第二節

紳士の証 (3681字)


 もみくちゃにされるような嵐の中、舵持ちのカリタが叫ぶ。

「もうダメだ、若、切るしかない」

「ああ、いま言おうとしたんだ! 切り倒せ!」


 水夫長ジャフミィがせわしなく斧を振るう。すぐさま帆柱はメキメキと音を立てて倒れ、一同はひれ伏すように甲板へしがみついた。


 嵐が通り抜けるのはいつも唐突だ。海の色さえも突然明るくなる。目を瞬かせるまぶしい光の中、ダグマダ一行は呆けたように漂っていく。


「島が近いのはいいんだが、ここはどこなんだ? よその船がまるで見えんぞ」

「ぶっ飛ぼうとするからさ、どうしたって港から離れてしまうだろ?」


 昨年のように航海母神へと祈りを捧げるほどの焦燥感は無い。南溟の島にはたいがい泉が湧いているので、少なくとも渇して息絶える心配は無用だし、どこへ上陸したとしても、食べられる草木がふんだんに生えている。そもそも出航して間もないから、積み込んだ食料も水もまだ十分にある。


 それでも、水夫たちの口からは恨み言が出てきてしまう。というのも、今の状況は、いつぞやのように鯨の襲来によるものではなく、ひとえに船長の焦りが招いた事態だからだ。あたりを見回しても、深い森を茂らせている手ごろな孤島が目前にある他には、遙かかなた、うっすらした島影が水平線の手前に見えるだけではないか。


「すまないな、みんな。急がせたからな。でも、荷は無事だし、船体も持ちこたえている。あとは帆柱を立て直せばいいだけだ。もう少しの我慢だ」


 ダグマダは声を張る。近づきつつある孤島は小さすぎず大きすぎず、また幸いなことに断崖絶壁は見当たらず、浅瀬の先には小さな砂浜が広がっている。さっそく補助帆を使って船を寄せることとなった。浜辺沿いには椰子がいくらでも生えており、仮帆柱を調達するのは難しい作業ではないはずだ。


 それぞれ槍を携えて、先遣隊の五人がはしけから降りる。ざっと見たところ、鰐の類はいないようだ。ずっと南の島々には人よりも大きいほどの蜥蜴がいて、それは動くものなら手当たり次第に食いつくものだそうな。


 あれは、いつのことか、薬にするんだとかで運ばれていた、大蜥蜴を開いた燻製がありありと脳裏に浮かぶ。これを市場で目の当たりにしたダグマダ一行、さすがにこのときばかりは皆あんぐりと口を開け、振り返って見送ったものだった。珍奇な物品をわざわざ披露しながら運ぶのは、大手交易商のよくやる手法なのだ。小さなヤモリを開いた乾物ならば市場でいくらでも見かけるし、唐土ではそれを喘息の妙薬とするそうだが、はたして大蜥蜴にはどんな薬効があると言うのだろうか。


 王侯の行列にて、お付きの者が持っている大きな扇、それを上回るどでかい大蜥蜴の開きが頭をよぎり、若い水夫ドゥブラが心配そうに言う。


「ここには、食いつき蜥蜴なんて、いませんよね?」

「あれはもっと南の名物だろ?」

 水夫長ジャフミィは冷静に応える。だが突然ニヤリとして、

「まあ、しかし、世界は広い! こういう浜を歩いていたときのこと、腕よりも太い海蛇が二匹、鎌首をもたげて襲ってきた!……なぁんていう話があるんだよ」

「またまたぁ、やめてくださいよぉ」


 ジャフミィはやめようとしない。

「本当にあった話なんだぞ? もたげた鎌首は人の胸の高さまであったんだとよ。あと危険なのは、ウツボやらエイやらを踏んづけたりとかな。磯を渡るときにゃあ、そういうもんに気をつけるんだ。でっかい二枚貝に足を挟まれたりってのもある。南溟の北の方じゃ、巨大な貝をな、わざわざ猿を餌にして採るんだってよ」

「変な話ですねぇ。猿を使って? 信じられない」

「猿ってぇのは、何にでも手を出したがるからなぁ。ちょうどいい具合に手を挟まれるんだろうさ」

「まあ、この島に怪物さえいなければね、言うこと無しですから」

「それがなぁ」

 ジャフミィは深刻な顔をうつむけ、わざとらしい間をおいたのち、うれしそうに語り出す。


「長ぁい海蛇も、でっかい蛸も烏賊も、島ほどもあるどでかいお化け鯨も、本当にいるんだよなぁ。西の方じゃあ、飛べない巨鳥も狩られてるしな。背の高さが人の二倍あって、卵一個が一抱えもあるやつだ。だからな、いつぞやの大蜥蜴の開きよりもはるかにばかでかい海鷲が、まったくいないとは言い切れないのだよ、キミ」

