第三節
梍の改 (3711字)
今を遡ること四十余年にもなるだろうか、「
さる殿が西国の国守を拝命した折り、当時としても珍しいことだが、わざわざ自ら任地へと向かい、新たな産物を探し求めたのだった。いつの世でも税収を上げることはきびしく求められるけれど、このときにはお家の事情が差し迫っていたのだとも言われている。
目を見開き、耳をそばだてて、殿は探し求めた。権門荘園の産物と重ならぬような品で、何か目新しいものは手に入らないか。あるいは、すでに税の対象となっている食糧や工芸材料の他に、都でまだ知られていないような珍奇な産品は無いか。そうしたある日、憔悴しつつあった殿のもとへ、山際の郷長から知らせが入った。
「衣の虫を絶やす木の実がございます。都では使われませんか」
それは
土地の者たちはいにしえから伝わる知恵を当たり前のように利用してきたと言う。即ち、この実を水に浸し泡を立てて衣類を洗い、体も洗い、きれいさっぱりと暮らしてきたのだそうな。衣の汚れがよく落ちて、蚤などの虫もめっきり減るのだとか。
この郷に自生する百部梍は、どこにでもある梍と比べて特に防虫効果に優れている。それほど強く香るわけでもないのだが、どうやらその香りが虫を寄せ付けぬらしい。しかも、蚤虱は遠ざけるのに、この服を着て蚕を世話しても何ら問題は無いと言う。なんとも不思議千万な話である。
山郷の者が着ている衣は、ふつう
この百部梍を大量に持ち帰った某殿は、いろいろな機会を設けて、得難い洗浄剤として紹介宣伝に努め、またその効果も確かだったところから、新しい洗濯法は都の邸宅にすぐさま広まっていくのだった。
さて、この梍の改を前もって下支えしたのが、平晏の行基菩薩とも称えられる
平晏京はどこを掘っても水が出る土地柄だ。これは便利な反面、汚れた水を大量に生み出す原因ともなっていた。邸宅から排出される汚水は、小路や大路にあふれかえることが多く、人口が増えるにつれて、悪臭や芥虫、流行病を引き起こす惨状がそこかしこにあらわれた。
「溝をあふれさせるな」
お触れが内裏から幾度となく出されたものの、これに従う者はいなかった。誰にとってもどうしようもない、手の打ちようがない状態だったのである。
困民救済事業も広く行っていた道場上人は、この混乱を憂えていた。
そして、時の上皇は、某国の商団から発せられた言葉に愕然としていた。
「こちらの都は半分廃墟のようですな」
当然、口舌巧みな交易上手の者が面と向かって不躾な物言いをしたわけではない。通事が小耳に挟んだ会話を、後に上皇のお耳に入れたのだ。
都の惨状を、日常の景色として、いつの間にやら見慣れてしまっていたか。上皇はこれまでの歴史を振り返る。
唯一の外交関係を保っていた渤海国が滅亡してから、すでに数十年の時が流れている。都の中心を南北に貫く朱雀大路は、そもそも他国から訪れた外交使節に向けて日域の威容を見せつけるために機能していた。外交の晴れ舞台であるから、もちろん庶民の出入りなんぞ日ごろからできないし、この大路に面して門を構えることは大貴族にとってもかなわぬことだった。
そんな重要極まりない施設ではあったが、海外の長引く動乱とそれに伴う各国の相次ぐ滅亡により、あろうことか、外つ国という見せる相手そのものが全くいなくなり、いつしか朱雀大路は無用の舞台となり果てた。今、朱雀大路(だったところ)を見渡せば、あちらには牧場があり、こちらは畑にされて、あるいは馬場に使われたり、屋敷が広げられていたりと、大路をまっすぐ歩くどころか、南北を見通すことさえできぬありさまになっている。
なるほど、外部から訪れた者の目で見るならば、都の中心としてこれはあまりにも無秩序である。しかも、長年の戦乱から復興とげた某国の商人によってひそひそ語られたという経緯が、上皇を激しく揺さぶったのであった。
近すぎる者同士の婚姻を重ねに重ねた摂関家は、家系図が複雑すぎて容易に読み解けぬほどの状態を呈し、このころには子どもが育ちにくい血脈となっていた。権力や財を散逸させぬよう努力してきた権門貴族も、大なり小なりこのような傾向を帯びている。守旧と祈り、昨日と同じく今日をやりすごし、ため込んだ財を独り占めしてたどる、緩慢な滅びへの道とでも言えようか。
