第三節

子猫の楽園と魔法文書 (4669字)

 出迎えに現れたのはアドゥー氏だった。絹と薄手木綿をふんだんに使った装束に身を包んで、豪華ではあるけれど、その装いには清浄感が満ちている。さっぱりした晴れやかな笑顔は、いくらか若返ったかのようにも見える。


 ジャイフート仕込みの丁寧な会釈をしながら、ダグマダはたまらず問いかける。

「あなたは、この島の王なのですか?」

「ふむ。その話はあとで。ともかく祝宴といたそうか」


 今まで想像さえしなかったほどの山盛り肉は、駱駝を焼いたものらしい。クミンと共に煮込んだ薫り高い鶏肉、牛肉のカルダモンスープ、他にも山羊、羊など、戒律に触れず彼らとダグマダたちが食べることを許されたありとあらゆる肉、加えて多島海ならではの海産物の数々。それらが焼く、煮る、蒸す、揚げる、様々な調理法を施されて並び、そのまわりには冗談のような形の珍奇な果物が所狭しと積まれている。


 あたりにたゆたうのは、鮮やかに染み通るような香辛料の香り。小さな玻璃茶碗が水滴をまとっている。口をつければ、冷たく甘い果汁茶が喉に広がる。口から喉へ、腹へ、ひんやりした流れが降りていく。一年を通して暑さきびしい南溟の島なのに、いったいどのように冷やしたものなのか。

(こんな用意までできるなんて。この人はどういう……)

 素焼きの壺に水を汲んで風に当てれば、そのうちほどよく冷えてくる。天竺でも、この方法は広く使われている。だが、ここに並んだ果汁茶は冷え方が段違いだ。深井戸でも使ったのだろうか。


 食べ飽きるほどいただいて、こちらはただの水かと飲んでみれば、それは程よく香りの移された薔薇水だった。細かく削ったココナツと干し葡萄を蜜で固めたり、干したナツメヤシを小麦粉と焼いたものなど、異国風味満点な菓子類のうまいこと。


「あなた方には大変お世話になった。この宴だけではお礼が足りぬ」

「いや、マクハルラには、〈困ったときは互いに助けよ〉という言葉がありまして」

「なるほど。だが、私の気持ちとして、金貨一袋、それと、これを受け取っていただきたい」

 アドゥー氏は振り返って召使に合図を送る。何か大きな箱がお披露目されようとしている。

「いえ、あの、こんなにいただいては」


 このとき、正直言ってダグマダはちょっと期待していた。これを商人の性とでも呼ぶべきか。でもそれをすぐに恥じたのだった。というのも、引き出されたお礼の品は、箱の中で盛んにニャアニャア鳴いていたからだ。


「こ、れは、猫?」

「いかにも。あとは、この紙束をあげよう。大切に持って行きなさい。小麦島に着いたとき、それとジャイフートにて商売するとき見せなさい。そのほうが、ここであなた方の品物を買い取るよりも、ずっと大きな利益を生むだろう。魔法の文書もんじょだからの。ふふ」


 アドゥー氏は胸を張っている。その意図するところが、ダグマダには分からない。


(魔法だって? そんなものは大道芸と同じだろ? 店主が魔法に頼りだした、なんて噂でも立った日には、あそこはもう危ないぞとささやかれるに決まってるじゃないか)


 見れば、数枚の紙には特殊な様式で奇妙な文字が躍っている。ダグマダには読み取れない代物だ。

(文書って言うけど、感謝状か? 〈世話になったからよろしく頼む〉ぐらいのことが書いてあるのかな。あとは詳しい海図か。小麦島? それになんだ、この子猫ども、何匹いるんだ?)


