第七章 兌隈丸 第二の漂流 流され人と穀倉の守護者
第一節
薄絹、人をして走らしむ (2933字)
「我が故郷から東へ一月も航海いたしマすと、日域にて南溟と呼ばれている諸国が広がっています。この海域は大小の島々が無数にあっテ、その島影を縫うように航行しなければなりません。天候に注意していテもいきなり大雨の降ることも多くあります。嵐がひどいときには強い風に吹き飛ばサれぬよう、急いで帆柱を切り倒す決断も下されマす」
虫姫は目を見張る。
「わざわざ断ち切ってしまうのですか、帆柱を?」
動きがとれないようにするとは、あまりに激しい処置ではないか。
「そうなのです。帆が強風にあおられ、勢い余って岩礁や断崖にぶつかれば、船は大破沈没するでしょう。主帆を降ろす猶予さえ無いとキには、帆柱の根本から切り倒す他はナイのです。もともと強風の力がかかっておるところですから、刻みを入れさえすれバ、割とたやすく折れてくれるものです。帆を失った船は迷走する勢いをなくし、なんとか嵐をやりすごすことができマす。そもそも多島海なれば、いずれどこかに流れ着きますし」
「切り倒すとは、なんとも、取り返しのつかない感じに聞こえますけれど、それが、そのときできうる最善の策、ということなのでしょうか」
「はい。浮かんデさえいれば、船員も積荷も守られます。それに、そもそも帆柱というものは、綱を使って船底に固定されテいます。取り替えやすい構造なのです。このような訳により、毎年多くの漂流者が発生しては帰還してイます。あのときは私たちもそんな境遇でした」
兌隈丸はまた麦湯を含んで舌を潤し、遙か彼方の水平線を眺めやるような表情になった。
◇ ◇ ◇
西へと漂流した明くる年の雨期は早めに過ぎたものの、南溟諸島の海域は一筋縄でくくれるような表情を見せることはなかった。
それゆえ無理な航海をせず、ダグマダ一行は港づたいに東へと慎重に進むこと一月と半に及んだ。寄港地では鉄地金を売りさばきながら、ついに海域の中心、シュリバヤジャールクリシュムア王国の都・ハルバリに到達した。ここには唐土から来た公使が駐留している。すでに唐という大国が滅してから久しい歳月が流れたけれど、日域におけるのと同様、「唐土」に類した呼び名は南溟でも日常的に使われ続けている。
公使という者は、平時には国と国との交易を司る働きをしており、往々にして自らの個人的な利益のためにも、数多くの交易品を携えてきている。各地の交易商たちは、この北の大国からもたらされた財物を目当てに、おのおのの居住地より選りすぐった珍品を献上する。唐土の公使はそれらを吟味し、興味の持てる者だけをそれぞれ個別に招いて宴を開く。
ダグマダはこのとき、昨年イスラァミィ都市の沿岸交易拠点にて入手した長大なる象牙を献上した。それは天竺や南溟諸国で産するものの二倍に迫るほどの大きさがあった。これが、公使の興味を惹きつけたのだった。
香木の煙があちこちに立ち上がり、夕闇の迫る豪奢な邸宅、いや、もはや宮殿と呼んでもいいかもしれない。ダグマダはその広々とした謁見室にて公使と会見している。壁際には、唐土渡りの巨大な陶磁器や漆の光沢を放つ精密な調度品が、飽きるほど見よと言わんばかりに並べられている。ただ、さぞかし極彩色のごてごてした内装かと想像していたけれど、張り渡された絹布も生成りの艶を見せ、ごくあっさりした白壁と柱が、軽やかな紙で作られた照明器具の柔らかい光に浮かんでいる。背景だけ見れば、何やら簡素な雰囲気さえ感じられるではないか。公使はおそらく、品物を見定める確かな目をもった人物なのだろう。ハッタリは通じないのだな。ダグマダは顔に出さずに思う。
