第三節

仙窓の旅 (3188字)

 かくして、〈山椒魚と蛇の乱〉は一匹の犠牲者も出さず終結を迎えた。王山椒と、気を利かせて完全な人の姿をとった王蛇が、虫姫の前へとしずしず進み出て申し上げる。

「ありがたき限り、とても言葉に尽くせぬほどの、まことに……」

 両王の目には涙があふれそうになっている。

「せめてもの気持ちでございます。虫姫様のご覧になりたい世界を、仙窓をくぐってお見せいたしましょう」

 王山椒が申し上げると、


 ひゅッ。


 妙な気配が耳をかすめたとたん、姫と両王は水中にいた。その目の前を、鞠ほどもある大きさの半透明、長い二本腕を突き出してヒョコヒョコ泳ぎ回る生き物が通り過ぎようとする。


「これは、ミジンコ?」

 先日、メガネコを使って池の水を観察したばかりである。目の前に踊る大ミジンコをひょいと捕まえて、姫は右から左から熱心に観察なさる。さすがに採集慣れしていらっしゃる。

「そうかぁ、前から見ると単眼なのね。なるほどぉ、こうなっている……ここは、ふぅん……」

 二本の腕をじたばたさせて逃げようとするミジンコ。


「喜んでいただき恐悦至極」

 両王とも満足そうだ。そしてミジンコ観察が一区切りついたころ、


 ひゅん。


 気がつくと、姫は群れ集う雲の高みから海を見下ろしていた。黒々と青い海の中に、白茶けた楔形が雄大に広がっている。

「これは唐土の泥なのでございます。まさしく、百年河清を待つの言葉通り」

 王蛇が解説する。

「すると、ここは」

「はい。呉の国を海の上より見ております」


どこまでも、どこまでも続く海面に接して、平らな、あまりにも平らな大地が、天と交わる線となるまで伸び続いている。その緑と褐色に彩られた地を削って、白茶けた大河が、大蛇のようなうねりを描いている。


(そうか、この陸地を舞台に、臥薪嘗胆とか、四面楚歌とか、いにしえの歴史絵巻が繰り広げられたのか。「虞や虞や、汝をいかんせん」や、「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」も、この上流で……)


 虫姫がこんな感慨にふけっていると、いつの間にか視界が下がって、延々と広がる瓦屋根、雲にも届かんばかりの九重仏塔が眼前に現れた。軒先の跳ね上がった様子がいかにも唐土らしい雰囲気を感じさせる。手前には、平晏京で見られるいずれの門よりも長大な、石造の都城門が厳然として横たわる。その、山に穿たれたかの如き巨大すぎる門を、蝟集した人々が、荷車の群れが出入りしている。細かい姿の整然と行進する様子は、まさに蟻を思わせる。見渡せば、大きな街はぐるりと石造りの城壁に囲まれた形になっているのだった。


(これが、唐土の城市か)

 日域には無い、広大な街が丸ごと城であるという、そんな様子を目の当たりにして、虫姫は息を忘れる。


 その大路小路には天秤棒を担いだ物売りや行き交う人々があふれている。視界が徐々に下がってくると、街路の様子が細々と見えだした。


 辻々には音曲を奏でたり、歌舞あるいは物を互いに投げ渡す軽業芸人もいる。

 幼児が腕を開いてよちよち歩む前には、しゃがんだ老婆が満面の笑みを浮かべて手を差し伸べている。

 膝を抱え雑踏の隅を占めるのは物乞いだろうか。

 突然、ひったくりが駆け出し、ひったくりを追う一団の通り過ぎるそばには祈りを捧げる僧侶と寄進する老人の姿もあり、それをかすめるように童たちが走り回って橋へ向かえば、橋上から舟人に手を振っている。気付いた舟人はにこやかに手を振り返している。


 清濁併せのむと言うのか、あるいは玉石混淆と申すべきか。人の間に現れるあらゆる相を映して、城市の姿は刻々と変化していく。

 広々した橋の上にもごく小さな出店が左右にぎっしり並んでいて、あれは果物なのかお菓子なのか、長い串に丸い塊をいくつも貫き通したものを売っていたり、干し肉や乾物、焼き物と、肉や魚介の様々な加工品も商っている。他には、有り難いお経の一片や、人形や、扱う品数は数え上げればきりがないほどだ。


(お団子にしても、いったい何種類あるんだろう? たれをかけたもの、焼き目を付けたもの、黍や粟かな、黄色い……あ、蜂の子の……蜜漬け?)


