第九章 オトシブミの挑戦状
第一節
背伸びの季節 (3214字)
よく晴れた初夏の午後、木陰のさしかかった小路などには、木の葉が、きちんと折り畳まれた形にされてあちこちいくつも落ちていたりする。
これは虫によって作られた揺りかごなのだ。作り主は首のひょろっと長い甲虫であり、オトシブミと呼ばれている。その名は、木の葉の折り畳んだ様子が手紙の包みを連想させることによっている。
いつだったか、虫姫はこの畳まれた葉をいくつも持ち帰り、慎重に解きほどいてみたところ、一番奥まった部分に芥子粒のような卵を見つけたのだった。それをまた丁寧に包み直し、湿気を与えるなどしながら毎日観察すると、卵から小型芋虫のような幼虫が孵化した。幼虫は自らを取り巻いている葉を食らって育ち、十分大きくなったころにサナギとなり、ついにはオトシブミの形となって飛び立つのだった。
ああ、森羅万象の神秘。誰に教わることもなく、この小さな虫は、幼子を保護し育てる揺りかごを代々にわたって作り続けているのだ。蜂が正確な六角形を繰り返して巣と成し子を育てることに似て、オトシブミの揺りかごは天然の不思議の一つではないか。観察記録をまとめてこのように申し上げたとき、父上も母上も何とも言えぬほほえみを浮かべ、にっこりとうなずいてくださったっけ。
……こんな回想をしている姫のすぐ目の前には、いま、木漏れ日のなか、路上に文が落ちている。
いや、より正確に言うならば、オトシブミの包み方をそっくりまねた紙束が、これ見よがしに落とされているのだ。それには念の入ったことに、葉柄の形を模したこより細工まで施してある。つまり文は、まるで〈読んで読んで!〉とでも言いたげに落ちているのだった。
虫姫は、その場に立ちすくんでいた。それというのも、この人通りの全く無い屋敷裏の小路に、わざわざ自分あての文としか思えないものが落とされているからだ。つまり、文をしたためた相手は、姫の興味関心と虫採りお散歩順路を熟知していることになる。
(……いったい誰? たぶんこれは。ううん、それにしてもこのやりよう、ひねり過ぎと言うべきか、無為自然と評すべきか。ひねりにひねって元の位置に戻ってしまったような、妙な感じ?)
おかしな気分のまま、姫はおそるおそる文を手に取る。あたりにはジイジイと蝉の鳴く声だけが通りすぎる。
(むう、この斜めに折ってある畳み方、厚みを保つ造形、なかなかの観察眼と褒めてあげたい。また葉柄の形がまことに)
感心しながら文を開いた姫だったが、読み始めると両の肩がストンと落ちた。冒頭にはこう書いてあった。
〈やっぱり読んでくださいましたのね〉
もうこれだけで分かってしまった。いまだ拙さの目立つかな文字、それに反してすこぶる挑戦的な内容。これは、いつも夏になると遊びに来る、母方の従妹、糸姫のしわざに違いない。今年も泊まりに来る季節となったか。近々とは聞いていたが。
急いで屋敷の裏手門に回れば、爺やはお迎えに出ようとしているし、その奥には女房の兵衛らがやきもきと待っている。
「ああ、姫様、糸姫様が」
「うん、委細は読んだ」
文を示し、奥へと向かう。虫取りお散歩には常の通り水干姿をとっているけれど、すぐに赤袴姿へと着替えなければならぬ。そうしないと糸姫が男装をまねしたがるのだ。
(叔母上から、その点くれぐれもとお願いされたっけ。あともう一つは、ええと)
慌ただしく身支度を調えながら、虫姫は今までのことどもを思い返す。
(少し前までなら「お姉様ぁ」なんて言ってついて歩くだけだったのに、この三年ほどは何かと私のまねをしようとなさる。でも昨年は)
兵衛の差し頂く赤袴を手にとり、虫姫は軽く息をつく。
(糸姫ったら、都で流行りの
糸姫様は十一歳の生意気盛り、都にいらっしゃれば目新しいものに興味津々ではあるけれど、そもそも虫姫の「研究生活」がうらやましくてしかたがないらしい。
(急がなければ。ううん、今日は姫らしく)
