁ、出て行かんか、だぁ!」

 押しやられていた汲み取り作業員たちを運転席側のドアからほり投げた。作業員二人は外にいた、乗用車のフロントに顔面から思い切り突っ込んだ。しかもその上に、死体が突き刺ささっているホースから漏れ出した糞尿がかかるというおまけつきである。しかしその風景は小池の目線から、あっという間に消えた。

「小マン! さっきの二人、ちゃんと確保しちょくよう近場の所轄もんに伝えちょれ!」

 後で謝罪をするのだろうが、謝るだけで許してもらえるだろうか? 東平署始まって以来の最大の不祥事になるのではなかろうか? 小池は、スマートフォンで近くの交番の電話番号を速攻で検索し、出てきた番号にかける。自分の立場を言うと、先ほどの二人の確保と、医療代、温かいシャワーと、クリーニング代、慰謝料とついでに消臭剤と男性用香水も付け加えておくようにと伝えた。

「やっとこさ、エンジンかかってきどぉ~」

 小さな体の警部はギリギリアクセルに足が届くかどうかの瀬戸際で、がっがっがっが! と独特の笑い声を立てた。


 * *


 東平市から、南国市へ抜けた。田舎道はいつの間にか、国道55号線、即ち二車線に変わっている。周囲の車にブッブゥーッとクラクションを鳴らしながら、歴史ある土佐の国を、一台の霊柩車と一台のバキューム車が疾走し、糞尿を周囲の民家に撒き散らしている。

「ブフゥッチョ! ブフゥッチョ!」とホースから漏れる糞尿の旋律は、小池を激しくイラだたせた。

  右手側にカーラウンジが見える。ここから四車線になった。いよいよ市内が近づいてきた証拠である。

 ホースがうねり、四斜線の道路全てに糞尿を撒き散らしていく。国道55号線はもはや糞尿と悪臭で見るも無残に汚されていた。左右後方で、キキィィィという急ブレーキの音、歩道で目を丸くし叫ぶ老女、道に撒き散らされた糞尿でスリップするタクシーなどがサイドミラーに映った。

「がっがっがっが! 見てみぃ! 俺が運転変わってから大分追いついたやないかぁ!」

 ――俺は何も見ていない俺は何もしていない俺は何も関係ない。

 小池は心の中で必死に現実逃避すると同時に、

 ――今日からカレーと柑橘類かんきつるいの飲み物は飲食出来なくなるな。と意外と冷静な判断も下せていた。

 目の前の青い看板には高知市内まで数キロと書いてある。南国市の中心部に入ったのだ。小池は前の霊柩車を見やる。この道、そしてスピードでは車間距離は離れないが、同時に追いつけないという限界もある。妥当な判断かもしれない。

 カーンカンカンカン

 唐突だった。前方から踏切警報機の音が聞こえてくる、が前を走る霊柩車はそれを無視し、ギリギリで遮断機をかわしすり抜けていく。

「くそっ!」

 自身の口から言葉と舌打ちが出た。

 カンカンカンカンカンカン……

 まだ、警報機が鳴り響き、ちょうど目の前で遮断機が下りてきた――が、警部はスピードを緩めようとはしない。土佐くろしお鉄道の佐線用9640形9が右側方向に見えている。

「あれならまだ大丈夫よぉぇえ! いくぞぉ。小マン! 口ふんばっちょれぇ!」

 カンカンカンカンカンカン……

 腕を目の前に出し、目を瞑った小池が最後に見たのは、遮断機を折り線路内に飛び出たすぐ横にいる電車の姿と、小学生の時の運動会、フォークダンスを踊るのに小池君と手を握るのは絶対嫌! と断られた二組の瀬川ゆかりちゃんの姿であった。

「ああぁぁあぁああああ!」

 ゴゴゴォォォォォーーッッギィィィィ!

 強烈なブレーキの音が耳に突き刺さる。これが走馬灯! ゆかりちゃん!

 ブッブゥーーーーッ!! ブゥーーーーッ!!

