第十二章 青年長官、晴時の裁き
第一節
若者の失敗 (2891字)
六十年ほど前にもなろうか、律令制度の混乱により物資の行き渡りにくくなった時期には、それこそ飢えた貧民が小路に行き倒れ骸を重ねるほどの悲惨もあり、疫病が広まり、強盗団は白昼から跋扈し、都は目を覆うばかりのありさまをさらけ出していたのだった。その後、権門荘園が整理されることによって、農産物の流通は徐々に改善を遂げ、この四十年ほどは気候が暖かくなったことも手伝い、今では豊かな地方から様々な産品が都にもたらされている。
そして、いにしえとは異なるものに、流通請負業者の存在がある。馬や荷車を多数動員し、大きな船に米やら名産やらを満載させ、西へ東へと送り届け、莫大な富を稼ぎ出す者どもだ。
百年前にはもっぱら海賊稼業にいそしんでいた輩も多かったそうだが、物資が潤沢に出回って異国からも買い手がつくとなれば、まっとうな運送業に専念する方が危険も少なく継続性もあり、利益がずっと多くなることは論をまたない。
こうして、例えば、豊かな山国から税として集められた産品は、都にてさまざまな職人の手を経ることで、錦や薄絹、金銀銅細工、螺鈿きらめく家具へと姿を変える。生糸や木材は幾多の工房を通り抜け、職人らの糧となり、その家族たちを養っているのである。
さて、かの弘法大師
木の道の工匠が大勢の職人を使って墨縄を打ったり
◇ ◇ ◇
それは、日が傾きかかったものの、まだ皆がそれぞれの作業に勤しんでいるころのこと。一人の若者があたりをチラチラ見回してそろりそろり、
「もすもーす!」
大声を出したものだから、やられた
こんこんこんこん。しゃっしゃっしゃっ。
木を刻み、磨きをかける手わざの音だけが響いている。
ところが、こうしてまた皆が木材の下ごしらえに没頭しだしたころ。こんどは、先ほどの被害者たる柾行がひそかに竹筒を手に取り、樟六の背後から耳元へ向けて、きわめて優しいささやきを送った。
「もすもす? うふふ?」
肩をすくめ飛び跳ねるように驚く樟六と、それをみてゲラゲラ笑う柾行。
「なにをやっとるんじゃゴラァ!」
匠はげんこつを両者の頭頂にたたき落とす。
「今日の片付けは、うぬら二人でやれ! 早く帰ってくるなよ」
若い者は皆、匠の屋敷に住み込んでいるから、この命令は晩飯抜きじゃと言われたに等しい。
「まったく、若いもんのできが、近ごろは悪うなって」
小言の収まらぬ匠の前には、並んで座った二人がしおらしく下を向いて黙っているけれど、よく見れば、お前が悪いと言いたげに、互いに肘で小さくつつき合っている。
年長の兄弟子は帰り際にこっそり声を掛けるのだった。
「お前もなぁ、もう木っ端拾いの童じゃないんだから。な」
うなずく樟六へ、後で柾行と分けて食うように言いながら、兄弟子は小袋を渡してくれた。中には剥いた胡桃を香ばしく煎ったものが入っている。腹の減る仕事ゆえ、兄弟子たちはこのような用意を必ずしているものだ。
◇ ◇ ◇
とっぷりと暮れなずむころ、仕事場の後片付けもようやく終わりそうになった。
迷子の迷子の、とびまるやぁい。
迷子の迷子の……。
行方知れずの子どもを捜す親の声が、遠くに聞こえる。梵鐘の唸るような響きが渡っていく。かなたでひぐらしが鳴けば、それと競うつもりなのか、こなたでもひぐらしが鳴き始める。
二人はずっと言葉も無く作業を続けていたのだが、ふと、
「今日は悪かったな」
照れ笑いのような顔をして、樟六が胡桃の袋を差し出した。ただ、そのあと、東寺の方を指さしてから、ニッと笑って、
「
間を持たせようと、頓智を効かせて言ったつもりの樟六であったけれど、言われた方の柾行は、そのときまだ虫の居所が悪かったらしく、
「大師様を呼び捨てするんか、ぁあ?」
応えるなり、樟六の頭をポスンと叩いた。
これは、ちかごろ都の若い者の間で流行している仕草であり、冗談を言った者の胸を手背で叩いたり、後頭部をあくまでも軽く小突くまねをしたりする。けれどこのときは、いささか力が入ってしまい、また折悪しく、焼き胡桃を差し出すその足下には束ねた材が出っ張っていた。
「おっ」
樟六はそれにつま先をとられ倒れ込み、
「あふ」
こう言ったきり動かなくなった。
「ああ、すまんな……え、おい」
またふざけているのか。柾行はそう思いたかった。それというのも、この樟六はふだんからなかなかのイタズラ者だったからだ。柾行は、寝そべったままの背中に手を当て、
「おーい。もすもす」
このように、今や「もすもす」は流行語の一つとなっている。そんな言葉を使って、さきほどから苦笑を保っている柾行だが、その顔色は、青ざめかけている。つつっ。額の髪際から変な汗が流れてきた。
「どないした、おいッ」
抱え起こして揺さぶっても、樟六は返事をしない。ぴくりとも動かない。それどころか、起こしたときに腹にかかっていた腕が。
ぱたり。
力無く地面へしなだれ落ちる。
「ひいぃ、こ、これは、魂魄が」
迷子の迷子の、とめまるやあぁい。
迷子の迷子の……やぁい。
子探しの声が近づいてくる。
柾行はあわてて樟六を担ぎ上げ、あたふたあちこちへ目を向けると、人通りの絶えた暗い小路をばたばたと走りだした。
(あの、評判の、先生なら)
かかえた腕の中でぐったりした樟六が、その首が腕が足が、くたんくたん、まるで物のように揺れている。力の抜けきった人体はこんなにも重いものか。
「うぁあ、俺は、なっ、なんちゅうことを」
泣きながら柾行は薄暗い小路を走り、誰にも見られず、ようやっと
「すまんな、すまん、あとは先生が、何とかしてくれるからな、な、な」
まるで水を含んだ荷物であるかのような重たさと、底を見通せぬ淵にも似た闇夜の恐ろしさに、もはや柾行の理性は吹き飛ぶ寸前だった。脱力しきった樟六を座る形にもたれさせ、戸板を乱暴に叩いて、
「陰陽の先生! 先生ィ、たのんます!」
柾行は戸板にすがりつく姿勢のまま、くしゃくしゃに歪めた顔を樟六に向けて、
「すまん、すまん……すまんッ」
涙と鼻水を振りまきながら、柾行は脱兎の如く、都の小路の闇深くへと消えていった。
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