第十四章 唐人博士、大いに語る!

第一節

薬草博士たちの応酬 (3372字)


 日域において使われている漢字の音読みのひとつに漢音がある。これは、かつて類無き繁栄を誇った大唐国の首都・長安での標準発音を写しており、遣唐使が学んで持ち帰ったものだ。


 広大な領域を支配した大唐国は、その大きさが故に滅亡し、混乱期を経て、今では大宋国が、唐代の夢よ再びとばかりに勢いを増している。都とされた東京開封府とうけいかいほうふでは、かつての長安で話されていた発音とほぼ変わりない言葉が使われているのだそうな。


 従って、平晏京に居住する唐人あっちのひとにいにしえの唐詩を音読してもらうと、日域の人が漢音で読んだ発音にいくぶん近いものとなる。ただ、日域では音に高低をつけぬから、唐人に言わせると両者の発音は全く似ていないらしい。音の数も全く足りぬのだとか。


 例えば、孟浩然の「春暁」は、次のように聞こえる。


春眠不可暁 シュンミェン フッカ ギョウ

処処聞啼鳥 ショウショウ ヴン ディアイ ヂィアウ

夜来風雨声 ヤァライ フゥンィユ シィァン

花落知多少 ホァラッ ジー ダウシャオ


 これを日域の人が聞けば「おお、ずいぶん音読みに似ている!」と感じるし、片仮名の読める唐人にこれを見せれば「とこが似てるか? まだまだネ」となる。促音や濁音に聞こえる部分もあるにはあるけれど、彼我では音の捉え方が根本から違うらしい。


 そういうわけで、唐人は大和言葉の濁音と「っ」が苦手だ。日域にて活躍する唐人知識層とうっかり議論を始めようものなら、非常に真剣な表情を浮かべながら妙な発音を続けて、しかもその内容は理路整然としているため、聞いているうちに、なんとも気の毒なような、微妙な気分になってくる。


 このときも、そんな具合であった。すなわち、シン博士とハク老師が、文章の表現形式をめぐって言い争っていたのだが、


「とうするんてすかホントに」

「なーに言てるてすか!」

「あなたこそ、なに言てるてすか!」

「あなたこそ、わたしの真似しないて干し稲」

「なーにが真似てすか」

「困た人たね、またく」


 沈博士は書類を指でパシッと弾いて、

「こんな書き方したおかげて、たれが言てるか分からないのことになちゃたヨ、とうするね、これ?」

「言てる意味が不明のことヨ」


“ らちがあかないや。じゃあもう、都言葉でいくよ ”

 沈博士がいきなり流麗な開封府の発音を響かせて宣言する。すると、白老師がみごとな北方訛りを使い、

“ 嫌でござる。拙者は山東方言でいかせてもらうでござる ”

“……ったく、強情っぱりの田舎者め! 青竹を煮て食ってみた連中は、言うことが違うね ”


 沈博士は北方人の悪口を言い、腕組みをして口をへの字にする。しかし、やはり実利を取り、

「しょがない、共通言語ていきましょ」

 白老師は収まらず、

「またく、最初からそうしてれぱと」

 すかさず、沈博士はピシリと指摘する。

「[ぱ]と[ば]の区別もてきんのかね、アナタ」

「お互い様てしょ」


 片言の大和言葉ならともかく、姫は唐人会話を全く理解しないため、博士らの母国語でのやり取りについては通事が解説している。本日は念のため、同席をしてもらっているのだ。


 彼、淡田亮次あわたのすけつぐは日域の人だが、代々通事をつかさどる家に生まれ、まるで母国語のように唐人言葉を操る。先祖の何人かはあちらの方である。若くして着実に業務をこなし、大臣たちの評価も高い。


 彼は姫の耳元にいくぶん顔を寄せて、自らの口に扇を添えこまごまと説明する。博士たちの会話が枝葉末節に至ったと見て亮次は、


「姫様も唐言葉を学ばれてはいかがですか。漢文はお読みになるのですから、発音だけ習練されれば、すぐにも上達なさるでしょう。なあに、沈博士の口まねから始めればよいのです」


 こんな提案をうっかりしてしまい、亮次は瞬時に後悔する。まるで、

「うちの家業をやってみませんか」

 と言ったようなものだ。つまりこれは、求婚の意志ありと捉えられても仕方がない。だがお隣にいらっしゃるのは、おそれおおくも大納言家の姫君ではないか。


(私としたことが……。聡明な上にかわいらしい方を間近に見て、いささか口が滑った)


