第二節
捕虫草と本草の物語 (4090字)
そんな様子をご覧になって、
「兌隈丸さんのお話になちゃたけれども、どぉうですか、虫のお話はいろいろありましたか」
「それはもう、大きい虫、虫を食べる話、螢が一斉に光るとか、初めて聞くようなことばかりです。そうそう、草が虫を誘い込んで溶かすお話も」
「あはー、孫行者物語の元になった壺草ね。虫をとろとろにしてしまう。あれはずいぶん南の方の草でしょう」
「はい。南溟の名産だそうで。それから、粘り着けて虫を捕る草もあるとか」
「ああ、捕虫草、茅膏菜ね。あの粘着する部分、露の玉のようにキラキラ美しいから、黄金糸や珍珠草とも呼ばれるね。あれは長江より南で採れるそうたから、暖かくて雨の多い日域にも、探せばあるのかもしれない。湿った荒れ地に生える草でしょ」
「あるでしょうか……いつか見てみたいですけれど。残念ながら、身近な話に聞いたことは今までありません」
ふむ。一瞬動きを止められた後、うなづくようにして沈博士はおっしゃる。
「日域は凝縮してる場所ね」
「凝縮、ですか?」
「そう、まるで見本のように、景色がいろいろ見られるの場所。同じ景色がどこまでも続いていないところ。平野はすぐ山になり、山は高山に連なる。だから、沙漠以外の景色ならぱ、どこかに必ず見られるのこと、多いね。捕虫草を養う土地も、どこかにあるに違いない。そう感じるね」
「あるといいですね。行ってみたいです。やはり暖かい土地にありがちでしょうか」
「あれは、そうね、南の方だけれど、海沿いのものではないてしょ? 山地の上の方にあるような、荒れた湿地に生えるの草たから」
なるほど、虫姫は合点がいってうかがってみる。
「するとこれは、薬に使うのですね?」
本草の専門家である老師が、捕虫草についてこれだけ詳しくご存じということは、きっと。
「いえ、どちらかと言えぱ毒草ね」
うなずきながら、博士は続ける。
「毒を以て毒を制する、の類ね。使い方次第。だぁから、印象に残てるのね。危ないの薬草は特別注意するように教えられるから。困たことに、いにしえの『本草拾遺』には無毒と書いてある。しかし、今の学者が調ぺたところ、安易に飲むと毒だと分かた。なにしろ、煮汁を手につけれぱ赤く腫れて大変よ」
「ううん、それでは、触ることもできませんか」
明らかに残念そうな顔をなさる虫姫。
「粘珠に触るのは平気でしょ。採薬するとき注意しろとは聞いてないネ。まあ、ちぎって汁をなすりつけると、かゆいかもしれない。薬は干したものを使うから、ナマモノについては私、よく分からないのところもある。干した捕虫草を触っても問題ないね。打撲とかいろんな症状に使えるらしい。しかし、もっと安全な使いやすい薬草はいくらでもあるからね。わざわざ捕虫草を選んで使うのことは、産地以外ではあまりしないものね」
納得のいかないお顔にて、虫姫は、
「本草書には無毒とあるのですか?」
「そう、本草にはね、こういうこと、時に、けっこう起こります。長い歴史の間に、草木の呼ぴ名が変わってしまたのかもしれない。いにしえの戦乱の時代に失われた知識あるかもしれない。あるいは、同じ草でも、地方によってその効き目を異にするかもしれない」
腕組みをして、沈博士は瞑目する。
「だぁから、本草書は代々書き直されていく。人参でも、いにしえの人参と、今もてはやされているの人参は、実のところ種類が違うの草たからね。これ」
背後にみっちり並ぶ小さな引き出しの群れ、つまり薬草箪笥から二つの箱をすらりと引き抜き、沈博士は虫姫の目の前に並べてみせる。ふわり、甘いような苦いような香りが漂ってくる。
「これが昔ながらの人参。性質が穏やかたから、使いやすいのところがある」
箱の中には、箸より太いぐらいの根が束ねられている。そのうちの一本を虫姫に渡しながら、博士はもうひとつの箱に手を添える。
「そして」
中には、ひげ根を豊富に生やした太めの根が収まっている。四、五本の枝分かれしたところが手足のようにも見えて、なるほど人型に見えなくもない。
「唐代に北方遠征したとき、こちらの、今よく使うヒゲもじゃ人参が紹介されただから。性味峻烈、死んじゃいそうな人もコロッと生き返るの薬草なので、もう医師たちおおよろこぴよ。でぇも、処方によては、強すぎるのこともある。よく効くを通り越して毒になてしまうこともあるネ。そこは難しい。でも貴族の人たちは高いの薬を喜ぶし、『アナタなぁぜ人参使わないか?』みたいに言って、飲みたがるのね。何にでも効くと思い込んている。教育が必要ね」
人参を手のひらに載せて、たくさんのひげ根をより分けるようにしながら、博士は思いを巡らせておられるようだ。と、ふいに、
「そう、面白いの例では、金石薬の
またも、つと立ち上がり、沈博士は棚に並んだ玻璃瓶を手に取られ、虫姫のお顔の前にかざした。柔らかな外光を受けて、玻璃瓶とその内の結晶が輝いている。