いつもは殿方のような白袴を好んで着けるため、赤袴は虫姫にとって懐かしい感じもするのだった。
(なんだか変装したみたい。話が逆かな)
件の文を手に取り、しずしずと
(少し大きくなられたろうか。さすがに十一歳ともなると落ち着いてくるのかな……)
ところが、久しゅうなんぞと声をかける暇もあればこそ、近づきまみえたとたん、
「これはね、お姉様と私との蝉採り合戦ですのよ!」
糸姫様はこう宣言なさった。両の手は腰に当てられており、その目はらんらんと輝きを帯びている。こうして、〈またか〉とでも言いたげな雰囲気が、虫姫の全身をみるみる覆っていくのだった。
「やれやれ、蝉採りですか。ふうむ……でも、念のため確認しますけど、蝉ならなんでもいいのですね?」
「もちろん。蝉と名の付くものならば何だってけっこうです。捕れるものならカワセミでも!」
腕組みをしてうなずく糸姫。〈川瀬見〉は全く違う生き物だろうと思いながら、虫姫は逆に提案をしてみる。
「では、私からひとつ条件を付けたいのだけれど。基本的に、蝉を捕るのは自分一人の力だけに頼ること。いかがかしら?」
「望むところよ!」
「ただし、年齢差が三つもあるゆえ、糸姫は爺やを一人手伝いにつけてもよいでしょう。手が届くよう、肩車をしてもらったりとかね。また、蝉を捕らせないのであれば、女房を連れて行ってもよろしい。都は不案内でしょうから」
「う……うん、ありがと」
上目づかいの目線を微妙にそらしながら、糸姫は小声で答える。そして、
「私からもひとつあります。お姉様も私も、公平のため、それぞれ一種類の道具を使ってもよしとする」
「道具? 捕まえるための?」
「それはあれよ、あの、踏み台とか」
またしても糸姫は、視線をいささかそらす。
「ふふふ、楽しみね。どんな道具なのかなぁ? ちなみに爺やというのは年齢が五十歳以上の」
「そっ、そんなこと分かってますので! 馬鹿にしないでくださる?」
「うふははは! その意気や良し!」
糸姫の姿に対抗したのか、両手を腰に当てて虫姫も元気に言い返す。そして即座に、
あしびきの
山の裾野に
まなこ留め
手にはこぼれん
量のせみども
(山の裾野をじっくり見渡せば、手からあふれるばかりの蝉がザックザクと採れるでしょう)
こう造作もなく詠み上げてみせては〈ふふん?〉とした表情を向けてくるお姉様の、それはもう小憎らしいこと! 実のところ、とても歌とは呼べぬようなできばえなのだが、まだまだ歌の道にうとい糸姫はたいそう悔しがり、
「もう、見てらっしゃい! 決着は二日後に。では伯母上様、いささか準備がありますゆえ、失礼いたします」
丁寧に礼をしたあと、お姉様をちらり一瞥し、ぷんすかしながら東の対へ帰って行くのだった。それでも虫姫の母君に対してはきちんとあいさつをするのだから、
(人とは成長するものだなあ)
虫姫は感慨深く思う。お付きの女房たちは糸姫を追って、非常に申し訳なさそうな様子を見せて退出していく。
糸姫一行が渡殿を曲がって少したったころ、見送る虫姫の表情には若干の陰りが浮かんだ。先ほどの歌は、句の上を取れば「あやまてり」となる。本心では「失敗したかも」と思っていることを示す、虫姫のひとりごちた形の一首なのだった。
姫君たちの、両手を腰に当てた対決を静かにご覧になっていた母君は、さすがに言葉遊びに気がつかれたのか、いささか心配そうな声で、
「姫や、言わずとも分かっているとは思うけれど。糸姫はまだ幼き性分なれば」
「はい。別の虫にしようかとも迷いましたが……蝉とこだわるからには、糸姫にも何かもくろみがあるのでしょう。ともあれ、負けるように勝つつもりでいます」
「負けるように勝つと? またあなたは、複雑なことを考えているのかしら」
「でも、ちょっと難しいかも……うまくいくかな?」
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