第十三章 仙窓の山椒魚
第一節
深夜のまろうど (3273字)
山椒魚は怪しんだ。
(ほんたうに、このお屋敷でよいのだらうか)
人の目には映らず、手にも触れられぬ妖しの通路、
しばらく思案した後、またも仙窓をくぐり抜け、
(はて、もしや?)
すやすやとお休みになられている姫様のお顔は、よその姫君と比べて珍しくも素肌のままの輝きを保ち、すんなりした柳眉はおだやかな表情を縁取っている。そして、
(おお、観察日記。やはりこのお方か)
姫様は右手に「川虫観察日記」を持ったまま寝こけていらっしゃるのだった。
「ぐー」
熟睡気味のご様子である。
(あとは眠りの浅くなりし折に)
山椒魚は少しの間だけ、お待ち申し上げることにした。
それからほどなく、
「むにゃむにゃ、ううん、なに? ……山椒、魚」
ふと目の覚めた虫姫が気配を感じて、まぶたをシバシバしながら見回せば、烏帽子をかぶり狩衣を着込んだ、それは大きな山椒魚が、枕元に控えていた。
「えっえええ!」
さすがの虫姫もこの状況には驚かざるを得ない。されど、
「うー、変な夢」
半分起き上がりながら、片手は床につき、もう片手にて目をこすっていらっしゃる。
大山椒魚は、あまりにもつぶらすぎる瞳をキラリと光らせ、頭を下げながら、こう申し述べる。
「ご無礼いたします。名にし負う虫愛づる姫君よ、どうか我が一族の苦境をお救いくだされ」
「……なぜ山椒魚が話せるんだろう」
すると彼は即座に応えた。
「
猿や人にさえ知恵が宿っている。ましてや山椒魚ならなおさら知恵が宿って当然である。……という、よく分からない理屈を寝起きに聞かされて、姫は怪訝な顔となる。
その気持ちを察してか、山椒魚はひと言付け加える。
「人よりも猿よりも、我らは古き一族なれば」
「古き一族、とな。はて、人も猿も山椒魚も、昔から日月のもと、共に暮らしているのではありませんか?」
山椒魚は眉毛(とおぼしいあたり)にしわを寄せて、
「まあ、かようなお話はおいおい申し上げますけれども、えー、本日は」
「私に救ってほしいとのお話か」
「そのことにござります」
山椒魚は深々と頭を下げる。
「虫についてならいくらか研究はしているけれど、果たして、あなたたちの役に立てるだろうか」
虫姫は訝しむ。
「私どもは、もっぱら肌で感じたり、匂いをかぎ分けたりしながら暮らしております。こたびは水中にて尋常ならざる雰囲気を感じ取ってはいますものの、いったい何が起きているやら、もちろん目も見えますが、ありさまを一望して捉えることは、私どもにとってはまことに難しいのです。その点、人でいらして、しかも観察の術に長けていらっしゃる虫姫様ならばと、考え至った次第です」
山椒魚の、真摯な光を宿したつぶらすぎる目を見つめながら、姫は思う。
(なるほど、そんな理屈もあるかな)
納得できる屁理屈を聞かされると、それを易々と信じ込んでしまう。
これこそ、理屈っぽい者を待ち受ける
「まずはともあれ、直に見ていただきとうございます。どうぞこれへ」
山椒魚は姫を伴って仙窓をくぐる。柱や床がぐにゃりと渦を巻き、体は軽く浮いている。服装は夜着ではなく、いつのまにやら童水干に変わっていた。
「おお、これは……」
そして、姫と山椒魚のふんわり浮いた体が、歪んだ景色の中をススッと滑るように飛んでいく。
「ううん、いかにも夢幻的だけど、でもこれ、どんな仕組みになっているのやら」
「さすがに虫姫様、理屈がお好きでいらっしゃる。いえ、それでこそ、物の理を追究できるということでございましょう。この仕組みは、あれでございます、伝竹にてお声が近く聞こえるようなものです。蝶道はご存じでしょう?」
うなずきながら人差し指を上げて、虫姫は、
「そう、観察していて気づいたのだけれど、揚羽蝶は空中を、同じ経路に沿うようにして行き来しますね。まるで宙に、見えない道でも通っているかと思うくらい。それほどそっくりに飛んでいくものです」