「ほんっとやめてください、どうせあれだ、じつは西方の博士がとか、そんなオチになるんだ」

 強がってみせる若いドゥブラだが、やはり心配そうな表情は隠せない。


 ダグマダは、からかいの止まらなくなった水夫長に声をかける。

「しょうがないな、そのへんにしておきなよ」

「えっへへへ」

 笑いながらダグマダの方を向いたジャフミィだったが……いきなり、目をまん丸に見開いてダグマダの背後を指さした。

「あ、あれ、人! 人が!」


 ダグマダが振り向いたとたん、ガサガサ揺れる茂みから何者かが飛び出した。斜面をよじ登ろうとして慌てふためいたその姿は、ボロ布のような服をまとい、頭にはやはりボロ布を巻いている。そして、腰には、きちんと帯に差し込まれた細長い棒が。さらに、その先は柔らかい房状になっているではないか。これは、もしや。ダグマダはとっさにイスラァミィ語で呼びかける。


「あいや、待たれい! ひとかどのお方とお見受けいたします! 私はマクハルラの商人です!」

 藪に入ってガサガサする音が消えた。かの人は明らかに聞き耳をたてている。


「信仰厚き方よ! 守られたるお方よ! わたくしは異教徒ですが、イスラァミィ諸都市には商いに訪れたことがございます」

 あちらで覚えた上品な仕草にて頭を下げ、ダグマダは挨拶を送る。すると、


「マクハルラとおっしゃるか」

 藪の中から、用心深く、それでいてはっきり通る声がした。


「いかにも。マクハルラの商船を率いる、ダグマダと申しまする」


 姿を現したのは、灌木のように痩せた老人だった。足には縛りサンダルを履いている。

「お恥ずかしい。このような姿で」

「漂流されましたか」

「さよう。嵐で投げ出されての。もう、かれこれ二十日、木の芽ばかり食らっておってな」

「それは……誰も通りませんでしたか」

「グプハーラの船が、一度だけ」


 いつぞやの飛んでる博士墜落事件は沈静化したものの、手を振って救助を頼むような関係には、なかなか修復しにくいようだ。


「お上手なイスラァミィ語だの」

「いえ、まだまだです。昨年、苦労したものですから」

 沿岸交易拠点では通訳が付いたけれど、やはり自分で話せなければと努力したダグマダ、この一年の成果である。


「腰に楊枝を差していらして」

「うむ、これに目をとめられたか」


 イスラァミィ諸都市の敬虔な信仰者は、日に五回の祈りを欠かさない。その際、手足顔を洗い清めるだけでなく、房楊枝ふさようじにて口中も清める。「清潔は信仰の半分なり」とは、彼らがいつも心にとめている金言だ。ゆえに、いつしかこの長い楊枝は信仰厚き人物の象徴となり、それをどんなときも身に携えることが、今では紳士たる者の条件となっている。


 ボロをまとっていても紳士然とした藪の老人は、長い本名を持っていたのだけれど、とりあえずアドゥーと呼んでくれと言うのだった。


 こうして、そもそも自分たちが漂流者であるダグマダ一行は、漂流ついでにアドゥー老人を救い上げ、三日後には仮帆柱を仕立ててこの孤島を離れた。星や風向きから考えて、嵐は船をかなり南へ片寄せたらしい。しばらく北上を続ければ、町のある島に行き着くだろう。大きめの町ともなれば、イスラァミィ寺院はあっても珍しくない。そこでアドゥー老を預けよう。


 濃緑の島々を行き過ぎ、青や藍や水色、無色いり混じる波をかき分け、白い波頭を立てて、三日目からは老人が水先案内してくれた。

「ここだ、この先だ、これから東にずっと」


 四日目には大きな町の港に入ることができた。顔色の格段に良くなったアドゥー老を連れて寺院に向かえば、辺り一面に集った人々は驚きに沸き立ち、天上のお方へと感謝する声がこだまのように響くのだった。どうやら、アドゥー氏は本当に、ひとかどの人物であったらしい。


 二日後、港に停泊するダグマダ一行に迎えが来た。いぶかしく思いながら指定された館に参上してみれば、広壮なることまさしく王宮と異ならない。門には衛兵までいるではないか。純白の外壁に幾たびも繰り返される弓型構造、その間を涼しげな風が通り抜け、庭園に植えられたナツメヤシの木陰が揺れている。要所要所にはめ込まれた紺碧の陶片模様は、軽やかな楽曲の強弱に似て、心地よい流れと渦を描いて見せる。


 歩を進めれば、入り口の大広間だけでも船が入るほどの広さと高さがあり、白い内壁に沿って、東西からもたらされた珍しい調度品の数々がずらりと整列している。細密模様を全面に施された巨大な瓶は唐土の品だし、それが据えてある細身の台は紫檀製だ。迷路のような錯綜した織り模様が絨毯に広がり、その向こうには、西方人の好む抽象モザイクが香木細工によって精密に組み立てられ、あたりにはほのかな芳香が漂っているのだった。声もなく、ダグマダたちは見入るしかない。そこへ、穏やかながら張りのある声が響いた。


「やあ、疲れはとれたかな」

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