 横にいる警部がクラクションを鳴らしながら、それを無視し、線路に突っ込む。舌を噛みそうになる震動。浮遊感。悪臭。何かが壊れる音。そしてゆかりちゃん。

 ゴトンゴトンゴトンゴトン……。

 抱えていた頭を上げると、サイドミラーに横切っていく電車の姿が見えた。

「おぅ、ええか小マン! よぉ聞いちょけ。踏切音無視して電車に轢かれる確立は七百分の一よぇ! つまり逆に考えてみぃや。六百九十九回は助かるっちーー意味よ、ガハハ!」

 この男はもう一度、交通規則を警察学校で学んだ方が良い。いや、自動車学校からやり直した方がためになるのではないか?

 警部の目は、前を走る霊柩車を捕らえ爛々と輝いている。線路、踏切、自分たちが走ってきた後は、糞々と汚れている。

 やがて、道路は二車線に戻り、牛丼屋、本屋、大型靴店の全ての看板が黒茶色に染まる。右手に田んぼが広がっていた。

「逃がさんぞ、ボケェ! よいしょぉ~っと」

 四車線の巨大な通りに出た。前には、周辺の車にぶつかりつつも、ヨロヨロと走る霊柩車。追いかける方も追いかける方だが、逃げる方も逃げる方だ。前の霊柩車。まだ諦めないとは。

 サイドミラーをチラリと見るが、ホースからはまだ二本の足が覗いている。そこからあふれ出す茶色い液体が急ブレーキと同時に、あふれ出た。あふれ出た、それはまるでミサイルの弾丸の様に、点眼器を持ち、下を向いている詰襟姿の女性に直撃した。

「きゃぁぁあ!」という悲鳴と同時に、女性は頭から近くのマンションの壁に激突した。

「け、警部! 一般市民の女性が! やりすぎですよ」

「ボケカスアホンダラぁ! それよりも横見てみぃ」

 ハッと横を見る。今度は、チンチン電車だ。よけつつ、車線変更。そのせいで、歩道橋上のカップルが鼻をしかめている。

 斜線は追い越し禁止区域を抜けた。ここでいっきに警部がギアをを四速に変え、アクセルを踏みつけた。一瞬だけ見えた赤信号は無視した。

 何も見えなかった、俺は何も見ていない。見ていないのだ。この車に乗り何度自分に言い聞かせた事か……。

 またも疾走しつつも、糞煙が鼻に入ってくる。強烈な悪臭が運転席にまで漂い一瞬吐き気を感じる。

「いくぞ、おらぁー」

 再び赤信号、ガタンガタンという揺れと共に、車線変更無視。

 ボコボコボコボコボコボコ

 中央分離帯のゴムで出来たラバーポールが、横のドアにあたる震動が伝わる。

「糞くらぇがだぁーーー!」

 道並木の綺麗な参堂にもどんどんと糞尿がぶちまかれる。

 車体が飛び跳ねる。

 駆け上がりながら一気に飛ぶ。

 チーンチーンチーンチーン

 再びチンチン電車。窓に糞尿がかかり運転手が、とんでもない形相しているのが一瞬だけ見えた。

 ガッガゴン!

 中央帯に乗り上げ、一瞬だけバキューム車の右車輪が地面から離れる。奇妙な浮遊感、そして目の前のチンチン電車とともに、小池は今まで自分が体験してきた過去を回想した。ゆかりちゃん……。

 腐臭が鼻を極め、音だけがリズムを刻む。強烈な刺激臭が鼻の奥まで達し、シートベルトが肩に食い込む。

「ぐぅっ!」

「小マン! 体重横にかけぇ!」

 警部の声と同時に、小池は慌てて座席を抱き、右側に傾く体制になる。またもや一瞬だけ座席から宙に浮く。次の瞬間、ガクンと落ち着くと、天井で頭を打った。眩暈感があったが、目の隅に映った、まだ疾走しているという事実。気落ちした感情と後悔の感情、それらが同時フツフツとわきあがるのを小池は身をもって知った気がした。