 お菓子も好きな一方で、さすがに目ざとく、姫様が虫系の食べ物に注目されたときだった。その目の端にて、唐子の絵そのままの姿をした童が一人、橋の欄干から乗り出すようにして、こなたを指さした。


「え?」


 そちらに顔を向けようとしたとき、またもや、


 ひゅひゅん。


 こんどは、目の痛くなるほどの日差しの中、見える限りどこまでも黄金色に照り映える、沙の丘が連なっていた。虫姫も両王も手足を伸ばし、それぞれ十の字、木の字になって沙漠の上空を飛ぶ。


 いつしか沙漠は海へと至り、真っ白な建物ばかり並ぶ港が目に入った。空を指すいくつもの尖塔は姫たちへ触れそうにそびえ立っている。その間に椀を伏せた形の屋根がぎっしり並んでいる。船着き場には牛車四台分ほどもあるような交易船が所狭しと出入りしているし、沖を眺めれば、あれは海上をぶっ飛ぼうとしているのか、あまたの帆船が海の彼方を目指し遠ざかっていくのだった。


(ぶっ飛ぶ船を近くで見てみたい)

 こう姫が思うや否や、


 ひゅひゅひゅん。


 瞬く間もなく、姫と二匹の王は船団の上に浮かんでいた。そのうちの一艘に近寄って見れば、綱を束ねている者があった。その、どことなく兌隈丸に似た顔立ちの船人が、ふと、こちらをいぶかしげにうかがっていたと思ったら、彼は急に指さして叫ぶではないか。


「あれ、飛んでる、天女が飛んでる! 手足突っ張って! 大蜥蜴も!」

 年配の舵持ちが笑いながら、

「なぁに言ってんだよオマエは。西方の博士じゃあるまいしよ。でもまあ、しかし、世界は広い! そんなものもたまには見えるのかもしれんな」


 虫姫は息を飲む。彼らの言葉が理解できるのも不思議だが、

(やっぱり、向こうから、こちらが見えている?)

 空中にて顎へ右手をやり、その肘を左手で抱える格好となり、眉を寄せて考え始めた虫姫の耳に、


「親方ぁ、ダクマダ船長は、無事ワクワクに着いたのかなぁ」

「大丈夫だ。あの船長のことだ、絶対渡り切ったに違いない。ほれ、ドゥブラよ、お前も聞いたろ、途中のブエトニャアとかいう国で大歓迎を受けたって噂を」


(え、ダグマダ、ドゥブラ)

 顎に手を当てた姿勢のまま、姫は空中で凝り固まる。


「ははは、このあたりにしておきましょう」

 快活に笑う王山椒が手を一閃すると、空中にはぽっかりと仙窓が口を開いていた。

 おずおず、虫姫は聞いてみる。

「もしかして、これ……夢ではない、の、かな?」

 チロリ。舌の先をほんの少しのぞかせて、王蛇が控えめに答える。

「さあ、どうでしょうか。ふふ」


 考え込もうとしたそのとき。浮いていた姫の体が、頭を下にして沈み始めた。そばに浮く両王も、同じように沈んでいるけれど、「あれえ?」「ややあ?」なんぞと言ってみせるその口調は、どうにも棒読みに聞こえる。下へ向かう勢いはぐんぐん、

 急降下、落ちる、

おちるー、あああ、

              うあっ


 ガク。床に衝撃を感じて、虫姫は目覚めた。


「ゆ、夢か、やっぱり。……なんだかもう、本当に落ちてきたみたい。はあぁ」

 額の汗を拭いながら、姫は寝直すことにした。非常に疲れる夢だったから。


◇ ◇ ◇


 さて、その後。虫姫邸には一つの謎が発生した。

 ときおり、いつの間にやら、奥の台盤所へ入る戸口あたりに新鮮な鮎が十匹も、笹の葉にのせられて置いてあるのだった。早朝でもなく晩でもない。朝の忙しいころ、奥の者がふと目を離したすきに忽然と置かれている。文も無く、誰と示す手がかりも無い。


 父上はカリカリに焼いた鮎が大好物なため、これをとても喜んでいらっしゃる。母上は、

「それにしても、どなたでしょうね。あなた、どこぞで心当たりは」

 不思議そうに姫様へお尋ねになる。このとき虫姫は、何か言いたそうなお顔をなさったのだけれど、

「山椒魚と友達になった夢は見ましたが」

 微妙に目線をそらしながら、こうおっしゃるのみであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る