第四節

州浜と薫物 (3602字)

 二日後、まだ明け方のころ、右馬佐は光豊に州浜を持たせて、件のお屋敷へと向かった。門のあたりをふらりふらり、なにげなく歩いていると、おそらく母親の指図によるのだろう、あの女童が走ってきた。右馬佐は笑いかける。

「ほらね、お役に立てると言った通りでしょう?」


 そして黒漆に銀の美麗な装飾の施された小箱を見せる。中には色とりどりの貝がびっしりつまっていた。

「すっごーい、やっぱりおじさん、すばらしい人ね!」

「う、うむ、おじさん、頑張ってみたよ。この箱をさりげなく、その辺の箱と並べ置いてくださいな。みんな後でびっくりなさるだろうから。そして、今日の様子も見せていただけるかな」

「うれしい! ありがとうございます。昨日の場所なら、人も来ないはずです」


 光豊に州浜を南の高欄へ置かせると、右馬佐は例の場所に隠れた。いつも通り、光豊は物陰で待機している。


 しばらくすると姫君と同じくらいかと見える侍女が、装束も晴れがましく二十人ほどあらわれ、格子を上げたり騒々しく働き始めた。すると、格子の開いたところに、なにやらキラリとした州浜があった。


「まあ、これは、どなたが」

「なんと細やか、かわいらしいこと」


 州浜は三つの区分けがなされており、それぞれ七色に輝く貝が敷き詰めてあるけれど、なにより目を惹きつけるのは一番左の造作だった。


 そこには、貝と香木細工にてかわいらしい猿の人形が仕立てられ、猿は赤かがちのような目をぱっちり見開き、その手は大きな二枚貝に挟まれているのだった。まるでそれは、貝の王に食いつかれた猿の王のように見える。泡を表現する桜貝が猿の周りに乱舞している。これは白銀の枝に桜貝をつり下げた仕組みだから、そよと吹く風にもきらりきらりとひらめいている。


 中央の区分けに仕立てられた浜には、猿王にお付きの小猿なのだろうか、心配そうにしている者が三匹ひかえている。その背後では浜人のような格好をした小猿が塩田を耕し、右の区画ではすなどりの網を引く子猿たちが、白銀の網いっぱいにきらびやかな貝を引き上げている。


 三つの区画にはそれぞれ、非常に手の込んだ細工の小箱がはめ込まれ、中には巻き貝や二枚貝、角貝、宝貝、様々な色とりどりの貝がびっしりと入れられ、その表に蛤やうつせ貝が黄金仕立てやら白銀仕立てをもって敷き詰められている。つまり、海底に眠る宝箱を隠して、輝かしい幾重もの波が打ち寄せている形が表現されているのだった。


 見れば、とても小さな字の並んだ紙がつけてある。そこには、次の歌が記してあった。


白波に心を寄せて立ち寄らばかひなきならぬ心寄せなむ

(私を信頼して、お心を寄せてくださるならば、その甲斐があるように、私もお助け いたしましょう)


「あああ、この、きらきらと」

「これは、一体どなたが」


 口々に言う侍女たちに、件の女房が静かに応える。

「観音様の御利益に違いありません」

「なんと慈悲深い」

「ありがたや」


 皆は手を合わせ頭を垂れる。ただ一人、暗闇に潜む右馬佐の方を向いて一礼した女房の頬には、一瞬、きらりと光る筋が見えるのだった。


◇ ◇ ◇


 門番の老人が深々と頭を下げている。


 静姫さまの安堵なさったご様子を確認し、貝合わせの始まる前にお屋敷を抜け出して、右馬佐は光豊と歩きながら、猿の州浜の仕組みを振り返る。


「いつぞや父上の腰痛払いのために、太秦まで参詣したではないか、あの猿田彦神を祭る社だよ。古き伝えを聞くところによれば、猿田彦神は大きな二枚貝に挟まれて、溺れてしまわれるのだ」

「それゆえの、猿尽くしなのですか?」

「うむ。貝と言えば猿。これは、ある程度お年を召した方なら、〈ははあ、猿田彦神の〉と気づく情景なのだ。つまり、州浜に物語が込められているとでも言おうか」

 右馬佐は腕組みをしてうんうん頷いている。


「それにしてもでございますよ」

 光豊の心配は絶えない。

「静姫様は、虫姫様よりも、また少し年のお若い姫君ではありませんか! たはー、この光豊、言葉が見つかりませぬよ。お分かりでしょう? いにしえの、女房好みの物語ならばいざ知らず、今どきそんなお振る舞いは、誰がしたとて通りませぬぞ」

