第六章 兌隈丸 第一の漂流 龍の涎と大いなる鳥

第一節

絶海の交易者 (3672字)

 ある晴れた朝(と言ってもこの時期はめったに雨が降らないけれど)、船荷の点検を済ませて港から一度帰宅したダグマダ・クリシュハライット・ヌォッタュトゥーアは、両親と弟妹に出発のあいさつをし、航海母神の祠に参拝していつも通り旅の無事を祈り、その足で再び船着き場へと向かった。


 これから乗り込む船は、西方世界で繁栄著しいイスラァミィの諸都市にてたいそう好まれる品物を、それこそ沈むほどに積み込み縛り上げ、今や西に向かって出帆するところである。


 その内訳は、まず、港の背後に広がる山脈からの賜物であり、西方諸国では同重量の黄金とも交換される香辛料の帝王、世にも名高き大粒胡椒を筆頭に、鬱金ウコンなど近隣の特産物、唐土からもたらされた得難い薄手の絹製品や、天竺の上質な木綿布、南溟諸島の各地から厳選した肉豆蔲ニクズク、丁子といった香辛料、白檀、伽羅などの香木、チークや硬くて漆黒の艶を誇る驚異の木材など。かの大都市、平安の都との異名を持つバグダァドゥへ持ち込めたなら、それこそ大邸宅をいくつも建てられるような高値を呼ぶこと間違いなしの品を揃えている。


 ダグマダの生まれ故郷、この交易都市マクハルラは、天竺の南端に近く潮の流れ風の向きも申し分なく、地形も天然の良港とあって、太古から通商の要地としてその名を知られているのだった。


 船着き場に隣接して問屋街のある光景はどこの港街でもおなじみだけれど、さすがにマクハルラともなると、その全貌が一目ではとらえられぬ広がりをもっている。


 街路に一歩踏み入れれば、そこかしこに巨大な荷車が横付けされ、西方や南溟から訪れている商人たちはあちこちで議論し、その乗船をあやつる水夫は船着き場で忙しそうに立ち回り、列を成す荷運びの者たちは、積んでは降ろす作業を黙々と繰り返している。ときおり、とんでもない格好をした異国人やら、貴重な品をお披露目しながら運ぶ行列が通りかかったりするのだが、港に働く人々は今さらそれらに気を惹かれることもなく、喧噪が瞬時でも途切れることはない。


 歩いていると異国料理の風変わりな匂いがまとわりつく。潮を含んだ海風、船に塗る油のえたにおい、発生源の知れぬ悪臭、それらが一体となって迫ってくる。聞いたことのない言葉が耳を打つ。鳴き交わすカモメの声がかき消されるほどに、マクハルラ港は今日もにぎやかな活気に満ちている。


 世界を一点に凝縮したかのような人混みと荷物をかき分けていくと、渡り板の綱を始末している水夫、ジャフミィがひょいと顔を上げ、にやりと笑いかけた。


「若だんな、さっき言い忘れていたんだが」

「おお、なんだい」

 連絡は迅速に。ダグマダはいくぶん用心する。

「こないだのことですけどね、グプハーラの海岸に見たこともないようなでっかい鳥が落ちてきて、漁師の家にすっぽりはまり込んで動けなくなったそうですぜ」


 両の肩から急速に力が抜けていくのを感じる。

「はぁ、またお前はそんなだぼらを真に受けているのかい? しょうがないねほんとに」

「滅相もない、ほら、〈新鮮な情報は新しい商いの源だ〉って、大旦那様も日ごろおっしゃっているじゃありませんか」

「そうだな。だが我が父は〈事実とそら言を見極める眼力が商人には必要だ〉とも、つねづね語っているぞ」

「えっへへへ、若様はほんとに偉いね、大旦那様の教えを身に着けていらっしゃる。なるほど、それじゃあどっちにしても、アタシは若の教育に役立っているってぇことになりますかね?」

 ため息をつくダグマダ。

「まったく。〈口を動かさずに手を動かすんだ!〉ってのは、お前がいつも言ってることじゃないかね?」

「へいさー!」


 水夫は十二人、頭のジャフミィはきびきび働いてくれる。舵持ちのカリタはもう船尾に陣取っており、

「夜明け前よりもいい風が吹いておりますよ」

 ダグマダに会釈する。舵持ちは父より少し若いくらいの老練な海の男だ。あらゆる港の水先案内人にもひけをとらないと評判されている。

「ああ、頼みますよ。穏やかなうちに距離をかせぎたいから」


 海も空も、何が起こるか分からない。だから波と風の安定している間、どんどん航路を進んで行こう。船上の皆がこう思っていたのだった。


◇ ◇ ◇


 一日二日と、港伝いに沿岸を視認航海したため、特筆すべきことは何も起きなかった。今は沖へ出て、船のまわりは暗緑色にも見える深い海水が広がるばかり。三日目に港へ寄らず先を急いだのは、ダグマダの判断だった。沿岸の浅い航路ではなく、より西の深く高速な「海の川」を利用して、一日でも早くイスラァミィ諸都市に近づこう。ダグマダの説得に、舵持ちカリタはしぶしぶ同意した。潜在的な危険は増すけれども、この好天ならばまず問題はないだろうか。