 表情は一切変えぬものの、内心は冷や汗を流し、亮次は黙り込む。我知らず白扇が少しずつ上がり、いまや顔の半分を隠している。


 そんな通事の狼狽などつゆ知らず、虫姫様は、やいのやいのと続いているカタコト応酬にずっと気をとられていたようだ。やはり、亮次の冒険的提案をあまり聞いておられなかったご様子にて、姫はごくまじめな表情のまま、いくぶん頬を染められ、お答えになる。


「わたし、ちょとそれはてきないのことてすよ」


「……あはい、ええと、そうですね、……いえ、その方向の口まねではありませんで」

 顔のほとんどを扇に隠し、うつむき加減の亮次は誰にも聞こえぬ声にてつぶやく。

「や、いいのです。うんうん。はぁ」


 姫は内装に見入っている。変な草の束がそこらじゅうに掛けてある。言うまでもなく、どれも重要な薬草なのだが、この無秩序、かつ一定の手入れを施されている様子は、なんと表現するべきだろうか。読めない名前が一つ一つ書かれた壺や、瓢箪を加工した容器、ごつごつした粉砕具、玻璃容器の中に輝く結晶、おかしな形の鍋などが、部屋いっぱいにそれなりの順番を保って整列している。草むらに似た、木の葉を煮詰めたようなにおいが漂っている。


(ここにお邪魔するのは三回目だったかな。最初は父上と、次は一人で、蚕についてうかがったっけ。ああいう道具についても詳しくお聞きしたいな)


 けれど唐人学者のたどたどしい言い争いはまだまだ続きそうで、これは出直した方がいいのだろうかと考えて、姫は二人から徐々に徐々に離れていく。そして、「あら? いつの間にかこんな所に来てしまったわ?」という体を装いたかったのだが、沈博士はじりじりと退いていくお姿に声を掛けた。


「姫様、ちょとお待ちくたさいね」

一方の白老師は、

「ご令嬢、またネ」

 と姫に挨拶し、沈博士に向かっては舌をベーッと出して、くるりと背を向け颯爽と帰って行った。まったく、唐土あちらの先生方は感情表現が豊かすぎる。


「さあ、邪魔者もいなくなた事たし、お話しましょか。まずは虫の話か」

「実は、つい先日、あの兌隈丸だくまる様にお会いしました」


 議論の続きのまま、ギュッと寄せられた形を保っていた沈博士の眉はパッと開かれて、

「ははは! あの崑崙の人に会いましたか」

「はい。非常にびっくりするようなお話の数々、うかがっていて目が回りました」

「そうでしょう。崑崙人は不思議たから」

「でも、兌隈丸さんは、沈博士から『あなたはお姫様をおぶって塀を跳び越えたりするんでしょ』って言われたとかで、不思議がっていました。そんなことできませんって」

「ははは、あれはまあ、冗談ネ。伝奇集にそういう崑崙人が登場しますから、それを、引き合いに出して、冗談を言てみたわけ」


 天竺人と唐人博士との大和言葉による会見を想像して、姫は少し困った表情になられる。ここで笑っては失礼だろう。

「まことに、日域の言葉がお上手なもので」

「なにね、私よりお上手と言いたいか?」

「いえ、そんな……」

「ふふ。まあネ、船に乗てショウパイするの人たちは、あなふうにいくつも言葉を操る。それが珍しくないのことね。唐土にもそういう人たちがわんさかいる。さきの白先生もそうてしょ? 唐土は、太古はいくつもの別の国だぁたから、字の読み方が違うのこと、当たり前ね」


 姫は、また目眩がしそうになって、

「もう、本当に、驚いてばかりです。様々な国や、その風習、いくつもある言語のお話をうかがって」

「そうね、天下は広いよお。唐土の果ての方とか、そうでなくても、まあ田舎の方とか行くと、字になてない言葉がいぱいあたりするネ」

「字になってない、とは……」

「音しかない言葉があるですから。つまり、あのとき、私は対話の相手に言たね。

『いまの言葉、どぉの字で書きますか?』

 相手は答えたね。

『これは、字になてない言葉ネ』

 私、言いました。

『はあ? そなの唐土の言葉ではないのことよ。アナタ教育が足りてないの問題』

 こんど、相手言いました。

『唐土は広い、天下は広いネ。私たちには私たちの教育あるのことだから』

 胸張て言うから、私、口あんぐりよ」


 たくさんの国がある日域の中では、遠く離れれば離れるほど、言葉がずいぶん違うことはよく知られている。ましてや、島国よりずっとずっと、広大な唐土や天竺の話となれば。またしても、姫は考え込んでしまう。

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