――あぁ、俺は今一体何をどうしているんだ。

 国分川の橋を渡った時であった。本気でこの川にダイブして、難を逃れたかった。助けてゆかりちゃん。

 いよいよ高知市内へ。県道32号線を糞尿まみれにしながら、霊柩車とバキューム車の、壮絶なカーレースはつづく。

「犯人はどうやら市内へ逃げているようです。車に紛れて途中で降りて逃走っていうのを目論んぢょるがやないでしょうか」

「そうはさせんぞぃ。あのボケカスアホンダラぁ、絶対糞ぶっかけたるきにのぉ!」

 目的が完全に変わっている、と小池が思っていたところへ、いよいよ高知の中心部。中央公園が見えてきた。

「小マンよ! 公園横切る! 近道いくぞぃ!」

 何を言っているのか、この警部バカは。

「ちょぉ、待ってください警部バカ、じゃなかった馬鹿けいぶ! 今日は日曜ですよ。公園前の32号線は渋滞して、めちゃ込みですよ!」

 スマートフォンの地図を弄りながら、小池は叫ぶ。

「誰が公園通りを通るだぁ言うたぁ! 公園を横切る言うたんじゃ!」

 一気にハンドリングを切る警部を尻目に、小池の目に映ったのは公園内を散り散りに逃げ惑う人々と、バサバサと慌てふためき飛んでいったハトの群れだった。ホースからこぼれ出した糞尿がハトの群れにかかったのを横目で見た。平和の象徴である鳥が一瞬にして茶色い羽毛へと変化する。なんて事を……。

「おぅ、人がどっさりおらぁ、どけぇ! どかんかボケぇ! アホンダラぁ!」

 ブッブゥーーーーッ!! ブゥーーーーッ!!

 クラクションを楽しそうに鳴らす警部と、ガクンと傾く車体。ビシャッっと窓ガラスに打ち付けられる水しぶき。どうやら噴水の一角に片タイヤを落としたのか、水が車体全体に打ちかかっている。

「うぁっ!」

 小池の叫び声と、排気音。と同時にスピードが出、体を襲う衝撃。元の位置に戻った。バキューム車は中央公園を抜け、帯屋町おびやまち商店街に入っていく。

 ハァハァと息を吐く小池に対し、がっがっがとあの笑い声。

「おらぁ! 帯屋町突っ切るぞぉ!」

「警部! 商店街をクソまみれの死体突き刺したバキュームカーで暴走なんて、正気の沙汰やありませんよ! 下ろしてくださいよ!」

「大丈夫よぇ。俺ぁなぁ、この間の人間ドッグで、体んぢゅうが成人病の商店街や言われたがぁよ」

「え……いや……あの、何の関係あるんですか!」

「無いわ、マンカスがぁ! 糖尿と痛風とアル中が怖ぁて、犯人ホシを挙げた後の酒が飲めるかぁ!」

「カスって言わないで! せめて『』は残しておいて!」

 理不尽すぎる。こうなればもう止められない。商店街にいる人々が悲鳴と共に、右往左往と動き回る。ガリガリガリガリという何かを擦る音。

 ブッブゥーーーーッ!!

「うわぁぉぉお!」「バキューム車がなんでこないな所を!」「臭いッ!」「おい! 上から人間の足が生えとらだぁ!」「ビェェェェェ!!」

 拡散する人々に対し、

「どかんかい、こらぁ! どけぃどけぃ! がっがっがっがっが!」

 ブゥーーーーッ!!

「うわぁーー、警部、人ですよ人!」

 悲鳴とあの笑い声が車内に響く。と、同時にホースから出ている犬神家の足は男子シンクロナイズドスイミングの如く、カクリカクリと、あらぬ方向に曲がったりしており、そこらかしこに糞尿を撒き散らす。小池の耳にどこからともなく、白鳥の湖が聞こえてきた。

