第二節

師らのあやまち (3052字)

「なんや、うるさいな。寝たとこなのに」


 ぶつぶつ言いながら戸板を開けた陰陽先生おんみょうせんせいは、引き戸のすぐ横にうつむいて座り込む若い男の姿を認めて、


「まったく、またおこぼれでもくらって酔いつぶれたか。ああ? コラ」

 腹立ち紛れに肩を小突いたところ、


 ぐにゃり。


 樟六は倒れ込んで、ぴくとも動かない。


「はぁあ?」

 あまりのことに眠気が吹き飛び、先生は男の息を確認する。


「これは、死んどる……」

 呼吸をしていない。なんということだ。誰かが死体を置いていったのか。

 ま、まさか、今、くらわした小突きが、致命傷に。いやいや。いや、ち、違う。そうではない。


「えらいこっちゃ、何とか……せんと」

 思わず声に出してしまった先生は首をすくめ、動きを止める。


(たのんますとか、さっき聞こえたな。陰陽の上手だからと言うてもな、死者を蘇らせるなんぞ、そうそう簡単にできるものではないわ。いや、実のところ、そんな例には、今まで、一度たりとも出くわさんぞ。いにしえの達人ならいざ知らず、今の世に、蘇生を行える術者がいるか?)


 ……このようなことを一瞬のうちに考えて、先生は樟六を担ぎあげる。重い。ぐんにゃりした体を背負うのは、こんなに難儀なことなのか。はあはあ息をつき、きょろきょろ辺りをうかがいながら、人の絶えた小路をそっと、ひたひた歩く。月はまだ出ていない。闇と、じっとりした重さが恐ろしい。まだか、まだか、あの屋敷は。


 しばらくして、ちかごろ評判高い、播磨からやって来た法師陰陽師ほうしおんみょうじの住まいへとたどりついた。腰が抜けそうな気分だったけれど、陰陽先生はそんな自分を叱咤して、どうにかこうにか樟六を裏戸の前に座らせた。


「すまん、すまんな。もうわしの手には負えん」

 先生は震える手を合わせて、小路の闇に消えていく。


◇ ◇ ◇


 はて、気のせいか、物音がした。屋敷の裏手にて、たたんだ扇を口元に寄せ、夜空を見上げ星の瞬きを観察していた法師陰陽師は、人のあたふた走り去るような足音が気になって、小さな裏戸を開けてみた。すると、


 ぐにゃりん。


 柔らかくてぐったりしたものが足もとに倒れかかった。

「な、なんやッ」

 驚いた拍子に思わず足蹴にしてしまったが、それは倒れたまま動かない。闇をすかしてみれば、これは人か。人なのか。しかも、身動きしない。それどころか息が。呼吸が。蹴ったから死んでしまったのか? まさか。


「いったい……何かの謀略なのか?」


 仕事柄、いろいろな面倒ごとの裏事情を知っている法師陰陽師は、自らになんらかの罪をなすりつけようとする闇の勢力を、一瞬にして脳裏に描くのだった。だが、首を小刻みに振りながら、


(……いやいや、悪い癖じゃ。いつも裏を読みすぎる。目下の問題は、ご遺体がここにあってはならぬという一点じゃ)


 さすがに仏道と陰陽道を合わせた修行の成果と言えようか。すぐさま、すっくと心を立て直し、誰にも知られぬよう、法師陰陽師は自ら樟六を背負い、小路の闇をひたひた急ぐ。そして、廃屋の並ぶ一角にある、質素な戸口の前に樟六を座らせると、


(よし、ここならよかろう。成仏してくだされ。南無南無)


 そそくさと立ち去るのであった。


◇ ◇ ◇


 む。


 清浄に整えた室内にて、夜空に向けて観想をこらしていた真言師は、戸外の異変に気づいた。さすがに、身口意しんくいの三業を極めた大験者だいげんざと呼ばれるだけのことはある。


 何者かが密かに接近してきたかと思えば、すぐに逃げ去っていくおかしな気配を感じ取って、真言師は念のため、戸口を改めた。戸をそろそろ開ける手に、奇妙な重い手応えがある。


