第三節

回想の季節 (2775字)

 あくる日、決着の時が来た。


「ああ、もう、そんなに採れたかね」

「ずいぶんな数になりましたわねぇ」


 大納言夫妻が驚くほどの蝉、蝉、蝉。つづらほどもあるだろうか、篠竹細工の巨大な虫かごに、数え切れないほどの蝉がひしめいている。


「五十一匹とらえました。籠に移すときに三匹ほど取り逃がしたことが残念無念」

 糸姫は少々悔しそうである。だが、これだけ集めれば負けはしないはず。なにしろあの新兵器が大活躍したのだから。


 一方、籠に詰め込まれた蝉どもは、なぜかまるで鳴こうとはしない。虫体密度の異様な高さゆえなのか、あるいはこれからの行く末を儚んでのことだろうか。よく見ると、いくつか中に入れられた小さな梨の実には、それぞれ何匹かが取りついて果汁を吸っている。何たる景色。しんとした蝉の集団というものは思いのほか不気味で、もし「蝉地獄」があるとすればこんな具合なのかとも感じさせる。


 大納言はつぶやく。

「これはなあ。煮付けにでもするかな」

「まあ、ご冗談ばかり」

 虫姫の母君も、さすがにあきれ気味のご様子だ。


「この子たちは、対決が終わりましたら逃がしてあげる手はずです」

 得意げに語る糸姫だが、渡殿の奥へと目をやり、そろそろお姉様がいらっしゃるかなと思ったそのとき、

「お待たせしました」

 奥ではなく、庭に降りる階の先から虫姫の声がした。昨日の糸姫のように、軽やかで優美な蹴鞠装束を身に着けていらっしゃる。ぎりぎり男装ではないと言い張れる装いである。その足元には、つづらがデンと置いてある。糸姫はいぶかしむ。

「もしや、それ」

「ええ。糸姫様もずいぶんお集めになったようですが」

 じっと「蝉地獄」の籠を見つめる虫姫。そして、

「こちらも見ていただきましょうか。えい!」

 勢いよくふたを取れば、そこには。


 ギッシリと。


 文字通り、詰め込めるだけ詰め込まれた蝉の抜け殻。つづら一杯、みっちりと殻、殻、殻、殻だらけだ。


「……」

 大納言夫妻も糸姫も、言葉が無い。ふたを外したことで、圧を解かれた殻がいくぶんもりあがり始め、はらはらと四方から落ちて地面に積もっていく。ころりん。いくつもの殻が、横になり斜めになりしながら、倒れ伏している形。あわれ。蝉の殻の手つきが、何か拝んでいるかのようにも見えるのだった。数えるまでもなく、虫姫の圧勝ではある。だが、

「お、お姉様、でもそれは、殻でしょ?」

「わたくし、蝉ならなんでもいいのかと聞きましたわよね? そして糸姫はお答えになった。〈蝉と名の付くものならばなんでもけっこうです〉とね」

「うッ、で、でも」


 虫姫は殻をひょいとつまみ上げ、

「これは明らかに蝉の体です。目と言い足と言い、角の先までくっきりと、蝉の形をしています。糸姫様は、まさか白馬を馬ではないとでもおっしゃるおつもりかしら?」

「ぐっ……またしても難しいたとえを」


 糸姫は先日のこと、父上から教えていただいた詭弁術の寓話を思い起こすのだった。遙かいにしえの唐土で活躍したという論理の達人、公孫龍。あるいは『韓非子』に登場する某が言い立てた、「白馬は馬ではない」とする詭弁。馬概念がどうのとか、白は色の概念だからとか云々。


(どうして大人って理屈ばっかり言うんですか?)