「ああ、いえ、その、猫をいただきましても、あのぉ、持ち帰るのもいささか」

「そう、実は頼みたいのだ。これらの猫を、われらが小麦島へと届けてほしい。金貨にはその前払い分も入っている」

「はあ」

「あなたたちなら通れる海の道なのだ」


 この言葉を聞いて、ダグマダには思い当たることがあった。


「グプハーラを避けて運びたいと?」

「その通り。さすがじゃ。残りの運送費は届けた先で受け取れる。そういう手はずになっておる。猫はこちらから運ぶのが一番近い。ジャイフートやら沿岸交易拠点から送っては日数がかかるし、邪魔の入る恐れもある。そして、こんなケダモノを無事運べるのは、あなたたちだけだと踏んでおる。いかがだろう」


 次の日、アドゥー氏の提供によって進められていた船の修繕が完了し、これもアドゥー氏の手配による食料と水、それに二十匹もの子猫たちを積み込み、ダグマダ一行は西へ向かって出帆した。箱に入れたままでは病気になりそうだったので、猫どもはすぐさま解き放たれ、船上は一瞬にして子猫天国へと変貌を遂げた。


 即ち、帆柱に登って降りられなくなるわ、大事な綱で爪を研ぎたがるわ、巻き置いた綱山の中で昼寝したがるし、かわいいくせにお互いにしっぽを箒のように逆立てて斜めに飛び跳ねケンカをするわ、船員のおかず(素揚げ魚マクハルラ風)をくわえて逃げ回るかと思えば、せっかく餌をやったのにゲロゲロ吐き出すわ、試みにしっぽを逆なでしてみると絹を裂くような声でミギャーッと鳴くし、忙しいときに限って足もとに頬をすりつけて甘えてくるわ、壺に頭を突っ込んでとれなくなって大騒ぎしたり、こちとらくたびれて熟睡してるってのに顔をザリザリなめてくるわ、みんなで並んで風上に鼻を突き出して目を細めていたかと思うと、気がつけば人の胸の上で丸くなっていて悪夢を見させるわ、帆を調整しているジャフミィの足にとりつき背中にまで登って五匹がニャアニャア鳴いたり、登られた方のジャフミィは大声を張り上げ「こんなやつらのどこが、どこがかわいいってんだ! うるあ!」とか言い立てるし、何匹かがその銅鑼声にびくびくする一方で、知らん顔の一匹が座っている舵持ちカリタの膝に飛び上がりグイーッと伸びをして見せてゴロゴロ言うわと、それはそれは、もう筆舌に尽くせぬほど、やりったい放題を繰り広げる子猫どもだった。ご不浄だけはきちんと箱の中の砂入れにするのだから、その点は大したものである。ただ、二十匹分の砂の管理をさせられたドゥブラは大変そうだったけれども。


 船は順調にぶっ飛んで、十日目に、長い長い航海の一段落が終わった。お猫様からの解放を、一同は本当に涙を流して喜んだ。


 小麦島の人々は待ちに待った猫の到来に大喜びし、子猫どもは目の前に広がる麦畑のツンツンした葉に目を輝かせて大喜びした。全ての子猫が麦の葉に食らいつき、もうまるで草食獣の群れであるかのようにはぐはぐ食っては、ケオケオ喉を鳴らして吐き出している。


「ほんとになぁ、何がしたいんだ、こいつらは」

 足下に寄ってきた子猫に麦の葉をちぎり与えながら、ジャフミィはあきれ顔で言うのだった。


 そして。この第一次目的地である小麦島は、昨年たどりついた鯨村とイスラァミィ沿岸交易拠点との中間あたりに位置していることがわかった。


 ここでは大規模な小麦栽培が進められていたのだが、一昨年から急にネズミが増えだしてきた。おかしい。これはグプハーラの手の者がネズミを放ったに違いない、と言われている。本当のところは誰にも分からない。ただ、この海域はグプハーラの船が頻繁に行き来していて、ときにはイスラァミィ船の積み荷が強奪されたりもしている。


 グプハーラにとって見れば、西端に位置する海の果ての無人島とは言え、ここは古来からの領域である。逆にイスラァミィ諸都市にとっては、無人島を自ら開拓した、飛び地のような穀倉島なのであった。


 そもそも、湿潤なグプハーラ側の認識に立つと、ここは米の作れぬ不毛の地であるはずだった。グプハーラの地では、西からの海風を山脈が遮り、その麓には米作地帯が広がる。水田が王国の基盤を形作ってきたのだ。


 一方、「北の乾燥地帯にて培われた灌漑技術をもってすれば、この島は十分な豊穣をもたらすだろう」と予言したのは、イスラァミィ諸都市の博士たちだった。彼らの言ったとおり、それほどの年月もかからず、この島の小麦栽培は安定していく。


