第二節
花愛づる姫君 (2781字)
扇で口元を隠しながら、花姫とお付きの女房が渡殿をしずしずと近づいてくる。
花姫と虫姫は同い年、幼き頃から互いに行き来しており、仲の良い友達と言える。ただし、花姫は毛虫やカミキリ虫が嫌いで花や蝶がお好きという、ごく常識的なご趣味を楽しんでおられる。それでも、毛虫や蜂の巣をこともなげに退治してくれるから、花姫は虫姫をある種、尊敬している。もっとも、自分もできるようになりたいとまでは思わないのだが。
「虫をいじっていらっしゃるのね」
ちょうど花姫が声をかけたとたん、虫姫の指先に登りつめた瑠璃色のカミキリが、サッと羽を広げ飛び立つ。
「あ」
虫姫もすず丸も、高みへと快速に遠ざかっていくカミキリを目で追って、じーっと見上げている。虫が見えなくなる瞬間、キラリと光ったような気がした。
「コホン、よろしいこと?」
いつの間にか、すぐ背後まで来ていた花姫の間近な声に、虫姫とすず丸が同時に振り向く。
「まったく、またしてもそんなお召し物を」
今日はすず丸とおそろいで、水色あざやかな童水干に身を包み、キョトンとしている虫姫を見て、花姫はため息をもらす。
「ああもう、兄弟にしか見えない!」
感極まった花姫はすかさず歌を詠む。そういう習性をお持ちの姫なのである。
きたれども (せっかく遊びに来たのに)
やましき虫に (不愉快な虫に)
うみもせで (あきもせず夢中なのね)
たれに問ふとも (誰に声をかけたって)
いらへなきなり (返事もしないんだから!)
句の上に並ぶのは「きゃうだい」、つまり「あなたたち兄弟みたいだよね」と当てつけている一首だ。歌と呼ぶよりも、ほぼ慨嘆そのままの言葉遊びである。
かような花姫の嘆きにはまったく構わず、虫姫は新着のカミキリ虫をさっそく披露する。
「どうです、これ、すごいでしょう?」
「なんですの、今日はカミキリ虫ですか。……むむ、瑠璃色は、確かに、深みがあって。でもこのひげ、ううん」
眉をひそめて、扇で口元を隠す。花姫にとっては、主としてひげに造形的な問題があるようだ。虫姫の後ろではすず丸がうんうんとうなづいている。
「私なら、こんな歌にするかな」
花姫の即興に刺激されて、虫姫も一首詠んでみる。
むくつけき (無骨な)
しが角かざし (その角をかざして)
めでたげに (すばらしい様子だけれど)
つれなし顔なり (素知らぬ顔をしているよ)
瑠璃のかみきり (瑠璃色のカミキリは)
句の上を取れば「むしめづる」となって、これも歌と言うより、見たままを並べただけだが、とりあえず虫姫らしい作ではある。花姫も虫姫もまだまだ若輩者なので、機会あるごとにこのような言葉遊びを重ねて、そのうち達意の一首が歌えるようにと、日々習練しているわけだ。ところが、
「まったくもう、のんきに歌なんか詠んでる場合じゃありませんのよ!」
花姫は理不尽なことを言い出す。
(……自分から歌い出したくせに)
とは口に出さず、虫姫はちょっとくちびるを尖らせた怪訝な顔で、
「いったいどうなさったの?」
檜扇にて口元を隠した花姫は、階に座る虫姫の方へ膝行してにじにじ近寄る。キュッと絹鳴りがして、かすかな伽羅が漂う。花姫は声をひそめて、虫姫の頬に近づく。目だけはあちらに向けて、
「それがね、まずは人払いを」
なるほど、これから語られるのは、どうやら尋常ではない話題のようである。
◇ ◇ ◇
広々とした庭に面して、風通しの良い廂が続いている。その一角を几帳で囲い、二人の姫が間近に対している。もっとも、その一人は童水干姿だが。
「今をときめく青年長官よ。姫君たちからの文が毎日のように届いて、それを保管するための専用部屋まであるそうよ。まさかうちにいらっしゃるなんて。うふふふぅ」
こんな話のどこが重要なんだろうか……。巷で噂の青年長官に興味をもてない虫姫は、ついそう思ってしまい、顔にも少し出たようだ。
「それがあなた、父君のことを聞かれたのよ」
「ええ? 花姫様の?」
「そうじゃなくて! 蜂飼いの大臣は、普段どんなご様子ですかって」
花姫がもどかしげに答える。何か変わった物音はしないかとか、大きな荷物の出入りはなかったか、とか。
いったい、どのような意図があって、その質問はなされたのだろう。虫姫は腑に落ちない。青年長官と何らかの関わりができるような、特別な問題なんて、特に思い当たらない。
確か、いにしえの
考え込む虫姫に、花姫がうずうずするような様子で問いかけた。
「さて、最高の情報をさしあげたわけですが」
「ふむ。それではお礼に、この最高なカミキリ虫をお裾分けしま」
「いりませんから! それは」
花姫は瞬時に拒絶する。
「うーん、際立つ瑠璃色、造形の妙味、分からないかなぁ」
そんな残念そうな虫姫にはとんと構わず、またも花姫はにじにじと膝行して身を寄せ、
「で、虫姫には浮いた話の一つも無いのかね、ええ?」
畳んだ扇の要で、虫姫の肩をツンツンとする。問われた姫はと言えば、
「浮いた、ねえ。ふうむ、そうだな……アメンボウの浮く理由なら、説明がつきそうなんだ」
「えええ、アメンボウ? 浮いたって、そっち? そっちですの? なんのヒネリも無いじゃありませんか! ていうかヒネリすぎて一周まわって元に帰った感じ?」
まったくお構いなしに、虫姫は平然と続ける。
「例えば毛の生えた幼虫を水面に浮かべることは、できたりできなかったりする」
「そんなことするん? うっわー」
水面や水中でモゾモゾ苦しがっている大量の毛虫を想像して、花姫は思わず胸元をおさえ顎を引く。ちなみに「うっわー」は小さい声で言っている。
べつだん表情を変えず、虫姫は答える。
「かわいそうだからすぐに救い出しますが」
「……してみたんだ、ほんとに」
「まあ、何事も実験するべきですね。結果、毛がびっしり生えていても、重い幼虫は沈む。つまり、重さの限界があるらしいの。当たり前かもしれないけれど、軽い虫に細かい毛だと浮きやすい。浮草の裏面を観察すると分かるのですが、軽い葉に微細な毛のようなものがビッシリ生えていれば、浮かべたとき、面白いことに葉の端で水面が曲面状の」
(……ああ、虫姫に向ける話題はよく選ばないと)
今さらながら花姫は後悔を深める。それには気づくはずもなく、虫姫の「浮く話」は続いている。
「だからコヨリを水に浸けても、アメンボウのようには浮かないのです。全身びっしりと毛だらけですけどね」
「嫌ああッ、コヨリたんを沈めないでッ」
「しませんよ? ふふ?」
「な、なぜ笑う」
今日も仲良しな二人の姫であった。
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