元来、ときの上皇は、摂関家の血を引かぬ帝としてさまざまな改革を成し遂げられた方なのだった。升の容量を日域内にて統一した際には、内裏お庭の砂利や小豆を自ら計りとられ、近臣たちを叱咤されたそうな。諸国の荘園を整理し、その持ち主を明らかにさせ、公の領地を飛躍的に増加させたのち、十年間に渡り税を軽くした。絹や布の品質を定め、物品の交換価値を定め、先帝の時代から「勝った勝った、また勝った」と誇大報告の相次いでいた北方遠征をとりやめ、薄葬令を発して巨大な陵墓の築造を禁じた、等々。
人というものは、危機に陥ればなんとかして抜け出そうと努力するけれど、帝もそうした強い気持ちを備えていた。若くして退位したのち、院庁を史上初めて創設したことも、その現れなのであった。
(数々の改革を成したつもりでいたが、都の芥問題にまでは気がつかなんだ)
こうして反省、発憤した上皇の後ろ盾もあり、道場上人はその短軀を駆り立てて、まずは芥小路や糞尿小路の撤去、竹炭を用いた火葬の普及に着手した。
「水を守るためには、この仕事が不可欠なのだ」
不思議がる都人に対して、上人は静かに語ったものである。
それまでの都では、廃屋に面した小路などが塵芥捨て場や公共厠として使われていた。当然、管理する者は無く、その惨状たるや筆舌に尽くしがたいものとなるのだった。
南都の時代には、水流の上に板を渡して厠にしていたお屋敷が多かったそうな。「かわや」という呼び名はこの仕組みに由来するらしい。
平晏京の時代となってからは都の仕組みも変わってしまい、貴族の住まう室内に「まり箱」という簡易便器はあっても、そもそも邸内にご不浄は存在しないものだった。まり箱の内容物も生ごみも、溝に流されたり小路に捨てられたりしていたから、あたりには悪臭渦巻き、芥虫集い、世の汚濁が屋敷町の小路へと押し寄せたかのような汚らしさが満ちあふれていたのである。特に芥虫は、磯場のフナムシかと見まごうばかりの群れをなし、一斉にザザッと、あるいはカサカサと、縦横無尽にその俊敏性を発揮しているのだった。
大きなお屋敷ではできるだけ香を焚き、衣類にも香を焚きしめることがいにしえからの常識とされてきたけれど、それはこうした事情によっている。
さて、道場上人は手始めに、小路や廃屋の捨て場や厠を廃止し、その上から藁と灰土をかけて腐熟させる手法をとった。ときおり積み返しをして、一年後に汚物は腐葉土として回収された。
また、この従来型厠・捨て場の廃止と同時に、上人は新たな乾式厠・校倉捨て場を設置していった。これらは、雨よけの屋根の下に、人が立って入れるような小屋ほどもある校倉木箱を設えた構造になっている。
都という場所は、常にどこかで建設が行われているため、そこからは鋸屑木屑が大量に生じている。これを、小路や屋敷から刈り取った草木の刻み屑と合わせて、校倉の底に敷き詰め積み重ね、そこへ汚物を染みこませる方式としたのである。用を足した後には、上から木屑やら竈の灰やらをかけておく。木屑と汚物では重さの比率が異なる道理ゆえに、まわりの木屑は自然と上へ移動し、汚物は下に沈んでいく。その間、水分は木屑や灰に吸収されるので、地面に染み出す汚水の発生は皆無、悪臭も感じられぬほどの爽やかぶりである。
この乾式厠は、逆から見れば木屑の捨て場とも言えるのだが、内容をよく腐熟させたものを回収して堆肥とする。腐熟させている間は、隣に同規模の厠を建てて使う。寒い季節であっても、腐熟中の木箱からは湯気が上がるほどの熱が生じ、このため芥虫の類も発生しないのだった。
この知恵は、道場上人が若き日に見聞きしたところの厩舎の堆肥作りが元になっている。都の大路小路に散らばる牛馬の落とし物は、昔から拾い集められて厩肥に加えることが常であった。もうもうと湯気を上げてできあがった堆肥と、うまく腐熟しないで臭くひんやりとした堆肥。この違いはなんだろう。あのときはそんなことを思ったのだと、上人は後に語っている。
こうして、すこぶる快適な公共厠が運営され始めると、同じ乾式のご不浄を屋敷内に造ろうとする殿も現れだして、そうなると、
「なんと、もう設置されたのか」
「おやおや、まだ使うていらっしゃらぬとは。ふふふ。快適ですぞ」
「ぬぬう」
……このように競争意識が発生し、普及には勢いがついた。今では、都のどのお屋敷にも乾式ご不浄が当たり前のように設えてある。
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