「仙人たちは蝶道を使って飛んでおります」
「蝶ならともかく、仙人ではなんだか重そうね」
「自分が蝶か人か区別のつかなくなるような方々ですから。うんうん」
首(とおぼしきあたり)をこくこくさせながら、山椒魚は続ける。
「姫様は人の身としては珍しく、蝶道を見分けていらっしゃいます。こうした、普通の人の目には映らぬ形の隠れたつながりが、天下には張り巡らされているのです。どなたにも見える層、誰にも見えぬ層、見ようによっては見える層、気を用いて触れればそれと分かる層と、世界は様々な階層をその内に含んで成り立ち、私どもはそれらの一部を利用して、このように仙窓の」
「あはは、夢はなんでもできて便利だなぁ」
「……こちらでございます」
見れば、谷川が少し大きめの川へと合流する地点に来ていた。山椒魚も姫もその上空にフワフワ漂っている。暗いと言えば暗いし、見えると言えば見える。このいい加減さが、いかにも夢世界にふさわしく思える。
「ここはどこなのだろう」
まわりには鬱蒼たる森に覆われた山々が続いている。
「山を二つも越えれば丹波でございます」
「そんな遠くまで! ほんのひと飛びだったのに」
「仙窓は便利でございます」
「夢は便利ねぇ」
「……召しませぇ、かい餅いぃ」
いきなり、これまでの会話と無関係な言葉が発せられて、姫は怪訝なお顔になる。
「いっ、今なんと?」
「うう、お恥ずかしい。初めて人の言葉を覚えしとき、市場を流るる水辺にて聞き習いましたもので、今でもときおり商人言葉が口を突いて出てしまいます」
「ふうん?」
そんな世間話をしながら、またも仙窓をくぐり抜け、
「さて、着きました」
「真っ暗ね。これは……岩屋の内なのかな」
わずかな水音が響いている。
「出でよ、
山椒魚が短い人差し指(らしきもの)を空中に突き出すと、
ポワン。
大きめの西瓜ほどもあるだろうか、青白く光る球体が現れた。全体は丸いのだけれど、細いしっぽじみた光を一尺くらいも引いている。
「おぉう、またしても……」
興味津々の面持ちにて、姫様はお顔を近づけてご覧になる。
「人も、そのうち物の理を極めますれば、このような技などいかようにもできましょう。とは申せ、練り上げたる清浄無垢な気を必要とする技でございますゆえ、呼び出す者も呼び出されるものにも、自ずと縛りが現れます。王山椒ならではの技とも申せましょうか。さて、それよりも今は……えい」
螢火がスルスル宙を駆け上がり、上空にて円を描き出したと思ったら、光る円盤のようになった。それとともに、姫を取り巻く景色が明るく浮かび上がった。
そこは、乳白色の滑らかな岩に覆い尽くされた洞窟だった。広々と見渡せるその奥行きは、たぶん、南都にそびえる東大寺の大仏殿をもすっぽり納めてしまいそうである。いや、あの壮大な堂宇が、この中に三つも四つも収まるのではないだろうか。あちらの奥のほうは、暗がりにかすんで果てが知れぬ。山々の奥のそのまた奥底に、これほどの広大な空間が隠されていようとは。思わず口を開けたまま、姫は岩壁を見上げる。
てらりてらり輝く白いすべらかな岩肌は、話に聞いたことのある鍾乳石という物だろう。天井からはツララに似た幾本もの牙が下がり、その下には筍を思わせる岩がそれこそ無数に、伸び上がっては天井を差し示している。岩床にはところどころ、青く澄んだ水をたたえた池がいくつも重なり、上から下へ、それらは棚田のような段を形成している。浅くとも青く見えるのは、湧水の清浄さゆえなのか。底まで透き通る水の面は、螢火円盤の光をきらきら反射する。散りばめられた明るさが、仙境もかくやと思わせる柔らかい景色を彩る。
「なんと、これは」
姫様が感嘆の声をあげたそのとき。
がば。
大山椒魚はいきなり平伏した。
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