交易に使われる南溟共通語はダグマダたちの日常語に近い兄弟言語であり、また、役柄上、交易語の達者な人物が公使に選ばれている。したがって会見は通訳を挟まず、ダグマダと公使の二人のみが広々とした室内で対している。先ほどまで控えていた給仕たちが、今はもう奥へ下がっている。
それにしても、どうしたことだろうか。権威と教養と莫大な財力を併せ持った、異国の貴人であるこのお方の上半身は、まるで裸であるような、ごく薄い上着を羽織っているだけのように見える。それというのも、あるか無しかの布地を通して、公使の乳首がはっきりと見えているのだ。
「あら……アナタ、私の胸にご興味おありか知ら?」
妙に柔和な微笑みを浮かべている公使は、宦官でいらっしゃる。整ったお顔を幾分かしげて、なぜか、徐々に、きょ、距離を詰めていらっしゃる。粘り着くような視線。いろいろな意味で、ダグマダは、慎重に、
◇ ◇ ◇
ここまで聞いて、虫姫様はその右手先を唇に当て、非常に心配そうな表情を浮かべられるのだった。兌隈丸は少々あわてて、
「だ、大丈夫でスよ? ご心配のようなお話にはなりマせんので。えー、おほん」
話は淡々と続けられる。
◇ ◇ ◇
ダグマダは慎重に言葉を選び、
「いえ、とんでもございません。私は、このような薄い絹地を初めて拝見しました。これは、もしや、二枚重ねていらっしゃるのですか?」
よく気がついたね、とでも言いたそうな顔を作り、同時にいたずらっ子のような口元を見せて、公使は数え始める。
「ご覧なさい。一枚、二枚」
「おお……えええ?」
「三枚、四枚、五枚! じゃーん、私は五枚重ねの絹布を着ていたのでした」
銅鑼の音を口まねまでして、公使は誇らしげだ。
それは、あたりを漂う煙よりも儚いような、極薄絹布にて仕立てられた上着なのだった。五つの衣を隔てても乳首が見えるとは、なんという宣伝効果。ダグマダは、はやる心のままに、
「これは、う、生まれて初めての品です、こんなに薄い絹が、仕立てにも耐えて、ううむ」
「私の胸を見て興奮したの?」
「す、すっばらしい絹ですね! 今まで扱ってきた絹が厚手に見えてしまいます」
「すごいでしょう? 新製品なのよ。国もようやく安定してきたからね。だって、ねえ、西方では薄ければ薄いほど珍重されるって言うじゃない? 私たちが手間暇かけて重々しく織り上げた貴重な錦を、西の商人たちはわざわざほどいて、薄く織り直すって話じゃない? だったら最初から薄く織ってみせますってえの。戦だってもう終わったんだから、そのぐらいできるってえのよ。そうでしょ。……で、アナタはこれを脱がせたいわけだ?」
「めめめ、滅相もございません!」
「うふほほほ、まじめな男ってからかい甲斐があるわね」
なるほど、先輩商人たちが目をそらしたりうつむいたりして、交渉の詳細をあまり話したがらなかった理由はこれか。結局、ダグマダは持てる全ての象牙と、この極薄絹布とを交換し、無事(帰り際に首へ抱きつかれたりしたけれど)、公使館を退出したのだった。
次は、できるだけ早く、この極めつきの薄手絹を西方に持ち込みたい。やっぱりあのジャイフートへ! 昨年「ぶっ飛んだ」ように、今年もやってみるのだ。唐土の新製品である極薄絹を、こんなにも大量に、一括してイスラァミィ交易拠点へと直接持ち込めば、昨年をはるかに上回る利益が必ずや、間違いなく生み出せる。さあ、急ぎジャイフートへ!
だが、このように気がせいているときほど、かえって問題が起こりやすいものらしい。風を利用してぶっ飛ぼうとした矢先、ダグマダ一行は帆柱を切り倒すはめに陥ってしまった。
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