第十一章 花姫、再度の襲来

第一節

観察と工夫と (3851字)

 いよいよ盛夏らしい日差しがじりじり照りつける午後のこと、いつもなら蜂飼いの大臣の愛猫コヨリは、屋敷を自由気ままに闊歩しているのだけれど、今はじっと床の一点を見つめている。


 台盤所だいばんどころに続く渡殿のあたりで何か、大きめな虫を捕まえたようだ。チョイチョイとつついて遊んでいるのだが、虫は何度も逃げようとし、コヨリは造作もなくそれを阻む。両者ともに俊敏である。なかなかの好敵手。


 通りがかりにこの様子をご覧になって、虫姫様がつぶやく。

「すごいわね、これは」


 おそばに控える爺やが明らかに嫌そうな様子で、

芥虫あくたむしの類ですな。よく御器ゴキにかぶりついておりまする。コソコソと、目障りでして」


 やはりと申すべきか、姫は全く嫌がらず、

「ふうむ。見た目も、まるで御器ゴキのように黒々と艶やかな。ふだんから御器ゴキにかぶりつく習性があって、しかもその姿は、頭から御器ゴキをかぶっているようにも見えると……。なるほど。よし、この虫を〈御器ゴキカブリ〉と命名しよう」


 栄えある新名称、決定の瞬間である。


 コヨリの前足をかいくぐり、御器ゴキカブリは意表を突く方向転換と愉快な加速能力を発揮し、ちょっかいを出す恐ろしい爪からなんとか逃げようとしている。


 虫姫様はいよいよ目を見張り、

「大きいのにカサカサと素早い。目覚ましい移動性能。これは……飼って観察しようか」

「あああ、姫様、それだけはやめておきましょう」

 爺やは心配でならない。普段から台盤所の清潔を特に心がけているのは、姫様がこの芥虫に興味を持たれぬようにとの思惑もあるのだった。


「おお、飛んだ」

 柱に逃げて登ると見せかけ、その途中から飛び立った虫を、

 パシッ!

 間髪入れず叩き落とすコヨリ。さしもの御器ゴキカブリもあおむけになってじたばたしている。


「この虫を研究するとすごいことになりそう」

「そっ、そうかもしれませんねっ。そうかもしれませんが……う、ご覧ください、コヨリがいじりすぎて、中身も出ておりまする。むにゅっと」

「ううん、残念。損なわれたか。それはコヨリにあげるね。さて、私は文書室もんじょしつに行きますから」


 爺やに声をかけ、姫はクルリと背を向ける。コヨリはと言えば、しかめたような顔をなにやら傾けて、御器ゴキじみた色つやの虫をかじりだした。ぱりぱり。くしゃ。

「ああ、こら」

 あちこち、うんざりする事ばかりの爺やであった。


◇ ◇ ◇


 蜂飼いの大臣邸には、この平晏京でも屈指の規模を誇る文書室がある。


 その周りにはぐるりと防火用の池が囲み、四方の壁は全て漆喰が厚く塗り込められており、これは完璧に火を退ける効果を持っている。屋根も寺院のような瓦葺きがなされていて、火への備えは万全である。


 広々とした室内には整然と書架が並び、日域の古文書や漢籍が多数収められ、中にはいにしえから伝わる断簡もあることから、しばしば学者の方が閲覧希望するほどの充実を誇っている。大量の書巻を積んだ車を引かせれば牛も疲れて汗まみれになるほどだし、部屋に書物を積み上げれば棟木までみっちり届くほどの高さにもなる。まさしく汗牛充棟のありさまと言ってよい。


 言うまでもなく、虫姫様はこの文書室に入り浸っていることが多く、ここか、あるいは実験室が、姫の主な生息域なのである。


 今日も、姫は飽きもせず文書をのぞき込んでおられる。そこへ、


「もすもす?」


 なにやら、壁の上から伸びている太い竹筒を伝わって、聞き覚えのある声が呼びかけた。姫はお顔を上げる。


「はい、花姫様?」

「やはりこちらにおいでだったのね。これからうかがってもよろしいかしら?」

「ええ、どうぞ。では簀の子でお待ちしています」

 竹の筒に呼びかけて、虫姫は文書を閉じた。


◇ ◇ ◇


 伝竹でんちく、これは、離れとなっている文書室や研究室など、各所にて作業している虫姫へと声をかけるために作られた、新しい工夫だ。発案者は虫姫様ご自身である。


 節を抜き去った太い竹を部屋の間に差し渡した仕組みになっており、声の通ることそれはそれは見事なほどの性能を示し、例えば二百ひろほどの距離であっても難なく会話が成立する。


 今では虫姫邸の内だけではなく、都の大邸宅ならばほぼ普及しているありさまだ。広大な敷地内での連絡が格段に改善され、どのお屋敷においても、伝竹の使い勝手はすこぶる良いと評判になっているのだ。


