第四節

謎の円環 (3089字)


 あれは天竺の西の方、グプハーラという国の人たちが……ウム。日域の方には分かりづらいデすかね。昔むかーし、はるか西の方で、唐の大軍と戦った国があって、その国とさらに戦った国でスけど、この方々は天竺全域・崑崙・南溟にまでやっテきて商売をするのです。季節風をとらえて、たくさんの船が行き来しまス。私たちの商売先にも、そういう方々を何人も見かけることがありマした。


 まだ私が姫様より幼いくらいだったころですけれど、ある日のこと、私は親に言われてほど近い市へと行キ、日用品の買い付けをしていました。すると背後で、言い争いが始まりマした。市に言い争いは付きものですが、そのときはグプハーラの人たち同士で騒いでいるのデした。突然、一人が棒で地面に輪を描きました。円環にて、もう一人の足元を囲み、何事かを宣言したのデす。


 すると、囲まれた方の男は、立ち尽くし、黙り込み、動けなくなりマした。顔にはいくつもの汗玉が浮かび、目は瞬きを忘れ、でも息はとても荒いのです。まわりの同国人たちは、ジっと見つめるばかり。しばらくして、囲まれた男がつぶヤき、周囲からは歓声があがります。そして男は、人々にどこかへと連れて行かれマした。一部始終を間近に見ていた私は、びっくりして聞きました。


〈なんの騒ぎです?〉


 彼らとよく商売しテいる老人が教えてくれました。

〈負債のある男がつかまったんダよ。あちこち逃げ回っていたそうだ。でも見つかって、描いた円に閉じ込められルと、もう逃げられないそうだ〉


〈不思議な輪っかですネ。西方人は魔術でも使ったのかな?〉


〈ははは、もし、自分のまわりに描かれた円から逃れるならバ、もうそいつは商人としてやっテいけなくなるんだよ〉


 どこどこの某という男は、約束の円環を踏みにジって負債から逃げた。この男のもちかける取引は一切信用できなイ。こういう知らせが、天竺でも南溟でも、グプハーラ人のいる場所にはどこにデも流れていくのです。


 あの立ちすくんでいたとき、男は、何も商いデきなくなっている自分の姿を想像して、恐怖にとらわれテいたのです。いま逃げれバ、これから先、将来ずっと、船を仕立てることさえできない、と。


◇ ◇ ◇


 兌隈丸は麦湯を含み、一息つく。

「どうデしょう。このとき、地面に描かれた円には、魔術的な力が宿っていたのデしょうか。あの人々の約束やしきたりそのものが、不思議な力の源なんだナ……私は後になって、そんなふうに感じマした」

 姫も麦湯に口を付ける。

「約束。鬼に握りしめられたように動けなくなる、約束の力。ううん、これは……」


「もう一つ、思イ出したことがあります。品物の力です」

 またも、姫は意外そうなお顔になる。

「物が、なにかの力を持つのですか」

「はい。持つことがありマす」

「それは、やっぱり、器物怪とか、呪いではなくて?」

 百鬼夜行の噂を聞かされたときのことを思い出して、兌隈丸は、

「ははは、そういう力ではなイです。じつはもっと身近なことデす。世の中には、持ち主の威信を示す財がアります。それは、例えバ、ごく普通の氷でもよいのです」

「氷? 寒くて水が凍る、あの氷」

「はい。ただの氷が、あるいは、一杯の冷えた水が、あり得ない場所、あり得ない時期にお披露目されるナらば、それが実際の役に立つかドうかはともかく、とっても贅沢な品だと捉えられマす。その、とんでもない贅沢を成し遂げる人物は、まわりの人々から畏敬の念をもって見上げられるのデす。ここに、単なる凍った水が、常識外れの力を持った物とシて、大きな力を持つのです。さきほど姫がおっしゃったホタルの樽のお話」

「唐土の帝が数樽の螢を宮殿に放った」

「はい。そうやって、自らの権力を示したのに似ていマす。炎天下あえぎながら訪れた知人へ、涼しい顔にて氷菓子を勧める殿は、大商人は、サテ、どれだけのやり手と噂されるでしょうか。大きな効果をもたらすはずデす。それはもう、まるで魔法のように」