 糸姫は黙り込む。

 大納言と奥方は顔を見合わせる。

 女房たちは下を向いて縮こまっている。

 虫姫は、両手を腰に当てて余裕の笑みを浮かべている。

 空間が緊迫する。

 ニイニイニイニイニイニイニイニイニイ。

 ジイジイジイジイジイジイジイジイジイ。

 皆の間を、庭で鳴く蝉の声だけが渡っていく。


「うーん、これはのぉ……糸姫の勝ち」

「ええッ」

 意外と思ったのか、糸姫は目を丸くする。

 

 審判である大納言はあごのあたりをいじりながら瞑目し、

「〈蝉の抜け殻〉とは、蝉という言葉が抜け殻の性質を説明しているにすぎない。つまり抜け殻は蝉の実体とは言えぬ。カワセミは冗談としても、そもそも〈蝉ならなんでもいい〉との条件は、みんみん蝉やひぐらし蝉など、蝉という範疇に属する虫ならば何をつかまえてもよい、と言い換えることができる。従って、抜け殻をどれだけ集めても、蝉を集めたとは言えぬ。よって、糸姫の完勝」


「やった!」

 思わず声をあげる糸姫。それに反し、虫姫はがっくりとうなだれる。それはまさに、絵に描いたようながっくり加減。

「残念、良い考えだと思ったのに」

 階に横座りし、簀の子にのの字を書いておられる。


 かくして、第一回蝉採り合戦は糸姫様の圧勝に終わった。

 お別れの宴の後、

「かわいそうだから逃がしてあげましょうね」

 簀の子から放したはいいが、蝉どもが炎天を避けて屋敷内に散らばり、しかも緊張感の解けたゆえかそこらの柱に取り憑いてジイジイニイニイ、一斉に鳴き出すものだから、女房たちの恐がりようはこの上ないものとなってしまった。


 そんな騒ぎはあったものの、別れのときに糸姫は神妙な顔で申し出るのだった。

「これ、お姉様に差し上げます。私が持っているより、お役に立ちそう。名づけて虫採り丸」

 あたかも、歴戦の武者がその太刀を譲り渡すかのような光景である。そして聞いてみる。

「お姉様は、こういう道具を使おうとはしなかったの?」

「さすがに薄絹でこれを作ろうとは思わなかったなあ。投網は考えたけれども」

「……なんだかもっとすごいこと目論んでいらしたのね」

「でも投げる場所が林だし、素材や編み目の問題もあるし、とても無理だと思って諦めたわけです。それにひきかえ虫採り丸! 素晴らしい発想だと思うわ」

 虫姫は素直に本心を口にしている。その眼差しは明るく輝いて見える。

「い、いやあ、それほどでも」

 頬を染める糸姫、その背後には安心した様子の女房たちが控えているのだった。


「またおいでなさいな」

「はい、伯父上も伯母上もお姉様も、ご壮健でございますよう」


 こうして糸姫一行を見送り、母君は軽く息をつく。

「それにしても、これ、どうしましょうね」

 つづら一杯に満ちあふれた蝉の殻は、さきほど別れぎわ糸姫にあげようとしたけれど、

「そんなのいらない」

 即座に拒絶されてしまった。捨てるのも燃やすのも、どうしたらよいか思案顔の母君へ、

「これは薬にも使えますし、少し実験にも役立ちそうなのです」

 何の心配もいらない様子で応える虫姫には、何か考えがあるように見えるのだった。


◇ ◇ ◇


 牛車に揺られ、いくぶん眠くなった糸姫は、こたびの蝉採り合戦を振り返っていた。

 虫採り丸。

 投網。

 大量の抜け殻。

「なんだろう、じっくり思い返すと……なにやらいい感じにしてやられた気がする」

「そんな、考えすぎでございますよ」

 困った笑顔をかしげながら、女房が申し上げる。

「いい感じじゃなくて! ああもう、来年こそはギャフンと」

「空蝉はぁ、さもこそ鳴かめぇ、君ならでぇ、暮るる夏をばぁ」

「ああん、もう、来年こそ」

 にぎやかな声の漏れる牛車は、午後の光の中、都大路をゆるゆると抜けていくのだった。

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