「なんかトンでもない事になってますけど! 足がバラバラにバランバランとんでも無い動きしてるがですけど!」

 警部は独自の笑いをすると、「よぉし、そうかぁ!」と言うなり、帯屋町商店街を北側にハンドルを向けた。

 街並みが一気に風俗街になる。スナックやバーがひしめいている間に、ソープやマッサージといった電飾看板がチラリと目に入る。

「おう、俺も昔はよぉここらで遊んだわ! でもな、女房と結婚してから、無料ロハでヤらせてくれる、生きたダッチワイフが手に入ったんと同じようなものやきによ、そっちばっかりの中で出っしょら! がっがっが!」

 男女平等を主張する世間のフェミニストが聞くと、頭を拳銃で撃ち抜かれそうな男尊女卑だんそんじょひ発言に小池が慌てていると、

「強盗の奴ぁ、大橋通おおはしどおり右に曲がって、ひめろ市場方面に行ったがやようや。こっちの方が近道にならぁな!」

「ちょぉ、急カーブ!」

 言い終わらないうちに警部はハンドルを切った。ホースから漏れる糞尿。ジーパンのスソを何枚にも重ね、逃げ惑うアロハシャツの男にそれがかかる。

 ――またやりやがった!

 そんな心配をよそに警部は小池に愚痴を垂れた。

「糞の臭いばっかり吸いよるきに、ノウが悪ぅなってきたわぇ」

「はぁ……さいですか……」

 この場合の「ノウが悪い」とは、高知の田舎地方の方言で「気分が悪くなる」という意味である。決して「脳が悪い」という意味では無い。その様な意味では無いのだが、小池は隣の警部を見ていると、やはり一度、脳の精密検査を受けたほうが良いのではないかと感じる。おそらく理性という感情をつかさどる何かが欠落しているレントゲンが撮れるだろう。

 と、小池がノウも悪いし、脳も悪い様な事を考えているうちに、死体を積んだバキューム車は糞尿だらけになった帯屋町商店街を抜けた。目の前には――

「やばいですよ、警部! 今日は日曜です。日曜市の日ですやん!」

だぁっちょれい、ボケカスアホンダラぁ、目玉が飛び出るまでぶん殴っちゃろか!」

 帯屋町商店街を抜けると、三〇〇年以上の歴史を持つ土佐の日曜日名物、日曜市が目の前に登場する。ふと、小池が前を見ると、糞尿で半分汚れきった窓に左から右へ横切っていく霊柩車が見えた。

「おらぁ! 見つけたぞぉ!」

 ギアを四速、一気にアクセルを踏む音が聞こえると同時に、火を噴く様なエンジン音。相変わらずホースから漏れ出る糞尿の音が、休日の人々でいっぱいの歩行者天国を地獄絵図に変えていく。阿鼻叫喚の悲鳴とともに、この湿っている空気のせいか、糞尿も異様な臭気を出していく。

「ぎっちり固まんなだぁ! どけぇ! おらぁ! どかんかアホンダラ共!」

 人にはあてず、店の商品にだけ糞尿がぶちまけられているが、何かコツでもあるのだろうかと、小池は馬鹿な想像をした。

 今でも「おっとぉ」と言いながら……人に糞尿をぶちまけた。バンダナの上に帽子を被った男性に警部はあの笑いをしながら、ホースから出る糞尿をぶちまけたのだ。糞、否、「ふん」と鼻を鳴らす。

「おいしゃぁ! 一気に抜けたぞぃ。おぅ! おったわ」

 小池の目から、西へ逃げる霊柩車が確認された。犯人の車である。

「犯人の糞野郎め、見ちょれぇよぉ~~」

 この場合どっちが糞野郎なのだ、というツッコミは置いておき、警部はアクセルを踏み込んだ。まさか霊柩車で逃げた強盗犯もここまで追って来るとは思わなかったのか、油断をしていたらしい。よりにもよって、高知県警本部の前で信号を待っている霊柩車が見えた。

「小マン、歯ぁ、食いしばっちょれ」

「え?」

 という返答も聞こえなかったらしい。最後に小池が見たのは、満面の笑みを浮かべた甲ノ浦警部と、目の前に映った霊柩車であった。

 衝撃とともに、いっきにエアバックが膨れ上がったのが分かる。小池は浮遊した風船と座席に挟まれ、軽い脳震盪のうしんとうを起こしたようだったが、即座に目の前の現実に対応できる構えをとる。ゆかりちゃん!