 海面は穏やかさを保ち、風は適度に吹き続け、順調かと思われた航海の四日目、帆柱頂上に座る見張りが海面の異変に気づいた。すぐにカリタが確認する。


「若旦那、泡が見えます! やつら北から迫ってきます。進路を南西へとりましょう。おおい、帆を傾けろ、手の空いてる者は船端を叩け! 急げ!」


 大切な磁針を懐に収め、ダグマダは海面を凝視する。磁石の持つ不思議な力によって航路を示してくれる磁針は、もっぱら水を満たした水盤に浮かべられている。そのため、船体が大きく揺れるときには、磁針を失わぬよう、水盤から取り出しておかなければならない。


 ダグマダは今まで鯨に出会ったことがない。だから知っていることと言えば、それはみな聞いた話に過ぎなかった。でも眼前でワラワラと皆が進めていくのは、鯨の群れを避けるための準備なのだった。これはそうそうあることではない。だが、出会ってしまえば壊滅的な損害を被るのは目に見えている。船は横方向の傾きを加えるほどに、急速な進路変更を行おうとしている。そこここで縄が軋む。


 ブフォアァッ。


 はるか先の海面で、潮が吹き上がり、はしけほどもありそうな尾が翻る。イスラァミィの航海者たちはこの巨魚を「バハール」や「ブファール」とか呼んでいるけれど、それらの名は、こうした潮を吹きとばす破裂音に由来している。


「くらえ! このッ!」


 いよいよ近づいてきた怪魚の群れに向かって、ジャフミィが次々と弓矢を射る。もちろん海中の怪物に当たりはしない。だが船員たちは代々言い伝えてきた。こうすれば怪物は船を避けるはずだと。こうすれば、必ず!


 ズシャァ、ブフォア、ザボオォォン。


 帆柱の長さ三つ分ほどの距離を隔てて、いくつもの尾が、蛎殻のこびりついた小山のような背中が、潮しぶきが、立て続けに現れる。そして何事も無かったかのように海面は静まりかえる。


 コンコン、ゴンゴンゴン、コンコンコンコンコンコン。


 船員たちは物音をたて続け、ダグマダも鳴り板を叩き続ける。……通り過ぎたか? 危機は去ったのか。


 そう思い始めたとき、船端に近い海面から小魚の群れがザッと跳びはねた。大海にポツンと落ちた船影へと逃げ込むつもりなのか。いきなり、海面下の色が変わった。

「まずい! つかまれ! 速く速く!」

 カリタが金切り声をあげて甲板へ身を投げる。すると。


 巨大な柱が水中からそそり立った。

 船の前にも横にも、黒々とした、巨木よりも太い塊が、天にも届かん勢いでせり上がっていく。船を縦に突き立てたぐらいの大きさだ。ジャフミィも水夫たちもしっかりつかまってはいるものの、降りかかるしぶきの中で口をあんぐり開けて見上げるほかはない。ダグマダも首を下げることができず、目を見張ったまま思った。


(聞いていた通りじゃないか……次はこいつが、)


 ゆらり。

 中天で静止したかにみえたそれぞれの巨体は、見る見る傾いて、てんでんばらばらに倒れ始める。水柱が立ち、衝撃は船体をきしませる。伏せてそこらの綱にしがみついているのに、右から左から首を持っていかれそうな激しい揺れが襲いかかる。叫びにも似た、木材の裂ける不吉な響きと共に物がドカドカと体を打ち、しぶきが甲板に溢れかえる。目はさっきから開けていられない。耳にも鼻にも海水が満ちている。


 気がつくと、船は停泊したかのように静まりかえり、海はおだやかにたゆたっている。


「おぉい、みんな無事か?」

 傷を負った者や海に投げ出された者は幸いにしていなかった。流された荷物も無いようだ。見たところ船体に穴は開いていない。舵はそれほどの損害を受けておらず、船上で修理できる程度だ。ただ、恐ろしいことに、船体中央にそびえる主帆柱が途中から裂けて、帆が落とされている。


「若、こうなったら、補助帆をしっかり仕立てて最寄りの島に寄せるしかありませんよ」

 舵持ちが進言する。誰が考えてもそうするよりなかった。


 航海母神よ、

 航海母神よ、

 良き風を送り給え、

 どうかお導きを、

 我らをお見捨てになりませぬよう、

 なにとぞ、なにとぞ、なにとぞ!


 水夫たちは歌いながら作業を進めていく。補助帆に工夫を施して推力を補おうとしている。潜水夫が船底の点検をする。船尾にいつも係留している艀は、のんきそうにゆらゆらついてくる。まわりには島影一つ見当たらない。なだらかな水の丘が、青緑の深みをどこまでもどこまでも描いている。

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