第三節

沙漠への航海 (2784字)

 天空と海原を区切るのは一群れの雲、他は視界のすべてが紺碧の濃淡で彩られている。島へと目を転じれば、痛みを感じるほどの白さ輝く砂浜と、それを縁取る椰子の林がはるかかなたまで続く。


 さほどの苦労も無く船を鯨村に移し、いろいろと話をしてみると、どうやらダグマダたちは予定よりもずっと西に流されていたらしい。マクハルラの船はいつもならもっと東で北上する。西の「海の川」を使ったこと、鯨から逃げようとしたこと、主柱が折れたこと、これらの条件が大きく効いていた。逆にグプハーラの商船は、この鯨村へと頻繁に訪れているらしい。


 村とは言っても家が五軒なのは、ここが一種の作業場であるからだった。この長い砂州を持つ島には、西方から弱った鯨やその遺骸がしばしば打ち上がり、それを加工してワダクを作り、ここで販売している。中核居住地としての本村はもう一つ島を越えた北にあるそうな。


「えー、ところで」

 やれやれと一息ついたダグマダたちの顔色をうかがいながら、男が切り出す。

「あんたたち、龍涎香は分かるよな? りゅう・ぜん・こう、知ってる?」

「あー、はい、とても良いの香料」

「なら、話は早いかな。困ってるんだよ。グプハーラの旦那衆をあてにして龍涎香を仕込んでおいたら、待てど暮らせどぜんぜん来やしねえんだよ、これが」

「これが、来ない?」

「そう、お客さん、来ない。私、困った。龍涎香、余ってる」

「はあ」

「だからね、私、あなたに売りたい、龍涎香を」

「おお」

 降って湧いた好機に、ダグマダは喜びを隠せない。

「安いですか?」

「ふふ……適正価格ね」


 イスラァミィ諸都市でも天竺でも南溟でも、貴賓たちは龍涎香を加えた香水が大のお気に入りだ。この香りと絹のベールがあれば、全てのご婦人がシェヘラザアド姫に見えるとか云々、そんな言い方までされている。


 そもそもこの原料たる不気味に薄汚れた塊は、角頭鯨の腸内に宿る、いわば結石なのだ。その昔は龍のよだれが固まったものと考えられていたゆえ、龍涎香の名で呼ばれることとなった。この腸内結石を鯨が吐き出したり、遺骸から分離したものが漂着すれば、それは珍品として高額取引の対象とされてきた。


 そして今では、漂着鯨を解体して取り出した龍涎香が広く流通している。摘出してすぐの品は悪臭しかしないが、しかるべき処置を施し適切な時期にわたり熟成させたならば、それは見かけに反して、海の宝石と呼んでも過言ではない品物となる。ただし、長いこと置いておけばいいという物でもないのであった。


「どうだね、これ。白い透き通ったところ、多いよ?」

「なるほどぉ。これは良いの品質」

 どれをとっても、香りと色に透明感ある気品が感じられる。だまして粗悪品をつかませよう……そんな海賊まがいの連中とは違うらしい。どうやらこの鯨村は本当に困っている。


 結局ダグマダは、いくばくかの鉄地金、肉豆蔲と丁子のありったけ、それから高級綿布の全量と交換して、充填剤ワダク・食料・水と、得難き一級龍涎香を手に入れた。


 村と大都市とでは、欲しがる物が違ってくる。ダグマダにすれば胡椒と絹はどうあってもイスラァミィ諸都市の近くまで運びたかったし、村人たちは贅沢品よりも日常用いる品を求める傾向がある。


 それゆえ、このような大海中の島々を訪れる交易船は、必ず大量の鉄地金を積み込んでいるものだ。島民たちは地金から斧や鎌を作れても、鉄そのものを作り出すことはできない。一方、イスラァミィ諸都市の沙漠沿岸交易拠点には、製鉄業を下支えするほどの植生が無い。つまり鉄鉱石、大量の薪炭、作り方の秘法、そういった条件に制約されて、鉄地金は主に天竺にて生産されたものが広く南溟や大海中の島々に供給されている。したがって、島嶼地域では鉄地金が通貨の役割を果たすことも多い。


 ダグマダ一行はもともと北のイスラァミィ都市を目指していたため、今回の積み荷に鉄はほとんど積んでいないのだった。丁字と肉豆蔲の大半は、おそらく、ここからさらに転売されていくのだろう。高級綿布もそのうち鉄地金と交換されるのかもしれない。


 一通りの荷下ろしや積み込みが終わって、これから出帆するに当たり、海域と最寄り港湾の情報を聞いていたとき、鯨村の男は途中しばらく黙り込み、やがて口を開いた。 


「あんたら、やっぱりな、グプハーラへは近寄らない方がいいぞ。これだけ待っても船一隻やって来ないってことは、たぶんあっちで何かが起きているんだろう。船が出られないような騒ぎともなれば、何にせよ大ごとなんじゃないか。気をつけて荷を守れ。そして全部売れるように」


 男は祈ってくれるのだった。


 ダグマダ船長は船主であり、同時に荷主でもある。船の行き先はダグマダが決定しなければならない。甲板に立ち、居並ぶ船員たちを見渡す。皆は押し黙って、その言葉を待つ。


「それでは、西に進み、イスラァミィ諸都市の沿岸交易拠点へ船を向ける」

「航海母神さま、良き風を、なにとぞ!」


 舵持ちカリタも水夫長ジャフミィも、船員は皆そろって祈りを捧げる。より安全と思える目的地が選ばれて、一同の不安感は大幅に薄れた。大空と海原は昨日と同じように紺碧の濃淡を視界いっぱいに繰り広げ、数知れぬ椰子の葉は風に揺らぎ、あるかなきかに透き通った波は、おだやかに打ち寄せて返っていく。同じ景色が、昨日までは絶望とよそよそしさに染まって見えていたのだが。


 漂着して三日目、すでに主帆の簡単な修繕を終え、ダグマダ一行は鯨村から北西に向かい、風に乗って沙漠沿岸交易港を目指し出帆した。通常なら、マクハルラの船はこんな西にまで来ることはない。もっと東の海上で北に進路を取り、グプハーラへと進んで行くものだ。


 南からの風を受けて、北西への航路は何の支障も無く、それでも十日かかって沙漠沿岸交易港の一つにたどり着くことができた。


 雲が一かけらも無い蒼穹を指し示すかのように、尖塔ミナレットがあちこち林立する様子は沖合からもはっきりと認められて、石灰で塗り固めた白い都市構造は空と海の藍にまばゆくも映え、いかにもイスラァミィ諸都市の特色をあらわしている。久々に見る大都市に、

「やっと着きましたなぁ」

 カリタは両肘を舵棒に置き、独りごとのように言う。


「助かった。助かったよ」

 ダグマダも独りごちるように応える。


「やあ、ぶっ飛んだね」

「ずいぶん西へぶっ飛んだもんだなあ」

 水夫たちは口々に喜んでいる。「ぶっ飛んだ」とは、よく使われる船員言葉で、「風をうまく捉えて予想よりずっと早く目的地に着いた」ことを意味する。


 この港街、ジャイフートでは〈珍しい船が来たぞ、マクハルラの船だぞ〉と評判になり、積荷はあれよあれよ見る間に買い手がつくのだった。それというのも、東西海上交易の主役を自認するグプハーラ国の沿岸で、一つの緊張状態が生じているためだった。原因は、「博士が降ってきた」事件にあるそうな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る