 銃を持ち、糞まみれになった霊柩車に近づく。糞まみれになった強盗犯が出てきたところで、肘を強く掴み手首を持ち逆側にねじる。臭い……。

「あ痛だだ!」

 苦痛の悲鳴を上げ、強盗犯は銃を落とした。道に落ちた銃がカランと音を鳴ったのを確認し、足でそれを遠くに蹴る。今しかない。手錠を取り出すと、一気呵成に手首にかけた。そのまま足をかけ、寝技の要領で犯人を道路に組み伏せる。

「ひ、被疑者確保ぉっ!」

 

 * *


「俺の心を動かした歌手は、坂本冬実さかもとふゆみ欧陽菲菲オーヤン・フィーフィーとPerfume《パフューム》だけよえ……だからおんシも落ち込むなよ、小マン……」

「いや、やめてください……。それに意味がわかりません」

「ほやからのぉ、俺の音楽は車アクセル音やブレーキ音が聴きたいんやぉて、いつまでも心に沁みる演歌とテクノポップ。今までは仕方しゃぁないきに車の擦る音を聞いてきちょったがよ」

 目の前でしみじみとしながら、甲ノ浦文雄警部はマルボロを吹かしながら言った。

「だから意味が分かりません、あ、警部。少し待ってください。今、連絡が取れました」

 爆走ばクソうの果てになんとか、銀行犯を逮捕した。東平署に連絡を取る小池。彼に甲ノ浦警部が隣から囁いた。

「おぅ、小マン。所轄に連絡しちょけ。俺が走りよった時に、糞ぶち当てた奴らぁがおったやろ」

「え?」

「おらぁ、チンチン電車のところにおった、点眼器持った詰襟服のYシャツ女。ほいて帯屋町抜けたとこの風俗街におった、アロハのジーパン男。あとは、日曜市抜けたところにおった、バンダナ帽子男」

「け、警部……よく全員覚えておりますね……」

 ――あとでクリーニング代と慰謝料を渡さなければならない人たちだ。

 小池がそう思うのもつかの間、警部の口から発せられた言葉は、かなり意外なものであった。

「そいつら、なんかしらの事件に関わっちゅぅ連中よぇ。所轄に言うて、捕らえさしちょけ」

「ど、どういう事ですか!? 警部?」

「えぇきに、後それともう一つ……」

 次に警部が言った言葉は更に小池を驚かせた。

「あのバキューム車の作業員二人、今すぐ殺人及び死体損壊、遺棄容疑で逮捕せぇ!」


 * *


 所轄と高知県警からの連絡を待ち、事件は無事解決した。しかし何かしらの謎を払拭しきれない小池は、甲ノ浦警部に詰め寄る。

「しかし、警部、何故分かったがですか?」

「よっしゃ、わぁった! ほいたら最初から一つずついこか。まずは最初に俺が糞をぶっかけた点眼器持ったまま、下向いちょった女よぇ! 俺が気になったんわ、点眼器持ったまま目に薬も入れんとずーっと下向いちょったとこがよぇ。これは上を向けん理由がある。ここで気付いたんが襟元や。襟元が普段よりキツぅなっちょったら、上向けん。苦しいなるからのぉ! ほいたら、なんでキツぅなっちょっか? 自分の服やのぉて他人の服着ちょるからよぇ。つまりあの女は、今さっき自分が殺したマル害の服を着ちゅぅがよ。なんで着ちゅぅがや? 自分の服に血がついたからにきまっちょるがやろ! ほやから多少首元がキツぅてもしゃぁないからマル害の服着るしかなかったがや」