 最初、この仕組みを思いついた虫姫様が、父君母君に図解入りで説明なさったところ、 大納言は膝を打ち、

「うむ、面白い」

 すぐさまお認めになられたのだが、母君は、

「どうしてまた、そういう難しそうなことを」

 しばらくはお気の乗らないご様子だったものの、試しに一本だけ設置してみると、

「姫、夕餉ゆうげですよ」

「あ、はーい、いま参ります」

 このように伝竹は非常な便利さを示し、今では母君もその価値を高く評価していらっしゃる。


 ある日、遊びに訪れた花姫様はこの伝竹を目にしていたく心を動かされ、さっそく父君母君を説得なさり、虫姫の研究室との間に直通伝竹を敷設なさった。


 一般のお屋敷ならば、邸外から導かれた竹の開口部は、人ひとりが入れるほどに衝立などで仕切られた特別な一角へと導かれており、普通これは伝竹室と呼ばれている。


 そもそも、この虫姫‐花姫直通線はお隣同士だからできた設備ではある。とは言え、花姫が何人かのお友達を自邸に招いて自慢し、


「いらっしゃる? 虫姫様?」

「はい、花姫様?」


「「「すごーい!」」」


「え? どなたかご一緒なのですか?」

「ふふ、あの虫姫様が当惑なさるとは。諸氏よ、聞いたかね?」


「「「すっごーい!」」」


「ああもう、花姫様ったら」

「ふはは! 虫姫様の渋面が目に浮かぶようですわ!」


 ……まあこんな騒ぎで、そうなると普及には勢いがつく。お隣同士の姫どころか、お屋敷を一つおいた先の姫との直通伝竹を設える姫様も現れ、どうかすると一日じゅう伝竹室に入ったまま動かない姫様もいらっしゃり、心配の声をあげる父君母君方も少なくはないのだとか。


「いったい日がな一日、何を話しておるのだ。近ごろの若い者がやることは分からん」


 こんな嘆きはあちこちで繰り返されている。それゆえ、伝竹室に専門の取り次ぎ、つまり伝竹番を常駐させるお屋敷も、今では珍しくなくなった。


 また、同時に発話したり、あるいは五百尋も遠く離れた相手の声となれば、えてして聞きづらくもなることから、『伝竹利用の心得集』などの指南書がいくつか著されるに至った。


 姫様同士の会話が主な用途ということで、伝竹の途中に穴を開けて分岐させ、密かにその内容を聞き取ろうとする不埒者まで現れてしまい、こうした行為は無法伝竹と呼ばれている。


 他にも、伝竹が現れて以来、「やはり道具という物は使い方次第なのであり」とか、「母上と話すときに耳がキーンとしがちなのはどうにかならないか」とか、様々な議論を呼んでいる。


 このような経緯をたどり、ごく初期には姫様の間で使われるだけの物だったけれど、そのうち伝竹口に誰がいるか分からないようになったことから、まずは開口一番「申す、申す」と呼びかけることが行われた。だがそれはすぐに自然と短縮化されて、今では「もすもす」が伝竹での一般的な挨拶として使われている。


◇ ◇ ◇


 さて、先ほどの「もすもす」から四半刻も経ったろうか。簀の子にて、いつも通り水干姿の虫姫様が飼育箱を広げているところへ、花姫様がお越しになって一言、


「またイモ虫いじってるんですの?」

「幼虫です」

 ぴしっと人差し指をあげる虫姫。


「よ、ようちう」

「よろしい。これはちょっと珍しいもので……ええと」

「すべて同じようにしか見えませんけどねぇ」


 虫姫は葉の茂った枝を差し出し、

「これ。頭が猫のようです」

 いつか猫を飼うつもりの花姫は少し興味をひかれて、

「どれどれ。んまあ、ニャンコのよう」

 大きな両目の上に、それぞれ三角形の突起が付いて、頭部が見事な猫頭型を呈している。花姫は珍しく同意する。


「まあ、これならギリギリかわいいわね。頭だけとってつけたような。ちょっと胴体が長すぎますけど。にょろりんと」

「成虫になると、こういう、羽に蛇の目模様のある蝶になります」

「ふうむ、地味ね」

「食草はススキなどですね。次。三角の耳部分がもっと長くなっているもの。こんな」

「うわ、や、め、て」


 花姫は突き出された枝から顔を背ける。葉に取り憑いている幼虫は、頭部から長々しく弯曲する角をはやしている。それは体長の三分の一にも達するだろうか。


「これはけっこう珍しいですよ。ビワに憑いたりしますが、特筆すべきはサナギの姿です。ほら」


 花姫はこわごわ頭を反らして、下目づかいにて、新たに示された箱の中を見てみる。そこには枯葉しかなかった。


「え、これ、葉っぱですか」

「これは前に入手して、羽化しなかったものを乾燥させたのですけど、まるで枯葉そのものに見えます」

「えええ、枯葉ではないんですの?」

「そうなの、枯葉にしか見えないでしょ? 食われた跡みたいなところもあって」


 目を疑うとは、こういう感じを言うのだろうか。

「うううん、 これは、サナギが、縁を食われたのではなくて、もともと、食い破られた枯葉のような形になるサナギなの?」

「そう。なぜこんな枯葉形になるのか、まこと森羅万象は不思議に満ちておりますね」


 標本にお顔を近づけて、つくづく、花姫はご覧になる。

「ほんとにねぇ。不思議……」


「ふふ。幼虫、面白くなった?」

 虫姫がにやーりとして花姫の顔をのぞき込む。

「べ、別に、面白くなんか」

 花姫はそっぽを向く。でも実のところ、枯葉サナギはちょっとだけ面白いな、と感じたのだった。

「あと今日は、こんな道具もあるのです」

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