第八章 蜂飼いの大臣、蜂を手懐ける

(『十訓抄』より) (1554字)


 さきの帝が退位されて二年、今では上皇として院を運営していらっしゃる。院の政というものは二代前の帝が始められ、そもそも世の仕組みを大きく変更される振る舞いだったけれど、そのおかげで都は生気を取り戻し、今も栄え続けている。


 内裏には南都の時代からの律令にのっとった世界が生き残り、院では新しい仕組みの発達が著しい。それゆえ、内裏と院のどちらにも有能な人士が必要とされており、両所から参上を許された人々、つまり「引く手あまたの切れ者」も少なくはない。虫姫の父君、蜂飼いの大臣として知られる按察使の大納言・藤原宗輔も、そういう人材の一人であった。


 ある日のこと、上皇が管弦の会を催された。笙、龍笛、篳篥、琵琶、和琴と、それはそれは優雅な演奏が続き、宗輔は琴の音を響かせていた。曲の合間に菓子を摘んだり、桃や枇杷を剥いたり、茶にて喉を湿らしたり、談笑を挟みつつ、会は滞りなく進んでいく。


 突然、の子の方から悲鳴が上がった。

「たれか」

 上皇が怪訝なお顔になる。転ぶように退いた者が、あわてて申し上げる。

「蜂の巣が落ちてございます」

「なんと」


 ブイン。鋭い羽音を響かせて、一匹の蜂が妻戸を通り抜けてきた。貴族たちはあっけにとられ見上げるばかり、鬼にでも鷲づかみされたかのごとく身動きできず、なす術がない。あれよと思う間に、続いて二匹、三匹と、縦横無尽に飛び回る蜂が数を増していく。ブンッ、恐ろしい音が耳の横を過ぎる。


「あれえ」

「ええいッ」

 烏帽子を抱え、袖にて顔を覆い、這いつくばり、あるいは弾けるように、高貴な方々が部屋の隅へと転げながら逃げ隠れる。楽器の落ちる無残な音が響きわたる。上皇は呆然として言葉もない。


 そんな混乱の中、日頃から蜂に慣れている宗輔は琴の前に座したまま、好き放題に飛ぶ蜂をじっと観察しているのだった。


「この種類は……」

 独り言を口に出したとき、蜂が一匹、高坏に盛られた枇杷へと留まった。


「やはりそうか」


 宗輔は枇杷の実がいくつも付いた枝を手に取り、琴爪にて丁寧に皮を剥き、そのまま枝を静かに掲げた。すると。


 プイイイィン。

 うれしそうな羽音をたてて、そこら中に散っていた蜂どもが、宗輔の掲げた枇杷の実へとみるみる吸い寄せられていく。次から次に枇杷の果肉へ取り憑いては、その汁を舐めているようだ。先ほどまでの獰猛な騒がしさはどこへやら、あたりはしんとしてしまった。彼ら蜂の眼中には、もはや枇杷しか映っていないのだろう。


「さあ、これを外へ捨ててきなさい」


 柱にすがって怖がっていた供人へと、宗輔は枇杷を渡す。供人は押し頂くように枝を受け取り、早足にて外へと向かった。落ちてきた巣については、細かな破片も集めて空き地に捨てさせたのだった。


 高貴な方々は隅に固まった姿のまま、宗輔を見つめる。驚きの目、呆気にとられた目、感服する目、そして、何か恐ろしいものを見るような目。


「なんたる胆力」

 老卿がつぶやくと、若い者が、

「なるほど、蜂飼いの大臣と二つ名される理由、しかと拝見いたしました」

「不思議なお方じゃ」

 緊張の解けた反動か。鳴く虫の声にしか興味を持たない貴族たちは、口々に奇妙だ魔法だと言い出した。


「いえ、たまたま蜜の好きな蜂でしたから、このようなあしらいが通用しましただけのことです」

 自分にとってはありふれたことではあるが……。ご説明しても、分かってはいただけぬだろうな。目を伏せて、宗輔は口をつぐむ。


「いや、見事なり」

 袖を口元に当てて事態をご覧になっていた上皇は、張りのあるお声でおっしゃる。

「もったいなきお言葉」

「この良き日、折も良く宗輔がいてくれたおかげで、さらに良き日となった」

 うんうんと頷きながら、上皇は機嫌良くおっしゃった。

「さあ、管弦の続きを奏でようぞ」


 夜が更けるまで、院からは賑やかな楽曲や談笑が続くのだった。 

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