第二節

さまよいの季節 (2133字)

 翌日、糸姫はお付きの爺やと若い女房の三人連れにて、都の郊外に広がる某荘園の果樹林を巡り歩いていた。つてを頼って、夏の初めには話を通しておいたのだった。 

 颯爽と木陰を行く糸姫様の装いは、目にも涼しげで軽やかな、これから蹴鞠でも始めそうなお姿である。

 いにしえの才人、清少納言が『枕草子』にて「蹴鞠も面白い」と記したころならば、鞠はまだまだ公達だけの嗜む遊びであった。だが、およそ二十年ほど前のこと、子煩悩で知られる、時の太政大臣が姫に蹴鞠を許してのち、今では姫君たちが蹴鞠に興じる姿は当たり前の景色となっている。やがて動きやすく華やかな蹴鞠装束が工夫され、そのお姿で騎乗される姫もおいでだとか。


 軽快な装束に、採集適地の選定と根回し。つまり糸姫様は、こたびの蝉採り合戦になみなみならぬ準備を重ねておられるのだ。その一つとして、手には何やら見慣れぬ袋の付いた竹竿のようなものを携えていらっしゃる。


「この新兵器が、大変な効果をはっきするのよ」


 まだ難しい漢字のあまり書けぬ糸姫は竹竿を宙に突き出しながら、「発揮」を変なふうに発音なさる。お付きの爺やが控えめに応える。


「いかがでございましょう、かような薄手絹布を虫採りに使われるというのは、えー、いささか……」

「そう言うと思った。これはね、母上にお願いして、古くなってあとは捨てるばかりの薄絹を利用したの。綿入れに詰めるものから選りすぐったのよ。糸姫と呼ばれる私が、絹を粗末に扱うとでも思いましたか?」


 手元に蝉入れ用の麻袋を携えている爺やは、改めて竹竿の先を見やり、

「へへえ、いえ、恐れ入りました」


 向こうの樹影が透けるほど薄い絹製の袋には、なるほどよく見ればあちこち継ぎが当たっている。それでも軽やかなしなやかさを保っている袋は、頑丈な麻糸によって篠竹細工の輪へとくくり付けられ、その輪は竹竿の先端にしっかりはめこまれている。言わば寸の足らぬ吹き流しのような物が常にふわふわと風に揺れ、元気あふれる糸姫と心配そうな爺やと女房の頭上にときおりハタハタ翻っているのだ。


「これでこう、下から、飛び立つ方向を予測して近づけて……えい!」


 昨年の秋から練っていた戦術を実行するべく、留まった蝉へと糸姫が袋をかぶせかけた瞬間、蝉は生命の危険を察知して素早く飛び立つ。ビビビビビ。窮地から逃れんとする蝉は急激な螺旋運動を繰りひろげ、はね散る液体が夏の木漏れ日を細切れに反射する。一瞬、宙に虹が浮かぶ。


「いやあん、失礼ね!」


〈おしっこですね〉とも言えず、若い女房はあわてて機転を利かせる。

「これはこれは、蝉も涙をこぼして暇乞いをするのでしょう」


「……ずいぶん大量な涙ですこと」

 額を拭かれながら、糸姫はふてくされて言う。そんな様子にかまわず、女房は手巾を持つ両手を胸元に寄せて、顔を斜め上空に向けて歌いだす。


「風吹けばぁ、蓮の浮き葉に玉こえてぇ、すずしくなりぬひぐらしの声えぇ」


 源俊頼みなもとのとしよりが初秋を詠める一首だ。かの名だたる歌論『俊頼髄脳』を著した理論家にして、当代一、二を競う優れた歌人。いにしえの名吟を至上のものとして賛美する一方、自身の作は決して古風ではなく、より新しい感覚にあふれていることで知られている。


〈会話にはできるだけ和歌を挟みなさい〉


 女房たちはつね日頃、母君様からこう申し渡されているのだった。糸姫様を濃密な文学的環境下で育てたいとのご配慮である。昨日、虫姫様がふいに歌い出されたのも、このような事情を含んでのお振る舞いなのだった。今回のこの歌も状況に即したものが的確に選ばれている。風による細かな水しぶきが玉となり、蓮葉の上で転がり遊ぶ姿が目に浮かぶようではないか。ところが、


「蓮でもヒグラシでもなければ、涼しくもないし。……いま、美しくまとめようとしたでしょ?」


 年幼く聞かぬ盛りの姫様にはなかなか受け入れてもらえない。ジイジイジイジイジ。蝉の声は一瞬も止むことなく続いている。あたりの木を見渡せば、平均してそれぞれ五匹もの蝉がとりつき鳴いている。これが全部捕れれば大漁間違いなしと言えよう。


「あと一歩だったわ。次こそは」

 気をとりなおし、蹴鞠装束の糸姫は、そろりそろりと獲物に近づく。足元は蹴鞠靴のような履き物で固めている。昨秋からの準備はかくも万端なのである。


「えいやッ、やったー! ……いやあぁ」

「夕立のぉ、雨うち降ればぁ、春日野のぉ」

「ああん、もう!」


 さて、このとき、糸姫様一行の遙か背後の茂みには、あやしい人影が二つ蠢いているのであった。


「やや、そこもとは」

「あれ、あなた様は」


 二人は糸姫様の目につかぬよう背をこごめ、小声であいさつを始めた。


「いやはや、大変なお務めでございます」

「うむ。何かあってはならぬからの。都では近ごろ、妙な子さらいが幾たびも起きておるとか、噂になってござろうよ」

「はい、まったくもって、物騒なことで」

「そこもとのお役目は、さしずめ偵察だろうか」

「はい。虫姫様がご心配のご様子でして。どうしたら負けられるかなとおっしゃいます」

「なるほど、さすがは虫姫様。それにしてもなかなか、難儀じゃなぁ」

「左様でございますな」


 ぺち。二人は静かに蚊を払いながら、ボソボソと話しながら、糸姫様の蝉採り大作戦を見守るのであった。

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