「あの……一ついいですか……」

「なんや」

「詰襟の部分から、その人物が殺人犯って……ちょっと無理ありません?」

「ボケカス! ほんなもんは直感や直感!」

 怒号を飛ばされ、小池は一瞬怯む。だが、ここからだ。


「二番目に俺が糞を直撃させた、アロハシャツにジーパンの奴おったやろが。あいつぁなんで何枚もスソを何枚も重ねて折っちょったと思う? 簡単な話やろが、ズボンのスソの長さがあって無かったがぁよ。スソがパンパンになっちょったからのぉ……と言うやきに、ズボンだけ自分より足の長い別人のもんと見た方がええやろがいなぁ。つまり自分のジーパンに何かしらの事件の痕跡が残ったがよ。血痕やその辺りやろのぉ。ほやきに、履き替えた。履き替えたのは誰のジーパンや? 簡単やろうが、マル害自身のズボンや。ほんなこってええか?」

「しかし、あまりにも妄想的というか……犯人が被害者のズボンを履いたという事は理解できちゅぅんですが、相手が生きている人間という可能性は?」

「生きちょる人間が、相手にとってズボンを交換する意味合いはあるんかえ? あの時、あの場に足長でスソが思いっきり上まで跳ね上がったボケがおったかぇ?」

「そ、そんなの……分からないじゃないですか。短いジーパンと言い張れば……」

「しるか、うちに帰って脱脂粉乳でも飲んじょれ! ボケカスアホンダラぁ! こっちかて麻薬犯が相手ぶっ殺して逃げよるなんだ思わんわぇ! ほんなもんは当てずっぽうよぇ!」

 ついに直感は当てずっぽうへと変化した。小池は頭が混乱してきた。

「三番目の帽子の男やな、よしよし。野球帽を前向きに着用しちょるがに、その下にバンダナを巻いて、しかもそれが見えちょったんぞ。普通に考えてみぃだ。こっから導き出される結論は二つ。一つは、後頭部の日焼け対策よ。そういうたがーちや、ツバ付きの帽子を前にかぶっちょるんに、後頭部を守らんと、バンダナだけ巻いちょるいうところが都合が悪いやろが。ほんなもんバンダナの意味が全然無い。つまりあのバンダナは頭の上に何かしらのブツを隠しちょる事になる。そこまでして隠したいのは何か? これが中学生のガキンチョならエロ本になるんに、ええ歳こいたおっさんが隠しちゅぅ。怪しい、ってなるがちや。殺し屋の拳銃チャカとは思わんかったけどなぁ」

「拳銃とは思っていなかった!?」

「ほんなもんは賭けじゃ賭け!」

 もはや、この男にとって、犯人当てはギャンブルと化していた。どこまで自分を信じているのだ、この警部は、という言葉を飲み込み、最後の最後、一番聞きたい部分を小池は切り出した。何故、警部はバキューム車の作業員二人が殺人犯だと思ったのか。

「おぅ! いよいよ最後か。最初に怪しい感じたんは、ホースの先っぽから突き出ちょった死体よぇ。俺らぁが追いかけよった霊柩車から降ってきた死体かと思たら、死に装束の足元しか見えへん。普通に考えてみぃだぁ。もし偶然にも霊柩車から落ちてきた死体が、バキューム車のホースの先っぽに突きささったとする。ほいたら、おかしい事があるやないか。死体の服装よぇ」

「服装とは?」

「あのびっしりついた糞がそれを意味しちょるがよ。小マン、おンしゃぁ、気付かんかったがか? あんだけどっさりついちょる糞のホースん中に白装束着た死体が突っ込まれてみぃだぁ。どうなると思うちょるんだ?」

「いや……どうなるって、汚れると……思います。というより、この事態を引き起こしていると思います」

 そう、全て目の前のこの警部のせいで。商店街は消防隊まで出動し、大騒ぎになっている。

「ちゃうがだぁ! ええか? 死体が外側から、ホースの中へ刺さるわけやきに、どうしても白い死に装束がスソがホースの外へ出てしまうわなぁ。それやんに、死体の足はホースん中から突き出てきた様な、丸裸の格好になっちゅうがよぇ。ほやから死体がホースに突き刺さったんやぉて、バキュームのタンクの中から、ホースを通って死体が現れたんやないかと睨んだんがよ。突き出ちゅぅ形やな」