 そして小麦という産品と、島の位置と、周りをめぐる風向きと海の川が、まことにややこしい状況を現出し、両勢力の角突き合いは微妙な事態を繰り返している。アドゥー氏の遭難とその捜索にしても、広々とした多島海をくまなく自由に動き回れない事情と時期が背景にあったのだ。


 島民たちはアドゥー氏が持たせてくれた紙を確認すると、まずは猫の運送費に高額の支払いをしてくれた。そして何か、尊敬の眼差しをダグマダに向けるのだった。それから無償で食料と水をダグマダの船に積み込み、次に心づくしの、できる限りの宴会を開き、そこで交易拠点・ジャイフート港への安全な航路を教えてくれた。西方へ一度大きくぶっ飛んで、そこからいくぶん戻って行くようにするのだそうな。


 小麦島で歓待を受けた二日後、極薄絹地と不思議な紙をたずさえ、ダグマダたちは再び出航した。陸地から遠く離れた太洋の真ん中、碧藍より暗い深淵の表面を飛ぶように渡り、海水の盛り上がる山々をいくつも越えて、ダグマダ一行は今年も、懐かしいジャイフート港へと到達した。


 目にもまばゆい純白の都市構造、大いなる半球状の屋根がひしめく中、天を指し示すかのようなミナレットの数々が林立し、雲ひとつ見えぬ暗いほど青い空、その空をそのまま写したような海と、どれもこれも去年のままだ。


「またも来ましたなぁ」

 舵持ちカリタがつぶやく。

「まったくだ。やっとだよ」

 ダグマダも独り言のように応える。


 港では、〈珍しい船が来たぞ、マクハルラからだ、あれ、あの男の船だ!〉と大騒ぎになり、極薄絹地は奇跡の布とまでもてはやされ、引く手あまたの高値を呼ぶのだった。おまけにアドゥー氏の手形および命令書ときた。これを目にして、ジャイフート商人の誰もがうなった。


 ある手形には金貨による支払いが明記されていた。また、いくつかの手形には、西方大陸と沿海地方の物産、つまり象牙や鼈甲や犀角や乳香や真珠、精密な玻璃容器など、もろもろの物資を、この手形を持参した商船へ優先的に提供するよう記載してあるのだった。さらに、なんと、税の免除について、格別の取り計らいをするよう関係機関に要請している書類もあった。そして書かれていたことは、その一つ一つがすぐさま正確に、現実となっていった。まるで魔法のように。


「あなたたちはまだ使っていないようだが、これは効力を秘めた紙切れだからの」

 あのとき、この紙を、アドゥー氏は微笑みを浮かべつつ渡してくれたのだった。


「……あのぉ、アドゥーさんって、あの島の王様なのですか?」

 本人がはぐらかしたことを、ダグマダはジャイフート商人に聞いてみる。

「なんだ、あんた、知らないでここまで来たのか? あのお方はな、南溟全域にわたる穀物取引を総監督なさっている、穀倉の重要人物だぞ」

「南溟全域…」


 気が遠くなるような、足もとが崩れ去るような感じがする。ちょうどぴったりの訳語が思い当たらず、〈重要人物〉と理解したけれども……。これまで穀物を扱ったことのないダグマダは息を飲み、茶碗に注がれたごく甘い茶をぐいっとあおって、ため息混じりに言う。


「それじゃあ、とんでもない大旦那ではありませんか」

「まあ、あんたらの言葉で言えば、そうなるかな。私らとあんたらでは世間の仕組みが違うから、ぴったり表す言葉が無いのかもな。ははは」


 ジャイフートにて莫大な利益を上げたダグマダ一行は帰路につき、満載した物資を落とさぬよう、奪われぬよう、ゆっくりゆっくり航路を選び、でも途中はぶっ飛ばして、マクハルラに帰還した。父も母も弟妹も、みんな泣いて喜んだ。西方の物資は瞬く間に買い手が付き、苦労を重ねた船員たちには、それこそ語りぐさになるほどの報酬が支払われたのだった。

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