「はて、何のことやら。困っている方をお助けするのは気持ちが良いと思わぬか。うん?」


「ふ、ふふ」

 表情を変えずに含み笑いを始めた光豊は、やおら歌い出す。なぜか、句の上の一字をことさらに強調してみせる。


 かひなしと

 なになげくらむ

 しら波も

 きみがかたには

 こころよせてむ


「う」

 右馬佐は思わず後じさっている。


「あのとき、若に従ってお庭に潜んでいた私の耳にも、しっかりと、確かに聞こえていたのです、このお歌は」

 目を伏せて、光豊は首をかすかに横振りながら続ける。

「かなしきこ、かなしき子。言い逃れはできませぬぞ。かわいい、愛おしいと、折り句に込めていらっしゃるではありませんかッ」


「ちょ」

 顔色は変えぬまま、右馬佐はそろりとくちびるを舐めてから、落ち着き払って語り出す。


「あ、ああ! そこな。いやあ、日々の研鑽がにじみ出るのだなぁ。かなしと言うのは、哀切の哀を使う、哀しき子なのだ。哀し、ああ、かわいそうに、お気の毒にな、そういう気持ちを折り句に忍ばせ、さらに甲斐無しと貝無しを掛け、またさらにかたかたを掛けるという技巧の極みをとっさにも組み立てうる、我が歌の才の、まことに」

「いつもいつも、そうやって解釈にてごまかそうとなさる」


「ち、違う、お前が心配しているような、光の君にならったような色好みではないのだ。純粋に、かわいいな、と、思うき、気持ちなのだよ? ほら、あれよ、年の離れた妹を慈しむような、そんな」

「どうせすぐ、文を持って行けとかおっしゃるんですよ」

 光豊は「ケッ」とでも言いそうな渋面を向ける。


「いやいや、違うのだからね? そうはならぬよ? ああ、分からないかな、この純粋性が。新時代の美しさとでも言おうか。厚い白粉にお歯黒なんて、もはや婆さんくさく見え」

「うっわー! 今のお言葉ッ」

 慌てふためいた光豊は遮るように意見を申し上げる。

「女房連中の前では絶対におっしゃらないでくださいませ。もちろんお姉様方の前でも、金輪際、口にされてはなりませぬぞ!」

「お、おう、そうだな。それは確かに恐ろしい……」


 ふう。ため息をつき、うつむきかけた面を上げれば、あたりには朝のさわやかな風が漂い、日差しもいよいよ輝かしく、自然と背筋の伸びるような気もする。一呼吸、深く息を吸い込んで、右馬佐は晴れ晴れと歩いて行く。


◇ ◇ ◇


 後ほど、例の女房が知らせてきたことには、猿の州浜は評者たちに格別の興味をもって迎えられたそうだ。


「なかなか、かわいらしい猿田彦神を仕立てられた」

 感心してにこにことおっしゃったのは、座の中で一番お年を召された某卿であったそうな。


「なるほどね」

 うなづく評者たち。うんうんと互いに納得しあっている評者らの考えが分からず、姫君たちはきょときょとなさっておられた。


 それを察したのか、某卿は、

「はは、そうですね、知恵者のお力添えがあっておうらやましい。そうも感じました」


 ハッとしたようなお顔になった静姫は、花のほころびかけるような笑みを浮かべて、

「はい」

 とお応えになるのだった。


 結局、貝合わせは、引き分けとなった。どちらも素晴らしい貝の数々、精緻な細工のあれやこれ、甲乙つけがたし。ただ、静姫様が珍しい物を作られたよ、ひねり具合がまことによろしいよ、との評判は高くなり、父君もさぞかしお鼻が高かろうとの噂にまでなった。


 逆に新姫様は、あの猛々しいご様子をあちらこちらでなさっていたようで、実の母君にたいそうしかられてしまったそうな。それゆえ、今ではいくぶんおとなしくなさっているのだとか。


 さて一方、右馬佐の、妹的な存在をとても大切にしたい気持ちは本物だったらしく、彼は香木をいろいろに加工したり熟成させて組み合わせ、そういう清楚な偶像に捧げる爽やかな薫物たきものを作り上げた。名づけて「妹伽羅いもきゃら」。透明感あふれるすっきりとした余韻は、なるほどあの朝の静姫にこそふさわしかろう。


 こうして会心の新作香を気心の知れた友人にお裾分けしたところ、控えめにしみ通るようなその香りが愛でられたのは言うまでもなく、呼び名の方も様々に話題となった。曰く、〈そのものずばり過ぎる命名だ、もっとそこはかとなく〉とか、〈いやいや、新しい感覚とはこのような〉とか、〈この名には隠された意味があってだね〉とか、〈上代歌謡の妹なのか、姉妹の年下のほうと言いたいのか、どっちの意味なんだ〉とか、云々。


 それ以来、殿居になぞ出かければ、実際に妹を持つ公達の面々から、

「これはこれは、幻想の妹びいき、右馬佐殿ではござらぬか」

「妹なんかいてもなぁ、大してうれしくもないのだよ。それより、姉君のお二人いらっしゃる右馬佐殿がうらやましい」

 なんだかんだ、たびたびからかわれてしまう。


「やれやれ」

 殿居の月を見上げて、右馬佐は楽しそうにつぶやくのだった。

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