 ぐったり。


 外へ出るために押しのければ、それはやはり人だった。そして、やはり、息をしていない。


 ため息が漏れる。口には出さず、真言師は思うのだった。 


(蘇生させてくれと言いたいのだろうが。どだいできぬ相談だ。どんな陀羅尼だらにを唱えようとも、死者を立ち上がらせるなんてことは……)


 葛城・大峰はもとより、紀伊の熊野、駿河の富士、伯耆の大山までも、毎年のように回峰し、修法を積み、日々の練行を怠ったことはない。諸国の霊験地にて山伏修行者たちと術比べをしても、この真言師の法力に挑みうる者は見つからぬ。そんな彼をしてさえ、亡者の生命を冥府から呼び戻す再生の技は、全くもって不可能事なのであった。


(唐土の道士は死体を動かす術を持つそうだが、薬品と鍼を使って肉を伸縮させるだけなら、それはできないこともなかろうよ。新鮮なうちならばな。あるいは、せめて魂魄だけでも呼び寄せるとかなら、方法はいくつもあろう。


 ……だがなぁ、衆生の求める蘇生とは、元のように生き返らせてくれろ、元に戻してくれろという、要するに、悲鳴だからなぁ)


 首を左右にゆっくり振りながら、真言師は思いを巡らす。


(いにしえの、都と伊豆を一晩で往復したという、かの役行者様ならおできになったのだろうか。もっと近くは、浄蔵上人ならば、もしや。


 ……いやいや、歴代のうち、蘇りなされた帝はいらっしゃるか? どなたもみな陵の下でお眠りじゃないか。


 はるか唐土の秦始皇帝は不老長生を求めて使いを蓬莱島にまで送ったけれど、その願いは叶わなかった。唐の歴代皇帝はどうだ。神仙と化するために金石薬を好んで飲み、かえってその寿命を縮めてしまったではないか)


 真言師の思いはどこまでもどこまでも、とめどなく広がっていくのだった。


◇ ◇ ◇


 ごとり。


 重い物音がした。気配を消そうとする意図が感じられる、そんな物音だった。

天台学生てんだいがくしょうは仏弟子の阿難あなん羅睺羅らごらにも似た端正な面をあげ、歩を進める。


 その弁舌は切れ味鋭く、口調はよどみなく、譬えは非常に分かりやすく、所作は上品でありしとやか。

 因明・内明に通じており、仏典以外の教典もよく知る博識の持ち主である。俱舎論や唯識論については舌の先でいかようにも論じ分け、止観や玄義は身のうち深く染み渡っている。

 ひとたび法を論じれば、蝶のように美しい声が女房どもを、姫様方、奥方たちをも虜にし、人々の閉ざした目を開かせる。


 このように有能きわまりない天台学生だが、こたびは困惑の度を隠しきれない。それというのも、門前に男が捨てられていたからだ。


 日中のこと、天台学生はさるお屋敷に呼ばれ、あれこれのご相談に答えていた。夜も遅くなってこうして帰ってくると、もう少しで帰り着くというそのとき、門のあたりでなにやらおかしな物音がする。近づいてみれば、男が座り込んでいる。それは見るからに魂魄が去ってしまっているような、ぐんにゃりした様子。声をかけても身動きひとつしない。確かめれば、やはり息をしておらぬ。そして、腹の上には小さな紙が添えられていた。手に取って供人の持つ松明たいまつを頼りに読んでみる。書き付けには稚拙な文字にて、次の如くあった。


「蘇生シテクダサレ」


 一瞬、天を仰ぐ。低く昇りかけた月が、赤く巨大に見える。


(ああ、衆生よ……)


 天台学生はその整った面を徐々にうつむける。


(私は理論家なのだよ。そして本来、仏法とは、蘇生法を教えるものではないのだ。分かってくれ、衆生よ)


 倒れ込んでいる男は、ぴくとも動かない。どうするんだ。さしもの知恵者も途方に暮れる他はない。


(……あ。あれ?

 いやこれ、よく見ると、わざと下手っぴーに書きこんでいないか?

 左手で?

 もしや同業者の妨害……?

 「やれるもんならやってみろや」ぐらいのあれか?

 うわあ……お前らそこまでするんか?

 ……いやいや、考えすぎだ。邪推はいかんな。しかしこれは。ううん……いっそ、役所にでも届けよう)


 そんな思いが心をよぎったとき。


「御坊、御坊」

 門の影から声をかける者があった。

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