 約束の力、物が示す力、ううん……。何度目だろうか、姫は考え込む。


 そんな姫に兌隈丸はこそっと聞く。

「……えー、ところで、このグプハーラ国のチャンドラボ王子が、日域に亡命しテいるとの噂があります。南溟では広くささやかれテいる噂です。あるいは、北の果ての大きな女王島、姀區姀區ワクワクに向かったとか。この話、知ってイマすか?」

「うーん、ワクワクとは、倭国なのかな? そして、チャンドラ様? 聞いたことがありません。グプハーラという国名も初めて知ったくらいです」


 例えば、かの男、在原業平の叔父に当たる髙岳親王が、入唐の後さらに南行し、とうとう天竺に程近い羅越国まで到達したとか、そういう伝説なら、姫も耳にしたことがある。伝説としてだ。でも、天竺あたりの王子が、平晏京に亡命するなんて。地の果てたる、仏典の中の世界である「天竺」と、現実的な「亡命」という二語があまりにも離れ過ぎていて、姫には実感がもてない。ふつう、隣国に亡命したりするんじゃないだろうか。


 それにしても、と姫は思う。異国にしろ日域にしろ、なにゆえ王子という者は漂流したがるのかな。ひょっとして、王座が一つしかないから、弟君たちは流されてしまうのかしら。


 え……すると、それでは。


「まさか、兌隈丸様、あなたも、実は、どこかの国の王子様なのですか?」

「そうかもシレませんよ? ふふ、まあ、とりアエず、私はおじさまですが。ハッハッハ」

 笑いながら合掌する兌隈丸。

「………………」

「あれ? 冗談失敗シたカな? つまり王子様とオジさまの発音的ナ類似性が面白」

「分かりました、分かりましたから!」

「ハッハッハ、まあ、冗談はともかくとして、振り返っテみるならば、私の人生は、漂流三昧のありさまデございました」

 屈託もなく笑っているのは、万里の波を越えてきた漂流者その人だ。


(海の果てを目指して旅をするって、いったいどんな気持ちなんだろう)

 そう思って、姫はまず食糧が気にかかった。

「例えば、日域の旅では、蒸した米を干して作る保存食、乾飯かれいいを携帯します。これは軽くて日持ちして、食べればおなかがふくれて便利なのです」

「おお、まさしく」

 兌隈丸はうれしそうに応じる。

「同じようなモのを、私たちも航海中に食しました。蒸したお米を干して、保存できるけれど、やはりちょっと匂いがありますね。でモ、カリーというおいしいおかずを添えて、ほおばれば、それはもう」

 うっとり。兌隈丸の目は過去の景色を眺めているかのようだ。

「……ああ、そうそう、今日は唐菓子をご用意しました。麦粉を油で揚げたお菓子です。お口に合いますかどうか」

 冷ました麦湯にはさきほどから餅菓子が供してあり、姫はその横に唐菓子を広げる。趣味の良い渋紙細工の袋が、開けばそのまま器代わりになる趣向の品だ。

「ああ、おいしそうデすね、私の国にもこういうお菓子が。どれ、一ついただきマしょうか」

 だが、唐菓子をつまんで麦湯に浸したとき、兌隈丸の動きがギクシャクとしだした。

「ア……」

 目を大きく見開いて、それでも菓子を口に運ぶ動きは、ふるふるとしながらも続いている。口に含み、瞼を閉じ、香りを味わっているようだ。それだけではなく、兌隈丸の中で、何かが激しく渦巻いているかのような気配が、姫には感じられた。


「ええ、私は、たしかに、このようにして揚げ菓子ヲ、食べたことが、かつてあったのデす」

 兌隈丸はどこか遠くを見るような眼差しをする。そして続ける。

「虫とは離れてしまいまスが、なぜ私が、この大海の果てに横たわる日域にまデたどりつけたのか、いささかお話ししてモよろしいでしょうか」

 姫は兌隈丸の落ち着いた目を見つめて、静かにうなづいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る