第四節

虫姫、憧れる (2596字)


 またしても、虫姫は頭のくらくらするような感覚に陥る。

「このように珍しいことばかり体験されるのは、何か特別な理由があるのでしょうか?」


 少しボウッとしていたのだろうか、なんだか的外れな言葉が出てしまった。兌隈丸は微笑んで、


「うまく風に乗ってぶっ飛びマすと、陸を移動したのデは何年もかかるような土地へも、ひと月かからずに到達できてしマいます。そういう遠隔地の者が出会えば、気候も習慣も異なりマすゆえ、互いに相手のことが奇妙に見えるものデす。


 例えば、西方人の方や唐土の方は、はるばる大洋を越えて天竺まで来られテ、しみじみ言うのデす。

〈ここは世界の果てだ! まるで異界だ!〉


 逆に天竺の者は、イスラァミィ諸都市や唐土まで行くと、こう感じマす。

〈ここが世界の果てだ! まるで異界だ!〉


 そして、この兌隈丸にとりマしては、日域こそが別世界でございますよ。大きな戦がずっと無いという一事だけでも、天上世界もかくやと感じます。


 日月の下には、こうした別世界が境を接しテいくつも広がり、それぞれが互いを〈風変わりだ、奇妙だ〉と言い合っテいるのです。そして、どちらの人たちも、異国デ見聞したことを書き留める。それは『驚異の書』と呼ばれたりして、天竺でも西方でも唐土でも、これらの書がいくつも書かれ続けていマす。そのうち、


〈そんなに珍しい物ならば、我が王宮にぜひ収めたい〉


 こう考える王侯が各地に現れテ、海上商人から珍品をあれこれ競って買い求めマす。西方人の王侯や大商人の中には、世界の果てから選りすぐりの貴宝珍品を展示した〈驚異の部屋〉や〈驚異の館〉を建てる方まデいるのです。それゆえ、海上商人たちは珍しい話、不思議な話ヲ聞き回り、知識を交換し合い、目を配ることにもなります」


「驚異の館。ああ、日域にはまだ、そういう館はありませんね。文書室はあるけれど」


「姫様が虫の館を造られればよろしいのです」

 すました顔にて、兌隈丸は麦湯を含む。


「虫の館……ああ、素晴らしい」


 ぽややん。脳裏にはすぐさま完成像が浮かぶ。頬に手を添えつつ、虫姫様は夢想なさる。天下に棲まう、ありとあらゆる虫という虫が、生きた姿のまま、あるいは保存の技を効かせて、一堂に会し展示されている。仏堂を思わせる広々とした全館、これ虫だらけ。うじゃうじゃもさもさ、六本足の巣窟。魅惑の小宇宙と呼ばずして、他に何と言い表せようか。


「そうそう、虫を観察される姫様に、これを差し上げマしょう」

 布包みを取り出し、兌隈丸はつるりと丸い物をつまみあげた。

「透き通って……玻璃の玉、ですか?」

「さようです。質の高い玻璃を磨き上げてテ、小さな物が大きく見えるようにしテあります。これもイスラァミィ諸都市の博士たちが研究・実験して作り上げたモのです」

「ほんとに、大きく見える……」


 裾の絹地にかざしてのぞき込み、姫は驚嘆する。緻密な織物の姿が、藁でも編んだかのように映っている。


「これは唐土で言う陽燧ようすいのようにも使えるのデす。こうして」

 兌隈丸は日の差している簀の子へと移り、墨を塗った紙を延べて、そこへ玻璃玉をかざした。陽光を受けた玻璃玉はまばゆい光点を凝縮し、墨色の紙からはすぐさま煙が立ち上がった。紙に焦げが広がっていく。

「これゆえ、日の光をのぞき込むことは、絶対にしないデください」


 陽燧は小ぶりの銅鏡を凹ましたようなもので、姫はいつぞや伯母様に見せていただいたことがある。凹面に当たった太陽の光が一点に集まり、今とそっくり、瞬時に発火していた。叔母様は、

 「太陰つきの光では無理なのよね」

 なんておっしゃっていたけれど、それはそうだろう、ご冗談のつもりだったのかもしれない。 


 兌隈丸から手渡された玉は無色透明、どこまでも澄み切った、固い玻璃の塊だ。それ自体は冷たいまま、日光の熱をこれほどまでに集中させるなんて。文字通り、矯めつ眇めつ。虫姫は玻璃玉をいろいろな方向からご覧になる。


「美しい……」

 斜めからのぞけば、床も柱も歪んで見える。だが、その歪み方は無秩序ではなく、元の姿を忠実に写し取っている。どこかでこんなものを目にしたような。そうだ、葉の先に光る露玉。景色を鮮やかに映す露玉とそっくりではないか。


「固い玻璃を用いて露玉を作ったようなものかな?」

「面白いことをおっしゃる。確かに、西方博士の中には、丸い玻璃器に水を満たして先ほどのような実験をした方がいらしたとか」

「透明な物に共通する性質、とでも言えましょうか……」

 考え込む虫姫に、

「文殊菩薩が降臨されたかのようです。願わくば、ずっとずっと研究していただけたらと」

 しみじみとした笑顔をもって兌隈丸は申し上げる。そして、ふと、思い出したように、

「聞くところでは、日域には虫のような振る舞いをした神様がいらっさるとか。姫様はご存じですか?」

 問われた虫姫は小首をかしげ、あごに人差し指を当てて、

「虫のような……スクナヒコナ神のことでしょうか。非常に小さな体をされていて、カガミグサの実で作った小さな船に乗って現れ、大國主という神にお目見えした際には、ぴょんと跳びかかり、その頬にかじりついたりしています。その後、この二柱の神々はいろいろな山や丘をお造りになりましたが、ある日、スクナヒコナ神は伯耆国の粟によじ登って、その茎に弾かれてしまい、常世の国という異界に赴かれました」

「ふうむ、なんとも風変わりな神様ですね。私もできることなら、ぴょんと飛んデみたいです、ハハハ」

「天竺には虫の神様はおられませんか?」

「さあ、象の神、猿の神なら身近ですけれど、振る舞いが虫のようとなると……知る限りは、聞いたことがないですね。私は仏陀の教えに連なる者ですから、他の国々には何か言い伝えがあるのかもしれません。たしか、西方の……」


 蝉の声が途切れぬ様子にも似て、稀代の漂流者、兌隈丸氏との対話はいつまでも、どこまでも続いていく。


◇ ◇ ◇


「どうでした、崑崙の方は。お話は弾みましたか」


 にこにこなさって母君はお尋ねになったのだが。姫はまじめなお顔にて、

「わたくし、いつか海を〈ぶっ飛んで〉みたいのです」


 母君は一瞬、ぽかんとなさる。

「いま、何と?」


 虫姫は両の手を握りしめて、ぎゅっと目をつぶっておっしゃる。

「海をぶっ飛んでみたいのです! いつか」


(……さても、うちの姫はいつからこのような言葉遣いを)

 頬に手を当てられ、母君は、熱烈に語り出す虫姫を心配そうに見守るのだった。

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