「つまり霊柩車から落ちてきた死体やのぉて、始めからバキュームタンクの中に入っちょった死体の足だと、警部は推理したわけですか?」

「ほかにも、ホースから出ちょった足は既に茶色い糞が付いちょった。普通、死体が外から突っ込んだんやったら足は、まっさらなままやろが。ほれがどうな、棺桶ぶち破った新鮮な死体がやぞ、何でか、足の先っちょまで糞まみれで茶色ぉなっちょるがやきに。これはおかしい思うやろが」

 まさかあのカーチェイス中にそれだけの観察眼を発揮し、見ていたというのか。小池は呆れと感心の感情を同時に感じた。

「んまぁ、そうなると犯人共は自ずと決まってくるやろが。バキューム車に死体を入れる事が出来るんは……」

「あの汲み取り作業員二人……」

「ほうよぇ! しかも死体はバラバラにされちょった。犬神家のスケキヨが白鳥の湖踊りよったんは、そのせいよぇ! バラバラにされた肉をホースで吸い込んで糞中にもぐりこませる。糞や尿言うんわ、まさに昔使われちょった肥料と同んなじで、物を腐らせ溶かす事ができるがよぇ。これはトリビアやけんども、バキューム車の糞尿溜めちょるタンク部分の腐食が速よぉて、使用開始から数年で廃車になってしもうちょるんやぞ。分かりやすぅ言うちゃるなら、アルミやの鉄やのをも溶かす糞に、骨付きの生肉を入れてみぃ。どんどん腐って溶けていくわ、がっがっが!」

 小池は脳内であまり想像したく無い事を想像しつつ、胃のむかつきを覚えた。カレーと柑橘類につづき、フライドチキンも食べられない。

「その理屈で、死体遺棄をしようとしちょったんが、あの犯人共よぇ。動機なんざ知らんけんどものぉ! そこはそれ、直感よぇ、直感!」

「あ、あの霊柩車から落ちた死体は?」

「知るか、だぁ! そのへんの道端にでも落ちちょるやろ。今頃、所轄の連中が見つけちょるんちゃうか? がっがっがっがっが!」

 甲ノ浦文雄警部の気持ち悪い笑いが最後に響き渡った。かくしてこの日、警部が捕縛した被疑者は、

 殺人犯一人。

 麻薬密売人一人。

 暗殺者コードネーム雛鳥一人。

 銀行強盗犯一人。

 殺人、死体遺棄犯二人という、全てが別件の犯人六人を一日で逮捕するという成果を出した。

 ――服の襟元、ズボンのスソ、帽子とバンダナ、そして死に装束。奇しくも犯人たちは服装を手がかりにされ糞尿をかけられたのだ。あの疾走当時、チラリとしか見えなかった服装によって……。

 他人から進められた外国為替で損をした折笠は、同期である、その相手に復讐をしようとし、今回の殺人と死体遺棄を思いついたらしい。同じくして同じ相手に損をさせられた、汲み取り作業員仲間のもう一人に協力を求め、相手を糞尿で溶かすという完全犯罪を思いついたというのだ。小池は甲ノ浦警部の暴走の果てに、現れた結果を見、ため息をついた。

 なんとなくこの警部が県警で一番の検挙率を誇っているのも納得できた。そう、彼はその馬鹿馬鹿しいまでの直感と、運の尽きならぬ、ウンの付きで犯人を追い詰めていただけなのである。


<了>


【参考・引用文献】

○立山学『バキューム車奮闘戦記』(創林社)

○村野まさよし『バキュームカーはえらかった!―黄金機械化舞台の戦後史』(文藝春秋)

○谷内恵三『バキュームカー青春記』(碧天舎)


 * *


○中山七里『いつまでもショパン』(宝島社)

○海野十三『獏鸚(名探偵帆村荘六の事件簿)』(東京創元社)

○裸の銃を持つ男(監督・デビット・ザッカー/パラマウント・ジャパン)


 * *


【参考人物一人】

○父親(光田家)

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疾走当時の服装は 光田寿 @mitsuda

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