第十章 右馬佐と謎の姫屋敷 (堤中納言物語「貝合」より)
第一節
ウマのお兄様、そぞろに (2140字)
もてない
ふと見れば、道ばたでツンツン生えた草の端に
(それにつけても、虫姫様はもったいないな。虫をあんなに偏愛なさるご趣味さえなければなぁ)
たたんだ扇にて首元を軽くぽんぽんと打ち、右馬佐は明け行く空をぼんやり見上げる。ひぐらしの声があちこちから、呼応するかの如く、互い違いに流れてくる。
「若様、また虫姫様のことを」
お付きの
あのときの歌を、右馬佐は思い出す。
はふはふも (地面を這ってでも)
きみがあたりに (あなたのおそばに)
したがわむ (お供しましょう)
ながき心の (ずっとずっと続く、あなたを思う心がぁ)
かぎりなき身は (この長い身のように限りなくぅ)
ふう。技巧を凝らして、句の上に「かなしきは」、つまり「いとしい、いとしいのは」なんて込めてみたのだけれど。
「そうさな。蛇模型を送ったときにお返しいただいたあれ、ゴワゴワの紙に書かれたご本人の文には〈来世ニテオ会イシマショウ〉なんてあったからな。来月ではなく、来世とおっしゃるのだよ、来世と。二回目の、わざわざ女装して行ったときの文はもう、明らかに女房の代筆だし、まあ、無理だな。ははは。はぁ」
「おや、朝も早くから七弦の琴の音が流れております」
気を利かしたつもりか、光豊は明るい顔を向けて右馬佐の注意をひく。なかなかの手練れと聞こえる。おりしも朝露は輝き、草の爽やかな香りが心地よい。眺むれば、このお屋敷の築地塀は手入れの行き届いた様子であり、どこをとっても穴はおろか崩れも無い。つまり、のぞき見るための隙間が見当たらぬ。
「うむ、七弦の琴か。なにやら古風なことだ。どんな姫君が弾いておられるのかな。お前、ちょっと歌ってみなさい」
またですか、とでも言いたげな顔で、しかたなく光豊は、邸内に向かって声を立てる。
行き方も忘るるばかり朝ぼらけ
ひきとどむめる琴の声かな
素晴らしい琴の調べによって、行き先も忘れてしまいそうですよ……という、そのままを歌ってみせたけれども、邸内からはまったく何の返事も無く、人の出てくる気配さえ無い。
「はぁ、やはりなあ」
「いえいえ、とてもお上手すぎる琴ですから、おばあさまが弾かれているのかもしれませぬ」
あわてて光豊はとりつくろう。若様を元気づけようとしたら、かえってこんなことになってしまうとは。
やがて、うつむき加減の主従がとぼとぼと歩いているその目の前に、とあるお屋敷の門が見えてきた。
朝も早いというのに、まだ十歳にならぬほどの
「なんだろうか、あれは」
「はて、これは、どうした騒ぎでございましょうや」
築地塀の際に繁茂している草陰から、右馬佐主従はこの様子をうかがう。手に持った扇を半開きにして額にかざし、その骨の間から眺めていると、
「急げや急げ」
独りごとを言いながら、やはり七、八歳になろうかと見える女童が足早にこちらへとやって来た。すぐにわれらを見とがめるに違いない。ならばと、右馬佐は事情を聞くため、
「ああ、これこれ、ちょっとこちらへ」
「やや、なんだか怪しいやつがいるー」
指までさして、誰かに言いつけるような口調で女童が大声をたててしまった。門前の大人たちは行き交う姿勢のままギョッとしてこちらに顔だけ向けるが、やんごとない風体の男がコソコソと扇に隠れる姿を認めて、彼らは即座に見て見ぬふりをする。
通りがかりの公達があやしげなそぶりをしていても、たとえ奇妙な女装姿で姫様に会おうとしたとしても、お屋敷に勤める大人たちは、それがまるで目に入らぬようにふるまう。こうした気づかいは都の歴史によって育まれた常識的配慮なのである。
それでも、童に大声を出されてはみっともないので、右馬佐は扇をかざしたまま左手を顔の前でぶんぶん振って、
「しっ、静かに。私は、たまたま通りかかった者で、ぜ、ぜんぜん怪しくなんか、ないのですよ?」
「草むらに潜んでいるし、顔を隠して扇の骨の間からこっち見ているし、おじさんすんごく怪しい」
「おじさん……いや、実は、こちらのお屋敷がね、なにやらわさわさとお忙しいご様子ですから、どうしたのかなー?とね」
右馬佐は少し子ども向けの口調に変えてみた。すると、
「そう、そうなんです。忙しいんだから。貝を集めないと」
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