「手を出して、姫様」
「うわあ」
透明、半透明入り乱れ、紫に藍に輝き、水晶のような、あるいは天然の玻璃とでも言えようか。つまり結晶は、正確に同じような形態をそれぞれが備えていて、人の手が作り出した物のようにも見えるのだった。
「いにしえ使ていたの紫石英は、もぉとツンツンした、剣型だたらしいのことね。つまり形がまるで違うの問題。砕いて煎じるから、硬さも違うみたいだ伝わてる。ところが、今の紫石英でも、処方に入れたらぱ、きちんと効いてしまうね。双子生まれたりするからなぁ。……これは実話ね」
「双子ですか?」
聞き間違いかと思い、虫姫は亮次の方へ振り向く。通事は静かに肯いている。
「ああ、はい。不妊に使いますの定法ね、紫石英は。赤ちゃん産まれないと困るてしょ、貴族の方は。ははは。私は今まで何人も産ませたの男たから。また今年も生ませてしまた」
はっはっは。博士は面白そうに笑っていらっしゃる。
え。右手先を口元に当てて、虫姫様はけげんな表情をなさる。
あわてて亮次が補足する。
「いえ、沈老師は、今年も治療がうまくいったとおっしゃりたいわけですね」
かすかにお顔を染めて、虫姫は、
「石を飲むと、子宝が授かるなんて。まるで石猿のお話みたいです」
「はは、孫行者の物語に、実はいろいろ本草の知識、入っているのね。他にも、冶金のお話も取り入れてる。あの、孫行者が炉に入って焼かれて、出てきたらかえって体強くなる場面は、これはもう、鋼のお話でしょ?」
なるほど、言われてみれば。姫はうなずく。沈博士もうなずいて、
「唐土だけではないね。昔、同じようなものを色目人から聞いたことのある、不思議な王子の物語も、こういう種類のお話ね。それは、こんなだた」
大きく息をつき、博士は語り出す。
「西域より大食国より、もっともっと西の国で、強くて重い王子が生まれた。元気良すぎて体とても熱くなたから、母親はこの子の踵を持って、冥府の河に漬けた。ジューッと音がして、王子は、この上なく強く、不死身になた。でも」
小声になって身をこごめ、人差し指をあげて、
「母が持っていた踵にだけは、冥府の水が付かなかた。そのためここが、唯一の弱点となり、長じてここに槍を受けて、王子はみまかった。……どうね。熱いものが水でジューッ、冷やされて強靱になる。まさしく、鋼の作り方ネ」
赤熱した鉄を槌で打って折り重ねてまた打ち続け、鍛えに鍛えて、何回も繰り返し、それを水に入れ急冷すると、鋭く強靱な鋼ができる。
根を断ち切る鍬にせよ、作物を刈り取る鎌にせよ、あるいは太刀にせよ、「はがね」という呼び名の通り、切れ味の良い刃を得るためにはこの焼き入れ作業が必須であり、
鋼王子や孫行者が炉で赤熱されたり、ジュウジュウ冷やされる場面を思い浮かべながら、姫は質問する。
「……こういうお話は、どこかから伝わってくるのでしょうか? 西域から?」
「伝わてきたものもあるてしょ。あと、それぞれの土地でできたものもあるんじゃないか。結局ね、いにしえの人には、鋼作りが魔法のように見えたのね。今ではどぉこの里でもトンテン鍛冶屋さんやって鋼作れるけれど」
物の理をうまく生かして、それまでにない成果をあげた人が、「不思議の技じゃ、妖しの術じゃ」なんぞと語られた例を、虫姫は知っている。他ならぬ、父上の体験されたことだ。そういう点では、太古も今もあまり変わりないのだろうか。
またも考え込む虫姫に笑顔を向けて、沈博士は、
「いつの間にか鋼の話になちゃたか。捕虫草に戻るとね、たぶん、日域でも見つかるの気がするよ。荒れた湿地、誰も使えないような土地。そういうの所を探すと、おそらく、あるんじゃないか」
荒涼とした湿地帯、誰もいない無人の原野を、姫は想像する。
「この手で、捕虫草を育てて、じっくり観察できたら、どんなに面白いでしょうか」
「姫様は、虫がお好きなのでしょ? 捕虫草は虫の大敵ではないかな」
面白そうにおっしゃる博士へ、
「好きなのは確かです。でも、人に害なす虫と一緒に暮らしたいとは思えないのです。何と言いますか……蚊や蠅を研究することはできても、愛でることはできません。……
「ゴキ虫? 何ね、それ?」
聞き慣れぬ名称に、亮次へちらりと目を向けられる。
「あ、いえ、害虫の一種ですね」
語感からだいたいの想像はついたものの、亮次は当たり障りのない説明をする。
「ふぅん? 確かに蚊や蚤なんかはいない方が良いね。でぇも、昔に比ぺたら、日域の蚤は減ったと聞いてるね」
「そうですね、お年を召した方がおっしゃるには、いにしえの『枕草子』に記してあったような、蚤が着物の下で跳ね回って憎らしいだなんて様子は、もう今では笑い話にしか思えないそうです」
「……確かに、
沈博士はつぶやくようにおっしゃって、遙か遠くを見やるようなお顔になられた。
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